Ⅵ―銀色の忘却―(前編)

――次々と記憶をなくしていき、人が人であるモノまで無くしたとき


――それはもはや人と呼べるものではなくなるのかもしれない


――だが、生物としてあるべき記憶までもなくしてしまったとき、それは死と同義にはならないか




 月明かりだけ照らす高層ビルの屋上で御影京矢はただ一人その月を見上げていた。


「まったく余計な邪魔が……」


 京矢は血を吐きながら、腹の止血しながらもらした。


「万事思い通りになるとは考えてなかったんだ、これぐらいならまだいいさ」


 京矢は人の気配を感じてそちらの方を見る。


「あんたはどうなんだ?」


 彼女は京矢の方に歩み寄った。


「ここに入れたんだ、君も普通じゃないな」


 このビルには屋上に続く階段がないため、屋根といった方が正しい。ただそれでも平たい屋根なので屋上みたいなものだ。ここまで踏み込めるというのは普通の人間ではない事が証明されている。


「今は誰かに喋りたい気分なんだよ」


「………」


 彼女は何も喋らなかった。口を開こうともせず、ただ京矢を見ているだけであった。


「僕には彼女が全てなんだ……彼女と生きられる道を探していた、でもダメだったんだ。彼女はそんなこと望んじゃいなかった……だったらせめて彼女の望みを叶えようと思って僕のできることを考えた……それでもダメだったんだ……」


「………」


「君のせいじゃないさ、ただ彼女がそうありたいと望んでしまっただけの事さ」


 京矢がそう言うと、彼女は微笑んだ。そして、彼女は京矢の耳元でささやいた。




**********




 アパートの部屋で、天児は美守の携帯電話の着信ボタンを押そうとしていた。相手は美守の親らしき名前の『天月命』という人であった。


「かけてどうするつもりなの…?」


 布団の上に座っている美守が訊いてきた。


「そ、それは…」


 美守の問いが天児を困らせた。何しろこの人が親だったとしたら娘の携帯から赤の他人である自分がかけたのだったら混乱は避けられないだろうし、今の美守の状態をどう説明すればいいのかわからないのだ。


「むりやりとりあげておいて、やることきめてなかったのね…」


 美守は呆れたような物言いだったが、不安のようなものもそれにまぎれていた。


(そういえば、美守、両親はいないって言ってたな…)


 今日はメモリオンを使いすぎたせいか、どうにもはっきり思い出せないが、確かに美守がそう言った記憶が天児の中にあった。


 だったらこの『天月命』というのは美守とどういった関係なのだろうか。苗字が同じということは、血縁というのは間違いない。兄弟というのが一番考えられる。というよりもそうこう考えてるうちに一番手っ取り早い知る方法があったことに天児は気づいた。


「しらないわ…」


 気づいたと同時に美守が発した。


「しらないって何を?」


「そこにのってるの、みんなだれかわからないの…」


 天児の携帯を持つ手が震えた。美守は嘘は言っていない、立って歩く事さえ忘れてしまったんだ。家族や友達に関する記憶が無くなっていてもまったく不思議ではない。天児は震えたのはそんなことを淡々と語る美守の姿が痛々しく心が苦しくなったからだ。


「じゃあ……じゃあ、この『天月命』って誰かわかるか?」


 天児は震える手で携帯の画面を見せて、震える声で訊いた。美守は首を横に振った。


「わからない……とうさん? かあさん? あね? あに? いもうと? おとうと? それとも……おばあちゃんかな?」


 そんなことを本気で訊いてくるのだ。天児はたまらなく顔を背けた。天児はこの人が誰かわからない。だが、美守を大事に思っているはずの人だ。それを「誰かな?」といった具合に本気で訊かれたのではたまったものではない。


(こんな美守に会わせられない……どんなに辛い想いをするか…)


 それは天児には想像もできないものだった。まだ出会って二週間程度の天児ですら、震えが止まらないほどだというのに、家族が美守の姿を見たときの衝撃は計り知れない。当然、美守本人の方も。


 重い沈黙が続いた後、天児は不意に睡魔に襲われた。それも強力なやつに。


 ソラのことが気がかりだったため、眠るわけにはいかなかった。だが、それでも休む事は必要だと身体はうったえかけるようにいう事をきかなくなりだしたため、天児は少しだけならと、椅子に座って目を閉じた。そこから夜が明けるまでに天児が再び目を開けることは無かった。




**********




 朝日が部屋に差し込んで、天児は目覚める。朝日が目に入ると起られることは忘れていなかったようだ。


(こんな習慣、覚えていてもあんまり嬉しくないな……)


 天児はすぐさま新聞配達に出かける。安らかに眠っている美守の寝顔を一目見て。


 配達中にソラが見つかれば、という願いを込めながら自転車を走らせたが、見つかる事は無かった


(ソラ、君は今どこにいるんだ……?)


