第16話 戦士の痛み



 俺は趣味の悪い見学人を視線で追い払う。

 お集まりのところ残念だけれどもうあげられる餌を持っていない。好奇心という名の空腹はいくらか満たされただろうか。お役に立てたなら光栄だ。どうか早く散って屋根の上で縄張り争いでもしていてくれ。


 俺は踵を返す。早いけれど、今日はもう休もう。

 宿へ向かう方向。雑踏の中に紛れると、まるで自分が周りのヒトと何も変わらない、何の変哲もない生き物であるかのようで、酷く安心する。俺は良し悪しのない平坦な存在に溶け込んで流されていく。

 どんな理由で怒られようと、どんな間違いを正されようと、歩くことだけは叱られたりしない。だれかにぶつかったりしなければ、妙なことに巻き込まれなければ、移動というのは常に無罪だ。

 正しいかはわからないけれど、間違ってはない。


 間違ってはいないということだけが、なにより、心強い。


 大通りを途中で曲がり、人並みから外れる。行きつけの宿は街の中央から遠い分、値段が安い。いっそ街の外まで離れてしまえば無料になるかもしれないけれど、ヒトはそれを野宿と呼ぶ。


 レフィが少し遅れて人の流れを抜けてくる。

 もしかしたらもう付いて来ないかもしれない、なんてことも頭に過ぎった。それでも仕方がないとさえ思った。それくらいの激情を彼女の中に見た。覚悟はしていた。

 本当だろうか?

 俺と離れて、レフィに行くあてなんてあるのだろうか。俺にパーティとしての行動を任せっきりだった彼女が、ひとりでやっていけるのだろうか。

 そこまで考えて、俺は自嘲するようにため息を吐いた。


 やっていけるに決まってる。


 親のことはわからないけれど、あの歳まで誰に頼ってでも、なんとかして、どうにかして、たくましく生きてきた彼女だ。いまさら司令のひとりがいなくなったくらいで野垂れ死にするような彼女ではない。

 酷く醜くて、ちっぽけな願望なのだろう。

 俺がいなければ、彼女は、なんて。


「待てよ!!」

 

 人通りの少ない狭い道。

 あまり間隔のない建物と建物の間に、その声はよく響いた。

 

「ふざけんな! お前!」

「アグニフさん……」

 

 灰色の髪を振り乱す少女に、レフィがつぶやくように名前を呼んだ。

 どうやって嗅ぎつけてきたのだろうか。クーシーは鼻がいいのだろうか。レフィと同じで目がいいのかもしれない。だとしたら、雑踏の中に俺かレフィの姿を見つけ出したのかもしれない。

 協会は十分に仕事を果たしてくれた。

 俺たちがもたもたと言い合いなんかしていたのが間違いなんだ。


「どういうつもりだよ! おい!」

 

 詰め寄ろうとするアグニフの前に、レフィは両手を広げた。

 この先には進ませないという意思表示だろうか。本当に、その戦士ボルダーとしての意識の高さには頭が下がる。彼女の怒りも悲しみも理解はできないけれど、もう俺なんて守りたくもないのでないだろうか。

 

「狩場のこと気にしてんのか!? だったら謝っただろ! それは悪かったよ! それで何が不満だっていうんだ! 言ってみろ、おい!!」

「ダメです、アグニフさん!」

「アイツに直接言わせろ!! 目を見て言ってみやがれ!! なんだってんだ!?」

 

 いまにも跳びかかってきそうなアグニフに、それでも俺は何の恐怖も感じなかった。

 むしろ暴れてくれたほうが、攻撃されたほうが、自分の正当性が確認できる。俺の選択はやっぱり間違ってなかったんだと。正しかったんだと。

 それでもいい。それで、俺がたとえ再起不能になったとしても。

 俺は、正しく、在れる。

 

「いい加減にしてください!!」

 

 レフィの目いっぱいの咆哮は、いままでにないほど切迫していた。俺だけに睨みをきかせていたアグニフが、その迫力に一瞬たじろいだ。

 

