Ⅵ―銀色の忘却―(後編)
部屋に帰るまで天児は美守を抱き上げて歩いた。美守が歩けないのだから、仕方が無いがどうしても人目についてしまうので、天児は耐え切れず美守に言った。
「恥ずかしいな…」
「ええ…」
美守はあまり恥ずかしくない様子でただそれだけ答えた。というよりも、そんなことを感じている余裕なんてないという印象だった。
「まあ、いいけどさ」
あるいは、美守がもう少し抱き上げるのに苦労するほど重ければ、周りの目を気にする余裕なんてないのかもと天児は考えた。
アパートの階段を上がり、部屋の扉を開けて、「ただいま」と言うと、すぐさま将と空がやってきた。
「おねえちゃんだッ!」
「ただいま…」
美守は小さな声で、でも空達にはっきり聞こえるように言った。
「おかえりなさいッ!」
空は元気いっぱいに出迎える。
「お前ら、俺のときとずいぶん違うな」
天児は笑顔で言うと、部屋に入って美守を布団に入れた。
「ありがとう…」
美守は礼を言う。そこで天児は昨日から訊きたかったことがあったのを思い出す。
「電話、どうするんだ?」
「え…?」
「やっぱりこのままじゃいけないんじゃないか、家族なんだろ?」
美守は視線を天児からそらした。
「わからない…」
「わからないって…」
「おやとこども、きょうだいというものがかぞくだというなら、たぶんそのひとはかぞくかもしれない…」
美守はその後、「だけど」と切なそうに言って続けた。
「でもそれいじょうにわたしはみとめたくないの、かぞくってもっとこうあたたかくてすてきなものだとおもうから……そのひとがかぞくだというのがいやなの……わたしにはかぞくとよびたいようなひとはいないの…」
うつむいて顔がわからない状態だが、布団を握りしめるその手からはやるせない想いが伝わってきた。
「……わかった」
天児は深呼吸する。
「もう言わないから……ずっとここにいればいい」
「………」
美守は黙り込む。おそらくそれは「うん」という意味なんだろう。
**********
それからソラがいた頃と変わらないほどの騒がしさで夕食を食べた。将と空は美守がいることがそんなに嬉しいのかと思った。美守に迷惑じゃないかと訊いたら、「うれしいからいい…」とだけ答えた。
さらに、空から本を読むようにせがまれると、美守はゆっくりと心地よく安らかに読み上げた。読み終わる頃には、空はすっかり眠ってしまい、美守は布団をかけてやった。
「なあ、兄ちゃん?」
そんな様子を見てこっそり将が天児に話を持ちかけてきた。
「どうした?」
「美守お姉ちゃんって、なんで立てないんだ?」
「ああ、それか……」
おそらく将は今朝と今日の様子を見て察したんだろう。
「事情があるんだよ」
「事情って……じゃあ美守お姉ちゃんってここに住むつもりなのか?」
「ああ、そのつもりだ。他に行ける所もないしな。嫌か?」
将は首を横に振った。
「あんな可愛いお姉ちゃんと一緒に住めるなら、この貧乏くさい部屋も悪くないぜ」
「お前、そんな風に思ってたのか…」
天児はため息混じりに言った。まあ仕方ないなという気持ちも若干あったが。
「それでさ、兄ちゃんはなんか辛い事あったのか?」
「はあ?」
唐突に的をえた問いかけに天児は面食らった。
「なんでまた? 俺はいつもどおりだぜ」
「兄ちゃん、最近おかしいぜ、俺達を起こさなかったり、弁当作り忘れたり、朝飯作らなかったり!」
「あ、ああ、そりゃうっかりしてただけだ…」
天児は本気じみた迫り方をみせる将に戸惑いながら適当に答える。
「それにさ、兄ちゃん……さっき倒れちまったしさ…」
「それは、だな…」
これはさすがに返答に困った。倒れたのは事実だし、将には何かの病気とか、過労じゃないかとか思われてるだろう。何しろその時、自分は息をしていなかったらしいので下手にごまかすと逆効果になりそうだ。
「兄ちゃんが倒れられると困るんだぜ」
「え…?」
