第2話 去れよ黒猫

翌朝は梅雨時に珍しい晴れ空だった。

私はいつものように万年床を出てトイレに向かう。

と、その時いつもの朝とは異なる状況に遭遇した。


一つ目は私が仕事中に愛用している座布団の上に、黒く小さな生き物が眠っていることだ。

そして二つ目は、私の足裏に未知の物体が触れていることだ。


グニャリと柔らかく不快な感触のそれを、それであると受け入れるのに、私は大分抵抗があった。

どんなに小さな生き物であっても、その体内にはしっかりとした消化器官が存在する。

そして食物を摂取すれば、当然それは排泄物となり体外に排出されるのだ。


つまるところ、私は猫のウンコを踏んでいたのだった。

確かに奴は、昨晩猫まんまを平らげた。

食うものを食えば当然排出される。

通常野良猫はそこいらへんで排泄を済ませるが、昨晩はこの部屋の戸を閉め軟禁状態だったのだから、この部屋で排泄するしかなかっただろう。


仕方がない。奴を受け入れたのは私だ。

この部屋に軟禁しておきながら、トイレの準備を怠った私に責任がある。

このように考えながらも、やはり晴れやかな朝にいきなり猫のウンコを踏んでしまった状況に、悲しき怒りを感じ得ない。


私の足音に気付いたのか、奴は目を覚ました。

そして大きなあくびをすると、朝からウンコを踏みつけ途方にくれる私の姿を馬鹿にした目付きで見つめた。

この憎々しい態度よ。だから私は猫が嫌いなのだ。


兎に角猫などに構っている暇はないので、ティッシュで足裏のウンコを拭き取った後、床のウンコも始末した。

ようやく掃除を終えた私のもとに、ウンコたれ犯はトコトコとすり寄ってきた。

そして主人が召し使いに命令を下すように、ニャアと鳴き声をあげた。

腹が減っているらしい。


雨はもう止んでいるし、これ以上我が家に置いてやる義理はない。

本当ならば今すぐつまみ出してもいいのだが、何故だかそれは気が引けてしまい、私は奴に朝食を与えた。昨夜と同じ猫まんまだ。


旨そうに平らげると、奴はルーティンのように毛繕いを始め、そして当たり前のように私の座布団へと向かった。まるで産まれた時からの所有物のように、さも当然の態度で私の座布団に横たわっている。


いかん、これはいかん。

このまま居着かれては困るのだ。


私は奴を抱き上げ、窓の外に放り出した。

そして出来る限り無慈悲な態度を装い、冷たく窓を閉めた。


それから私は小説の執筆に取り掛かる。

そうだ、あんな猫がいなくなれば、いつものようにペースを取り戻せるのだ。


しばらく経ってから、ふと私は窓の外に目を向けた。

奴はもういない。

猫の気まぐれなど風が吹くように勝手なものだ。例え一晩寝床を与えても、例え食事を恵んでやっても、例え床にウンコを産み落としても、所詮猫など一瞬でその出来事を忘れてしまうのだ。


私は再びペンを走らせた。

それから十分、二十分ほど経っただろうか。

どうしてだか、私は何度も窓の外ばかりを気にしてしまう。ペンは思うように進まず、思い詰める度に窓の外へ目を向ける。

猫の姿はない。


それから更に一時間ほど経過した。

ペンは一向に進まず、私はほんの少し外の空気を吸う為アパートの庭に出た。

これはあくまでも外の空気を吸う為であり、断じて猫を探そうとかそういう訳ではない。


サンダルを履き、猫の額程しかない庭をうろついた。それにしても、昔の人は何故狭い土地を猫の額に例えたのだろうか。


その時だった。

どこからかニャアという鳴き声が聞こえた。

庭に置かれた室外機の上には、黒い毛並みが燦々と光っている。奴は太陽が当たる室外機の上で、呑気に体を丸めていた。


しかし私の姿を見るなり、まるで旧友に再会したかのごとく駆け寄ってくるのだった。私は私の足に顔を擦り寄せる奴を爪先でつついた。


「こら、やめろ。ここはペット禁止なんだ。俺はお前を養う気などない」


奴はお構いなしに腹を出して甘えている。

これはいかん、実にいかん。


このまま情が湧いてしまったら、私はこの猫をどうすればいいのだ。私は猫などに話が通じるわけもないのに、思わず抱き上げて語りかけてしまった。


「いいか、昨夜お前を受け入れたのは、雨の中過ごすのはあまりに無惨と思っただけであり、お前に対して情だとか何かがあるわけではない。お前はさっさとここを離れて自分の居場所に戻るんだ」


