Ⅶ―帳尻のダイヤ―(前編)

――軸は安定している。予定から外れることはあってもこうなればいいだけのこと。


――だから彼の出番はもう少し先になる。彼の動向も見守らなければならないし。




 ミッドナイトスペースには風が無い。あるとするならばファクターかアクタが巻き起こすものだけだ。


 後は人のいない町並みどこまでも続いている。地平線の向こう側には何も無いのではないかとも思ってしまう。それだけこの空間は、味気が無く息苦しいほど狭く感じる。


 天児は廃墟同然のビルの屋上からその町並みを眺めているばかりだった。


(こんな時間の止まっている場所で生きて何になるっていうんだ……)


 天児はこの時間が嫌いだった。時間が止まっていて変化することの無い。そこにいるだけで自分は生きているのだろうかと疑問に思えてくる。だが、同時にこの時間が一番落ち着く。変化が無いということは傷つくことも疲れることも無いからだ。


 どれほどの時間、そうしてたたずんでいたかわからなくなる頃、今夜もミッドナイトスペースは閉じる事になった。


 こうして『今日』は終わるのだった。




**********




 美守の全ての記憶が消えた日から二週間ほど経ったが、この朝の生活が変わることは無かった。新聞配達して、朝食を作って、将と空を起こして、朝食を食べて、学校に行くということは変わらなかった。ただ出かける前に、一つのことが加わっただけだった。


「行ってくるよ、美守」


 部屋の片隅にいる、寝ているのか起きているのかもわからなくなってしまった美守に告げてから家を出た。


 布団から起き上がれず、言葉すら聞き取れなくなった美守に言っても、届かないことはわかっていた。だけど、何もしないでいるよりは気持ちが和らいだようだった。


「ねえ、おにいちゃん?」


 自転車に乗せた空が訊いてきた。


「どうした?」


「みかみおねえちゃんっていつになったらおきるの?」


「それは、だな……」


 それは天児にもわからなかった。もしかしたら、このまま一生元に戻る事は無い。そう考えると天児も辛くなってきた。


「明日だよ……」


 その辛さを押し殺して、無理矢理作った笑顔で答えた。


「ふうん……」


 空は、わかったようなわからないような、そんな返事をした。


「はやくおきるといいね」


「ああ……」




**********




 将と空を見送った後、高校には行かず、空を探して町を自転車で走り回る。そして、ある時間になったら高校へ向かい、保健室に行く。


「いらっしゃい」


 教子は微笑んで迎える。


「それじゃあ、今日はコーヒーにしましょうか」


 教子は手馴れた様子でポッドをとる。天児は臆面も無く椅子に座り込む。


 この二週間、授業の時間はずっと保健室にいる。たまに怪我人や気分の悪い人が来るが、天児の知らない生徒のため、どこか身体の具合が悪いからいるという印象しか持たれていない。とはいえ、今日は誰もいないので気兼ねなくいられる。


「ソラは見つかりましたか?」


 ここに入っていつも第一声がそれだった。


「残念ながら」


 そして返事はこれだった。


「そうですか…」


「美守の調子はどうかしら?」


「変わりませんよ。立てなくて、何も喋れなくて、何も視えなくて、何も聞こえない」


「聞くだけで痛々しいわね……」


 教子はそう言って、天児にあるビンを渡す。


 これが天児が行く理由の一つだ。美守の今の状態では何も食べることはできない。そのため、生きていく栄養分を補給するために栄養剤を投与する必要がある。教子が手配してくれるというので、とりにいくために来ている。理由は他にもあるが、今日最初の目的はこれだった。


「いつになったら美守は元に戻るんだ?」


 ビンを眺めながら天児は訊いた。


「わからないわ……今の彼女は生まれたての赤ちゃんよりひどい状態だからね。立って歩いたり、喋れるようになるまで早くて1年はかかるでしょうね」


「一年…」


 その言葉が重く、のしかかるようだった。


「それも元通りってわけにはいかないしね」


 記憶が無いということは、天児のことも完全に忘れている。生まれたての赤ん坊と同じように記憶や人格、美守という人間は白紙になっており、そこからつむがれていく記憶によってその白紙が何色に染まっていくのかわからない。回復した美守は別人のようになっていることだってある。むしろ、そっちの方が可能性は高い。