それもまたいきなりだった。しかし、それゆえに天児は考えさせられた。
(心配かけてたのか、俺…)
反省した。というか兄弟に気づかれているのは少し辛いものがあった。できれば何も知らないでいて、楽しそうに毎日を過ごせればいいと思っていただけに、自分がそれを阻害する要因になってしまったことにため息が漏れた。
「悪かった…」
とりあえずその事に謝った。
「ただちょっとな、疲れてただけなんだ」
天児はその『疲れてた』という言葉に、いくつもの意味を含めていた。新聞配達に、バイトに、ミッドナイトスペースに、アクタとしての戦いに、メモリオンの記憶の喪失に、本人でもわからないほどの数だった。
それだけに、将にも嘘をついてるようには聞こえなかっただろう。
「わかった…だったら早く寝ろよ」
「お、おお」
それができれば多分疲れの原因のほとんどが解消できるだろうというほどの将の意見だった。
「しっかりしてくれよ兄ちゃん。また倒れちまったら誰がメシ作るんだよ?」
「そっちの心配か…」
家族が囲う食卓にささやかな笑い声が流れた。
**********
やがて将も寝付いた頃、二人だけになるとあとは待つだけの雰囲気になり、緊張感だけが支配する空間になる。
「十一時か…」
天児は時計を見て呟いた。
「きのうは、はんごろだったわね…」
「それは憶えてるのか…?」
「かろうじてね…」
美守は力なく答えた。
「……そんなかお、しないで…」
天児の哀れみを持った表情に、美守は嫌悪を示した。
「わたしはいまがいいから……こうしていれば、とてもやすらげる…」
「そういうことな…」
天児はつらさをかみ殺した口調で言う。
「できれば、もう忘れてほしくない」
「それはむり…」
美守はうつむいた。その返答はわかりきっていた。ただわかっていてもそう答えてほしくなかった、ただそれだけのことだった。
「わかったよ……もう戦うなっていうほうが無理みたいだしな」
「………」
「あのさ、もし、もしも……記憶を消したいって記憶がメモリオンで消えたら、もう戦わなくてよくなるんじゃないかって、思ったんだけど……」
「それはむりね…」
美守は断言する。
「さっきわかったんだけど、いちばんだいじなことはいちばんさいごにきえる…」
「そ、そんなこと…」
無いと続けて言いたかったが、メモリオンについては美守の方がよく知っているはずなので彼女がそう自信を持って言われると否定しにくいものだったのだ。
「う…!」
その時だった。天児の頭に痛みが走り、一瞬目の前が真っ白になった。
「これは…!」
天児は驚愕した。そして、二度あることは本当に三度あると思い知った。
「ミッドナイトスペースか…!」
まだ一時間ほど早いというのに、その空間が開かれる事を示す黒が視界を染める。
やがて、天児はアパートの部屋ではない場所に変わり、そこに立った。
「今日は一時間早いな……どうなってるんだ、これは?」
『ミッドナイトスペースは必ずしも十一時五十九分に開かれるわけじゃないってことね』
「教子さん…!」
突然、わいて出たような声に天児はすぐに反応を示す。もうこの突然には慣れたものだ。
「見つけるのは早いですね」
『今回はたまたま近くにいたからね…それと、美守の調子はどうかしら?』
「もんだいないわ…」
美守はそう言ってゆっくり立ち上がる。
「美守、立てたのか…!?」
「メモリオンをつかえばね…」
美守の返答に天児は一瞬唖然とする。だがすぐに我に返る。
「ちょっと待て! それじゃあ立ってるだけで記憶が、」
「ええ、消えるわ…」
美守は悟りきった口調で答える。
「たたかうよりしょうもうはすくないから、だいじょうぶよ…」
「そういうことじゃなくて」
「やくそく、したよね…?」
美守は訴えかける声で言った。たとえ記憶が無くなったとしてもまた新しい記憶を作るという約束。それは美守がメモリオンを使うのはもう止めないという意味も含まれていた。
「ああ、そうだったな」
