Ⅶ―帳尻のダイヤ―(後編)

「ただいま」


 天児はアパートの部屋に入った。


「おかえり」


 といつもなら、ここで将と空が夕食のおかず目当てに出迎えてくるはずだったのにそれがなかった。違和感を覚えた天児は部屋に上がる。その疑問はすぐに解けた。


「何してるんですか?」


 桑木猛が部屋にいたのだ。それも将と空とかなり親しげに愛想を振りまいている。


「言っただろ、今日はおごってやるって」


「それは断ったはずです」


「あれくらいで俺が遠慮すると思ったか」


「はあ……」


 天児はため息をついた。この部屋に他人を入れたくなかったからだ。


「お前ら……」


 天児は将と空に目をやる。


「知らない人が来ても、入れちゃダメだって言ってるだろ」


「だって、おじちゃんずっとまっていたもん」


「だからってな…」


「旨いカレー、作ってくれるって言ったんだぜ」


 将のその一言で天児は納得した。この二人がどうして、見知らぬはずの猛を部屋に入れたのか。


「食い物につられたな…」


「よっぽど腹減ってたってわけだ」


「まったくしょうがねえな」


「お前が帰ってくるのが遅いのも悪いんだろう?」


 天児は壁にかけられた時計を見る。針はもう十時を示していた。


「あ……」


 天児にとっては意外だった。バイトが終わるのは確か8時だったはずだ。そこから帰ってくるのと買い物を合わせても一時間はかからなかったはずなのに。


(時間……思ったよりも時間が進むのが早い…?)


 そんな疑問が頭に浮かんだ。寄り道した記憶はない、あるいは寄り道したことを忘れているのか。そんな考えも浮かんだ。


(どうしたんだ、何かしていたのか、俺は…)


 記憶の底から今日の出来事を振り返ってみても、思い当たる節が無かった。


「まあ、そんなことよりカレーくえよ」


 事情を知らない猛はコンロの上におかれている鍋を指す。


「あ、はい…」


 天児は言われたとおりカレーを温め、皿を取り、注いだ。考えるのはこれを食べてからにしよう、そう思った。


「いただきます」


 合掌した後、カレーを口に入れた。確かにおいしい、空腹の身体に染み入るほどだった。


「どうだ、旨いだろ?」


「はい…」


 天児はそう答えるしかなかった。とにかく今はこのカレーで幸福に満たされているような錯覚に陥りたかった。


「ごちそうさま…」


 あっとうい間に食べ終えると、天児はまた合掌した。


「いい食いっぷりだったな。作った甲斐があったもんだ」


「………」


 天児は皿を流し台に置いてから、一つ疑問に思ったことが口から出た。


「どうして、この部屋がわかったんですか? 俺言ってませんよ」


「ああ……教子さんから聞いた」


「なるほど」


 天児はそれで納得した。彼女なら言って無くてもこの部屋を知っていても不思議じゃなかったからだ。


「お前、教子さんは知っていてもおかしくないのか」


「いや、別に……あの人、情報通だから」


「そりゃそうだ」


 猛も納得してくれる。天児は改めて『教子さん』というのは一種の説得力をもった人間だと認識させられた。


「それでよ、天児。奥にいる彼女にも食べさせてあげようと思うんだが、どうだ?」


「ッ!」


 天児は一転して、猛を鋭くにらむ。


「見たんですか?」


「狭い部屋だからな、見渡しちまったら見えちまうよ」


「奥の方のふすまはしめていますよ。開けない限りは見えないはずです」


「ふうむ…」


 猛は首を傾げた。


「悪かった、好奇心が勝っちまったんだ」


「そんなところだと思いました」


 狭い部屋でわざわざふすまを閉めていると不自然さがある。好奇心がくすぐられるのも無理ないと思う。


「彼女、何があったんだ?」


「病気ですよ」


「ただの病気じゃないだろ、ふすまあけても声かけてもこっちにきづいちゃいない、だが目はあいている。意識があるのか無いのかもわからない。どうなってるんだ、あれは?」


「病気です」


 天児は言い張る。それしか答えようが無い。アクタやらメモリオンについて話しても信じてもらえそうに無いからだ。何よりもそれを話すことが辛かった。話しているうちに何か忘れているんじゃないかと不安にかられるからだ。


