Ⅷ―追想―(前編)

「おむかえにきてね、おにいちゃん」


 空が満面の笑みを向けてきた。彼も笑顔でそれを返した。


「ちゃんと迎えに来るからな、いってらっしゃい」


「いってきます」


 空は手を振りながら幼稚園に入っていった。


「さてと、学校に行くか」


 カバンを片手に背負って日下天児は学校へ向かった。


「おーい、てんじー」


 友人の長尾が呼びかけてきた。登校中に会うのは初めてだった。


「まだ登校の時間じゃないのに早いな」


「お前こそ早いじゃないか」


 天児がそう言うと、長尾は得意げに笑って言った。


「幼稚園が、近いからな」


「はあ? どういう意味だ?」


「ちょっとした早起きの秘訣だ」


「弟か妹でいたか、お前?」


「いや、俺は一人っ子だ」


 余計に意味がわからなくなったから、天児はこれ以上訊かないことにした。


「しっかし、そろそろ期末テストだな」


 今度は一転して長尾は落ち込んだ。


「今度点数が悪かったら内申に響くんだよな…」


「だったら、がんばればいいだろ」


「おうおう、成績優秀な天児君は余裕だな」


「別に余裕ってわけじゃないが」


「だったら、俺に勉強を教えてくれよ」


「また今度な」


「前もそう言ってはぐらかしただろ」


「そうだったか?」


「お前は忘れっぽいからな…」


 長尾は困り顔で言う。これは点数を上げる手段が無いと判断してのことだろう。


「安藤だ」


 天児はもう一人の友人の安藤を見つけて、呼びかけた。


「おはよう」


「天児に、長尾か」


「なあ、安藤お前からも頼めよ」


「期末のことか」


 今会ったばかりで長尾のたった一言で安藤は理解した。


「確かに、俺とお前の点数は厳しいものな」


「そんなもの、ちゃんと勉強してないのが悪いんだろ。この前だってノート貸しただろ、その貸しもまだ返してもらってないな」


「てんじ~、お前そんなに薄情だったか?」


 食い下がる長尾の肩を安藤はたたいた。


「諦めろ、天児は勉強教えるのは苦手なんだよ」


「だったら、テストに出そうなところ教えてくれ」


「お前、そんなにしつこい奴だったか?」


 天児は呆れ顔で訊いた。




**********




 郊外の人の通りが少ない交差点に、それは建てられていた。重苦しいドアを開けて天児はその中に入った。ドアを開けると鈴の音が鳴り、客の来訪を店内に告げた。


「いらっしゃい」


 出迎えた顔見知りの店員がコーヒーを淹れる。


「いつものでいいか?」


「もう淹れてるじゃないですか」


「そうだったな」


 喫茶店『黒豆』のカウンターに座った天児に店員の青年はコーヒーを出す。


「猛さん、さまになっていますねマスター」


 そう言われて桑木猛は微笑む。


「俺はただのバイトだぜ、マスターが留守だから代わりをしているだけで」


「そうですね」


 天児はコーヒーを口に入れる。


「いい味ですよ」


「しかし、お前も物好きだよな。こんな流行ってない喫茶店の常連になるなんてよ」


「なんとなく……気に入ったからですよ」


 天児がそう言うと、鈴の音が鳴る。入ってきたのは白衣の女性。彼女は二つ隣のイスに座る。彼女も常連であり、そこが定位置らしい。猛も彼女が入ってくるのがわかるとコーヒーを淹れて出した。


「こんな時間にきていいのか?」


「今は休憩時間よ」


「まったく…」


「それでさ、私はバイトに用は無いんだから早くマスターを呼びなさいよ」


「マスターは留守だって知ってるでしょ? ほら俺のコーヒー飲んで」


「仕方ないわね…」


 彼女はしぶしぶコーヒーを口に入れる。


「いけるんじゃない、バイト君」


「それはどうも…」


 いつも二人のやりとりだけは聞こえてくる。天児の印象としてはとても二人はとても仲がいいようだ。それで彼女はマスターを待っているようだった。天児は彼女と会話をしたことはなかった。どうにも大人の女性というのは声をかけにくい雰囲気を放っていて、猛とは親しげに話していても、声をかけられない。だから今日も同じコーヒーを飲むだけの、はずだった。


