XⅡ―最後の選択―(前編)
夢の中で走り回っていた。どこへ行こうかも、どこにたどり着けるかもわからないまま闇雲に。
そうすれば思い出すのも怖い何かから逃げられると思ったから。
だけど、私はどこまで行っても逃げられない場所だった。そこに気づいたとき、目の前には美守お姉ちゃんがいた。背中には翼が生えていて銀色に輝いて、まるで天使みたい。でも、その目は冷たく、翼は剣みたいに鋭く尖っていて、それは今にも目の前にいる知らない男の人に向けている。殺気、私はそんなものをお姉ちゃんから感じてしまった。
私は怖くなって一歩引いた。
そこでお姉ちゃんと目が合ってしまった。私に気づいてしまったんだ。翼はそこで止まる。そしておねえちゃんは私の方へ駆け寄ってきた。
「おねえちゃん…?」
「……ソラ、ぶじだった?」
心配するお姉ちゃんは私の知っている優しいおねえちゃんだった。
「うん」
私は笑顔で答えた。
「よかった……」
お姉ちゃんは笑みをこぼした。
そこで私の記憶から次々とお姉ちゃんと過ごした記憶が蘇ってきた。
私がお姉ちゃんになる、そう言ってくれた日。お兄ちゃんがいない時は代わりに遊び相手になってくれた。私が眠れない時はそばにいてくれた。
でも最後に浮かんだのは一番強く刻まれた怖い記憶だった。血を吹き出し動かなくなったお姉ちゃん。私は何が起きたのかわからないまま、でもこれは現実のことだって私の心は認めてしまった。
私はまた走った。それがまた私の目の前で突然起きるんじゃないかって、たまらなく怖くなった。
走っているうちに、知らないところに来てしまった。
そこで私は一人でずっと考えた。
どうしてこんなところにいるのか。私は今まで何をしてきたのか。混乱する記憶を整理しようとした。
そこへあの声が聞こえた。
――私が事情を教えてあげよう
男の人とも女の人ともとれる声をしていて、辺りを見回したけど声の主はどこにもいなかった。
私はその声から私の事を聞いた。
「そんなことが……」
その声が話してくれたことは、信じられないことばかりだった。でも、私は信じた。
混乱していた記憶がその話でまとまりだしたから。それにまとまった記憶とその声の話は一致していて、話を聞くたびに鮮明に浮かんでしまったから、本当のことを言っていると確信してしまった。
だからこそ私は震えた。お姉ちゃんが血をたくさん出して倒れて、お兄ちゃんは自分の持っていた剣で自分を刺した。そんなの事実だなんて認めたくなかった。でも、私の記憶はまるでテレビをみているみたいにはっきりと私に見せた。
本当のことなのに、本当だと思いたくなかった。
私はまた走った。とにかくそんなものを見せる記憶を振り払いたくて、闇雲に。
どこからどこまで走ったのか、わからなくなるまで。
走り疲れて気づいたら月の光がはっきり見えるビルの上にいた。
私は息を整えた。そうしていると、振り払ったはずの記憶がまたまとわりついてくる。まるで鎖でつながれているみたいに固く重い。そして、引き離そうとした反動みたいなものが休憩したときに襲ってきた。振り払おう、忘れようとすればするほど深く刻みつけられる。忌まわしい記憶。私はその重圧に耐えられなくなって泣き明かした。
記憶なんて戻らなければよかった。そう心から思った。
どれだけの時間がたったのか。今頃、お兄ちゃんやお姉ちゃんはどうしているんだろう。そんなこと考え始めてから、誰かが屋上に上がってきた。
その顔に見覚えがあった。お姉ちゃんに刃を向けられた男の人だった。彼は悔しそうな、悲しそうな顔をして、血を吐きながら月を見上げた。
「余計な邪魔が……」
彼はそう言いながら腹の出血に光る手を当てた。その手が話に聞いたメモリオンだとすぐにわかった。
どうしよう?