「それでも……約束しましたから」


 たとえ記憶を失っても何度でも出会うことにする。美守が回復した時、改めて出会おうと誓った。その時が早くくればいいと思いながら天児は今日を過ごしている。


「うんうん、素敵じゃない。そういうの好きよ」


「茶化さないでください」


「私は真面目よ」


「真面目なら、もっとちゃんと探してください」


「私はちゃんと探しているわよ」


 天児が保健室に行くもう一つの理由は、教子の『糸』の能力に頼るためだ。教子のメモリオンである『糸』は目に見えないほど細く長く広くクモの巣のように張り巡らせて、それらを通してカメラのように糸からモノを見ることができ、声を糸に伝達することで糸電話のように遠くにいる人間と会話ができる。これは人探しにかなり向いた能力のため、ソラを見つけるには教子に頼る方が早いからだ。その条件として、毎日保健室に来るようにとのことなので、こうして天児はやってきているのだ。


「ところで天児君、授業に出るつもりはないの?」


「……ありませんよ…」


 天児は躊躇いを持ちつつも否定した。


「そう、辛いわよね。もしかしたら、友達の事を忘れていて、それでも友達は友達として語りかけてくれたら、申し訳なくて耐えられないでしょうね」


「……どうして、そんなことまで……俺の気持ちがわかるんですか?」


「経験があるからよ」


 教子はそう言ってコーヒーカップに注いで、天児に渡す。


「砂糖はいくつ?」


「いりません」


 天児はコーヒーを飲む。苦味で眠気が吹き飛ぶ感触だ。


「ソラ、どこにいるんだろう…?」


 天児はカップの水面にソラの顔を思い浮かべた。


「少なくともこの街にはいないわね……どこかにいるなら、私の『糸』に引っかかるはずだからね」


「だったら、どこに……? あいつ、記憶が無いってのに……」


「そこが引っ掛かっているのよ、彼女記憶が無いんでしょ?」


「ええ……名前しか憶えてなくて」


「彼女、ミッドナイトスペースに引きずりこまれている……」


「何が言いたいんですか?」


「彼女の記憶喪失って、メモリオンが原因じゃないかと思って」


「――ッ!?」


 天児は驚愕した。考えたことも無かったことだったからだ。だが、そうだとすればソラの記憶が無いのも、ミッドナイトスペースに引きずり込まれるのも説明がつく。


「ソラが、アクタだっていうんですか?」


「確証は無いわ、ただの推論よ。あれは普通の記憶喪失にみえなかったからねえ。まあそれも推論だけど…」


(確かにそうだ…)


 思い返してみると、単なる記憶喪失では済まされないことがあった。自分のことをいきなりお兄ちゃんと呼び、午前0時になることを恐れて飛び出したり、美守のことをお姉ちゃんと呼んだりしている。何よりも、天児はソラが記憶に無い光景とともに現れたことがあった。それが何か記憶が無いことと関係しているはずだ。


「普通じゃないといえば……ミッドナイトスペースもそうね……」


「十一時五十九分に開かれなくなったことですか?」


「今までその時間に必ず起きていたのに、近頃は不定期よね」


 ソラがいなくなった日は十一時半頃、美守が全ての記憶を失った日は十一時。それ以降の二週間は十一時ちょうどから十分の間になっており、ちゃんとした時間は決まっていない。