 ソラがどこに行ってしまったのか、無事だろうか、怪我なんかしてないかとか不安は次々と襲ってくる。


 そんな想いを抱えたまま、一仕事を終えて家に帰った。


(まだちゃんと憶えているんだな、配達の順路は……それならまだ俺のメモリオンはまだまだ使える、それって嬉しい事なのかな…?)


 天児は、美守の寝顔を見ながら思った。


(戦って、戦い続けて、そうやって『明日』を勝ち取ったとしても、『昨日』が消えていくなんて……そんな『明日』に価値なんてあるのか……『昨日』の無い『今日』を生きて『明日』を目指すのがこんなにも……こんなにも……)


 拳を握りしめて、身体を震わせながら、天児は考え続けた。アクタの戦い、ミッドナイトスペースのこと、そこで勝って訪れる『明日』のこと。


 そうこうしている間に、時計は時を刻んでいき、いつもの朝食の時間はあっという間に過ぎ去る。


「おにいちゃん!」


 空が自分を呼ぶ声で我に返った。


「あ、空か……どうしたんだ?」


 そう訊くと空はふくれっ面で答える。


「あさごはん」


「あッ!」


 天児は気がつく。もう空が自力で起きている事から、もうそんな時間になってしまっていることに。


 天児は慌てて、朝食を作り出す。とはいっても昨夜のシチューに使った材料の残りを茹でるだけである。とはいっても少々の時間はかかるので、その間に将は起こしにいく。


「起きろ将! 遅刻するぞッ!」


 遅刻という言葉に反応して将は起きた。それとともに、美守もゆっくりと起きた。


「あさだったのね…」


「ああ、朝ご飯を食べよう」


「わたしはそこまでいけないのに?」


 美守は立って歩けない身体と食卓を指してそう言った。


「それなら、俺が運ぶから」


「え…?」


 美守は少し驚いたような顔をする。


「一度やってるしな、それも忘れたのか?」


「ああ、そうね」


 美守は昨夜布団まで運ばれた事を思い出す。


「でも、何度もしてもらうのは…」


 美守はためらうように言った。こういうとき、天児はどう声をかければいいのか考えた。やがてすぐに結論を出した。


「俺がしたいから……じゃ、ダメかな?」


「…!」


 美守は意外そうな顔をする。今度ははっきりとわかるぐらいだ。


「そう、ね…」


 美守は微笑んで頷いた。それは椅子まで運んでほしいという返答だった。


 天児はそれを受けて美守を抱き上げる。美守は思いのほか軽く、想像以上にやせ細っている事がわかった。それはあの少食な体質に関係しているし、そんな身体になってもあまり食べ物を受けつけないのは何かわけがあるのではと天児は考えてしまった。とそれを今考えても仕方が無い、とりあえず、茹でた野菜を皿に盛り付けて食卓に出す。


「いただきます」


 この一声で食べ始めた。美守も小さく口をあけて野菜を食べていく。


「………」


「おにいちゃん、おねえちゃんは?」


 空がソラのことについて訊いてきた。というか今ソラがいないことに気づいたようだ。


「あ、ああ…ちょっと出かけてるんだ」


 下手なごまかしだと我ながら思った。


「かえってくるの?」


「ああ、すぐ帰ってくるよ」


「でも、さびしい…」


 空は食べていた手を止めた。この2週間というもの、ソラは空にとっても将にとっても家族の一員となってしまったものだから、急にいなくなると、寂しくなるのは天児にもわかっている。