「病気の一点張りかよ…」


 猛はあきれて言う。


「そんなもんじゃない気がするんだけどな…」


「え…?」


「何かこう、もっと根本的なものが欠けちまったような…」


「欠けている、か…」


「だけどよ、天児」


 猛は真剣な面持ちで天児を見た。


「お前、あの子があんなことになっているの、家族は知っているのか?」


「家族……美守はそんなものもういないっていってた…」


「ちゃんと確かめたのか? 一大事なんだぞ、本当に家族がいないのか?」


「………」


 天児は美守の携帯電話を取り出した。


「これが、彼女の携帯なんだ……一人、同じ苗字、『天月』の人がいた…」


「それは家族だろ、同じ苗字なんだから…」


「美守はかけてもかけなくてもどっちでもいいって言った……俺はかけない方を選んだ……多分、会うのは美守も辛いんだと思ったんだ……だから…」


「そうか」


 それ以上は言わないでいいと辛そうに語る天児に止めるように猛は言ってくれた。


「わかったよ、よく考えて判断したことならいいさ。ただな…」


 猛は釘をさすように言った。


「お前は彼女のこと、ちゃんと知ってるのか?」


「ちゃんと…?」


 天児はすぐに『知っている』とはいえなかった。というよりも美守のことをあまり知らないことに気づかされたのだ。


(美守のこと……年や学校を辞めたってきいただけだし……家族のことも……なんにも知らない…)


 そうやって訊かれて初めて気づくものだと天児は心の中で自嘲した。


「わからない…」


 天児はそう答えるしかなかった。


「このまま、彼女の面倒をみるつもりなら、ちゃんと知っておかないといかんぞ。何が起きてもいいように」


「………」


 猛の不吉な発言に寒気が走った。


「さてと、それじゃあ俺はこれで帰るな」


「もう帰っちゃうの」


 そこへ将が会話に入ってきた。


「とまっていってよ、あそぼうよ」


 この二人はすっかり餌付けされていると考えたほうがいいか、それとも気に入った人間には泊まらせる癖でも身につけてしまったのか。とにかく、猛まで泊めて寝られるスペースは部屋にはないので、天児としては断らせる他無かった。


「お前ら無理言うな、先輩が困るぞ」


「チェ~」


 二人そろって、不満顔をこちらに向けてきた。


「そういうことだ、二人ともまた今度な」


 さわやかな顔して、猛は断り部屋を出て行く。


「さようなら」


 それだけの見送りの言葉を二人は言った。


(結局何しにきたんだ、先輩…?)


 だが、頭の中で美守のことを知っておかなければならないということだけはこびりついて離れなかった。




**********




 夜中の十一時頃、二人が寝静まった頃に、眠ってしまった。美守もその時間になると目を閉じる。寝ているかどうかわからない、ずっと寝ているように感じてしまう。


「……寝るか」


 天児はそう決めて、電灯を消す。仰向けで寝て、美守の携帯を掲げる。


(俺はどうすれば、いいんだ…?)