私は考えた。お姉ちゃんが殺気を向けた人だし、それをものともしないような感じだったから普通の人じゃないのは間違いなく、できれば見つからないようにしたかった。そうしていると、また記憶が私にまとわりついてきた。
お姉ちゃんと顔を合わせた。あの人がいる。そう考えただけでまた刻み込まれた記憶が甦る。
どうしたら、どうすればいいの?
今はあの人よりもこの記憶をどうにかしたかった。この記憶が私を苦しめる。震わせる。息を詰まらせる。
そこでふっと考えてしまった。誰かに話せば楽になるかもしれない。
「あんたもそう思うだろ?」
するとあの人が私に語りかけてきた。とっくに気づいていたんだとその時になってわかった。でも不思議と驚かなかった。それよりもこの記憶をなんとかしなければ、と意識が向いていたせいかもしれない。
「ここに入れたんだ、君も普通じゃないな」
その言葉に同意した。確かに私は普通じゃなかった。お兄ちゃんとお姉ちゃんをいっぺんになくして、それを何度も思い出して気がおかしくなりそうだった。でも、まだこれが普通じゃないと思える心があるから不思議だった。その時、私はどんな顔をしていたのか知らない。ただ黙ってその人のそばに歩み寄った。
「今は誰かに喋りたい気分なんだよ」
その人はそう言った。私は同じ気持ちだった。
「僕には彼女が全てなんだ……彼女と生きられる道を探していた、でもダメだったんだ。彼女はそんなこと望んじゃいなかった……だったらせめて彼女の望みを叶えようと思って僕のできることを考えた……それでもダメだったんだ……」
その人は今にも泣き出しそうだった。苦しそうに悔しそうに言っているところが今の私の姿と重なってしまった。
この人なら聞いてくれる。私の直感がそう告げた。
そして私はその人に私の記憶の全てを話した。
話し終えてから、その人は信じられないといった顔つきをしていた
別に信じてもらわなくてもいい。ただ話せば楽になれると思っただけでしたことだから。
私はその場にいられないと感じて去っていった。その人は私を追おうとはせず、月を見上げていた。
街中を何も考えずに歩いていると少し気が晴れた。気づいたら今度は時計台のある公園に来ていた。
記憶がまた甦る。今度は楽しい記憶だった。天児お兄ちゃんと将お兄ちゃんと遊んだ記憶だ。その記憶だけが私の全部だったら幸せだった。それがちょっと前の私だ。でも今の私は……
そこであの声がまた語りかけてきた。声がしたのは時計から。
――君に伝えないといけないことがまだあるんだよ
「なに……?」
――君がここに居続けることでとんでもないことが起きるんだよ
「とんでもないこと?」
私は勢いよく時計台を見上げた。
――君は日下空だ
「わかってるわ」
――この時間軸には二人の日下空がいる。それがどういうことだか、わかるかい?
わからなかった。でも、その口ぶりからして何か恐ろしいことなのかもしれないと思った。
――危険だということは自覚があるんだね
その声は私の心を見透かしているようだった。
「どう危険なの?」
――世界を消滅させてしまうぐらい危険だよ
「――ッ!」
私は驚愕した。信じられない途方もないことだと思ったから素直に受け入れられなかった。
「そんなことって……」
――信じられないのも無理はないよ、でも信じて欲しいんだよ
「どうしてそんなことが?」
――同じ人間が二人いるとね、いないはずの人間がいるという矛盾を世界は抱えてしまう。その矛盾を正そうと、二人をこの世界に存続させようとして、歪みが生じるんだ。時間が経てば経つほどその歪みは大きくなっていき、やがてはどうしようもないほど大きくなった歪みは世界を消してしまう。
「………………」
私は何も言えなかった。
私がここにいるということは、何か途方もない力が働いているからとなんとなく思っていた。でも、その力が世界を消すほどになるなんてことはさすがに思いもしなかった。
だけど、私がここにいるということは本来ありえないことだと思っていたので、不思議と合点のいくことだったのかもしれない。と受け入れてしまうと今度は絶望が私の中で湧き上がってきた。
