Ⅰ―真夜中の邂逅―(前編)

 明日なんて来ない方がいいかもしれない。


 早朝の街中に自転車を走らせながら割と真剣に日下天児は思った。というのもここ最近の疲れるだけの日々に半ば嫌気がさして魔が差したのだ。


 生活のために新聞配達をしているのだが、身体が辛くなりはじめた時期だった。かといって泣き言を言うわけにもいかないので、余計に辛い。そんな配達による一日の幕開けだったのだ。


 日下天児くさかてんじは、17歳の高校二年生。配達が終わるとすぐに登校の準備をしなくてはならない。それが自分一人だけならいいのだが、小学3年生の弟と年長の妹がいるので、そうもいかない。


「二人とも起きろ…」


 夢心地の二人にモーニングコールをかけると、聞き分けのいい妹のそらはすぐに起きてくれたが、弟の方はそうもいかない。


「ほら、将、起きろ。早くしないと朝メシ、くえねえぞ」


 食い意地の張った弟のしょうにはこれ一番効果的だ。案の定、将は飛び起きた。


 すぐさま今起きたばかりの空と一緒に将はテーブルに座る。


『いただきます!』


 三人で朝食のバタートーストを食べる。


「なあ、兄ちゃん。たまにはご飯が食べたい」


 トーストをほおばりながら、将は言った。


「ああ、そのうちな」


 天児は適当に返した。


「そらはパンのほうがいい」


 空は元気にトーストを天児に掲げた。


「あ、ああ、パンもいいな」


 天児はまたもや適当に返した。


「どっちなんだよ、兄ちゃん?」


「どっちなの、おにいちゃん?」


「い、いやちょっとまってくれ」


 楽しげに迫ってくる二人を天児は制した。


「わかったから、とりあえず今日はパンな」


「はーい!」


 空は元気よく了承してくれたが、将はしかめ面で納得していない様子だ。


「そうやっていつもはぐらかすんだよ、兄ちゃんは」


「わかった、わかったから。じゃあ明日にでも米買っておくよ」


「約束だぞ」


「俺が約束破ったことあるか?」


「しょっちゅうだろ」


「厳しいな…」


 天児は、疲れの出た顔を将にみせてぼやいた。


 トーストを食べ終わると、すぐに学生服に袖を通して登校できるようにするとすでに、将と空も小学校と幼稚園にそれぞれいく準備を整っていた。


「そら、じてんしゃのる~!」


 アパートの部屋から出ると空ははしゃいで飛び上がるように駐輪場の自転車のかごに飛び乗った。


「兄ちゃん、自転車古いよ。新しいのにしたら?」


 ついさっき、配達で酷使した自転車を指して将は不満を漏らした。


「無理を言うな。金が無いんだぞ」


「せっかくだし、バイクに乗らねえのか? 免許持ってるんだろ?」


「話を聞けよ。金が無いんだよ、ビンボー」


 駐輪場から自転車を引いて、将をなだめるためにそれを口にした。


「ビンボーになりたくないな」


(もうなってるんだがな…)


 天児は心の中で突っ込んだ。




***********




 空を幼稚園まで送り届けると、高校まで自転車を走らせた。


 高校につくとちょうど始業時間になり、そのまま授業に突入した。授業中には睡眠不足で寝るときも少ない。それでも、テストになるとなんとかやっていけてるのは要点だけを抑えておくだけの要領の良さが天児にはあるからだ。