天児はそれを思い出して、今の美守を受け入れる。
「教子さん、ファクターの位置わかりますか?」
そして、天児にできることはできるだけ早くファクターを倒して美守の記憶の消失を防ぐ事だと悟った。
『ざっと見渡したところ、この近くにはいないわね』
教子の言うこの近くというのは数十キロ以上らしいというのはわかっているため、とりあえず走ってすぐいけるところにはいないということはわかった。
「美守、わかったか。ファクターはいないんだ、今日は戦わなくていいんだ…」
そうはいっても、心の中では胸騒ぎがした。ミッドナイトスペースが一時間早く開いた事と、今日聞いたエージュの声が頭の中で引っ掛かっているのだ。このまま今日はファクターが自分達の前に現れるはずだ。そんな予感が頭にこびりついて離れないのだ。だが、それはあくまで予感であって、はっきりとした根拠も確信もあるわけではないので、美守にその予感を伝えるわけにはいかなかった。「今日は他のアクタに任せて、」
そこで言葉が途切れた。視界を遮る黒く暗い霧のようなものが現れたからだ。一瞬にして全て覆い、もはや自分の身体すら見えなくなってしまった。目を閉じているような感覚だ。
「なんだ、これは…!?」
「きり…?」
声だけが聞こえ、互いの存在を確認できた。
『いや、こりゃ参ったね。何にも見えないわね』
「教子さんが見えないんじゃ、ただの霧じゃないかも…」
『う~ん、こんなことができるのは、メモリオンかファクターぐらいね。でもこれだけの広範囲だとメモリオンの消費も半端じゃないわね』
「だったらファクターじゃないですか? 霧を作るファクターっているかどうかわかりませんが」
「ファクターにはわからない事が多いから、そっちの方が可能性が高いでしょうね」
「だったら、この近くに!」
天児は、剣を握り締める。
(メモリオンの光でも、ダメか…)
剣を思い描き、出したときにいつも溢れる光を放っているのに、今はそれが無い。よほど霧が濃いのだろう。
「とりあえず、ここから出ないと……美守、いけるか?」
「うん」
美守の力強い返事を聞くと、不安を抱いてしまう。その返事もメモリオンによるものじゃないかと思うと、落ち着いてられないのだ。
「たしか、こっちが出口だったな…」
天児は霧が包む前の部屋の構造を思い出しながら出口へと向かって歩き出す。壁に当たることなく進めた事でそこが出口だと認識できた。
「美守、こっちだ」
しかし、美守から返事が来ない。
「美守ッ! 美守ッ!」
不安にかられ、美守の名前も叫ぶも、それでも返事が無い。
「――ッ!」
いてもたってもいられず、美守のいたであろう方向へと歩き出す。しかし、歩いても歩いても美守に出くわす事は無かった。
「みかみぃぃッ!」
天児は精一杯の声を振り絞って叫んだ。すると、霧が晴れたのだ。
「え…!?」
景色がはっきり見えるようになると天児は唖然とする。天児が立っていたのは大道路の真ん中だったからだ。
「いやあ、これは驚いたね」
背後からした声に天児は振り向くと、教子がこちらに向かって歩み寄る姿があった。
「霧が晴れたら、あらびっくりって感じだわ」
「ふざけてる場合ですか…」
ため息混じりに呆れながら天児は言った。
「私はふざけていないわ、事実を言っただけよ」
「わかりました……それで、美守がどこにいるかわかりますか?」
「わからない……わからないということは、まだあの霧の中にいるということになるわね」
「霧の中…」
天児は棒立ちする。美守がまだ霧の中にいるということは、まだメモリオンを使い続けているという事だからだ。
「それはまずい…ッ!」
「待ちなさい」
天児は走り出そうとしたところを、教子が止める。
「どうして、待たなきゃ…」
「いえ、一人じゃ無謀かと思ってね」
教子はそう言って、後ろのビルの物陰を見る。
「そこにいるのはわかってるわよ、出てきなさい」
物陰から、御影京矢が姿を現す。
「京矢さん…」