「わたしだって言いたいことが山ほどあったんですよ!! あなたは身勝手すぎます!! 狩場だと熱くなっちゃうとか、悪かっただとか、そんなかんたんな言葉で終わらせようとしないでください! ほんとに痛かったんですよ! 痛くて、怖くて、危なかったんですよ! ニトさんの香水がなかったら死んじゃってたかもしれないのに!!」

「あ、ああ? うるせーよ! お前だってアイツだって、たいして役にも立ってねえじゃねえか! 何匹倒した? おい言ってみろよ」

「何匹とか、どうとか、そんなことじゃないです!! なんで話を聞いてくれなかったんですか!? パーティがなんですか!? 協力する気なんてぜんぜんないのに! 司令レフィンダーのニトさんがいるんだから、指示を仰ぐべきです! そうでなくたって、話し合いくらいしてください!!」

「馬鹿かお前は!? いちばん前を張ってるヤツが指示を出さなくてどうすんだよ! いちばん危ないし、いちばん痛えけど、そいつがいちばん現場を見てるんだよ!! 痛みを知ってるんだよ! 痛くも痒くもねえ、後ろでわーわー言うだけのヤツが指示なんか出しやがったら、それこそ死ぬまで働かされるだけに決まってんだろ!!」

「アグニフさんだって死にかけたじゃないですかあ!!」

「うっせえバーカ!!」

 

 アグニフの剣幕に、レフィはまったく怖気づく様子もない。

 それどころか、溜め込んでいたものが一気に爆発しているようにも思える。

 

「いいか!?」とアグニフは地面をダンと鳴らす。

「痛みも怪我もないヤツが、まともな指示なんが出せると本気で思ってんのか!?」

「出せます!! ニトさんは一歩引いた場所にいるからこそ、全体が見えるんです!! 前にいる人は一番前しか見えてないんですよ!!」

「ああ。あたしの経験不足は認めてやるよ! でもなあ、いちばん前を張ってるヤツが周りも見れれば、それがいちばん正解に決まってんだ! 魔物とまっすぐ向き合って、ぶつかって、理解したヤツこそがレフィンダーってのに指示を出させりゃいいんだ!! レフィンダーはあたしの言うことを聞いてりゃそれでいいんだよ!! それが狩場を、現場を回す最高の方法だよ!! 戦ってんのはあたしだ!!」

「アグニフさんとわたしじゃ獣性ベストが違います! ニトさんとはきっと、もっと違います! あなたが経験する痛みが全てじゃないんですよ!? あなたの基準で行けるだなんて判断されても、わたし達には危ないことだってあるんですよ!?」

「だったら強くなりゃいいだろうが!! ……ああそうだ、もういっこ気に入らねえのは、ソイツの態度だ。なあ、お前も言うようにレフィンダーってのはいちばん弱いんだろ? パーティの一番の弱点だって聞いたぞ? なあ、ならなんで強くなろうとしない? 自分が弱いことがわかってんだったら、なおさらクリスタルは必要だろうが。ボルダーが助けてやらねえとまともに狩りもできねえんだろ? なのになんで何も言わねえ? あたしに頭を下げにこねえ? 『トドメを刺させてください』って頼みにこいよ? そんなプライドも捨てられねえってか?」

 

 アグニフの噛み付くような言葉に、レフィはハッとこちらを振り返った。

 余計なことを、と思ったけれどもう遅い。俺は彼女の前でクリスタルを獲得したことは一度もない。レフィが自分のことで精一杯なうちは誤魔化せると思っていたけれど、また何か言い訳のひとつでも考えておかなければならない。

 

 レフィは俺をじっと見つめた後、何かを言いかけて、やめた。

 聞くことに意味はないと、そう悟ったような、諦めたような表情だった。

 

「どうせあたしが嫌いだから頼みたくねえって言うんだろ? そりゃあ、こんな、コイツみたいななんでも言うこと聞きそうなのがボルダーなら命令するだけでいいからなあ? 頭なんか下げられねえよなあ!? プライドばっかりでけえリーダー気取りのクソ野郎がよ。お前はなにもわかってない。お前は痛みを知らない」

 

 お前は痛みを知らない。

 

「お前にはボルダーの苦労なんか何一つわかりゃしない」

 

