猫の瞳に銀河が浮かぶ

ネコリーノ・ニャンコロビッチ

第1話 雨の夜の来訪者

私は猫が嫌いだ。あの薄気味悪く光る瞳、小憎らしい声、ぬるぬると動き回る小さな体。

日がな一日眠ってばかりいる役立たずの癖に、きゃつらはどこか人間を見下した素振りを見せる。


昨今の猫ブームなど、吐き気がする程馬鹿げている。

とにかく私は、猫が嫌いで嫌いで堪らないのだ。


そんな私のもとに突然の来訪者が現れたのは、じっとりと雨が降る梅雨の夜であった。


私は東京下町の小さなアパートで暮らしている。

古く汚れたアパートだが、家賃を考えれば文句も言えない上等な城だ。


仕事と言えば物書き、であれば望ましいのだが、恥ずかしいかな『売れない小説家』という肩書きを抜け出せない。

私は日銭を稼ぐ為、日雇いやアルバイトをしながら地道に小説を書くのであった。


この日も梅雨の雨音を聞きながら小説を手掛けていた。

すると、窓の外から微かに何かの声が聞こえた。

それは小さく、頼りない声であったが、即座に私が嫌う生き物であるのは理解できた。


私の部屋は1階の庭に面しているので、大窓から庭に出入りできる作りだ。

アパートの狭い庭は、降り続ける雨ですっかり水浸しである。


先程の声の主は見当たらない。再び原稿用紙に目を下ろした時だ。

妖しい黄色い瞳と目が合ったのは。


奴は窓のすぐ近くに居た。まん丸く黄色い瞳を不気味にぎらつかせ、こちらをじっと見ていたのだ。


何故その姿を一瞬見逃したかと言うと、奴の体は全身が黒い体毛に覆われていたのだ。

闇に溶け込んだその姿は、暗闇でもやけに光る黄色い瞳だけを不気味に際立て、なんとも恐ろしく不可解なものであった。


私は即座に目を背けた。

何故あの不気味な生き物がこちらに視線を向けるのか。

この状況からして明らかであろう。


奴は雨に濡れ、恨めしそうにこちらを見ている。

ほんの一枚硝子を隔てたこちらは、雨も風もない楽園だ。その楽園の扉を開けて貰うべく、奴は熱心に視線を送るのだ。

そして人の良心につけ込むかのように、か細い声で鳴いてみせるのだ。

まるで招き入れないこちらが悪魔であるように、奴は絞り出すような声を、何度も何度もあげてみせるのだ。


どれ程のあいだ鳴き続けただろうか。私は無視を貫き、筆を走らせた。

夜の雨音は集中力を高めるBGMに相応しい。しかし今は、とても極上の演奏とは言えないのだ。

なにせ雨音をかき消すように、忌々しい獣の鳴き声が何分も響き渡っているのだから。


しかしその忌々しいBGMは、程無くして途切れた。

奴は鳴くのをやめた。どれ程に媚びても、楽園の扉が開かないと悟ったのであろう。

そして奴は、身を小さくしてその場にうずくまった。

雨の滴は黒い毛並みの上を滑り、粒となって弾けていく。

黄色い瞳は三日月のように細くなり、僅かな眼光がこちらを見つめ続けた。


嗚呼、これ程までに気分を害する時間があるだろうか。


私がこのまま奴を迎え入れなければ、やがてその瞳は閉じ、雨を弾く黒い肉体は永久に動かなくなるだろう。

そして私が、何の因果かその骸を始末した後も、奴が最期にこちらへ向けたあの虚ろな瞳を、幾度となく思い出さなければならないのだ。


私は大窓を開けた。


こちらから呼び込むのはなんとなく癪に触るので、奴の方から飛び込んでくるのを待った。

奴は一瞬瞳を丸くすると、しなやかな脚を伸ばし私の城に入り込んで来た。

そして遠慮なく身震いをすると、私の顔に、部屋に、原稿用紙に、その黒い毛並みから放たれる雨粒を振り撒くのであった。


さて、このずぶ濡れの獣を放置しては、私の城に不都合が生じる。

私は雨粒を拭き取る為、奴の体をタオルで覆った。

「ギャア」

と奴は、さも虐待でもされているかのような悲鳴をあげた。

親切心から体を拭いてやっているのに、これでは私が悪者だ。


奴はもう一度小さく身震いをすると、小走りに私から離れ、距離を置いた位置で毛繕いを始めた。

どうやら押さえ付けてタオルで拭き取った私に捕まらないよう、警戒しているらしい。

あからさまに私の善意を悪行のように受け取り、それを露骨な態度で示す姿の憎たらしいことよ。


毛繕いを済ませると、徐々に落ち着いた様子を見せる。

丸い瞳を見開き、ぐるりと部屋を見渡す。古ぼけた狭いアパートだ。

お世辞にも素晴らしい部屋とは言いがたいが、野晒しで雨に濡れた獣にとっては十分すぎる。


一通り部屋を確認したあと、奴は目を細めてフンと鼻息を鳴らした。

それはまるで、私のみすぼらしい部屋を嘲笑うかのような態度であった。

馬鹿げた妄想だと思うかもしれないが、確かにそう感じたのだ。

奴の小賢しい表情を見て、私はふと学生時代を思い出した。



それは、私が自転車通学をしていた頃だった。