「僕のこと、憶えていてくれたんだ」
京矢は穏やかな声で言ったが、天児の顔は険しくなる。
「そう警戒しないでくれ。今さら事を構えるつもりは無い」
京矢は落ち着いて、まっさらな手を見せて主張する。
「信用できないな、いつ鎖を出してくるかわからないから」
「そうか……じゃあ、美守を助けたい、そういえば信用してくれるかい?」
「………」
天児は黙ってにらみつける。
「わかった……当然の反応だ。だけど、相手はファクターだ。アクタ同士で騙し合いなんてしてたら『時元牢』に引き込まれるよ」
「じげん、ろう…?」
それは初めて聞く単語だった。
「ファクターにやられた人間が落ちる場所…」
そう言って、金髪の仮面の女性―シャッドが現れた。
「おや、珍しいわね」
教子は楽しげに言った。
「この場に四人のアクタが……」
天児にとっては珍しいというよりも、初めてだった。一箇所にアクタが四人も集まるなんて事は。それもよく知っていて信用もできる人間ばかりではないことが、教子には珍しいのだろうか。
「霧のファクターは初めての事だから、どう対処していいかわからない。そんなところかしら?」
教子がそう言うと、京矢は微笑む。
「そんなところだね。それとも、あの霧は僕達をここに移動させる。そんな性質があるのかもしれない」
「その根拠は?」
教子が訊くと、シャッドが答えた。
「一度、あの霧に入った。そして、霧が晴れたらここにいた」
「同じだ……俺もそうだった…」
天児の発言を聞いて教子は得意げに言う。
「これは間違いなくファクターの能力ね。霧ってのが厄介ね、あんな広い範囲が何も見えないんじゃちょっと、ね…」
「どんな霧が濃くても、目さえ潰せばいいんでしょ」
天児はいきり立つ。
「その霧の中に目があるとみて間違いないわ、問題はどうやってそこまで踏み込むか…」
「剣をだしたぐらいのメモリオンの光じゃ無理でしたよ」
「それじゃあもっと強い光が必要ね、できるかしら?」
「やれます」
天児は即答した。
「……君は怖くないのか?」
京矢がその様子を見て、訊いてきた。
「それだけの光を出すとなれば、かなりの記憶を消耗するはずだよ」
天児は一瞬ビクリとする。わかっていることだったが、できれば目をそらしていたかった事実で、それを面と向かって言われて嫌がおうにも向きあわなければならなかった。
「………………」
一瞬の沈黙の末に、天児は結論を出した。
「怖い……だけどそれよりも美守がいなくなることの方が怖い…」
「わかってるじゃないか……君もアクタの本質を理解しはじめたということか」
(アクタの本質…?)
天児は、その言葉の意味がよくわからなかった。
「ここは僕がやるよ、目的は同じでも心情が違うからね」
京矢はそう言って、天児の前に出る。
「シルバーチェーンッ!」
京矢の一声とともに、銀色に輝く鎖が手から飛び出る。
「僕の往く路を照らせッ!」
チェーンはその叫びに呼応して、大道路の先にある霧に向かって走り出す。鎖が霧にぶつかると、すさまじい光を放ち、まるでそこだけが昼間になったような錯覚に陥った。
「さ、行くよ。この状態、長くは続かないからね」
京矢の一言が合図となり、天児、シャッド、京矢の順に光で晴れた黒い霧の先を走り出す。
「すごいまるで、昼間みたいだ…」
さっきまで何も見えず、目を閉じているのと変わらないほどの暗闇だったのに、鎖の光のおかげで普通に走れる事に天児は驚いた。「しかし、目はどうやって見つける?」
シャッドは京矢に訊く。霧の範囲は教子が『広い範囲』というからには単純に走り回ってすぐ見つかるものではないということをわかっているのだ。
「大丈夫さ、これが見つけてくれる」
そう答えて京矢は握り締めた鎖を指す。
「サーチング……そんなものまで備わっているのか」
「今のこれは、獲物に向かって一直線さ」
京矢が答えると、前方から鎖の放つ光よりも強い銀色の光が目に飛び込む。
「あの光は…!」