 昼休みになると少ない時間で作っておいた弁当を食べる。


「今日もビンボー弁当か」


「相変わらずひもじいな」


 友人というよりも悪友である安藤茂雄と長尾勝が悪態をついた冗談とともにやってきった。


「うるせえな。金も時間も無いんだよ」


 疲れの見える不機嫌な顔をして天児は言い返した。


「まったくお前も大変だよな、同情するぜ」


「同情するならおかずよこせってんだ」


「嫌だね」


 安藤は笑顔でおかずの種類豊富な弁当を見せびらかす。一見すると険悪になりかねないやり取りだが、それでも冗談ですませられるのはやはり気の置けない友人だからだろう。


「しかし、この弁当。空ちゃんにも作ってるのか?」


 弁当を見下した様子で長尾は言った。


「当たり前だ。他に何を作るってんだよ?」


「かあ~、こんなんばっか食ってちゃ空ちゃんの発育に悪いぞ」


「なんでお前に空のこと、言われなくちゃいけねえんだよ?」


「そりゃ~もちろん、決まってるじゃないですか、お・に・い・さ・ん♪」


 長尾は親指を立てて、陽気に返した。


「お前にお兄さんと呼ばれる筋合いはないぞ、このロリコンが!」


 今度は一転して険悪した空気が教室の一角に流れた。




***********




 授業が終わると、夕方のアルバイトに向かって走った。


 今日のアルバイトは、コンビニのレジ打ちであった。


「今日も頑張ろうぜ、天児」


 ロッカーで着替えているところにバイトの先輩桑木猛が挨拶してきた。


「おはようございます、猛先輩」


「なあ、もう一つバイト増やしてみないか?」


「けっこうですよ、今だって休みありませんし」


 天児は素っ気無く断った。この桑木猛は初めてのバイトで会ったときから、何故か気に入られて金が要りようと知ると色々バイトを紹介してもらっている。おかげで今は休みがないということだ。


 一見すると顔立ちの整った大学生のようにも見えるがその正体は謎で、本業が何なのかよくわかっていない人物だ。


「それじゃあ、生活の方は大丈夫ってわけか」


「いっぱいいっぱいですけどね」


 天児は苦笑いで返した。




***********




 バイトの時間が終わると、夕日が落ち、辺りが暗くなり、三日月が浮かび上がっている頃だった。


(今日も無事終わったか…)


 かといっても気分が晴れることは無かった。明日もこれと同じ内容になるに違いないからだ。


 疲れきった状態でそれを考えるといっそう疲れが増すばかりだった。


 両親が事故で死んでからおよそ半年、ずっとこんな調子だ。親戚もいない、貯金もいない、学費の方は奨学金でなんとかなっているが、家賃と家族三人の生活費でバイト代はほとんど消えている。それでも路頭に迷うよりかはマシだろうが、疲れている今ではそんなのは慰めにもならない。


(夕食がまたかなり遅れちまったな。空と将、腹ペコで待ってるだろうな…)


 二人がテーブルについて、自分の帰りを待っている姿を想像したら、なんだか足どりが早まった。


「…ん?」


 しかし、不意に天児は足を止めた。理由なんてないし、『止まれ』なんて意識してない。それなのに足は止まった。『何故か』と考える前に、急に目まいがした。


(疲れてるのかな?)


 ふらつき始めて、なんとか倒れないように足で踏ん張った。すると脳裏に見覚えのない光景が浮かんだ。


 影…それは、華奢で小さく長い髪の毛から女子の影かと思われるものが浮かんだ。次の瞬間にはその少女の影は消えて、別の、何か異形の、見たことのないものが浮かんだ。具体的に言うなら、どこが手足でどこが顔なのかわからない。そもそもそんなものがこれにあるのかすらわからない影が出てきた。その上に身震いさせるような『何か』を感じさせた。その影が消えると、今度は月だった。それも鮮やかな満月がそのまま視界全体にまばゆく照らした。その次は、何やらよくわからない。赤、青、黄、緑、白、黒といった色の光が色々と混ざり合い、うずまきのように回り、最後には黒が全てを染め上げていく。