「わたしじゃ、だめかな…?」


 そこへ美守が空に声をかけた。これには天児にとっても意外な事だった。


「え?」


「わたしがおねえちゃんになるから……だめ、かな?」


 美守は緊張して将と空に訊いた。将と空は美守をじっくり見た後にこう訊いた。


「じゃあ、おねえちゃんってよんでいいんだね?」


 美守はぎこちなく微笑んで頷いた。それをみて、二人は喜んだ。


「じゃあ、美守姉ちゃんだ!」


 将にそう言われて、美守は照れくさそうに顔を揺らした。


「これでよかった…?」


 美守は天児に小さな声で訊いた。


「ありがとう」


 天児は礼で返した。


――私がお姉ちゃんになるから…


 そこで、以前脳裏をよぎった美守の声を思い出した。その以前というのはソラが美守を『お姉ちゃん』と呼んだときだった。不思議とその声は今の美守の言葉がちょうど重なって聞こえた。


(なんなんだろうな、この感覚は…?)


 そんな疑問を抱えながら、朝食を食べ進めた。


「ごちそうさま」


 昨日の残り物という事で量そのものが少ないので食べ終わるのに時間はかからなかった。


「さてと、じゃあ学校に行くぞ」


 今日は出るのが遅いので急ぎ足で準備をして、家を出られるようにした。


「いってきます」


「いってらっしゃい…」


 それはソラが言う言葉だった。美守が代わりに言ってくれた。それだけで天児の心はありがたかった。当然将も空も気分は晴れやかになったはずだ。


(当たり前のものなのにな…)


 今は美守の当たり前の言葉さえまぶしく思えた。


 将と小学校で別れて、空を幼稚園に送った後、天児は携帯電話で高校にかけた。


「日下天児です、今日は風邪気味なので欠席します」


 聞いた側には「どこが風邪なんだ?」と訊かれそうな具合だったが、担任からは『わかった、お大事に』とだけ返ってきた。


 欠席が決まると、天児は街中を自転車で走った。もちろんソラを見つけるためだ。


 配達で探していない上にソラが行きそうな近辺を見回った。


(そういえば、あいつ学校にも来ていたな……)


 そう思って高校にまで行ってみた。とはいっても、欠席扱いになっているため、おいそれと校門を入るわけにはいかなかった。あくまで道中にいないかという希望をもって行っただけのことなのだ。だが、ソラはいなかった。それでも天児はめげない。


(ここじゃなかったか…)


 その程度の落胆で、また次の場所を探そうとする。


『苦労してるみたいね』


 頭上から声がする。聞き慣れた声のため、すぐに別段驚く事は無かった。


「教子さん…」


『おはよう、天児君。今日欠席で驚いちゃったわ』


「ソラを探しているんです」


『そうね、そんな気がしたわ』


「どこにいるかわかりませんか?」


『う~ん、天児君の頼みだからきいてあげたいけど、あいにく私にも見つけられないのよね……この近くにいないのは確かよ』


「それじゃあ、一体どこに…?」


 天児は悩みこむ。


『そんなに落ち込まないで、天児君。どうかしら保健室で紅茶でも?』


「いえ、ソラを探さなくちゃならないんで…」


『まあまあ、落ち着きなよ。焦っててもいいことないわ、それに保健室にいたほうが私が探して、天児にしらせるのは早いでしょ?』


「あ……」


 天児はその提案の方が効率的かつ確実にソラを見つけられる事に気づいた。




**********




「はい、どうぞ」


 教子は紅茶を注いだティーカップを天児に渡す。


「ありがとうございます」


 天児は礼を言ってから、その紅茶を飲んだ。


「あの…」


 天児は教子に尋ねようと思っていた事があった。桑木との関係だった。昨日の桑木と一緒に帰っていったのはどういうことなのか、多少なりとも気になっていたので、今度会ったときに訊いてみようと思っていたのだ。それがこんなに早くその機会が訪れたのは意外だった。