私はいちゃいけないんだ……
そう思えてくると、強い風が吹いた。気づくとまたビルの屋上に立っていた。ここまで走って上がってきたようだけれど、その記憶は全くなく、まるで瞬間移動したみたいに私は屋上にいた。
ここから飛び降りれば……
心の声がそう囁いているようだった。その囁きに耳を傾けてしまい、私はゆっくりとその囁きに従うように歩いた。
――ああ、駄目だよそれは
声が私を止めた。
――君が死んでも身体は残るからね。身体があるということは世界に存続している。そうなると余計にタチが悪い。
その言葉を聞いて、私はその場に座り込んだ。死ぬのを止めてくれたようで、私は生きていてもいいんだと安心できた。
だけど、それでは解決になっていないことに気づいた。私が存在し続けるということは世界が消えるということ。それなら私が死ねば、と思って唯一思いついたことなんだけど、それはしてはいけないと言われてどうすればいいかわからなくなった。
「それじゃあ、私はどうしたら……?」
――君の存在を抹消できるチカラがあればね
「そのチカラはどこに?」
――君は知っているはずだよ
「私が、知っている…?」
私はそう言われて考えた。
私が知っているはずだと言われたのなら記憶の中にその答えがあるはず。私は思い出す。すると、自然とメモリオンの方に考えがいっていた。
最初に思い出したのは、お姉ちゃんの翼だった。でも、あれで私の存在を消せるとは思えなかった。次に浮かんだのはあの人の鎖。それも無理だと思った。そうなるとなんだろうと私は記憶の底から探ってみた。
そこでお兄ちゃんから聞いた話を思い出した。
『俺のチカラはオーバーロウといって、この世界にある法則を全て超えることができるらしいんだ……』
私は気づいてしまった。
そのチカラなら……
でも、そのチカラはお兄ちゃんにしかないもの。それはお兄ちゃんにしかできないこと。
つまり、私はお兄ちゃんに。お兄ちゃんが私を……
**********
おかしな夢を見た。と目を開けてソラは思った。
「おはようー!」
空は元気よく言ってきた。
「おはよう」
ソラもそれに答えた。すると空は台所の方に駆けていった。自分と挨拶するなんておかしな感覚だけど、嫌なものじゃなかった。そう思うと、台所に立っていた美守がソラを見てきた。
「おきたよ」
空は美守に嬉しそうにそう言った。
「そう、ありがとう」
美守は空にそう言って、ソラを見た。
「思ったよりも早く起きたのね」
「う、うん……」
ソラは美守から目をそらした。あんな夢を見たあとだから、美守を見ただけで記憶が呼び起こされるかもしれなかったからだ。
「話は天児君から聞いたわ」
美守は落ち着いた口調で言った。
「え…?」
「あなたのことをね。私にはどうしようもできないことだったけど」
美守は語りかけてきた。その表情は微笑んでいるものの、何かを隠そうと取り繕っているようにも見えた。
「……私のこと? それじゃあ、私が何者かって知ってるの?」
「ええ」
美守は二つ返事で返して、空を見た。その仕草を見てソラは美守が知っていることを悟った。
「信じられないことだけど……」
美守はそう言ってまたソラを見た。
「私、死んでるのね……」
「………………」
ソラはどんな答えればいいのかわからなかった。美守は構わず続けた。
「でも、こっちでも私は一度死んでいるから同じかもしれない」
「え…?」
「そこから救ってくれたのは、天児君と、……あなた」
「私は何も……」
「あなたが教えなければ、記憶はもどることはなかった」
「それはよかったことなの……?」
「さあ……今になってもわからないわ。よかったのか、わるかったのか…」
美守の顔はわずかな笑みを浮かべていたが、その瞳はどこか遠いところを映しているようだった。
「私を恨んでる?」
ソラは真剣な面持ちで訊いた。何て返ってくるのかわからないから怖かったが、訊かずにはいられなかった。
「ええ、恨んでる。でも同時に感謝している」
「………………」