天児にはその光に見覚えがあった。
「美守の『翼』だね……見間違いようがないよ」
京矢は確信めいた言葉を発して、鎖を握り締める。
「とらえた、あそこに目がある」
京矢がそう言うと、自然と天児は剣を、シャッドは銃を手にしていた。
そして、たどり着く。光に包まれた空間であるというのにさらに人の身体ほどある輝く白い眼球に黒く細く長く伸びた瞳のもとへ。
「シャウイングッ!」
その場にいた美守が叫び、翼から光が解き放たれる。
その光は一直線に白い眼球に向かうが、黒い壁に阻まれる。
「美守ッ!」
天児は呼びかけると、美守はこちらを見て、空中から降りる。
「間に合ったか」
京矢は彼女と顔を合わせて、安堵の息をつく。
「あれがファクターの目なのか?」
天児が訊くと、美守は頷いた。
「…くろいきりがじゃまをする…」
「霧が邪魔を…?」
天児は昨日の身体を引き伸ばすファクターを思い出す。あんなファクターがいるのならば、霧のファクターもいるのかもしれないという考えに至る。
「この霧自体がファクターの身体なのかもしれない……」
「なるほどね」
京矢はその突拍子もない結論に納得する。
「これがファクターの身体なら、あの暗さも納得がいくよ。つまり、ここはファクターの体内って見方もできるわけか」
その言葉で一同のよりいっそう高い緊張感が走る。
「早く倒してここから出たい」
天児は心底そう思い、剣を目に向ける。
「イエス…!」
それに同調するようにシャッドは目に発砲する。弾は目に当たったものの、それだけで大した衝撃は無かった。
「半端な攻撃じゃ、効果無しか…」
京矢は、鎖を大きく振り上げる。その長さはビルの屋上にまで届くほどにもなった。
「メテオチェーンッ!」
京矢の一声で振り下ろされた鎖は、隕石のようなすさまじい落下をみせ、目に落ちる。
すさまじい衝撃が周囲に広がり、天児達は飛ばされないで身体を踏ん張らせるだけで精一杯になるほどで目が無ければ、おそらくクレーターができていたであろうほどだった。
だが、そんな衝撃を受けても目は無傷だった。
「メビウスロックッ!」
京矢はそんな目の状態に特に驚くわけでもなく、さらに鎖を走らせ、幾重にも目の周囲に張り巡らせる。その速度はすさまじく、瞬く間に目の全てを覆う。それらは全て絡み合い、目を圧殺したように見えた。
「くう…ッ!」
鎖を持つ京矢の表情が曇る。そこから、絡み合い目を覆っていた鎖にヒビが入り、砕けていく。
「なんだ、これは…!?」
鎖が粉々になった後に、現れた目から黒い霧が噴き出す。
その黒い霧は、天児達を包み込むべく襲い掛かる。鎖が砕かれ、呆気にとられた一瞬で暗闇を照らしていた光は消えて、黒い霧で辺りが見えなくなる。
「何なんだ、この霧は!?」
天児の目には何も映らず、手を伸ばしても何の感触が無い。さっきの霧に引き込まれた感覚と同じだ。
「美守ッ! 京矢ッ! シャッドッ!」
力の限り叫んだ。さっきまでは手が伸ばす程度の距離でしかなかったはずなのに、今は限りなく遠く感じる。ひょっとしたら、そこにいないのかとも思えた。目に見えないせいなのか、返事が返ってこないせいなのか、他の人間が認識できないせいなのか、この場所に一人立っているようなそんな感覚に陥った。
「てん、じくん…」
美守が声をかけてくれた。同時に、光が天児を照らしてくれた。美守のメモリオンの光だ。小さな光ではこの暗闇を照らすことなどできない、なのにこの光は周囲を照らす。
「……やめろ、その光はダメだ」
天児は美守を止める。この暗闇を照らす光はあまりにも強すぎて、記憶がこの光と一緒に消えてしまうから。
「うわああああああッ!!」
その時だった、近くで京矢の悲鳴が響き渡った。
「何だ、何があった!」
天児は、夢中で光を照らす。美守のそれよりも遥かに強く、まぶしいメモリオンの光を。
そこで辺りは、電灯の灯りがついた部屋のように光が満ちた。
「京矢ッ!」