猫は私の声を聞いているのかいないのか、瞳孔を細くしてキョトンとした表情を浮かべていた。


と、その時。


「おや、猫ですか」


初老の女性が声をかけた。このアパートの大家だ。

時折顔を合わせると明朗な挨拶をする女性だが、何分私は人と関わるのが苦手なので、あまり深い会話を交わしたことはない。


「あ、いえ、違います」


突然の声かけに素っ頓狂な返答をしてしまった。

何が違うのか、これは猫だ。


「まあ可愛い。真っ黒い猫で。まだちいちゃくて」


「これは私の猫ではなくて、ただの野良猫です」


何故か無性に焦ってしまい、私は大家に野良猫であることを主張した。


「あれま、そうして抱いているから、てっきり飼い猫かと思いましたよ」


私は慌てて猫を地面に下ろした。


「こんな野良が居着いたら迷惑でしょう。アパートでは飼えないだろうし、どこか河原にでも捨ててきます」


どうしてだか口先から無慈悲な言葉が出てしまう。こうして突き放さないと、こいつとの縁は切れないだろうと、何故だか変に焦っているのだ。

さあ迷惑だと言ってくれ。

アパートで猫は飼えないと言ってくれ。

そうすればこいつをキッパリ捨てるきっかけが出来る。


猫は自分が捨てられる運命と悟ったのか、私と大家の顔をしきりに見つめていた。

大家は少し猫を見た後、ぽつりとこう口にした。


「最近お二階の住人からネズミが出ると苦情があったんですよ」


「ネズミ、ですか?」


「天井や壁を走ってるとね。でもお二階の方小さいお子さんがいらっしゃるでしょう?薬の類いは使いたくないと」


「それで、どうするのでしょう?」


「猫はネズミを取るでしょ?」


嫌な予感がした。


「可愛い子じゃないの、大人しくて」


大家はヒョイと猫を持ち上げると、私の腕にそっと手渡した。


「大丈夫ですよ飼っても」


待て待て、私は飼いたいなど一言も要望を出していない。


「違います、飼いたいわけじゃないんですよ。ただ、ここに野良猫が居たというだけで」


言い訳する私を尻目に、猫は目を瞑りうっとりと抱き抱えられていた。


「まあまあ、喜んでいるじゃないの。よく懐いて。可愛がってあげてくださいね。では私は用事があるので」


大家は私の言い訳など聞く耳持たず去っていった。


何故だ。

何故なのだ。

何故成り行きで私が猫を飼う流れになってしまったのだ。

大家の背中を見送ると、即座に猫を手放した。


「ほら、お前はどこかへ行け」


そして爪先でちょいとつつくと、足早に大窓を開け室内へと戻った。

すると猫は見事なスピードで体をするりとねじ込み、私の部屋へと侵入した。

そして私の座布団にちょこんと座り、まるではじめから飼い猫であったような態度を見せつけるのだった。


さてこの厄介者をどうしてくれようか。

もしそこいらに放置したら、大家の目に留まり飼い猫ではないのかと問われるだろう。

かといってどこか遠くへ捨てるのも後味が悪い。この図々しい侵入者の始末に困っていると、足元にふわりと柔らかい物体が触れた。


猫は私の足にしきりと体を擦り付けていた。

そして私を見上げると、まさに猫撫で声という声色でミャアミャアと鳴いてみせた。

これは同居人として生活を共にする者への挨拶なのだろうか。


邪険にする気も起きず、とりあえずはこのまま放置することにした。案外放っておけば、猫の方から勝手に出ていくかもしれない。

私は腰を下ろし、小説の続きを書くことにした。


すると今度は私の膝に乗り、訴えかけるようにミャアミャアと鳴く。ほんの一晩共に過ごしただけなのに、猫はここまで心を許すのだろうか。

こんな時、猫好きであればこの無防備な獣を撫で回すのだろう。

しかし私は猫が嫌いなので、そのように甘やかしはせず執筆に取り組んだ。


猫は膝の上にいる。

そして時折、チョイチョイと前足を伸ばし、ちょっかいを出してくる。


「こら、邪魔だ邪魔だ」


しばらく経ち、私は腹が減ったのでキッチンへと足を運んだ。すると猫は猛スピードで追い掛けてきて、これまでにない大音量で鳴いてみせた。

私は今までの媚をようやく理解した。

要するに、こいつも腹が減っていたのだ。


私はカップ麺に湯を注ぎ、昨夜と同じく猫まんまの準備をした。

猫はあっという間に猫まんまを平らげると、途端に素っ気なくなり遠く離れた位置で毛繕いを始めた。


まったく現金なものだ。

食うだけ食ったらもう媚を売る必要もなく、白けた態度でくつろいでいる。

猫はそこいらをうろうろしているので、私はカップ麺をすすり、再び執筆を始めた

どういうわけか、今朝よりも筆の進みがいい気がする。


私は予期せぬ集中力を発揮し、小説を書き進めた。

何時間ほど経過しただろう。

そういえば猫はどこへ行ったのか。窓は開けていないので部屋の中に居るのは確かだが。

別にどこに居てもいいのだが、なんとなく探す素振りで歩いてみる。


猫は廊下の隅で眠っていた。

猫にとっては座布団も室外機の上も、廊下であっても寝床になるらしい。

猫は腹を出してグーグーと眠っている。


おい猫よ。貴様の目の前にいる男がもし悪人なら、私は貴様の首をすぐにでも絞められるのだぞ。

猫は私を信頼しきった如く、安心の寝顔を見せ付けた。

まあ別に猫がどこに居ようと、何をしていようと構わないのだが。


さて、執筆を続けよう。

その時グニャリと足裏に、例の感触を感じた。

恩知らずな猫は、たらふく食ってまた贈り物を床に置いてくれたらしい。

私のやるべき事リストに、「猫のトイレを買う」が追加されたのだった。

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