 お前には戦士の苦労はわからない。

 

「なんか言い返してみやがれ!! ああ!?」

 

 何も言うことはない。

 俺は痛みを知らない。大した怪我もしたことがない。戦士の苦労なんてわかるはずもない。ああそうだ。その通りだ。わかるはずもないから、だから。

 だから、司令なんてもうまっぴらごめんだったのに。

 全部レフィのせいだ。

 

「ヒトに当たらないでください。アグニフさんがこんなことになってるのはあなた自身のせいです」

「お前がしゃしゃってくんな! 俺はアイツに聞いてんだよ!」

「わたしだってパーティです!! 何を言ったって、やっぱりあなたのやり方はわたしだって受け入れられません!」

「それはこっちの言葉だなあ!? あんな温そうな育ちのクソに指示を任すならひとりで戦ったほうがまだマシだ。お前だって後ろの方で指咥えてたくせに。最後にゃ戦えもせずに逃げ回ってたくせに」

「あれは、わたしの考えで……!」

「口答えすんなら実力で示してみろよ! 決着つけようぜ。ついてこいよ」

 

 アグニフが後ろに続く道をアゴでしゃくる。

 安い挑発だ。獣性で勝る彼女がレフィに負けるはずもないのに。

 

「……いいですよ」

「レフィさん」

「なんですか」

 

 呼び止めた俺に、レフィは食い気味に言い捨てる。

 止めようと思った。いまのアグニフと戦えば、大怪我をする可能性もある。けれど、ガンとした強い視線に、俺が言えそうなことは何もなかった。

 

 常々忘れそうになる。けれど、そうだ。彼女は俺の戦士ではない。

 いずれはあのパーティへ返す、その間だけの一時的な関係に過ぎない。

 そんな彼女を変えようとすることも、また、俺のすべきことじゃない。

 

「……僕は先に宿へ行きますよ」

「……っ!」

 

 レフィは唇をぎゅっと結んで、俺に背を向けた。

 爪の食い込む手のひらの痛みに、俺は身勝手な感謝をした。

 

 音も立てずに泣く、傷だらけのレフィを宿の影で見つけたのは夜になってからだった。

 

 

 

   *   *   *

 

 

 

 ランキョクさんの村から抜ける裏道は足場こそ最悪だけれど、使い勝手の良い薬草の群生地になっている。ここをさらに奥へ進むと道と呼べる道はなく、ちらほらとハウジールドの姿も見られるようになってくる。

 

 今日も山道へ狩りに行くと言って聞かず、それでも頑なに塗り薬を受け取ろうとしない彼女に、俺は「傷も放置したまま戦おうとするのが戦士なんですね」と言って無理やり使わせた。

 外傷に目立った切り傷は少なく、あざが多い。

 おそらくお互いに武器を使わずにやり合ったのだろう。目に見える傷だけ治して、俺達は宿を出た。

 

「…………」

 

 今朝から単語の繋ぎ合わせのような会話しかしていない。

 昨日は会話すらしていない。

 

 ぼろぼろの彼女を宿に入らせることすら一苦労だった。

 慌てて涙こそ拭き取っていたけれど、呼びかけても反応はなく、急かしても立ち上がる気配もなく、ただただ膝を抱えて座り込む姿はあまりに小さく、みじめだった。

 最終的には「そんなところで座り込んでいる戦士なんかがいたら、怪しいパーティだと思われるのでやめてくれませんか」と、彼女の自尊心に訴えることにした。彼女にどうして欲しいわけでもなく、そうしてくれなければ俺が困るからだ。彼女の意思で勝手にケンカをしてくる分には構わないけれど、俺に迷惑がかかるなら話は別だ。

 糞を投げつけあうのは好きにすればいいけれど、こっちに投げつけるつもりなら文句は言う。ただそれだけの話だ。

 

 そう、理論武装するしかなかった。

 

 この顔色からしてまともに眠れていないのではないかと思う。

 据わった目にはいつもの光もなく、耳にも尻尾にも元気がない。こんな状態で狩場にいこうとすること自体が、あるいはひとつの自傷行為のように思えて仕方がなかった。

 こんなことになった戦士を、正常に戻す方法なんて、俺は知らない。

 