「何かしら?」


「あの…」


 どんな返答が来るのかという緊張で中々訊けない状態になったが、そこで足踏みするわけにはいかないと意を決して訊いた。


「桑木先輩とは知り合いなんですか?」


「ああ、猛君? もちろんお友達よ」


「お友達か…」


「何か特別な関係かと思った?」


「ええ、まあ…」


「それを聞いたら、彼喜んだけどね…」


 天児にはその意味が理解できなかった。


「まあ、私の大切な人はもういなくなってしまったんだけどね…」


 教子は紅茶を注ぎながら言った。


「もういないって…?」


「私の彼もアクタだったのよ」


「ッ!」


「別に驚く事じゃないわ、割と多いのよそういうこと。戦いの中で燃え上がる恋心っていうのかな」


 教子はそう言ってティーカップに注いだ紅茶を飲んだ。


「もういないって、やっぱりファクターに…?」


「違うわ、メモリオンを使い過ぎて記憶が無くなってしまったのよ、私と過ごしたこと全部ね」


 その話を聞いて、天児に寒気が走った。記憶が無くなったということをさらりと言った教子だが、とてつもなく辛いことだったはずだ。大切な人が自分のことを忘れてしまうというのは辛いはずなんだという想いがあったからだ。


「泣いたわよ、そのときは。この人と一緒に生きて戦うんだって思っていたからね……毎日泣き明かして決めたのよ」


 教子はカップをソーサーに置いて一息をついてから話を続けた。


「それでね、決めたのよ。何があっても私は生き残ってこの記憶を無くさないようにしようって。二人だけの記憶を二人ともなくしちゃったらもうそれは何も無かったのと同じじゃない、そんなの絶対に嫌だって」


 天児はその話から教子の強い決意を感じた。記憶を無くさない、アクタとして戦って僅か二週間だというのに、それがどんなに難しいものか身に染みてわかっているからこそ、その決意がどんな強い想いがあってしたものか伝わってきたのだ。


「……凄いですね、教子さん」


「言うほどのことじゃないわよ」


 そう言って教子は天児の飲み干したティーカップを手に取る。


「紅茶のおかわりはいかが?」


「いえ、いいです。いい話を聞かせてもらいましたから」


 天児はそう言って立ち上がり、保健室の出口に向かう。


「一つ訊いていいですか?」


「何でも訊いていいわよ」


 その話を聞いて天児にはどうしても訊いておきたかったことがあった。それが教子を傷つける事になっても、訊いておきたい事であった。


「……それで、その人はそれからどうしたんですか?」


「今もアクタとして戦っているわ…そりゃ時々声をかけたりはするけど、それだけの関係よ……」


 その返答に天児は満足して保健室を出た。




**********




 それから、天児は街の表通りから裏道までくまなく探したがソラを見つけることはできなかった。


(もうこの街にはいないのかな…?)


 日が暮れる時間になるまで、休みなく走っていたためさすがに息切れしてしまった。


 一休みするために公園に立ち寄った。もちろん、ここにソラが遊びに来るかもしれないという期待をもってだ。自転車から降りて引きずりながら公園を歩き回り、中央にある時計台を見上げた。


(……そういえば、初めてミッドナイトスペースに巻き込まれたのもここからだったな……)


 その時もソラを探していて、ここまでやってきたのだなと思い出した。


「四時四十五分か……」


 その時計の指し示している時間だ。何かこの時計台にはひきつけられるものがあった。


「ミッドナイトスペースって何なんだろうな…?」


 そんな疑問を時計台に向かって言うと、時計の針が急に回りだした。目まぐるしく、回るその針を天児は目で追った。


「なんだ?」


 周りには何も聞こえない。時計台の異変に気づいているのは自分だけのようだったが、そんなことはどうでもいい。問題なのはこれが気のせいなどではないという事だ。それを見ていると、目が回りそうなそんな感覚に陥ったが、それでも目は勝手にその針の回転についていった。


 時計は回り続けて、最後に短針も長針も十二時を指すとそこで止まった。


――今の君ならこんなことぐらいは簡単だろう


 時計から声が響いた。その声も周りの人間には聞こえてない、誰も見向きもしない事からそれは一目瞭然だった。


「エージュか」


 その声は以前名乗りを上げたエージュと同じだったことから、天児はそう言った。


「今の俺なら、とはどういう事だ?」


――それは君のチカラがミッドナイトスペースから超えてしまったからね


「超えた…? どういうことだ?」


――君は君だからね


「また、わけのわからないことを…!」


 天児は怒りがこみ上げてきた。


「もったいぶらずに全部言えってんだよ!」


――調和のためだよ、君という人間を把握するためにこれは必要な事だ


「調和ってなんだよ、それ? じゃあ、ソラがあんなことになるのも必要な事だっていうのか?」


――必要さ


 エージュのその返答に、天児は吹っ切れた。怒りが頂点に達し、気がつくと時計台に剣が突き刺すために飛んだ。


 一瞬もしないうちに、時計台の針は弾けとび、天児の周りを回る。


「く…!」


 昨夜のミッドナイトスペースでファクターの無数の目を見たときと同じ感覚にとらわれた。天児の目の前で回るその二つの針は、天児に言い様の無い不安を与えた。その不安の原因が何なのかわからない。