「ひょっとしたら、十一時五十九分という時間に意味なんて無いのかもしれない…」


「それはどういうことかしら?」


「……なんとなく、です…」


 天児は適当に答えた。


「なんとなく……その感覚、大事だと思うわよ」


「どういうことですか?」


「そのままの意味よ」


 それだけ答えて、教子はコーヒーをカップに注ぐ。


「……私が思うには、ね……これって何かもっと大きな事が起きる前兆じゃないかって思うのよ」


「大きな事、ですか…」


「そう、例えば世界が滅亡する前触れとかね」


 教子は愉快げに言う。


「規模が大きすぎてピンときません」


「そうかしら? 私達は世界の『明日』のために戦っているのよ。そうなるとそれぐらいのことが起きても全然不思議じゃないでしょ?」


「……俺は世界のために戦ってるつもりはありませんよ」


「でしょうね」


 教子は微笑む。


「そんなアクタはいないわ、みんなファクターと戦って生き残るだけで精一杯なんだから」


「あなたもその一人なんですね」


 『そのとおり』といわんばかりに教子はカップを音を立てておいた。


「まあ何か起きたら、みんな戦うでしょうね。みんなこの世界が大事だからね」


「どうでしょうかね…」


 天児には教子の言う『みんな』の中に勝手に自分が含まれている気がしたため、否定的に答えてしまった。




**********




 ある程度時間が経ったら、天児は学校を出る。もちろん下校時間には、帰らない。クラスメイトにバッタリ会ってしまうと気まずいからだ。そして、バイトの時間になるまでできるだけ遠出をして探す。バイトの方も時間の許す限りやった。


「今日は給料日だな」


 バイトの終了時間になると桑木猛は陽気に言ってきた。


「どこのですか?」


 天児は冷めた反応で返す。バイトをいくつも掛け持ちしているのだから、一月に何度も給料日があるので、そんなに喜ぶことではない。たとえて言うなら、一年に何度もクリスマスがあるとありがたみがないといったところか。


「バーテンダーと代打ち」


「何か不穏なモノ、混じってませんか?」


「というわけで、俺は懐がうるおっているわけだから今日は俺のオゴリでいこうぜ」


「あ、あの、俺……妹と弟を待たせていますから」


「それじゃあ、みんなで一緒にすれば」


「いえ、迷惑ですよ」


「そんなことねえって」


 そうやってせまられると天児は断りづらくなった。


「や、やっぱり、遠慮してください…」


「そうか…」


 天児のその態度を察したのか、猛は一歩引いた。


「しょうがねえな、お前の家族に会いたかったんだが」


 そうやって本当に遠慮されるとなんだか申し訳無いような気がしてきた。


「すみません」


「まあいいさ。それより、あの子とは上手くいってるのか?」


 猛の言うあの子とはソラのことだった。


「え、あ、あの、それは…」


「なんだ、何かあったのか」


「ええ、まあ…」


「しょうがねえか、男と女だし」


「そんなんじゃありませんよ」


「はあ? そんなんじゃないのか」


 天児にとってソラは家族のようなものではあって、恋愛対象としてはみれないのだ。


「俺としてはどっちでもいいんだけどな」


「そういう先輩は、教子さんとどうなですか?」


「教子さん? あの人は確かに大事な人だけど、そういうじゃないぜ。あ、でもはたからそうみえるってことはまんざらでもないかもな」


「一体どっちなんですか?」


「お前としてはどっちがいい」


「どっちでもいい」


 天児は即答した。


「それが正解だ」


「……そうですか」


 天児は呆れた顔で言う。だが、その会話のおかげで少なくとも無言でいる間よりは気が楽になった。




**********




 天児は自転車でスーパーで今夜のおかずを買ってから岐路についた。給料日ではないので、あまり買い込むことはできなかったがそれでも一日分はある。


(ちゃんと、計画的に使わんとな……)


 依然として生活は苦しいままだ。なのに疲ればかりがたまる。まあ、保健室で休んでいるのでいくらか楽にはなっているが、それでもこれはどうしようもないものだと思う。


「いつまで続けられるんだろうな、こんなこと……」


 天児は自嘲しながら呟いた。以前に教子から『記憶の消失』が他のアクタよりも遥かに速いと言われているため、そう遠くないうちに、記憶が全部無くなるなんてこともありうる。そう考えると震えるほど怖くなる。だから、考えないようにしている。それのに考えてしまう。全てを忘れてしまった美守の姿が目に焼きついてしまっているからだ。だからこんなにも怖いのだ。


(全部捨てちまえば楽になれるかもな…)


 そこまで考えるほど追い込まれて、思い出すのもまた美守のことだ。美守との約束があるから、それを果たすために生きていかなければならないんだと、必死に自分に言い聞かせる。