 電話をかけるつもりなんて無い。ただそれをもって考えたいだけ。彼女について何ができるか、このままで本当にいいのだろうか。


(そもそも、俺は…)


 天児は美守の携帯を閉じて横になった頭上に置く。そしてベッドの片隅に置いておいた彼女の懐中時計を見た。その時計は無情にただ進んでいく時を音を立てて、刻んでいくだけであった。


(どうして美守が記憶を消したがっていたのかも知らない…)


 それが美守の原動力で根本的な問題なのに、天児は何も知らない。そんな現状に天児は苛立ちながら、睡魔には勝てず目を閉じた。耳に入ってくるのは時計の針が時を刻む音だけ。




***********




 目が覚めると、天児の目に写った光景は見慣れた部屋ではなかった。


「まだ、夢の中か…」


 寝ぼけたものかと、目を閉じた。


「おーい、起きてるか?」


 教子の呼ぶ声がする。まだ夢か、と天児は穏やかな気持ちでその声に答える事は無かった。


「ふむ…」


 何やら妖しげな声が聞こえたが、どうせ夢の中だからと天児は無視した。


「あぎゃあッ!?」


 次の瞬間、天児は悲鳴を上げた。腹に激痛が走ったからだ。


「ほら、夢じゃない♪」


 教子は歌い上げるように言うと、天児は睨んだ。


「教子さん、これはどういうことなんですか!」


 天児は腹を抱えながら悲鳴に近いような叫びで問い詰める。


「痛いから夢じゃないでしょ?」


「だからって……ヒールで腹を踏むとかひどくないですか?」


「あら? これってけっこう喜ばれるのよ」


「……誰からにですか?」


「主に猛君から」


「あ~」


 天児は納得してしまう。なんだかそういうことを彼が要求しても不思議ではないように感じたからだ。


「って、そんなことどうでもいいんですよ? どうして、教子さんが部屋に…?」


 天児は、そう言いながら辺りを見ると、言葉が途切れる。


「ミッドナイト、スペース…」


 どこまでも淀みの無い黒だけが映る建物の中に二人は立っていた。


「そんなバカな! 今日はもう、一度開いたはずだろ?」


「正しくは十一時五十九分、平常ね」


 天児は寝る前に見た時計の時間を思い出す。確か十一時十分頃だったはずだ。


「ああ、俺が寝たすぐあとか…」


「一日に二度もミッドナイトスペースが開かれるのは初めてね」


 天児は二度もミッドナイトスペースが開かれるのがあった憶えがある。それは天児には忘れられないように深く刻まれた記憶だ。だが、そのことを教子は知らない。


「妙よね……さっきは異常に早いと思ったら、今度は時間通りに……まるで帳尻合わせて元に戻ったみたいね」


「帳尻合わせて?」


「まるで狂った時計の針を元に戻すような、前に開かれたときは今にして思えばそういった感じだったかも」


「……予定にあわせられているんだ、俺達は」


 天児はその言葉だけ言ってそっぽ向く。


「予定ね……どうにもあわせられているのは、薄気味悪さがあるわね」


 天児も同感だった。


「でも、私的に問題なのはどうして狂ってしまったのか、よ。今まではちゃんと十一時五十九分でまわっていたのに、それが狂いだしたのにはそれなりに理由があるはず」


「それは……多分俺だ」


 天児は一瞬口ごもるが、言い切る。


「どうして?」


「エージュは……俺とソラは理から外れた存在だと言った、言葉の意味はわからないけど。多分それは今まで十一時五十九分に止まるはずだった針を狂わせるだけのもんなのかなって……」


「へえ…」


「信じるんですか、こんな話?」


「信じる。……こんな場所で自分の理解を超えた程度の話を疑う人はいない」


「そうか、そうでしたね」


 もうこの空間、ミッドナイトスペース自体が理解のできる場所ではないので、途方も無い話も疑いようもなく信じてしまいたくなる。そんな気持ちにさせてしまう空間なんだろうと天児は思った。