「おい、大丈夫か?」


 肩を叩いた桑木の声で天児は正気に戻った。


「先輩…?」


「相当疲れてるな…どうだ、チョコでも食うか?」


「いえ、遠慮しておきます」


 猛の差し出した板チョコにそっぽ向いて断った。


「肩意地はるなー、疲れるぜ、そんなんじゃ」


「いえ、疲れてませんから」


「そういうことにしておくか。ああ、そうだ。新しいバイトの件、考えておいてくれよ」


「…考えておきます」


 天児の感情のこもってない返答に猛は満足げな笑みを浮かべて背中を向けた。


「じゃあな」


 その一言ともに彼は去っていった。


「まったくあの人は…」


 軽口を叩き、こっちの都合を考えない猛に天児は文句の一つでもぼやいた。


 だが、それをいい終えるとさきほど脳裏に浮かんだ光景を思い出す。特に最初に見た少女のシルエット。あれには見覚えがあったからだ。しかし、誰のシルエットかははっきりと浮かばず、ただ漠然と見覚えがある程度だった。




************




 買い出しを終えて、レジ袋片手にアパートまで着いた。


(二人とも怒っているだろうな…)


 遅れて帰ってくるなんていつものことだ。だが、いつものことだからといって許されるほどあの二人は甘くなかった。いやむしろいつもだからこそ、今日も怒るだろうなと考えながらドアを開けて、いつもの通りの帰宅をした。


「ただいま」


「おかえりー!」


「おかえりなさい」


「おかえり~」


 あれ?と天児は思った。声が一つ多いのだ。この部屋には将と空の二人しかいないはず。それが返事が三つあるということは…。


「誰かいるのか?」


 三人目の声の主はすぐに見つかった。しかし、それは天児の予想していた人物ではまったく無かった。天児が予想していたのは将の友達と思っていたが、違った。まず彼女は将より大きく、将と同い年には見えない。というよりも自分と同い年と思える少女が陽気に出迎えてくれたのだ。まるで我が家にいるかのような振る舞いだ。


「おかえり~」


 長い黒髪を揺らして笑顔で彼女はもう一度言ってくれた。


「あ、ああ。ただいま」


 天児は引きつった笑顔で答えて、将に視線を送る。


「この子は誰だ?」


「えぇっと…」


 その将は、空に視線を送った。


「こまっていたからそらがつれてきたの」


 空は楽しそうに答えてくれた。


「つ、つれてきたって、どういうことなのかな、空?」


「うちにいきたいっていたもん」


「それじゃ答えになってない。もういい、本人に聞くから」


 改めて彼女を見ると、彼女は笑顔で返した。


「君は誰なんだ?」


「ソラって言うんだよ」


「ソラ? ……ああ、妹と同じ名前か。で、なんでここにいるんだ?」


「空ちゃんが連れてってくれた」


「そっちも同じ返答かよ…」


 6歳の空と同レベルの返答に天児は呆れた。まるで空がそのまま大きくなったようなそんな印象をソラから受けた。


「わかった。んでソラ、苗字は何だ?」


「わからない!」


「わからないって、とぼけてるのか?」


「わからないものはわからないの」


 ソラが満面の笑みでそう言うと、戸惑った。


(苗字がわからない…? 孤児か? いや今の日本でそんなことあるのか? じゃあ記憶がない…記憶喪失か?)