予想していなかった返答にソラは言葉を失った。
「どう返してほしかったの?」
ソラは訊いてきた。そう言われて気づいた。訊かずにはいられなかったのは、ある返答を期待していたからだ。
「……殺したいほど恨んでいる」
ソラはそう答えた。
そう答えてくれればいくらか気持ちが軽くなるような気がしたからだった。
「そう言えば自分は死んでも仕方のない人間だと思えるから?」
美守が訊いてきた内容は、ソラの気持ちをずばりと言い当てていた。
「……そのとおり」
ソラはそれだけ答えて、美守に背中を向けた。そんな答えを美守に求めたことが申し訳なかった。
「すごいね、お姉ちゃん。私の気持ちがわかるんだ……」
「なんとなくそんな気がしただけよ…」
「それがわかるっていうんじゃない……」
「………………」
美守は黙り込んだ。かける言葉を思いつかなかったからだ。
部屋中に重苦しい雰囲気が流れた。
「けんかしてるの?」
空がその雰囲気に耐えられなくなって、ソラに訊いてきた。
「ううん、ケンカなんかしてないよ」
ソラは笑顔を作って答えた。
「二人とも何の話してるんだ?」
将が美守に訊いた。
「他愛もないことよ」
美守は簡単に答えた。将はそれだけの答えでは納得せずにソラの方を見た。
「ソラ姉ちゃん、戻ってきてから変わったよな?」
「え……?」
不意にそんなことを言われたので、ソラは戸惑った。美守が代わりに答えた。
「記憶が戻ったからよ。記憶が戻ると、別人のようになるのはよくあることよ」
まるで自分がそうだったからとソラに言いたげに、将に言った。
「ふうん」
将は訝しげにソラを見た。その視線にソラは心を痛めた。実の兄からそんな目で見られるなんて思いもしなかったからだ。
「………………」
そんな将に何て声をかければいいのか思いつかなかった。
「早く作りましょ」
そこへきた美守の声が助け舟のように思えた。
「そうそう、おなかへったよ」
空が将をゆする。
「わかったよ」
将は渋々と台所へ行く。
「作るって何を?」
ソラは美守に訊いた。
「……肉じゃが」
「肉じゃが?」
「天児君が帰ってくるまでに作っておかないと、と思って」
美守がそう言ったことで、ソラはどうしてみんなが台所に集まっているのか理解した。天児がこの部屋にいない理由も。
「私も手伝っていいかな?」
ソラは美守に訊いた。
「どうぞ」
美守は即答して、ジャガイモと皮むきを渡した。将と空も同じものを持っている。それで美守は、豚肉と包丁を持っていた。
「じょうずにむこうね」
空は楽しげにそう言った。
「うん」
ソラはそう言って、皮をむく。
「……終わったらボールの中に入れるんだぞ」
将はぼそっと呟くように言った。
ソラにはその言葉だけで将の優しさを感じられたようで嬉しかった。
皮むきを終わると、ソラは美守に訊いた。
「料理できるの?」
「大したものはできないけど、いちおうはね……」
あまり楽しそうではない、そんな印象をソラに与える美守の返答だった。
「でも思い出したからちゃんとできると思うわ」
そう言った美守の目は潤んでいた。
「おねえちゃん、ないてるの?」
ソラが美守を見上げて訊いた。
「ううん、玉ねぎが目にしみただけよ」
美守はすぐさま否定する。
「やっぱり忘れたいんだ……」
ソラはそんな様子を見て言った。
「わかるのね」
「なんとなく、だけど……」
ソラは顔をしかめる。美守はそれを見て笑う。
「そのとおりよ、私には忘れたいことはいっぱいある。でも忘れたくないこともある」
一呼吸ためてから美守は言った。
「……あなたのことよ」
「でも、私は……」
「嫌な記憶ばかりでもそれがなかったら、何も起きなかった、今こうしてここにいなかった……そう考えられるようになったのかなって思うの」
「それはいいことなの?」
「今はわからないわ、そんなにすぐに答えが出るわけでもないしね」
「………………」
「だから、あなたも思い出してよかったと思うようなこともあるはずよ」
「お姉ちゃん……」
「私のこと、まだお姉ちゃんと呼んでくれるんだ」