「で、そのエージュってのには今から会えるの?」


「無理ですね、奴は突然やってきますから」


「そっか」


 教子は少しがっかりしたような態度をとる。


 その次の瞬間だった。透明な窓のガラスが割れる甲高い音とともに、彼女はやってきたのだ。


「シャッドッ!」


 天児はすぐに呼びかけた。


「見つけた…」


 シャッドはそうつぶやき、天児に迫った。


「――ッ!」


 そして、その手に持った銃を天児の顔に突きつける。


「な、なんのつもり、だ…?」


 天児は驚きのあまり、おぼつかない口調で訊いた。


「クエスチョンがある」


「なにが、ききたいんだ?」


 そう訊いて、シャッドが答えようとしたとき、突きつけた銃がシャッドの手から離れ、宙を舞った。


「困るのよね、そういうアプローチは…」


 余裕を持った口調で教子は言った。その台詞から察するに『糸』を使ってシャッドの銃をはじいたようだ。


「邪魔をするか?」


 これでシャッドは教子に敵愾心を持ったようだ。


「ノー、ちゃんと事情を説明しなさい。フェアじゃないのよね、一方的なアプローチはね」


「お前には関係ない、傍観者のお前には」


「そうね……ちょっとおせっかいだったわね」


 教子は一歩引く。それはこれ以上を何もしないというサインのように見えた。


「それで…」


 天児は大きく一息をついてからシャッドに向かって言った。


「俺を殺したいのか、シャッド?」


「……違う」


 今度シャッドはそう答えて銃を向ける事は無かった。


(いっそ、撃ってくれた方がよかったかも…)


 一瞬そんな考えが出てきたがそれは即座に振り払った。


「お前は何を見た?」


 シャッドは睨んできてそう訊いてきた。


「見たって、何を?」


「ファクターを倒したときだ」


「……わからない…」


「マジメに答えろッ!」


 シャッドは怒鳴った。天児はその迫力にたじろいだ。


「……おねがい、こたえて…」


 一転して震える声で言ってきた。その変わり様から切羽詰っているものだと天児は感じた。


「……何を見たかって、言われても……」


 天児はその時のことを思い出そうとした。忘れているのではないかという恐怖を抱えながら。


「……あのファクターを倒したとき、色々な人が目の前に出てきたんだ」


「色々な人?」


「若い人もいれば老けている人もいた、その中に京矢もいた…」


「それは興味深いわね」


 ここで一歩引いて傍観していた教子が興味を示した。


「話を続けて」


 教子の言葉に天児はうなずいた。


「それで、いろんな人が出てきて……最後に…」


 言いづらかった、言えばシャッドがどんな反応をするのかわからないから。だが言わなければならないことだと天児は自分を奮い立たせ、言った。


「……天夢がいた…」


「――ッ!」


 シャッドは天児に飛び込んできた。天児はそれに耐え切れず、倒れこんでしまう。


「いっつ…」


 見上げると、シャッドは仮面をはずしてサファイアのような目が見下げていた。


「テンムが、てんむが、天夢が、いたのか…?」


 かすれたような、願うような声でシャッドは訊いてきた。天児の胸倉をつかんでいる手が震えている。その様子をみて天児は躊躇いを捨てて、その時起きたことを言おうと思った。


「ああ、その中に天夢がいた……でも、一瞬で消えてしまったんだ…」


 そう言い終わると頬に水の粒が落ちた。


「シャッド…?」


 それは彼女の涙だった。彼女の目から出て、頬から流れ落ちるそれは、黒しかないこの空間では宝石のような輝きを放ち、天児を見とれてしまった。


「そうか、天夢はまだ生きているんだな…」


「ああ、そうだ…」


 確証は無かった。あれが幻だっていう可能性もあるのだ。それでも、涙を見せる彼女を悲しませたくないと思い、そんな言葉が出てしまった。


「よかった……よかった……よかった…」


 彼女はひたすらに言い続けた。


(天夢、か……あいつはそんなに想われているのか…)


 天児は、あの時に顔をあわせた自分とよく似た『彼』のことを思い出した。何よりも彼が言った言葉が頭にこびりついて離れなかったのだ。何故ここまで自分はこだわるのかわからなかった。


(君は誰だ…? そんなの決まってる、俺は日下天児だ……)