 頭の中で推測を立てるが、もう一度確認をしようとした。


「ソラ、もう一回訊くが君は誰なんだ?」


「ソラだよ」


「…じゃあ、君はどこに住んでるんだ?」


「わからない」


「家族はいないのか?」


「わからない」


「じゃあ知り合いは?」」


「わからない」


「わからないって…」


 笑顔の『わからない』の一点張りに天児は頭を抱える。身元がわからない少女が部屋に現れて、どう対処するべきかわからない。


「…えぇっと…こういうときはどうするか?」


「ねえ、おにいちゃん?」


 いつの間にか傍らにやってきた空が天児の身体をゆする。


「ごはん、まだ~?」


「あ、そうだったな…」


 二人にとっては何よりも先にご飯なのだ。たとえ、女の子を拾って連れてくるなんて一大事だろうと、そんなことよりもご飯を食べることの方が一大事なのだ。


「君も食べるかい?」


「うん!」


 ソラは元気よく答えた。


「さて、じゃあ今日は一人分多めに作らなくちゃならないな」


「きょうのばんごはんはなーに?」


 空がレジ袋を見上げながら訊いてきた。


「ああ、今日は肉野菜炒めだ」


「やったー!」


 空は飛び上がって喜ぶ。それにつられてかソラの方も舞い上がっている。


「そっくりだな、お前ら」


 天児にはその光景がやけに微笑ましかった。


 夕食は見事なまで完食だった。量がそれほどないにも関わらず、好き嫌いは無く、ある物は全部食べようという風潮が我が家にはそこはとなく流れているのだ。それを察してか単なる腹ペコだったのか、ソラも同様に綺麗にたいらげたのだ。天児は四人で食事することが初めてなのに、どうも前からいたような感じがして違和感が無かったため、なんだかそれが逆に不自然に思えた。


「さてそれで君はどうするべきか…」


 皿洗いがすんで一息ついた後に、ソラを見た。


「家とか家族とか何か知っていることはないのか?」


「しらない」


 ソラは首を振った。


「まいったな。こりゃあれか、記憶喪失ってやつか…」


 記憶喪失。大事な想い出を思い出せなくなる障害だときいているが、覚えてるのがソラという名前だけなのはあまりにもひどいものだと実感した。かといって同情するだけじゃ駄目だ。部屋まで連れてきてしまったのだから、ちゃんと責任をもたなくてはならないと良心が天児の中で働いた。


「とりあえず警察かな」


 天児が呟いた一言で空がやってきた


「ソラちゃん、なにかわるいことしたの?」


「いや、そういうことじゃなくて、誰か探している人がいないかチェックしてもらうんだよ」


「ふうん」


 空はそれで納得してくれた。


「ねえ、天児お兄ちゃん?」


 ソラが言い寄ってきた。


「な、なんだ?」


 今度はソラのために空に向かって下げていた頭を上げる。


(胸があるな…)


 頭を上げる過程でそこに目がいってしまった。少なくともクラスの女子よりは発育がいいようである。


「ねえ?」


 一瞬ほうけているとソラがもう一回顔を見せる。


「なんだ? ……ってあれ?」


「どうしたの?」


「どうして俺の名前知ってるんだ? 俺は一度も名前を言ったことは無いぞ」


 帰ってから一度も名前を呼ばれていないので妙だった。というのも空も将も『お兄ちゃん』としか呼んでおらず、『天児』なんて名前は出ていないからだ。


「え、わからないよ。なんとなくなんだけど、呼んじゃったんだよ」


「なんとなく…」


 それでは答えになっていなかった。ソラの顔立ちに見覚えはあるものの、知り合いってわけではなく、どう考えても初対面なのに、それが自分の名前を知っているというのはなんとも言えない気味の悪さを感じてしまう。


「なんとなくって、どういうことだよ? 俺と君が会うのは今日が初めてだろ?」


「うん、初めて」


「だったらなんでだ? わからないな…もしかして俺達の親戚なのかな?」


「わからない、わからないよ」


 ソラは大きく首を振る。その仕草は妙に子供らしかったが、外見は16歳ほどなのにそれでも子供らしく見えた。もちろん年不相応だということはわかっている。


「まあ、考えてもわからないよな。で、なんで俺がお兄ちゃんなんだ?」


 そう、確かに彼女は『天児お兄ちゃん』と言ったんだ。まったくそういう風に呼ばれるいわれはないのに。


「なんとなく、そうよばないといけないとおもって」


「なんでだよ…?」


 天児は呆れ気味にぼやいた。


「だ、だめかな?」


「いや、別にいいけどさ。他人にそう呼ばれるとなんだか違和感が…」


「たにん…?」


 ソラが首を傾げる。


「いや、なんでもないさ。気にするな」




************




 そこからほどなくして将と空は寝る時間になった。ソラもその時間になったら眠くなったらしく、一緒に布団をしいてやってそこで寝た。それで天児はというと、数学のレポートを仕上げているところだ。