美守にとっては空に『私がお姉ちゃんになるから』と言ったのが遠い過去に思えた。それはソラも同じことだった。
「記憶が戻っても、これは変わらないみたいだから……迷惑だったらやめるけど」
「迷惑だなんて思っていないわ」
そう答えた美守の顔をソラは見ることは出来なかった。
「よかった……ちょっと心残りだったから」
「ソラ……」
ソラが笑顔でそう言うと、美守は名前を呼ぶことしかできなかった。
「おねえちゃん」
これは空の声だった。空は鍋を指差していた。
「ああ、そうね。煮ないといけなかったわね」
美守は肉と玉ねぎを鍋に入れた。そうしている間もソラから目を離さかった。
「ソラ、私は『馬鹿なことを考えないで』といえた義理じゃないから言わないわ。だから……」
「お姉ちゃん…」
美守は一息つけて、これでいいかと心に決めてから言った。
「自分で考えて決めて、とだけ言っておくわ」
**********
「今日は上手くいかなかったな」
バイトが終わって一息つけてから桑木猛が言ってきた。
「初めてやった時みたいだったぜ」
さらに一言付け加えた。
実際天児は初めてのつもりだった。何しろ過去にやっていた記憶が無くなっているのだから初めても同然なのだ。それに今はとてもバイトに集中できる状態ではない。自分が何者なのかわからなくなり、妹―ソラ―を殺さなければ世界は消えて無くなる。そんな事告げられれば平静でいられなくなる。なんとかその心を落ち着かせようと、いつもの『日下天児』として行動すれば、それも紛れるかもしれないと思って、バイトに出たのだが無駄だったと終わってから知った。
「何かあったか?」
「色々ありましたよ……」
本当に色々と付け加えたかったが、やめておいた。
「それなら仕方がないがな……」
「…………………」
天児は何も言えなかった。何も言いたくなかった。こうして何も言わずにただ考えて悩まなければならなかった。そう思っていた。自分は『日下天児』ではない。だから『日下天児』らしく生きれば自分が『日下天児』ではないのかと思っていたが、それもできないようで、どうしようもないものだと思えてきた。何より本物の『日下天児』がいるのに、らしく生きようとしても無駄ではないかと考えてしまう。だったら自分はどうすればいいのか、結局のところいくら考えてもそこに行き着いてしまう。
「なあ初めて会ったときの事、憶えているか?」
「え…?」
不意に猛が訊いてきた。
「憶えてるかって言われても……」
天児は困った。その記憶は全く無かったからだ。どこでこの人と会って、いつからこの人とバイトをするようになったのか、天児は全く憶えていない。しかし、そう答えるわけにはいかず、どう答えればいいのか悩まされた。適当なことをいえば、すぐわかってしまうことなので、迂闊に口を開けることもできなかった。
「俺は憶えていない」
猛はキッパリと言った。天児が言おうとして言いだせなかったことなので、天児を唖然とさせた。
「ど、どうしてですか?」
思わず訊いてしまった。
「なんていうのか……初めて会った時、初めて会った気がしなかったからかな」
「初めて会った気がしない…?」
「初めて会った時から昔からの友達みたいな感じでいたからな。だから憶えていないのかもな。それにそんなこと、憶えていなくてここまでやってこれたのだからな」
「そんなものなのか…?」
「そういうもんだよ」
猛はまたキッパリと言った。
「……そういうこともあるんですね…」
天児はそう言いながら思い出したことがあった。
美守の約束を交わした時……あの時、自分は初めて出会った時のことを覚えていなくてもそれは大事な事じゃないと言った。あの時、どうしてそんな言葉が出たのか、自分でもずっとわからなかった。その理由が今わかったような気がした。
(この人の影響だったのか……この人が俺に教えてくれたんだな……)
そう思うと、天児は笑顔になれた。
「初めて会ったのに、初めてじゃないときもあるんですね……」
「そういうことだ」