 そもそも俺は戦士を知らない。

 その苦労も痛みも知らない。

 

 狩場を偉そうに眺めて、たまに気に入らない部分に口を出して、あとは戦士任せ。昨日もその前も、ずっと、俺は何もしてはいない。

 きっと今日だって何もしない。

 何も出来ない。この狩場で俺にやれることは何もない。

 

 ただの案内人だ。それでいいのかもしれない。

 

 

 

 鬼気迫る狩りだった。

 

「――――――ッアア!!」

 

 剣と共に舞い降りたその小さな体が、音を立ててハウジールドの首を落とす。

 空気にまで八つ当たりをするかのような咆哮は、その震えがこちらまで伝わってくるかのようだった。

 休憩もなく、止める間もない。

 ついていくだけで息切れを起こしている自分に歯噛みする。けれど見失うわけにもいかない。身軽なレフィの体は木々の間を縫って前へ前へと進んでいく。

 

 常に一体、あるいは二体。

 

 自分の許容量ギリギリを攻め続けるかのような動きは、痛々しさすら覚える。なまじっか冷静な部分が残っているせいで、無茶もしない。香水も投げられない。ただただ息の限界まで深い川の奥へ潜り続けるような行為は、到底上手な泳ぎには見えず、苦しさにもがいているようにも映る。

 出現するクリスタルに見向きもしない。

 俺はひたすらそれを回収しながら、彼女の背中を追う。

 

 視界の端の薄黒い毛。

 

 木陰に潜んでいた一匹が俺のすぐ近くで牙を剥いた。

 俺はもつれそうになる足でなんとか踏ん張り、左腕の盾を叩きつけるように前へ突き出す。鈍い音。冗談のように簡単に弾き返される。熱を持つような瞬間的な痛みと、崩された体勢に歯を食いしばる。

 生身に受けるマナの衝撃は予想を軽く飛び越えた。

 

 目の前のハウジールドが一度距離をとり、俺を伺っている。

 気づいたレフィが俺の名を呼ぶ。駆けつけようとしたその足に、レフィと相対していたハウジールドが食らい付こうとする。

 

「……っ!! っああああああああああ!!」

 

 体勢もクソもない、雑な一振りが、噛み付いたハウジールドの首を容易く切り裂いた。

 光が散る。クリスタルの落ちる地面、レフィの足元。噛み付かれた傷が浅い。

 皮肉にもいまのレフィは昨日よりも強い。彼女の心にマナが強く呼応している。それほどに、いまのレフィの感情が。

 

 俺は息切れすら忘れ、レフィの元へ走る。逃げる。

 その動きがきっかけになったか、数瞬おくれて唸り声と足音が追ってくる。すぐ背中に迫る。慌てて振り向くその足が、木の根に引っかかる。無我夢中で盾だけを前に突き出す。

 不十分な体制で受けきれるはずもない。ぐわん。あっけなく世界が回転する。一瞬だけ目に映った地面がやけに遠く感じられて、死んだかな、なんてことを思う。たった一匹でも面倒くさがらずに香水を出すべきだったかなあと、悠長に反省する。


「が、あ……っ!!」

 

 肩、ヒジ、足の皿。

 地面に転がった俺は体を満遍なくぶつけて、やっと止まる。めちゃくちゃ痛い。痛いというより熱い。脳が感覚を処理しきれていない。

 いろいろな箇所がじんとした痛みに変わっていく中、なんとか顔をもたげる。同時に輝く光と、高い音。レフィが剣を振り下ろす後姿の先に、小さなクリスタルが出現する。

 

 俺は口の中に入った土を吐き捨て、上半身を起こした。

 手のひらに感じる湿った地面が柔らかい。多少の緩衝材になってくれたか。

 どっと噴き出して来る汗は今ではなく、気づかなかっただけだろう。喉の奥がひゅうひゅういっている。指と足の関節を動かしてみるけれど、どうやら動く。折れてはいないらしい。…………もし骨折しても体は動くのだろうか?