(ソラも見つけないとな…)


 それもまたこうして落ち着かせる一つの理由だった。


 震えが止まると、一息つく。もう病状といってもいいなと思えるほど、ここ2週間定期的に起こっている。いつかこの恐怖に負けるときがくるのだろう、とため息のような一息をもらす。


「――ッ!」


 一息ついた後、天児は硬直する。支えを失った自転車は倒れ、ビニール袋に入れられた野菜が散乱する。だがそんなことは気にしない。


「ソラ…!」


 目の前にソラが現れたからだ。ソラも驚いているようだった。天児はすぐに駆け出した。


「待ってくれ!」


 ソラは天児から逃げていった。天児はそれを必死に追いかけた。やっと会えたんだ。会うためにずっと探し回ったんだ、それがまた会えなくなるなんて、もう嫌だった。


「あ…!」


 しかし、天児の足が止まる。頭に痛みが走った。


――追うな


 そう頭の裏で警告をしているようだった。そして、視界が歪む。


(ミッドナイトスペース……こんな時間にかよ……)


 歪んだせいで、姿がかすかにしか見えなくなったソラを見続けた。




**********




 黒く澄み切った町並みが広がるようになると、天児は立ちつくした。


「くそ、なんだってこんな……!」


 天児は早すぎるミッドナイトスペースに怒りで震えた。


「こんなことしてまで、俺をソラと会わせたくないのかッ!」


 天児は夜空よりも黒く染め上がってしまった空を見上げて叫んだ。


――私が原因ではない、これは予定したことなのだよ


 頭上からするエージュの声がした。


「予定ってなんだよ、俺とソラがあって何が起きるっていうんだ?」


――君なら知ることができるのではないか?


「俺ならって……!」


 天児は、長剣と短剣を握り締める。あの日から、メモリオンを使うのには抵抗があった、記憶を失うのが怖かったからだ。だがここで記憶を失うのは惜しくない。エージュのことを知ることができるのに比べればという気がした。


――君のチカラ、みせてくれないか?


「お望みとあらば、みせてやる!」


 天児は、短剣を天に向かって突き上げる。


 すると、短剣は光を放ち空を貫くように打ち上げられる。しかし、短剣は虚構の空に吸い込まれて何の変化も無く、天児の長剣も消えた。


「なんで…?」


――チカラを使いこなせていないか、無理も無い


「使いこなせていない…?」


――思い出すといい、かつての君をさ


 エージュの声と共に、空の彼方から全てを飲み込みかねないドス黒さを持った大玉ほどの黒い球体が舞い降りた。


 舞い降りたそれは、天児の目の前で地上にぶつかると、その勢いと共に大地を揺るがす。


「こいつめッ!」


 天児は長剣を出して、大玉の中心にある頭ほどの目に突き出した。


 だが、大玉を回転して、長剣は目ではなく身体に当たってしまい、はじかれる。


「く…ッ!」


 大玉の回転はすさまじく、目がどこにあるのか目まぐるしくかわってしまう。


 その回転で地面をえぐるように天児に迫ってくる。


 とっさに長剣を突き出したが、大玉の回転力に押されて弾かれてしまう。


「ガ…ッ!」


 その回転の勢いのままに、大玉は天児の身体に直撃して、その衝撃で飛ばされる。


「くそ……ッ!」


 天児は鉄の味のする唾を飲み込み、左腕をおさえる。


(アバラが何本かもってかれたか…! 左腕も折れてるな、こりゃ…)


 天児は痛みを堪えながら、大玉のファクターを見つめる。


 ファクターはさらに、回転を増して天児に襲い掛かってくる。


(よけれない…! どうすれば…!)