「あッ!」


 彼女は突然驚きの声を上げた。カップが急に割れて、コーヒーがテーブルに広がっていったのだ。それはあっという間にテーブルからこびり落ちて彼女の白衣に染み渡った。


「もう、白衣は目立つんだから!」


 文句を言う彼女を見て、天児は身体が動いた。


「あの……このハンカチ、使ってくれませんか?」


「え?」


 彼女は意外そうに天児の顔とハンカチを交互に見た。


「ええ、ありがたく使わせてもらうわね」


 彼女は、しみになった部分をそのハンカチで丹念にふいた。


「まあこれでごまかせる、わね」


 綺麗にふきとれたとはいえないが、目立たない程度にはなった。


「いやあ、すみません。古いカップだったもんで。見えないヒビでもはいっていたんでしょう」


「まったくマスターの趣味悪いわね」


 と彼女はぼやいた後に、天児を見た。


「ありがとうね。いつも会ってるけど声をかけられるなんて思わなかったわ」


「あ、いえ…」


「名前、教えてくれないかしら?」


「……日下天児です」


 天児の名前を聞いて彼女は満足げに微笑んだ。


「白川教子よ、よろしく」


 彼女は自分も名乗ってすぐに、立ち上がる。その際に猛の方を見た。


「じゃあ、私はこれで。カップ、ちゃんと新調しておきなさいよ」


「わかりました」


 それだけ言うと、教子は店を出た。彼女が出た後、猛はコーヒーのこぼれた場所を雑巾で拭いた。


「まったくいきなり割れるなんてな。バイトとしては不測の事態は勘弁してほしいんだけどな」


「白川さんはバイトだと思ってないんじゃないですか?」


「いいや、バイトさ。あの人の目当てはマスターさ」


 猛の言うマスターをこの店に半月ほど通っているが一度も会ったことがない。なので、マスターと教子の間柄は何も知らない。とはいっても、猛との間柄もわからないのだが。


 そんなことを考えているうちにコーヒーを飲み干して、もう長居する理由も無くなった。


「それじゃ、俺も」


「おう、また明日来いよ」


 天児は店を出た。




**********




 真夜中、天児は部屋でずっと起きていて机に向かっていた。一心不乱に眺めていると時間がたつのを忘れるようだった。


 ふと背後から人の気配を感じた。


「あ…ッ!」


 振り向くやいなや、それはあっという間に自分の懐にまで飛び込んできた。


「にいちゃん、なにしてるの?」


 弟の将だった。


「ああ、ちょっと地理の勉強でな。地図を見ていた」


「地図? 俺も持ってるけど、なんか違うぞ」


「これは、難しいやつなんだよ」


「へえ、そうなんだ」


 将は机に広げられた地図を眺めた。


「んで、お前は何でこんな時間に起きてるんだ?」


「トイレだ」


 将は即答した。


「だったら早く行けよ」


「おう!」


 気前良く返事をしたところで将はトイレへと向かう。


「まったく……子供だな…」


 天児は一息ついた後、地図を見て異変に気づいた。勇み足でトイレに行く将の足音が消えたのだ。


「気のせいか…」


 はじめはそう思った。だが、無性に気になった。もうそろそろトイレのドアを開けてもいいころだというのに物音一つ立たない。気のせいだろうとそれでも思ったが、さすがに何かあったのかと天児は立ち上がる。その行為にも違和感が起きた。


 立ち上がるときに音がたたなかったのだ。気のせいだと心の中で連発させればすまされるそうだったが、歩いた途端にそれがすまされなくなった。


 足音が無い。しっかりと床を踏んでいる、これはもう確実に違和感を湧き上がった。


「将!」


 そしてそれは不安に変わり、トイレの方へ向かった。


「あ…ッ!」


 将はすぐに見つかった。だが、明らかに様子がおかしかった。片足を上げたまま静止しているのだ。片足で立って歩くなんて遊びはよくやるが、今の状態、明らかに異常だ。微動だにしていない。一時停止ということが似合うほど将は動いていない、息もしていないから人形みたいだ。そのまま倒れていたら、死んでいると感じてしまうほどだった。だが将は立っていた。


(どうなってるんだ…?)