天児達の目に映ったのは、その光をもってしても晴れない黒い霧が京矢を包み、掴んでしまったことだ。
「くそッ! こんなものッ! こんなものがぁッ!」
京矢は霧の中でもがく。だが、霧から出ることは叶わず、霧の中に包まれた京矢の姿は徐々にその色を失っていく。
天児は動けなかった。霧を晴らす光を出したせいか、身体に力が入らない。そうしているうちに、美守が京矢の元へ走り出す。
「美守……美守か…!」
京矢は美守が自分のところに来ていると喜びの声を上げて手を伸ばす。その手は霧から出て、メモリオンの光を放つ。
そこから銃声が響く。天児はシャッドの方へ体を向ける。この中で銃を持っているのはシャッドだけだからだ。シャッドの銃口は、ファクターの目に向けられていた。その目に銃を撃ち続けた。その様相はあまりにも強い焦りがあり、仮面越しでも冷静ではないことが天児の目にもわかった。
「どうしたんだ、シャッドッ!」
目に見える動揺を見せるシャッドの方に目が行き、彼女を止めようとした。
「よせ、力を無駄に使うな!」
弾丸は目にあたるものの、まったく効果が無いため、闇雲に撃っても駄目だということを気づかせようとした。
「やつをたおすッ! そうしなければ時元牢がッ!」
「じげんろう…?」
天児にはそれが何のことだがわからなかった。ただそのシャッドの焦りからとてつもなく恐ろしいものだと認識させられた。
「でも、そんなものより今は京矢が危ないんだッ!」
「やつを倒せば、解決されるッ!」
シャッドの迫力に圧された。そしてシャッドは、目に向かって走り出す。もっと近づかなければ決定的なダメージを与えられないと判断してのことだろう。天児はその様子を見ると、言いようの無い危うさを感じた。だが今はそれよりも危ない状態にある京矢の方に身体が動いた。
そこで二人の方を見ると、霧から抜け出せた京矢の手と美守の手がしっかりと握られていた。まるで崖に落ちそうな京矢を美守が助け出そうとしている構図だった。霧の中にまだいる京矢の身体の片手が、足が、腹が、徐々に霧の暗闇に消えていき、飲み込まれていくようだった。
「嫌だよ…」
京矢は震える声を絞り出して言った。
「こんなのは嫌だ…! 僕はこんなことで終わりたくない…!」
京矢は鎖を出して、その鎖が光を放つ。その光は京矢の周囲にある霧を晴らすには十分なほどの力強さだった。
しかし、それが合図となったのか黒い霧が、天児のメモリオンの灯かりの外から、京矢の光に吸い寄せられてやってきた。
「うわああッ!?」
嵐のように流れ込んできた黒い霧は京矢の力強い光さえも飲みこんだ。
「だめ、いかないでッ!」
美守は必死に手を伸ばすが、それでも黒い霧のせいで京矢の姿が見えなくなってしまい、届かなかった。
「まだだ、まだこんなものでッ!」
京矢の懸命な叫びだけが天児達の耳に届く。
「こんなことでッ! こんなことでッ! ええい、こんなことでッ!」
一際の大きな絶叫がこだますると、鎖が霧から伸びてきて美守の腕に巻きついた。
「あ…ッ!」
美守は驚いたものの、翼を出し鎖に引っ張られる身体を踏みとどまらせた。
「どうして、こんな…?」
腕を引っ張られたことにより、苦痛の表情を浮かべて訊いた。
「どうしてって死にたくないからだよッ! 美守を残して僕が消えるの嫌だッ! どうせ、消えるぐらいなら君と一緒にッ!」
京矢の必死な叫びとともに鎖震えた。それには京矢の記憶の全てが注がれているようだ。
「く…!」
美守は鎖の力に耐えかねて、力を抜いてしまった。そのせいで、鎖に引きづられて、霧に引き込まれかける。
「そんな心中駄目だッ!」
天児は、そう叫んで美守を抱える。
「二人とも助からないと駄目なんだッ!」
「てんじくん…?」
「それはありがたいよ……じゃあ、僕を助けてくれよッ!」
京矢は霧の向こう側から叫ぶ。
「ああ、やってやるさッ!」
天児はそれに答える。同時に、長剣と短剣を手にして光を放つ。
(あの力さえ使えば……!)