 だが、それは心落ち着くものでは無かった。そうこうしているうちに針の回転は速度を上げる。まるで加速する天児の鼓動に呼応するかのように。




――乱れはあってはならない、この軸にあっては


――予定調和の中で与えられた役を演じなければならない


――だが、君がもしそのチカラを発揮できれば




 ここで声を途切れ、天児は意識を失った。




**********




 誰かが自分を呼ぶ声がした。懐かしい人の声、自分を必要としている声、止まっていた時間を動かす、そんな声が心の底まで響いたようだった。


「おにいちゃん」


 目を開けると、将と空が立っていた。


「将、空か……」


「おにいちゃんッ!」


 不意に空が飛び込んできた。


「うぐッ!」


 何回やられてもこれは慣れないものだった。六歳児とはいえ、その全力の飛び込みは決して侮れず腰が痛めかねないほどの衝撃だった。


「もうおきないんじゃないかってしんぱいしたんだよ」


 空を抱き上げるとその『しんぱい』が伝わってきた。空の顔には夕日で照らされてくっきりと涙でぬれた跡が見えたからだ。


「大丈夫だよ、将と空が起こしてくれたからな」


「うん」


 天児は空を下ろすと、将の方を見た。


「心配かけて悪かった」


「兄ちゃん、お父さんとお母さんみたいだった…」


 将は震えながら泣くのを堪えて言った。


「そうか…」


 そう答えたとき、天児にとても辛い記憶が呼び起こされた。棺の中で眠っている両親をみつめて、もう目が覚めないだとわかりきってしまった時、全身が震え、目頭が熱くなり、それを堪えるので精一杯だった事。


 今それに近いモノを将に感じさせてしまった事に気づいた。


「ごめんな」


 天児は強くはっきりと言った。本当にその気持ちでいっぱいだった、心配なんてかけられることはあっても心配をかけてしまうなんてあってはならないことだと思っていただけに。


「もういいって」


 将はそっぽ向いた。その言葉で天児の気持ちがいくらか楽になった。


「帰ろうか」


 天児は笑顔で問いかけた。もちろん二人の返答は決まっていた。


『うん』


 帰り道で、天児は眠っている時の自分はどんな感じだったのか訊いてみた。


 二人はそれぞれ小学校と幼稚園の帰りにこの公園によって、遊具で遊んでいたところ、時計台の下で自分を見つけて起こそうとした。


 空が言うには、眠っている自分は「おとうさんとおかあさん」みたいになっていたらしく、それは将曰く「動かなくて、息をしていなくて、目を開けなそうだった」らしい。


(そりゃ心配するよな……)


 天児は二人の立場になって考えて、改めて二人がどれだけ心配していたかわかった。


「ねえ、おにいちゃん?」


「どうした?」


 アパートが見え始めた頃、すっかり普段の元気な空に戻って、いつもの調子で会話ができるようになった。しかし、次に言った空の一言でそんなものはひと時の安らぎに過ぎなかった事と天児は思い知る。