 天児は将に声をかけようとした。だが、そう思うと同時に立ち止まる。


 目の前が黒くなったのだ。夜なんだから暗くなるのは当たり前だが、今は黒くなっていったのだ。電灯によって照らされていた部分は色を失い、黒へと変わった。それはそのまま夜の暗闇を助長させた。


「あ…ッ!」


 思わず声を上げた瞬間に、天児は今自分が立っている場所が違う場所だということが。


 天児は辺りを見回した。空を見上げられて、道路の真ん中。そんな場所に立っている。


「外に出ていないのに…」


 見慣れない街並み、人はいない、風も無い、まったく殺風景という言葉が似合う雰囲気だ。どうしてここに立っているのかわからないが、とりあえず歩いてみた。


「ゆめ……夢か」


 それならば説明がつく。自分はいつの間にか眠ってしまい、夢と見ている。これは夢ならこの殺風景も、どうして自分がここにいるのかもわかる。だが、それだけではどうにもこの感覚は現実味があり過ぎる。腕を振って、足を上げて歩く。息をするにしても、止まっている状態と歩いている状態とではリズムが変わり、生きてここにいることを実感させられる。


「いいもんだな、こういうのも」


 天児に笑顔がほころんだ。夢のようなこの空間にいて歩いてるだけで妙に楽しくなった。


 そして、天児は立ち止まり空を見上げる。


「夢なら覚めない方がいいな」


 天児はそう呟く。


「誰もいないか」


 ざっと見渡したところ、他の誰にもいない。それを確かめたくなり、階段を上り、ビルの屋上に行き、街を見下ろした。


「う…ッ!?」


 不意に天児の身体が震えた。震えは反射的に起こった。どうしてそんなものが起きたときの直後に知ることになった。


 目の前に飛んできて現れたのは、黒しかない世界においてもその黒さえも飲み込みかねない黒い怪物だった。腕からは翼を生え、足からは黒い爪が伸び、獲物をとらえるような視線を感じた。


(殺される!)


 本能的にそれを感じ、一目散に階段からビルを降りた。


 ビルから降りるにはそれほど時間がかからず、足も速く動いた。逃げないと殺されるという想いが走りを加速させたのかもしれない。だが、怪物は諦めることなく追ってくる。やつは飛んでいる上に、目もいい。決して見失うことは無いと威圧する視線を常に感じる。


(逃げられない、どうすれば…?)


 天児は足を止めた。疲れたからではない、逃げられないなら他の手段を考えるしかないと思ったからだ。




――斬り刻めばいい




 どこからともなく聞こえた声が頭から響いた。


(斬る…?)


 天児はその言葉に衝撃を受ける。


「あ…」


 気がつくと、天児の手には日本刀があった。


 どうしてこんなものがあるのか、天児は気にしなかった。重要なのは今ここに怪物を斬るための手段があるということだ。


「こいつだ、こいつで…!」


 天児は覚悟を決め、刀をいつでも抜刀できる体制に入る。これで怪物を斬る手はず整った。


 怪物は一直線に天児の方へやってきた。天児は怪物の爪が身体に届く前に刀を引き抜き、足を斬った。足を斬られた怪物は、即座に飛び上がった。


「踏み込みが浅かったか…!」


 天児は刀身を見た。刀は錆など無く、曇りの無い輝きを放っていた。その刃をみればどんなモノも斬れると刀自体が豪語しているようだった。振るうととても軽く自分の身体の一部のようだった。


「今度こそだ!」


 天児はその刀を持ったことで怪物に立ち向かえる勇気と倒せる自信がもてた。


 そんな天児の声に呼応するかのように怪物も勢い良く天から降りてきた。


「オリャッ!」


 空を切るようなすさまじい斬撃を一声とともに繰り出し、怪物を真っ二つにした。二つになった怪物の身体は、地面に力無く落ちて転がった。


「ふう…」


 天児は安堵の息をついて、怪物の死を確認しようと近づく。だが怪物は死んでいなかった。下半身から足が動き出し、爪が天児の身体を突き刺そうとした。天児が気づいたときには遅かった。


(死ぬのか!?)