不思議な気分だった。おそらくこの事は本物の『日下天児』でも知らないことだろう。本物の『日下天児』は彼と二度出会っていないからだ。二度目だったからこそ彼もそのことに気づいたのかもしれない。そうなると、自分と美守と出会うことはなかった。美守と約束を交わすことはなかった。自分にしかないこのチカラがなければ美守を救えなかった。もし自分が本物の『日下天児』だったら、起こり得なかったことばかりが記憶に甦る。
「それじゃあ、また明日だ」
猛はそう言って去っていった。
「また明日、か……」
天児は猛を見送りながら呟いた。
明日なんて来るのだろうか。そんなことを本気で一瞬考えてしまった。
**********
今日ほどこの扉が重く堅いものだと思ったことは無い。
自分は『日下天児』ではない、そのことを知った今となって、そのことを知らない家族の前に帰る資格があるのだろうか。と何度も問いかけた。そしたら、行く前に美守が言ってくれた。
『私達が待っているのは、日下天児じゃなくてあなたよ』
その言葉のおかげで気持ちがいくらか楽になった。多分それがなかったら、二度とこの扉を開けることはなかっただろう。
「ただいま」
天児はその一声を上げて部屋に入った。
「おかえり」
さっそく空が笑顔で出迎えてくれた。その姿はソラと重なった。そのソラもまもなくしてやってきた。ソラは浮かない顔をしてこう言った。
「おかえり」
「ただいま」
天児は笑顔で答えた。戸惑いこそあったものの、そうしておいた方がソラの気持ちが楽になるかと思ってやった。
「ん、この匂いはなんだ?」
天児はいつもの部屋にない匂いを嗅ぎとった。
「にくじゃがだよ、おねえちゃんがつくってくれたの」
「美守が?」
天児は料理をする美守を想像したことが無かったために驚いた。
「そらもてつだったんだよ」
「そいつは偉いな」
天児は空の頭を撫でた。
「おかえりなさい」
部屋に上がると美守が出迎えてくれた。
「ただいま」
「帰ってきてくれたのね」
「待っているって言ってくれる人がいたからな」
「早く食べようぜ」
出迎えもしない将はテーブルで待ちくたびれていた。
「お前はそればっかりだな…」
天児は呆れながらも変わらない態度に笑った。
そこから夕食を食べた。
「これ、うまいよ」
「そう?」
美守は自信なさげに訊いた。
「おいしいよ!」
「おいしい!」
将と空も絶賛した。
「おねえちゃん、おりょうりじょうず」
「そ、そうかな?」
美守は戸惑っておぼつかない口調で言った。
「明日も食べたいな」
将はそんなことを言った。
「あした……? 明日も作っていいの?」
美守は戸惑いながら訊いた。
「いいさ、こいつら俺の料理に文句ばっかり言ってたからな」
「わたしはいってないよ、しょうおにいちゃんでしょ、もんくいうの」
「あ、そうだったか」
天児がそう言うと、将はふてくされた。
「俺が文句言うのは量のことなんだけどな」
そう言われて天児は気がつく
「そういえば、美守……この肉じゃが、やけに量が多いけど……」
美守の方を見ると茶碗一杯の肉じゃがしかなく、それを見ていると余計に自分達に割り当てられた量が多いのではないかと感じた。
「え、何か……?」
天児はため息を漏らした。
「やっぱり俺が料理するよ」
「私、何かいけないことをした?」
意外そうな顔をして訊いてくる美守に言う。
「毎日この量だとすぐに貯金がそこをつく」
天児は簡単に答えた。
「あ……ごめんなさい…」
美守はその意味に気づいて突っかかったことを謝った。
「いやいやむしろお礼を言うべきだよ」
天児は小声で美守に言った。
「たまにこれぐらいやっておかないと不満が出るらしいからな」
「それもそうね」
美守は笑って返事をした。
「何の話してるんだ?」
将が訊いてきた。
「将は食いしん坊だって話さ」
天児はそう言ってごまかした。
「ひでえ」
「アハハハハハ」
空が笑い出した。それはあまりにも楽しそうだったため、天児も美守もソラも微笑ましく見れた。ただ一人将だけが不満顔だった。
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