「バイト、いいの?」


 この言葉で、即座に天児は携帯電話を取り出して桑木にかけた。


『もしもし、天児か? 何してるんだ?』


「あ、ちょっと事情があって、ですね…」


『事情ね……まあいいさ。お前は働きすぎるからな、一日ぐらい休んでもいいだろ』


「迷惑かけます」


 電話越しだというのに、天児は一礼した。


『そういうのは別にいいって、お前を休み無くバイトさせているのは俺のせいでもあるしな、ハハハ』


 天児は苦笑した。「そりゃあんたのせいですよ」と突っ込みたかったからだ。


『それじゃあ、今日はゆっくり休んで明日元気になって来いよ』


「はい、わかりました」


 ここで電話を切った。彼との間にこれ以上の会話は必要ないと判断したからだ。


「ねえ、でんわはだれ?」


 空が天児の身体をゆすり訊いてきた。


「ん、ああ、バイトの先輩からさ」


「せんぱいってなに?」


「それはだな…」


 天児は答えづらくなった。普段何気なく使っている言葉ほど、説明に難しいものだとこういう時は実感させられる。


「先輩っていうのはお兄ちゃんのお兄ちゃんなんだぜ」


 勝手に将が空の質問に答える。


「おにいちゃんのおにいちゃん?」


(ややこしい答え方するなあ…)


 天児は将の回答に呆れつつも感心した。


「将…」


「なんだよ?」


「金が入ったら辞書買おうな」


 この二人のやり取りをみて冗談を言える余裕がでてきた。帰って美守にそのことを伝えようと思った。そうすれば、何か状況が変わると、そう思い込めた。そうじゃなかったら今手にかけたドアノブはあまりにも重く固かっただろう。


「ただいま」


 天児はそう言って入った直後に、空が元気に「ただいま!」と言う。


「おかえりッ!」


 とソラがいてくれたなら元気に返してくれるはずだった。だが、今ソラはいないためその声は部屋にむなしく響くだけであった。


 そこで天児は気づいた。部屋には美守がいたはずだ。彼女ならたとえ元気が無くても「おかえり」の一言をかけてくれるはずだ。なのに、それが返ってこない。


(……『おかえり』も忘れちまったのか…)


 そう思い、また悔しさがこみ上げたがそれも一瞬のこと。狭い土間から上がって部屋に入ると人気がまったく無いことに気づいた。


「み、かみ…?」


 天児は恐る恐る問いかけたが、返事は来なかった。


「おにいちゃん、みかみおねえちゃんは?」


 空は首を傾げて訊いてきた。その顔はまだ美守がいなくなってしまったことをわかっていなくて、『かくれんぼでもしてるのかな?』と言った雰囲気だ。


「いなくなったの…?」


 それとは逆に将は美守がいないことに察して真剣な面持ちで天児に訊いてきた。


「ああ……いない」


 天児は愕然としながらも事実を言った。


「ただ出かけただけだよな?」


 それが普通に考えられることだった。元々、美守には住む家もあって家族もあるはずなんだからそっちに帰っても何ら不思議はない。と、普通ならそう考えるのが自然なことだ。だけど、今の状況は普通じゃないことを天児はよく知っていた。


(美守は立って歩くことを忘れちまったんだぞ、今日だって俺が椅子まで運んで……だからここからいなくなるなんて、ありえなかったんだ……)


 錯乱しそうな頭の中で天児はなんとか整理しようと試みた。


(まさか、美守は本当は歩けるんじゃ?)


 その中で一つ考えが浮かんだがすぐさま否定した。今朝抱き上げたとき、美守の足には力が入っていなかったため、本当に立てないようだった。口で言うのは簡単だが、身体まではそう簡単に嘘はつけないと天児は思っているからだ。何よりもそんな嘘をつくメリットが天児が考える限り思いつかないのだ。


(歩けないほどひどい事になったら、俺は絶対に戦わせないつもりだった…)


 それはどうしても戦いたいと意思表示した美守にとって、煩わしいだけのことだった。それでも天児に打ち明けたのは、やはり隠し切れるものではないと悟ってのことだろう。


(それなのに、今さら……どこへ行ったんだよ?)


 天児には全く心当たりが無かった。自宅というのが真っ先に思い浮かぶのだが、美守は連絡すら望まない様子だったことからこの期に及んで帰るというのも考えづらい。家族の記憶が無い状態で会うなんて辛いことでしかない。何よりも天児は美守がどこに住んでいて、どんな家に暮らしているのか知らない。


(俺はあいつのこと、何も知らないんだな…)


 窓辺に立って、夕日を見据えて、天児は自嘲した。


「ねえ、みかみおねえちゃん、おうちにかえっちゃたの?」


 空が訊いてきた。


「わからない……」


 天児はそう答える事しかできなかった。


 その時だった、一瞬夕日にわずかに陰りが見えた。


「あ……」


 天児はそれを見てから土間まで一気に飛び出す。


「兄ちゃん、どこ行くんだ?」


「ちょっと、美守を探してくる」


 それだけ言い残して、天児は部屋を飛び出した。




**********




 一瞬の夕日の陰りで見えたのは美守の姿だった。それは幻だったかもしれない、気のせいといえばそうかもしれないと答えてしまうほどおぼろげだったが、今は手がかりなど全く無い状態ではそれだけで信じるに足る根拠になった。


(ただ、走ってたんじゃダメだ!)