 天児は覚悟した瞬間、身体に爪は突き刺さらないとわかった。どこからともなくやってきた別の爪がそれを防いでくれたからだ。さらにその爪がやってきたほうから茶色のコートを着た男が、上半身の目を潰した。


「命拾いしたな」


 男がそう言うと怪物の身体は地面の黒に溶け込み、そこには見る影も無く消滅した。


「あ、ありがとうございます…」


「無事でよかったな」


「は、はい……なんなんですか、こいつは?」


「ファクター、ここミッドナイトスペースに住まう怪物だ」


 男がそう答えると、男の姿が歪んだ。いや、世界が歪んだのだ。やがて意識が朦朧とし始め、たまらず目を閉じると、そのまま眠ってしまう。




**********




「……というわけで、目が覚めたときにはもう朝で床にいたんですよ」


「そりゃまた面白い夢だな」


 猛は話を聞き終えると、天児にコーヒーを出した。


「夢にしては、迫力はあったんですけどね…」


「しかし、床で寝ているあたり随分とひどい寝相だな。まあ、そいつを飲んで眠気でも吹き飛ばしてくれよ」


「もう夕方なんですけどね…」


 天児は呆れた物言いで返し、コーヒーを口に含んだ。


(安藤と長尾と同じ反応だな…)


 朝に、二人に学校でこの事を話しても「面白い夢」、「ひどい寝相」としか言われなかったからこれ以上バカにされたくないとそれ以上は話題にできなかったが、ここでもそれは同じだと思わされた。


「しかし、茶色のコートか…」


 猛は愉快そうに言った。


「まるでうちのマスターみたいだな」


「マスター?」


「ああ、マスターもそういうのよく着るんだよ。最近は見てないんだけどな」


 天児はそれを聞いてもしやあの男はこの喫茶店のマスターではないかと思った。


(いやいや、コート着てる人なんていくらでもいるしな……でも、もしかしたら……いや、そんなはずは…)


 そんなことを考えているとドアが開き、白川教子が入ってきた。


「いらっしゃい」


 教子は天児と猛の姿を見て、いつものカウンター席に座った。


「今日はご機嫌ですね」


 猛はそう言ってコーヒーを温め始めた。


(いつもと変わらないようだけど)


 端からみている天児には、教子はいつもと変わらない微笑みを浮かべているようにしかみえなかった。


「さっきね、彼と会えたのよ」


「マスターにですか?」


「ええ」


 天児はこれに反応し、教子の方へ歩み寄った。


「どこで、会ったんですか?」


「会ったって、マスターと?」


 突然の質問に教子は少し驚きを見せながら訊き返した。


「そうね……この近くの小学校だったかしらね…」


「小学校か!」


 天児は、勢い良く出口まで行き店を後にした。


「血気盛んなこった」


 猛はその様子を微笑ましく見ていた。


「どうかしたの、あの子?」


「何でも面白い夢を見て、そこでマスターらしい人に会ったらしいんですよ」


「面白い夢…?」


 教子はその言葉に興味を示した。




**********




(まだそんなに時間はたってないはず、だったらまだいるかも!)