「この課題だけなんでこんなにあるんだ…? 悪意を感じる…」


などとぼやきながら、一通り終えてノートを閉じて、時計を見る。


「もうこんな時間か……早く寝ないと明日も早いからな…」


 明日になればまた早朝に起きて新聞配達から始まる……そう思うと憂鬱になった。


(いつまで続くんだろうな、この生活…)


 その答えはおぼろげながら出ているもの、それを考えたらまた憂鬱になった。


「お兄ちゃん?」


 不意にソラが起き上がって声をかけてきた。


「起きたか? 早く寝ろよ」


 天児がそう言うとソラは胸を抱えて震えだした。


「どうした?」


「今何時?」


 そう訊かれると天児はアナログの時計を見た。


「十一時半だけど、どうかしたのか?」


「もうすぐ…」


 怯えきったその顔の口からその言葉がもれ出た。


「みんな…みんな、止まる…」


 長い黒髪が震えとともに大きく揺れる。


「どうしたんだ…?」


 天児はどうすればいいのかわからずにそれだけをつぶやいた。


「十二時…いや…こないで…」


 ソラが震える声でそう呟くと、扉に向かって走り出した。


「おい!」


 天児が呼び止めるのも聞かず、外へ出て行ってしまった。


「おにいちゃん、どうしたの?」


 眠気眼をこすりながら空が天児を見ていた。


「あ、いや、なんでもないよ…」


「おねえちゃん、いないの…」


 どう答えていいか天児は戸惑った。『出て行った』と素直に言えば、騒ぎそうだし、かといって簡単に嘘をつけるほど天児は人間ができていない。


「ちょっと…トイレかな?」


 苦し紛れに言ったのがこの台詞であった。


「トイレならいなかったよ」


 空は即答してきた。


「あ…」


 天児は嘘を見抜かれて弱りきった。仕方ないから観念して正直に打ち明けることにした。


「急に出て行っちゃったんだ…」


「え、どうして?」


 空は驚きながら天児の立っている入り口の扉の方をみる。


「おねえちゃん、いなくなっちゃったの?」


 悲しそうな目で見つめてきた。この目に天児は弱いのだ。


「だ、大丈夫だよ。すぐに追いかけるから!」


 そう言って、すぐに部屋を出た。


 外へ出て、辺りを見回したがソラの姿は無く遠くに行ってしまったのではないかと推測した。


「あいつ、足速いな…」


とため息混じりにぼやくと走り出した。街灯があって明るい道を選んで走って探した。ソラはこれまたなんとなくだが、そんな気がした。彼女が暗いところが大嫌いだということを。


 やがて深夜で街灯が集中して一際輝く公園の広場についた。


(ここならいるんじゃないか…)


 またなんとなくだ。さっきからそんな直感ばっかりが天児の頭の中で渦巻いている。ただの直感だというのに確信に近いものがあるのが何故かわからない。今日初めて会ったばかりの女の子だというのに、彼女ならこっちに行く、彼女ならここに来るに違いないと考え、何故それを確信できるのか改めて考えると疑問なんだが、今それを自分の中で問いかけている時間はない。早くソラを見つけて、帰って空を喜ばせて一緒に寝る。今はそれが最優先だ。疑問なんて後で考えればいいとそう結論づけた。


 しかし、それでもソラの姿は無かった。


(まいったな…)


 額にこびりついた汗を拭き取って、弱った。別に公園にいないのなら別の場所を探せばいいのだが、ここに来るだろうと根拠のない確信があっただけに探すアテがなくなってしまったのだ。


「十一時五十八分…」


 広場の中央にある時計台を見るともうすぐ明日になるのかと思うとこうしてはおれない気持ちになった。


 そこで時計の針は動いた。


「うッ!」


 突然頭痛がしたのだ。頭を抱えると今度は目まいがした。世界がグルグルと回り始めて、まるで扇風機にでもなった気分だ。


(なんだ、何が…起こってるんだ…?)