 天児は考えた。それは一瞬程度の時間しかなかった。その直後に、銃声が鳴り響き、ファクターの足場が揺らぎ、進行方向が変わる。わずかな方向の狂いでファクターはビルの壁に激突する。


 激突した後、金髪で仮面をかぶった女性、シャッドが現れた。


「シャッドか…」


「大丈夫か、テンム?」


「俺は天児だって…」


 天児は受け応えをしてメモリオンにより折れた骨を元に戻すだけのとりあえずの応急処置をする。


「スタンドアップ」


「ああ…」


 天児はシャッドに言われるまま立ち上がる。それと同時に、ファクターがビルの壁を突き破ってこちらにやってくる。


「逃げるよ!」


 シャッドのあとについて、ファクターから逃げる。


 激しい回転で、こちらに向かってくるので、天児とシャッドは逃げた。大玉のスピードは、自動車並みに速く、すぐに追いつかれそうになると方向転換をはかってかわす。とにかく大玉はまっすぐ転がるばかりで、なかなか方向を変えないので、道路を曲がって逃げていけば距離をとることができた。


「どこに行けばいいんだ?」


「上だ」


 シャッドはビルの階段を駆け上がり、天児も続く。大玉がそのビルの壁に激突すると、大きく揺れたものの、それは一度だけのもので、どこか遠くへ行ったのか、辺り一面は静まった。しばらく音沙汰がないものでいなくなったと考えて天児は安堵する。


「とりあえず、助かったみたいだ。サンキューな」


 天児はシャッドに礼をする。


「…早く手当てを」


「ああ……」


 天児はメモリオンで傷を癒す。背に腹は変えられない。中途半端な応急処置でファクターを倒せるほど甘くない状況だった。


「これで大丈夫だ」


「そう…」


 治療を終えるとシャッドは安心して一息つく。


「ファクターは遠くに行ったみたい…」


 シャッドは窓から静まりかえった様子の地上をみてそう言った。


「俺達を見失ったもんだから、止まっているのかもな……待ち伏せだってありうるぞ…」


「それもありうる…」


 シャッドはそっけなく返す。天児はその態度に違和感を覚えた。


「どうかしたのか?」


「………」


 シャッドは何も答えず沈黙する。


(まいったな……)


 天児にはその沈黙が重苦しく感じ、苦手だった。


「シャッド、あのな…」


 天児は勇気を出して話を切り出した。考えてみればこれはいい機会だった。彼女に気になってることを聞きだす。


「テンムって誰なんだ?」


「天夢……」


「俺と間違えるような天夢って、どんな人なんだ?」


「………」


 シャッドは黙り込んで、黒いマントの内側から一枚の写真を手に取り、天児に差し出した。


「え…!?」


 その写真を見て天児は驚愕した。そして彼女は仮面をはずした。その顔は白色で、バランスの取れた目と鼻と口の配置をみると、美人という言葉がしっくりくる顔立ちで、エメラルドのような瞳はいっそうきらめきを増しているようだった。だが、天児はその顔を見て、もう一度写真を見るとまた驚く。


 写真には、二人の男女が写っていた。女性の方が彼女で、問題は傍らにいる男性の方だった。


「俺だ……」


 それは紛れも無く天児だった。もちろん、こんな写真を彼女と撮った覚えは無い。


「これは、どういうことなんだ…?」


 天児は焦った口調で訊いた。


「彼は天夢……私のステイ……」


「ステイ……恋人って、こ、これは……?」


 天児は驚きでまともに喋れなかった。


「なな、なんでこんなものが……」


「あなたは天夢と同じフェイスをしている……」


「同じ顔……そんなことで説明がつくか! これは俺だッ! 俺なんだよ!」


「だから、私も天夢と呼んだ……」


「う……」


 天児は言葉を詰まらせる。


「あなたは本当に天夢ではないの…? 私とすごした記憶を忘れてしまったの……?」


「そ、それは……!」


 天児は『違う』と言い切れなかった。何が憶えていて何を忘れていたのかわからない状態で、強く迫られると『絶対』なんて言い切る自信が無かった。


 ひょっとしたら、メモリオンで失った記憶の中に彼女と過ごした記憶が含まれているかもしれない、その時自分は『天夢』と名乗っていたのかもしれない。だがそれでもありえないと思った。『絶対に』とまで付け加えることはできなかった。