 天児は小学校へ走った。どうしてもそのマスターがミッドナイトスペースで会った男なのか確かめたかったからだ。


 小学校の校門にまで来ると、ちょうど将の姿を見かけた。


「お、兄ちゃん。何やってるんだ?」


 将も天児を見つけるとすぐ声をかけた。


「ちょっと、この辺りにコートを着た人がいるって訊いて」


「ああ、そいつなら俺も見たぜ」


「本当か?」


「たしか、こっちに行ったぜ」


 天児は将について行った。


「あのコート、かっこよかったからずっと見てたんだ」


「そうか、かっこいいのか」


「おう、かっこいいぜ」


 将は楽しそうに答えると、「あ!」と声を上げる。


「あいつだ!」


 将が指を指した先を見ると、茶色のコートを着た男が歩いていた。それは天児がミッドナイトスペースで会ったコートの人の後姿に良く似ていた。そのため、天児は走った。


「あのーッ!」


 天児はすぐに声をかけた。


「何か?」


 男は振り向く。


「あ…ッ!」


「お…ッ!」


 天児と男はほぼ同時に驚きの声を上げた。


「昨日はどうもありがとうございました」


「……偶然だね」


「本当にすごい偶然ですね」


 天児は笑顔で答えた。その男こそミッドナイトスペースで天児が助けてくれたコートの男だった。


「兄ちゃん、こいつと知り合いなのか」


「失礼だろ、将。この人は俺の恩人なんだから」


「お、そうなのか」


 将は驚きとともに、男に好奇の眼差しを向けた。


「いや、そんな大したものではない」


「でも、あなたが助けてくれなかったら多分俺、死んでいました」


「……気まぐれだよ」


 男は照れくさそうにそれだけ言った。


「それであなたに教えて欲しいことがあるんです」


「ミッドナイトスペースか……俺が知ってることなら、だけど」


「それでもいいです、知りたいんです」


 男はそれだけ聞くと語り始めた。




**********




(……夢?)


 闇に飲まれた中、天児は何かを見た。それが何なのかはわからなかった。ただ言えるのは初めて見る光景ということだけだ。


(あんなもの、俺は知らない……俺が忘れているだけなのかもしれないけど…)


 そんなことを考えて、闇の中を漂っていると、黒以外の色が天児の目に映った。天児はそこへ手と足をこいで泳ぐように向かった。そこにいたのは、天児と同じ顔、同じ身体をした男だった。目を閉じ、微動だにしない彼はまるで永遠の眠りについているようだった。


「天夢…」


 思い当たる人間はそれしかいなかった。何より、天児と彼は一度会っている。その時は言葉を投げかけられ、天児は衝撃を受けた。何故あの程度の言葉に衝撃を受けたのか、天児にもわからない。わからないからこそ知りたい、そう思い、天児は彼に近づいたのだ。


「………………」


 ただどう言葉をかければいいのかわからなかった。天児は天夢のことは知らない。それに、今彼が本当にここにいるのかも確信がもてない。実はこれは鏡に映った自分の姿なんです、と言われれば信じてしまいそうなほど、天児の気持ちは不安定にゆれていた。それは、この時元牢の中で自分という存在が揺らいだせいだ。ここでは全てが夢のようで、今自分が見ているものさえ現実だと確信できないほどであった。


「天夢…」


 天児は再び呼びかけて手をかけようとした。


――ダメ


 どこからともなく聞こえた声が天児の手を止めた。音の無いこの世界で、この声が良く響き、またその声の主が誰なのかも天児にはすぐにわかったからだ。


「ソラ…ッ!」


 天児は声のした方向、後を振り向くとそこにソラはいた。ソラは喜んでいるのとも、悲しんでいるとも取れる微妙な表情を浮かべていた。またそれが一瞬のうちに交互に二つの表情を浮かべているせいもあるかもしれない。ともかく、天児は彼女の姿をはっきりと見たかった。この暗い世界で彼女がいることをはっきりと認識したかったのだ。


「お兄ちゃん…」


 ソラが呼びかけてきてくれた。そのおかげで幻ではというわずかな疑念が消えた。


「ソラ、ソラか…ッ!」


 天児もまた呼びかけた。


「会いたかった…」


 まずはそれが言いたかった。


「私もだよ…」


 ソラはそれに答えてくれた。ただそれはこれまで聞いてきたソラの口調と違って低く、落ち着いたものだった。


「お前が死んだんじゃないかって…また記憶を失ったんじゃないかって……すごく、すごく不安になったんだ…生きた心地がしなかった…」


 天児が言い終わるのを待ってから、ソラは小さく言った。


「……かぞく…」


「そうだ、ソラも家族だ」


「お兄ちゃんはソラのお兄ちゃんだから」


「ソラ…」


 天児がソラの名前を呼ぶと、ソラははっきりと悲しい表情を浮かべた。


「本当ならこんなところで会いたくなかった…」


「それは俺もだ。なんでお前がここに…?」


「お兄ちゃんを助けたくて…」


 ソラははっきりとそう言い、手を伸ばした。天児の胸に当てると、ソラは強く言った。


「鼓動を、重ねて…」


「鼓動? どういうことだよ?」


「チカラのコツ……」


「コツ…? 鼓動…?」


 そう呟くと、天児の鼓動が高鳴った。あまりの高鳴りに天児はソラから目をそらした。


(これは…!)