 こうして自分に言い聞かせても自信をもてない。理由はわからない。理屈ではない何かが頭の中でうごめいてるのだろう、そう考えるしかなかった。


 しばらく、彼女は泣き明かして、立ち上がる。すぐに涙のあとを隠すために仮面をつけた。


「すまなかった…」


 彼女はそれだけ言ってこの場から離れようとした。天児も止める気は無かった。


 その時だった、激しく窓が打ち震えるような金切り音が鳴り響き、天児達は思わず耳をふさいだ。


「なんだ、これは!?」


「ファクターの咆哮ね、ここまですごいのを間近で聞くのは初めてだわ」


「ストロングスクリーマー…」


 天児達は窓から地上を見た。


 地上には全てを飲み込まんとする黒さを持ったモノが水溜りのように広がっている。それは周囲のビルを飲み込まんばかりに広がっていた。


「あれが、ファクター…」


 天児は見ただけで汗が流れた。


「得体の知れないやばさがあるわね、今回」


「どんなのがこようと…」


 シャッドは二丁の拳銃を持ち構えた。


「待て、一人じゃ無理だ」


 天児はシャッドを呼び止めた。


「あれは、一人で戦って勝てるものじゃない」


「天夢があそこにいる…ッ!」


「――ッ!」


 シャッドは力強く天児を睨み、そう言って天児をたじろがせた。


「あの中に、目当ての彼がいるのね…」


 シャッドの雰囲気から、教子は事情を察したようだ。


「だったら、万全を期する必要があるんじゃないの。失敗が許されないならなおのことね」


「………………」


 今度は教子を睨む


「彼を助けたいなら、そこを考えないと」


 それでも教子は笑みを崩さなかった。そしてシャッドは天児を見た。


「助けてもらった恩がある。協力させてくれ」


「……わかった」


 シャッドは銃を下ろす。


「ありがとう」


 天児は笑顔を見せる。




**********




 どこまでも広がろうとする水溜りのようなファクターは目をさらすことなく、ただのその黒い身体を広げていくだけであった。


 その中で銃声が轟く。ファクターの身体の一部が揺らめく。シャッドが仕掛けたのだ。彼女は、二丁の拳銃をファクターに向けて、発射していく。メモリオンで作られた銃に銃弾の充填など必要ないため、リロードの手間無く際限が無いと思わせるほど連射する。とはいっても無制限に撃てるわけではない、メモリオンによる弾の充填は気力と記憶が消耗する。「これ以上は……」というところで引き金を引くシャッドの手が一瞬止まる。それを察知したのか、ファクターは水溜りから津波に変わり、彼女に押し寄せてくる。だが、彼女は逃げることは無かった。むしろ、彼女はその瞬間を待っていたのだ。


「ストレンジライトッ!」


 銃口から放たれた光は、ファクターの身体に衝突し、波紋を起こすと同時に、風穴を開けた。それは、シャッドから見れば向かい側のビルまで見渡せるほどのものだった。しかし、彼女が確認したかったモノはそれではなかった。彼女はそれを確認するために、もう一発撃った。すると、今度は綺麗に風穴が開くわけではなく。何か白く丸いモノが埋もれているようなものが見えた。


 シャッドはそれを見ると、押し寄せる津波から逃げた。押し寄せる津波よりもシャッドの足が速かったため、ファクターの見えないであろうビルの壁に逃げ延びて、津波はそこで止まった。