「俺は……日下天児だ…」


 それしか言い切れる言葉が思いつかなかった。


「そう……わかった」


 彼女は落胆こそしたものの、想像していたものよりも大きくは無くて意外だった。


「そいつは……天夢はどうしたんだ? 恋人だったんだろ?」


 天児が訊くと、彼女は辛そうにはっきりと言った。


「……ファクターに負けた……」


「ッ!」


「今、天夢は時元牢に囚われているはず……」


「じげん、ろう……」


 天児の脳裏にはファクターの霧で闇へと消えていく京矢の姿がよぎった。


「天夢はそこに囚われているのか…」


 彼女はうなずいた。


「私は、彼をそこから救い出す手段を探している……そんなおりに、君は現れた…」


「そうか…」


 天児は一息つく。時元牢に囚われている、そのことがわかると天夢は自分とは違う人間なのかと各章は無いもののそう思えた。


(だとすると、天夢ってのはいったい…?)


 ここまで似ていて、同じアクタだというところは、ただの他人の空似では片付けられないものがあった。


「俺と会って、天夢と間違えたのは……あまりにも、似ていたからか…」


「……イエス…ブラザーでも、ここまでは似ない……」


「確かに……俺には弟はいるが、年がはなれすぎている……」


「本当にいないの?」


 彼女は執拗に迫る。


「いない、双子だって言えば納得したかもしれないが、そんな家族がいた記憶なんてない」


「消えていることも考えられる」


「ッ!」


 天児はびくつく。それが一番怖いことだったらからだ。もしかしたら、生き別れた兄弟の記憶がいつの間にか消えてしまっている。彼女がそう考えるのも無理は無かったし、それならこの写真の天夢と瓜二つなのも納得がいく。


「そ、そんなことは…?」


「無いと言い切れる? あなたは自分の記憶にアブソリュートの自信がもてる?」


「………」


 天児は黙る。今までも何を忘れて、何を憶えているのか断言できない状態だというのに、こうも強く迫られると弱りはてる。


 その瞬間、天児の動揺に呼応するかのようにビルが揺れ動いた。


「地震ッ! いや、違うこれはッ!」


 この身で受けた衝撃が憶えていた。


「ファクターだッ!」


 彼女は仮面をつけて臨戦態勢をとる。


 だがファクターが階段を上がって近づいてくる音がしない。揺れ動くビルの上ではどうしようもなかった。


「こっちだッ!」


 おそらくファクターは地上からビルに当たっているのだろう。その衝撃がここまで届いているのだから、やがてビルは崩れさる。それは階段から降りるよりも早くなるだろうと天児は判断してビルの窓から飛び降りた。


 地上に着地するのと同時に、ビルの壁を突き崩した大玉のファクターを見据える。


 ファクターも天児を見つけたのか、地面をえぐるような激しい回転でこちらへと向かってくる。


「こいつッ!」


 天児は力強く長剣を突き出す。


 ファクターの身体と長剣の先端が激しくぶつかる。その衝撃で天児とファクターは正反対の方向に飛ぶ。そのほんの一瞬で、ファクターの回転は止まる。ビルの窓から飛び降りたシャッドが銃口を向ける。


 銃声とともに、ファクターは地面へめりこんだ。


「く…!」


 天児は痛みをこらえて立ち上がる。まだファクターは生きている。回転が止まっている今がチャンスだった。左手に長剣、右手に短剣を握り締めて立ち向かう。


「ソードライナーッ!」


 天児は凄まじい勢いで長剣をファクターの目で突き刺した。だが、それでもファクターは消えない。


「デュアルセイバーッ!」


 間髪入れず、短剣を刺した。


「ちぃ!」


 それでもひるまないファクターは突き刺した剣ごと回転して、刃をへし折った。天児はファクターの回転に危機感がいち早く察知して、後ろへと飛んで逃れた。


(これじゃダメだ…ッ!)