天児は一心に念じた。そこで目の前に時計の針が現れ、長針と短針がそれぞれ回りだした。それらはすぐに消えたが、消えたと同時に、天児は認識する。短剣を黒い霧に突き出せば霧が晴れることを。
「おおぉぉぉぉぉぉッ!」
本当に短剣を黒い霧に、突き出す。すると、霧は一瞬にして消える。
――オーバーロウ、私の定めた法則を書き換える事象だ
耳の片隅にエージュの声が聞こえたが、そんなものを相手している余裕は無かった。霧が晴れると京矢の姿をみつけられた。
「美守ッ!」
助かった喜びとともに京矢は美守に呼びかけた。
「くるしい……」
「ああ、そうかすまなかった…」
京矢はすぐさま鎖を消した。
「ぼく、たすかったんだ……これでまた君といきていけるよ、美守……」
「………」
京矢の呼びかけに美守の言葉に答えることは無かった。
「どうしたんだ、美守……ごめん、あやまるのが遅いから怒ってるのか? だったら何度でもあやまるよ、ごめんなさいッ!」
「……それはいい……でも……」
美守の目が京矢を見ていない上に、せわしなく動いて焦点が定まっていなかった。
「美守、まさか……?」
京矢は震えた。天児にも美守の身に何がおきたか予想ができた。
「目なのか! 美守、僕が見えるかッ!? 身体はどこか悪くないかッ!?」
「あなたはみえる……」
美守はつらそうに答える。
「あなたなんて、他人みたいな言い方やめてくれよ……僕だよ、京矢だよッ! それも忘れてしまったのかッ!?」
忘れていない、そう美守に言ってほしかった。そのたった一言を美守から聞きたいがために京矢は必死に呼びかけた。
「………」
だが、美守は黙り込む。それは美守なりの今できる『イエス』という表現なのかもしれない。少なくとも京矢はそう受け取ってしまった。
「なんだ、僕のこと忘れてしまったのか……」
京矢は絶望のあまり、身体中の力が抜ける。
「京矢……」
「わかっていたよ、美守がこうなることは……! 僕のことを忘れてしまうのは時間の問題だって……! だからそうならないようにしてきた……! でもさけられないことはわかっていた……! だったらそれがなくなる前にいっそのこと、僕が消えればよかったんじゃないかって……! でも無駄だったよッ! 全部無駄だったよッ! あの子のいうとおり、僕が駄目だったんだよッ!」
「ごめんなさい……」
美守は申し訳なさでいっぱいの声で京矢に言った。だが、京矢がほしかったのはその一言ではなかった。
「謝らなくていいさ、全部僕がいけなかったんだ……!」
その瞬間だった。黒い霧がまた光の外からやってきて、京矢に襲う。
「僕の気持ちがわかってるみたいだね、ファクターは……」
京矢は黒い霧に包み込まれながら、諦めたように笑う。
「京矢ッ!」
それでも京矢を助け出そうと、天児はさっきと同じように短剣を出す。
「もう、いいよ天児君……僕はね、消えたいんだよ……」
その言葉を最後に、京矢は黒い霧へと姿を消した。あまりにも一瞬だったため、天児は間に合わなかった。
「あぁ……そんな……」
黒い霧は京矢の姿が見えなくなると、とたんに光の中に消えた。天児は京矢が立っていた場所に立ち、絶望にうちひしがれた。
「なんで…なんでこんなことが……!」
何もできなかった。意見の食い違いで対立したが、それでも共に戦った仲間だと今になって思えた。そうでなかったらこの悲しみは説明できない。
(美守に忘れられたのが……)
絶望した原因はそれしかなかった。覚悟していたこととはいえ、辛いことには違いなかった。そこで、天児は美守と交わした約束を思い出す。
――出会いを何度でもやり直そう
その約束は京矢と美守との間には無かったはず。だから、京矢は美守の記憶の消失を防ぐだけで、消失してしまったときのことを考えて予防線をはっていなかった。そんなことにはさせないとばかり考えていたから、そうなってしまったときのダメージは計り知れなかったのだ。そこをファクターにつけこまれた。
(いつか俺もこうなるのかな……?)