その日の朝はたまたま寝坊してしまい、私はいつもより急いで自転車を漕いでいた。

ちょうど曲がり角に差し掛かった時、バランスを崩して転倒してしまった。幸い通行人はおらず、私の無様な転倒は誰にも見られていなかった。

その時どこからか、何者かの視線を感じた。


それは猫であった。


塀の上にうずくまり、道端に転がる私の姿を見下す猫であった。

猫は目を細め、口角を上げてこちらを見つめている。その顔はまるで、無様な私の失敗を笑うようだった。

ニマニマと嫌らしい笑みを浮かべる猫がなんとも憎たらしくなり、私は思わず通学鞄を投げ付けた。


しかし不幸は続くもので、転倒の衝撃で緩んだ鞄の口は空中で開き、私の筆箱やら教科書やらはバラバラと宙を舞い散った。

無論、猫にそれが当たるわけもなく、華麗にかわした猫はヒラヒラと尻尾を振りながら、あのニマニマ笑いで私のもとから逃げて行ったのである。



嗚呼、何度思い出しても腹が立つ。

忘れかけていた思い出が、今日再びこの憎たらしい生き物のせいで蘇ってしまったのだ。

今私の部屋に居る、黒い小さな生き物も、あの時の猫と同じニマニマ笑いを浮かべている。

例え私の思い違いだとしても、この憎たらしい生き物は私の貧しい住居を鼻で笑っているのだ。多分。


いちいち腹の立つ素振りにいちいち対応するのも馬鹿らしく、私は奴を無視して原稿に手をつけた。どうせ一晩、雨宿りに部屋を貸すだけだ。


しかし奴は、私の仕事を続行させたくないようだ。

今度は人の顔を見つめ、甲高い声でミャアミャアと鳴き出した。

何かを催促するように、それは必死の訴えであった。

此奴の訴えは恐らくこうだろう。


「腹が減った。何かよこせ」


しかし私はそこまで菩薩の心を持ち合わせていない。

雨宿りをさせ、その上食事まで恵んでやるとは、小賢しい獣相手に出来すぎたもてなしだ。

私は再び奴を無視し、ペンを走らせた。


が、奴もまたむきになっているのか、その訴えはますますヒートアップする。

脳を割るような鳴き声の騒々しさに、私は辛抱たまらず声を上げた。


「わかった、待っていろ。今餌を準備してやる」


私の声かけを理解したのかしないのか、奴の鳴き声はピタリとやんだ。

準備すると言ったものの、私の家に奴の餌などあるわけがない。

用意できるものと言えば、クラシックな奴等の飯である猫まんま程度だ。


私は夜食用に残しておいた白飯を器によそい、鰹節を振りかけた猫まんまを用意した。そして奴の前に器を置いた。

奴は疑う素振りもなく、恐ろしいほどの食欲で猫まんまに食らいついた。

もしも私が悪しき人間で、この餌に毒などを仕込んでいたら、奴はあっという間にお陀仏だ。


無防備にがっつく奴は、器に残った米粒まで綺麗に舐め取った。満足したのか、これまた無防備に顔を舐め始めた。

それにしても何故この生き物は、自らの唾を全身に塗ったくるのだろうか。


腹が満たされると気が緩むようだ。いつしか奴は、ここが自分の家かのように寝そべり、全身の毛繕いを始めた。

まったくいい気なもんだ。私は空の器を下げる為、台所へ向かった。


ほんの一瞬席を立った間の出来事だった。


先程まで床に寝そべっていた奴は、いつの間にか私が座っていた座布団に移動しているではないか。

そして座布団の上で、優雅に毛繕いをしている。


なんと図々しいのだろうか。雨宿りをねだり、飯を催促し、挙げ句の果てに私の座布団までも奪い取った。

私は奴を抱き上げると、床の上に強制連行した。

そして座布団の所有者は私であると主張する為、どっかりと座布団に座って見せた。


すると奴は、まるで人でなしを見るような目付きで私を睨み付けるのだった。

意地になった私は人でなしの目付きを相手にせず、原稿に取り組んだ。

時折奴に目を向けると、やはり人でなしの目付きでこちらを恨めしそうに睨んでいる。


しばらくたって視線を感じなくなると、ようやく奴は床で眠りについていた。

謎の勝利感を抱いた私は、用を足しにその場を離れた。

そして部屋に戻ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。


奴は再び私の座布団に乗り、満足げな寝息を立てて眠っていたのだ。

私がどかそうと近くに寄ると、またあの人でなしの目をしてこちらを睨むのだ。


なんということだ。たった数分でこの部屋の上下関係が決まってしまった。

最早座布団の所有者は、ふらりと現れた薄汚い野良猫に変わってしまったのだ。

うっとりと眠りこける奴を横目に、私は原稿を書く気も起きず、そのまま寝床に入ったのだった。

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