『どうかしら?』


 あらゆる場所に張り巡らされた見えない『糸』を伝って、教子から声が聞こえる。


「やはり、体内に目があるのは間違いない」


『それはよかった。ちょっとどうしようもないかなって思ったけど、なんとかなりそうね』


「弱気ね」


『今回は、ちょっと不穏な感じがしてね』


「不穏?」


『今回は、時間きっかりに開かれたのよ。今までは狂った予定のままだったのよ。一つはさんで無理矢理あわせたのには何かワケがあるように思わない?』


「……だから、彼をアタッカーにしたのか?」


『帳尻合わせには都合のいいアクタかもと思ってね。彼ならこの不穏な空気ごとファクターをなんとかしてくれる、そんな気がするのよ』


 シャッドはビルの陰から顔だけ出してファクターを確認した。


「ヤツは私を見失ったようだ」


『そう…』


「一つ気になることがある…」


『何かしら?』


「あの金切り音……あのファクターの泣き声ではなさそうなの……もしかしたら、別の…」


 シャッドの声が途中で途切れた。その金切り音が耳に入ったからだ。それから目に入ったのは光る輝く爪。


 そして銃声と咆哮が鳴り響いた。




**********




『ちゃんと見た?』


「ええ、しっかりみました…」


 ビルの窓から天児は、シャッドがファクターに風穴を開けてそこにあるものもしっかりと見た。


「あそこに目を突き刺す、それが俺の戦いだ」


『大丈夫? ぶっちゃけスーパーデンジャラスだけど』


「やってみます。うまくいかなかったときは次の作戦をお願いします」


『次なんてないわよ』


 神妙な面持ちで教子は言ってきた。


「嘘、ですか?」


『さあね、それは生き残ってからにしましょう』


「生き残ってから、か…」


 天児は自分の手にした長剣と短剣を見る。不思議とその手は震えていなかった。


『怖いかしら?』


「わからない…」


 天児はそれだけ答えてファクターを見つめる。


(怖くないなんて事は無い…)


 心の声でそう言えても、口からは出なかった。それは心のどこかで『それは違う』という心の声も混ざってしまって、いえなかったのかもしれない。だが、その気持ちはどこからくるのかもわからなかった。


 この戦いが怖いと思える根拠なんていくらでもある。戦って傷ついて、痛みに苦しんだり、死んだりするのはたまらなく怖い。勝ったとしても記憶を失い続けていつかは美守のようになってしまうのも怖い。これだけ『怖い』といえる理由を列挙しても今『怖い』とは声に出なかった。


(何が俺を動かしてるんだろうな…? この心か、恐怖か、記憶か…それとも、あの声か…)


 何度も自問したところで、天児は窓を飛び出した。


 地面と着地すると同時に、天児は長剣を振るい、ファクターの身体を斬った。だが、ファクターの身体は液体のようになっていて斬った手ごたえはあっても、傷口なんて無い。


「ソードライナーッ!」


 長剣を突き刺して、その衝撃はファクターの身体を貫いた。大きく開いた風穴に天児は、入り込んだ。その中に踏み込んでわかったことだが、この身体は液体というよりも泥に近く、足場は悪いもののちゃんと走れる物体だった。天児はその風穴がふさがる前にその先にある目に向かって一直線に走り抜ける。そして、剣の届く間合いまで目に近づくと天児は目を斬り刻んだ。


「これでどうだッ!」


 白い眼球はバラバラになった。


 天児はそれで一安心して、剣を振り下ろした。ファクターは倒して危険は過ぎ去った、と安堵しようとした時、異変が起きた。ファクターの身体が消えることなく、泥のように天児になだれ込んできたのだ。


「――ッ!?」


 天児は驚きで硬直してしまい、そのまま泥に飲み込まれてしまった。


 飲み込まれた先は、何も映らない光景。目を閉じているのか、あけているのかもわからない。もがいてはみたが、水の中にいるようで、意味が無い。息苦しさは無い、風も無く、音も無い静かで果てしなく何も無い空間だった。


(ここが、時元牢、なのか…?)


 想像していた地獄絵図のようなものとはまるで違っていた。不安も恐怖もわいてこない不思議な場所だった。


(何も感じないな……何も考えなくていい……それならいっそこのまま…)


 そのまま流れに身を任せた。このまま、消えてもいいのかもしれない。そう思えてくると不思議と心が安らいだ。メモリオンを使って記憶を消えることに気をまわしすぎて疲れてしまっていたようだが、今はそれから開放されたような気分だった。


 心地よく目を閉じ、彼の身体は闇へと溶け込んでいった。

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