 天児はその一念で、メモリオンを使って西へ向かった。


 その速さは尋常ではなく、人が見れば風が通り過ぎ去ったかと錯覚してしまうほどだった。


 やがて、アパートから見えた夕日と重なるほど一際大きなビルの屋上にまで上がった。そこで天児は辺りを見回した。だが、美守どころか人の姿が無い場所だった。


(やっぱりダメか……)


 ここなら、美守が近くにいるかもしれない。いないまでも何か手がかりぐらいなら、と期待したがそんなものは脆くも崩れさり、天児は、仰向けになって屋上に倒れこみ、夕日で染まった紅く空を見上げた。


「俺は今何を忘れちまったんだろう…?」


 そんな疑問を問いかけたが、誰も答えられるはずが無く、仕方なく起き上がった。


 そこへ彼女は雲の上からやってきた。銀色の翼を生やして、夕日を背にして、さながら天使のようだった。


「美守…?」


 天児は呼びかけると、美守は屋上に降り立った。言ってやりたいことはたくさんあった。だが、今は頭から吹き飛び、別のことが口から出た。


「メモリオン、使うなよ」


「うん…」


 美守はただ一言そう答えて、背中の翼を消す。とたんに支えを失い、前のめりに倒れこむ。


 天児は駆け寄り、美守を受け止める。


「倒れそうになったら、俺が支える」


「ありが、とう…」


 美守の口調は恐ろしく弱弱しく今にも消えてしまいそうな不安を感じさせるものだった。


「なんで、急に出て行ったんだ?」


「とびだしてみたくなったの……そうすればぜんぶわすれられるとおもったから」


「黙ってってそういうことするなよ、心配するだろ」


「しんぱいされたら、つらくなる……」


「そんなに、忘れたいのか…?」


 天児が訊くと、美守は頷いて答えた。


「うん……とびだせばぜんぶわすれられるとおもった……でもきえないんだよ、ねもとのいちばんふかいきおくっていうのは」


「そうか…」


 天児はそこでどうしても訊きたい事が浮かび、それを口にした。


「なあ、美守? 俺達が初めて会ったのはいつだ? 思い出せるか?」


「………………」


 美守はしばし沈黙する。天児にとってその沈黙は辛いものだった。わかっていた事だった、これ以上美守が何を忘れても不思議じゃないと思っていた。だけどいくら予想していても辛いという感情は心の中で積み上がってくるのだ。


「きょねん、だったかしら…?」


「今日だよ」


 美守が自信なく答えてから天児は即答した。それで美守は驚き、目を見開かせる。


「……嘘だ」


「……しんじてしまった…」


 種明かしをすると、美守は落ち着いて一呼吸してから言った。


「本当はまだ一月も経ってない、そんなことまで忘れちまったのか…」


 天児は自分でも不思議なほど落ち着いた口調で言った。


「うん、たったそれだけなんだ……もっとずっとまえから、しっていたような…」


「そんなものだろうな……だから、そんな大事な事じゃないのかもな……極端に言えば、今日初めて出会ったという事にしてもいいんじゃないかな?」


「フフ…」


 天児の言葉に美守は笑い声が漏れた。


「そうね、それでもいいとおもうよ……というよりも、わたしはそうしたいな…」


 美守は笑顔で語り、そして辛そうに言葉を継いだ。


「わたしはもうあなたとはじめてあったときのこと、おぼえてないから…」


「ああ、そうしよう。できればさ、何度でもそうしたい……今日のこと忘れたら、また次会ってさ……そうして何度も出会おう……」


「うん…」


 美守の抱きしめる腕がより強く掴まれるのを感じた。


「俺、日下天児…」


「わたしは、みかみ…」


 こうして彼と彼女は出会ったのだ。

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