 天児は強く思い描く。もっと強い剣を。あのファクターを斬り裂けるだけの剣を。今はそれが必要なんだと念じた。


 ファクターが回転して迫り来る。


「天児ッ!」


 シャッドは天児に呼びかけながら、銃を撃ちこんでいく。だが、回転は止まることは無く弾丸ははじかれる。


「――ッ!」


 弾かれた弾丸が光となって舞うのを目の当たりにして、シャッドは銃を捨てて、マントに隠れた腰から日本刀を抜く。


「刻鋭ッ!」


 シャッドは月光のように煌めく刀の刃をファクターに当てる。そこにさきほどの天児の長剣との激突したときのような音は立たなかった。ただ鮮やかに刃がファクターの身体を斬り裂いたのだ。


 その刃の煌めきは天児の目にも入った。そこで記憶の底から、輝くモノがわきあがった。


「ビョウジンッ!」


 天児の一声とともに、眼前に巨大な黄金の大剣が現れる。天児の身体よりも遥かに大きいその大剣の柄を両手でつかみ、その刃先をファクターに向けた。ファクターは身体を斬られたとはいえ、力強い回転はまだ止まっていない。


「ミッドナイトブレイクッ!」


 天児は持てる力の全てを振り絞って黄金の大剣を振るった。暴風といえるほどの風が吹き荒れると同時に、大剣がそのまま飛んできたような強烈な斬撃がファクターを襲い、ファクターは全身ごと目を潰され、消滅した。


 天児はそれを確認すると、目の前には、何人かの人間の姿が浮かんできた。


 それはまったく知らない人間ばかりだった。老若男女問わないさまざまな人間が次々と現れては消えていた。


「京矢ッ!」


 その中の一人に京矢がいることを一瞬だが天児は見逃さなかった。だが、京矢は答えることは無く目を閉じているだけであった。


 何十人という人間がそうやって出てきては消え、最早これが何人目かわからなくなった頃、彼が目の前に現れた。


「俺…?」


 目は閉じているものの、それは鏡に写っている自分そのものだった。彼だけはすぐに消えることなく、ただ天児の前に浮かんでいる。


(なんで、俺が……何が起きているんだ……?)


 天児は必死に考えた。どうしてこんなことが起きているのか。そしてさっき京矢が浮かんで消えたことを思い出した。京矢は今ファクターに敗れて時元牢というところに囚われているはずだ。そして、さっきのシャッドの話を思い出した。


――今、天夢は時元牢に囚われているはず……


 その言葉を思い出すと、天児は彼が誰なのか判断できた。


「てん、む……天夢なのかッ!」


 天児は呼びかけた。すると、彼はゆっくりと目蓋を開けて天児をじっくりと見つめる。


「………」


 天児はその様子に見守ってしまった。何が起きているのか頭の中で混乱しているからだ。


 彼は特にこれといった感情のこもっていない顔をしてずしりと耳に残る声が天児に響いた。


――君は誰だ?


「えッ!?」


 天児は呆然と立ち尽くした。直後に彼は闇に姿が溶け込んでいってしまい、見えなくなってしまう。


「俺は……」


 天児の全身が震え、息遣いが荒くなる。原因は言うまでも無く彼のたった一言の言葉だった。天児にはそれがまるで死刑宣告のようなものにも感じてしまい、理由はわからないが心が打ち震えているのだ。


(俺が、誰だって…? 俺は……天児だ、天児だろ……?)


 そう自分に言い聞かせても、震えが止まらない。まるで自分が今まで精魂込めて築き上げた砂の城を波によって一瞬で崩されたような気分だ。


「天児……」


 シャッドは彼の名を呼び、駆け寄ってくる。


「なんで……なんで、こんなッ!」


 天児ははき捨てるように言うと、道や建物、人間が歪み、ミッドナイトスペースが閉じていった。




――彼はまた門を開き新しい風を巻き起こした


――それは凶兆となるか、吉兆となるか


――時の歪みと刻み針が刺し示してくれるだろう




 ミッドナイトスペースが閉じ、辺りが見慣れた帰宅路に天児は立っていた。しかし、そんなことはどうでもよかった。


「何なんだよ、天夢って?」


 その疑問が頭からこびりついて離れなかった。


「……なんで、落ち着かないんだ…! くそッ!」


 それだけ言うと天児は自転車から落ちた夕食の材料を見つける。


「たったあれだけで……なんで俺が取り乱さなくちゃならないんだ……?」


 天児はレジ袋に全部入れて自転車のカゴに入れると走り出した。

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