天児は京矢の姿を思い浮かべてそんなことを考えてしまった。美守に忘れられたら、自分も絶望する。いくらそうなることを考えて想定して心の準備をしていても、いざそうなると平常でいられる自信は、京矢の姿を見て無くなってしまったからだ。
「てんじくん…」
「俺のことは、まだ憶えてくれるんだ…」
美守が名前を呼んだだけで、天児はいくらか気持ちが楽になった。
「でも、わたし、あのひとに……」
「いいんだ、美守が悪いんじゃない……」
「………」
美守は顔をそらした。
「わたしはこうしてたっているだけで、わすれてしまう……てんじくんのこともたぶんすぐに……」
「ああ、わかってる。だから戦いを早く終わらせて……」
「ううん、いますぐおわらせる」
美守は強くそう言って、ファクターの目に早く寄った。
「おわらせるって……?」
天児はその言葉の意味がすぐに理解できなかった。あれだけ頑丈な目を今すぐ潰すことができるのか疑問に思ってしまったからだ。
美守の全身から白銀の光を発した。それは小さいながらも溢れんばかりの密度で、美守の全身に渦巻いた。
「まさか…ッ!」
天児はここでようやく気づいた。美守がやろうとしていることに。
「駄目だ、それは駄目だッ!」
天児は追って止めようとした。だが追えなかった。何かが自分と美守の間に壁のように割って入ってるようだった。天児にはそれが何であるかすぐにわかった。
「美守……!」
美守のメモリオンだった。彼女が天児に阻止されないように張ったものだった
「どうしてだ、美守…! そんなに力を使ったら全部無くなるんだぞッ!」
天児は必死に美守のやろうとしていることを止めた。
「これでいいのよ……」
美守はそう答え、さらに強い光を放つ。
「きおくをけすたびに、だれかがかなしむなら、さいしょからきえるようなきおくなんてもっていなくていい……」
「記憶が無い方がいいなんてあるもんかよッ!」
天児は長剣で見えない壁を斬り裂く。だが、遅かった。美守の身体から記憶の全てがメモリオンの光へと変わる方が早かった。
「くそッ! くそッ! くそ……ッ!」
天児は間に合わないと悟ってしまった。いまさら止めても美守の記憶が戻ることはないとわかってしまったからだ。
「シルヴァーオヴリヴィオンッ!」
美守の翼は大きく羽ばたく。光の外にまで及び霧全てを払うべく羽が巨大化していく。巨大化した翼の光は霧を払い、ビルや道すらも消し去るほどの強力な力を発現させる。
そして、その巨大化した翼は目に向かって降り下ろされる。
翼が目と激突したとき、辺りは光に満ちた。黒い霧よりも強い白い光によって包まれた。
光は美守の記憶を天児に見せていった。教子と話しているとき、天児と戦っているとき、シャッドとあったとき、そして、京矢の最後のときと、様々な記憶を映画のようにみせた。
――ありがとう、さようなら
その光景から、美守の声が聞こえてきた。か細く、気のせいかと思うほど弱い声だったが確かに聞こえた。おそらく最後の力を振り絞ったのだろうと天児には感じられた。
「美守ッ! みかみぃぃぃぃッ!」
天児はその光の中で、叫び続けた。声が枯れようとも、喉が潰れようとも。美守が返事してくれることを願いながら。
やがて、光は消えて辺りにはミッドナイトスペースの黒くて暗い町並みと道路に戻っていた。だが、天児にはどうでもよかった。美守の姿を探した。そして見つかるのに、それほど時間はかからなかった。
「美守ッ!」
天児はすぐに駆け寄った。彼女が倒れていたからだ。彼女のもとへいくと天児は絶句した。
彼女は息こそしているが、身体中の力が抜けて、動くそぶりがまったく無い。『立って歩くのを忘れた』と言った時に足の力が入っていない様子が全身に及んでいるようだった。何よりも顔を見ると目は見開いたまま虚ろで顔は何の力も入っていない心のこもっていない無表情だ。どういった顔をすればいいか、どういった表情ができるか、それすらも忘れてしまっているようだった。
「美守、俺だッ! 天児だッ!日下天児だッ! わかるかッ!?」
美守は返事をしない。それどころか聞こえているのかもわからない有様だった。
「そんな…! こんな…! こんなことってッ! くそ…ッ!」
天児は、ぶつけようのないやるせなさをかみ締める。十分すぎるほどに。やがて天児は倒れている美守を抱き上げる。
「なあ、美守……君は記憶が無い方がいいって言ったよな? 確かにそのとおりだよ、こんなの辛い想いするのは、記憶があるせいなんだ……これが辛いと感じる感情も、全部記憶があってのものなんだからな……今それがわかったよ……俺達はこんな大事なモノ、捨てながら戦ってるんだよな……こんなの、誰が望むんだよ……誰が喜ぶんだよ……」
そしてミッドナイトスペースが閉じ、彼女の胸元からこぼれ落ちた懐中時計は時間を刻み込み、『今日』から『明日』へと動き出したことを示した。
「『昨日』のない『明日』なんて……意味ないだろ、美守……」
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