 なんとか倒れないように足で踏ん張る。


 やがて目まいが落ち着くと、そこは見慣れた公園の光景ではなかった。


(黒い…)


 それは比喩というわけではなく本当に建物が黒く見えるのだ。もちろん暗いせいという理由もある。明かりがいつの間にか消えているということも不自然だが、とにもかくにも周囲全体が黒く、自分だけが黒以外の色を持っていて、違和感の海に陥った。


(どうなってるんだ、こりゃ…)


 一通り見回しても同じような景色ばかり広がる。ここはもう公園でない。またもや直感でそう思ってしまった。とはいっても目の前の光景が公園であると断言できる人間はそうそういないだろう。


(俺は何をしてるんだ…?)


 そう思いながら、時計は見た。時計は相変わらず十一時五十九分を指している。


(やっぱり夢か……時間が動いてないじゃないか……夢なら、まあどうでもいいか…)


 時計を背にして、黒い建物の方に歩いた。


 その中に人影があった。それ自体は珍しいことではなかった。問題はその人影に近づいたときに気づいた。


(なんだ、こりゃ!?)


 その人はちゃんと、色を持っていた。肌の色と髪の色、服の色は黒しかない空間で目立っているその人だが、取り立てて珍しいものではなかった。


――動かない


 どういうことなのかわからないが、とにかくその人はピクリとも動かない。まるでその人の時が十一時五十九分のままで止まっているかのようだった。


「おいおい、どうなってるんだ、こりゃ?」


 不動。その言葉が似合うが、それは奇妙なものだった。その人は一人だけではなかったのだ。深夜ということもあってか、それほど見当たらないが、数人もの人間が動かないままだった。息もせず、手足を振らず、瞬きもせず。


「…時間でも止まっているのか…」


 改めて十一時五十九分を指したままの時計台を思い出すと、その表現が適切に思えた。


「さてどうするべきか…?」


 ここで異変が起きた。


 足元が揺れた。今度は目まいなどではなく、地面が揺れているのだ。


 地震だ。これはかつて経験したことのない揺れだ。


(震度7!? こりゃまずいんじゃねえか!?)


 立っていられなくなるほどの揺れに、倒れこむ。この状態では他の止まっている人間を気遣っている余裕などない。


「――ッ!」


 突如として地面が割れて、天児の足場が崩れる。


「うわあああああああッ!!」


 足場を失った天児は重力に従って、落下する。


(俺、このまま死ぬのか…? ひどいもんだな、最後って…)


 落ちながら、走馬灯すら浮かぶことなく自らの最後を悟った。そのとき、落下が止まったのだ。


「あ…」


 誰かが自分の腕を掴んでいるのだ。もちろん宙に浮いていて、腕を伸ばせても届くような人はいるはずがない。


「………………………」


 天児が月を見上げるように見ると、そこには少女がいた。年は自分と同じぐらい。それもショートカットの銀髪にリボンを結んだ頭が特徴的で、その瞳は天児を見つめていた。そして何よりも意外だったのは、彼女の背中にあるものだった。


「つばさ…」


 普通の人間だったら、絶対に生えないはずのものが彼女の背中に生えていた。


「危なかったわね…」


 彼女は小さく危うく聞き逃してしまいそうな声で言った。


「ああ……ありがとう…」


 何が起きているかわからず、戸惑いで気がどうにかなりそうだったが、彼女が助けてくれたという事実だけは現実として受け止められた。


 彼女がそれを聞くと、翼を羽ばたかせて飛び上がった。


「おうわあッ!?」


 情けない声を上げながら、掴まれた腕ごと天児の身体も彼女と一緒に飛び上がった。

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