 はっとして頭を両手で確認すると帽子が少しズレていて、慌てて深くかぶりなおす。

 

「…………なさい」

 

 乾いた葉が地面に擦れる程度の音だった。

 レフィの方を見ると、俺から顔を背けているからおそらく聞き間違いではないのだろう。

 俺は吹っ飛ばされた場所まで歩いて戻り、落ちている袋と、その外に散らばったクリスタルをもう一度敷き詰めて、最後にレフィの足元のひとつを入れた。

 

 レフィの狩りはアグニフを彷彿とさせるほど一直線だった。数は山道ほど多くないけれど、魔物が散らばっている場所を真っ直ぐに進めば、当然周りは敵だらけになる。横っ面から敵が飛び出してくる可能性だってもちろんあるわけだ。

 俺は袋をじゃらりと鳴らす。もう十分に認定をもらえるくらいの大きさにはなっているけれど、この分だと、いまから戻るにしても数匹のハウジールドには出くわしそうだ。

 

 しかし、ごめんなさい、か。

 はは。ふはははははは。

 

 込み上げる不謹慎すぎる笑いを、必死で抑える。

 こんなの、ただの当て付けだ。

 袋を放してすぐに香水を撒くくらいの時間はあった。俺の感情がそれを許さなかっただけだ。ハウジールドが間近に迫ったときも、なんの恐怖も感じなかった。まだ俺はふて腐れているのかもしれない。

 いっそここで攻撃されてしまえば、俺は戦士の痛みのうちのほんの少しを経験することができる。だなんて。

 お前は何も知らないと言うアグニフへの当て付け。あまりにも子供っぽい抵抗だ。それで死に掛けているのだから世話はない。レフィの責任であるはずもない。

 

 この全身の痛みをいっそ清清しく感じてしまうのは、そろそろ変態もここに極まってきたのかもしれない。

 ああ愉快だ。くだらない。

 

「大きさも十分ですし、今日は帰りますか?」

 

 俺が塗り薬を使っている間も律儀に待ってくれているレフィの、その背中がびくりと動いた。なにを驚くことがあるのかわからない。

 レフィはこちらを振り向かずに、来た道へと足を運んでいく。

 俺は一度腰に手を当てて息を吐くと、少しすっきりした気分でまるまる太った袋を担ぎ上げた。

 

 

 

 最後のひとつを拾い上げる。

 場所をズラしたおかげでアグニフと鉢合わせることはなかった。しかしまだ手のひらで転がせる大きさのクリスタルでは、レフィは満足していないかもしれない。

 明日も来るのだろうか。

 

 手持ちに手ごろな入れ物がない。最後のかけらはひとまず空いた試験管の中に転がし、フタをしておく。今日で狩りを終えて認定を受けるのならば、これを提出すればいい。

 相変わらず重さのない袋を担ぎなおす。まるで空気を運んでいるような気分だ。こんな重さで地面にも落ちるし、それでいて風にも飛ばされないのだから不思議なものである。

 

「ニトさん」

 

 前を歩くレフィが振り返る。

 全然笑えていない、と、最初に思ったのはそんなことだった。震える口元でなんとか微笑をつくろうとする表情は、笑顔というにはあまりにも無理があった。

 涙が出ていないだけの泣き顔。俺にはそう見えた。

 

「わたし、あの技を覚えようとおもいます。これだけクリスタルがあれば、覚えられますよね? だいじょうぶ、ですよね?」

 

 二度三度と確認する声は、何かに怯えるように震えている。

 自分ではあの技を扱えないかもしれない、とでも思っているのだろうか。それならば心配はない。技も魔法も協会ならば平等に習得させてくれる。レフィもちゃんと扱える。

 もともとはそれが彼女の望みで、夢で、憧れだったのだ。

 何を迷うことがある。


「クリスタルなら、なんとか足りていると思いますよ」

 

 言葉が上滑りする。そうじゃない。

 なぜ、俺はひとこと。

 大丈夫ですと、言わないのか。

 もちろんですと、言えないのか。

 

「……いいです、よね?」

 

 レフィの再びの言葉は、まるで哀願するかのような、消え入りそうな声だった。

 

 

 

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