 目に浮かんだのは、さっきの戦い。ファクターの目を切り刻んだときに見えたことだった。次に見えたのは倒れて動かなくなった美守の姿。


(なんで、なんでこんなものいまさら…ッ!)


 次々とアクタとして戦う光景が思い出していった。やがて、美守に助けられ、初めて会った時の事が見えた後、次に浮かんだのは時計だった。


 その時計の秒針が動くたびに、天児の鼓動が高鳴る。


 0を示したその針が、時を刻むように音を立てて動き、やがて、その針が十二をさしたとき、天児は声を上げた。


「あ…ッ!」


 天児の鼓動と秒針の動きが重なったのだ。天児がそれに気づいたとき、声が聞こえる。




――時計の針が0から十二に進むのなんて誰が決めた?


――もし神がいて、これが定めた世界の法則だとしても


――そんなもの俺は受け入れたくない




 そして、声は最後に力強くこう言った。




――変えてやる




 その言葉に天児は胸を打たれたように揺れ動かされた。


(変える…! 変えてやる! こんな現実…!)


 瞳は時計の針のように回りだし、うずまきのように渦巻いた。


「おおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」


 天児の叫びに呼応するかのように、黒い空間が崩壊を始めた。


 天児は反射的にソラと天夢をその両腕でつかみ、飛び上がった。


 飛び上がっている間はさっきの走馬灯のように、昨日、一昨日、一週間前の光景が次々と浮かんでは消えていった。とはいっても、ここ最近の記憶なんてものは、戦いから逃げていた。記憶を失う恐怖、記憶を失っている事実から逃げて抜け殻のようにただ生きているだけのようだった。


「俺、死んでるみたいだな…」


 天児はそんな自分を見て、自嘲した。


「変えたいな……こんな俺―げんじつ―、変えたいな!」


 叫んだすえに、待っていたのはまたもや黒しかない世界が広がっていた。だが、生きていると実感できる世界だった。


 空を舞うように飛び上がると、歩み寄ってくる確かな足音が聞こえた。


「ファクターか!」


 地上を見ると、まだ蠢いているアメーバのようなファクターの姿があった。


 天児はゆっくりとビルの屋上に舞い降りた。その腕に掴んだソラと天夢とともに。


「お前はここにいろ!」


「うん…」


 ソラの返事が聞いただけで、天児は再び飛び上がった。


 飛び上がった天児が見下ろしたのは、やはりファクターだった。


「目を潰しても動くなら、跡形も無く!」


 目の前に現れたのは黄金の大剣。それを天児は両腕を掴み、振り上げた。


「ミッドナイトブレイクッ!」


 振り下ろされた大剣は、衝撃を生み、ファクターの全てを飲み込んだ。


 宣言通り、跡形も無くなった一瞬前は道路であった場所に天児はゆっくり大剣を消して降りた。


「……これなら、倒しただろ…」


 天児は息もだえだえにそう言うと、とりあえず倒せたという安堵感に身を包まれているようだった。


 だがそれもつかの間だった。


「そうだ、ソラを…!」


 天児はソラのいるビルに向かおうとした瞬間に硬直した。あるものが目に入ったからだ。


「ワイルドクロウ…ッ!」


 剣を出した。一度は時元牢に飲み込まれた脱力感、今ファクターを倒した安堵感から一転してチカラを入れなければならない場面になって無理矢理戦意を引き出したから、それには疲労もつきまとっていた。


「あいつ…ッ!」


 ワイルドクロウの爪には血が滴り落ちていたのが見えた。それが誰なのか、見当はついた。この近くで誰かアクタに傷をつけたらしい。それも天児の知っているアクタだ。そう考えると怒りで身体が奮い立った。


 ワイルドクロウがこちらに向かい、大地を蹴り上げて来たと同時に天児の視界が歪んだ。


 ミッドナイトスペースが閉じる。そう確信した時、爪が天児の身体にくるはずだったが、その爪が身体に届くことは無かった。

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