イワシの生姜煮
暖冬とはいえ、夜は冷える。薄手のコートの前を握りしめながら、家までの道のりをゆっくりと歩いていた。ポツポツと置かれた街灯が行く道を照らしてはいても、真っ黒のアスファルトは真っ黒のままだった。
帰りがこんなに遅くなったのは忙しかったからじゃない。仕事が全く捗らなかったからだ。何を考えるわけでもないのに、僕の思考は目の前のパソコンを通り抜けて、オフィスの灰色のカーペットに飛んでいた。
早退してしまえばよかったのかもしれない。だが、一週間会社を休んだ分の仕事が、家路を遠ざけ、僕の思考も止めさせていた。明日が土曜日ならいいのにな。願望がはっきりと頭の中に浮かんだ。
家族はもう寝ていることだろう。大学生の長男は起きているかもしれないが、自室でのんびりと過ごしている時間だ。頭に
予想通り僕を出迎えたのは犬だけで、ほのかに暖かさの残ったリビングは、申し訳程度に豆電球一つが灯されていた。寝室に向かうことなく、ソファーにどっかりと腰を下ろす。体が重い。下へ下へと押し下げる真っ黒な液体が心の中に巣食って、僕の体重を何十倍にもしているようだ。
一人暮らしの母親が急に逝ったのはつい先日のことだった。日頃から活発で社交的だった母の異変にすぐ気がつけたのは幸いだったが、なんの言葉を交わす暇もなく、母はこの世から姿を消した。
親族や知り合いに連絡をとり、喪主として葬式を済ませ、遺品をあらかた整理したのが数日前。まだやらなければならないことは残っている。仕事もある。何から手を付けていいのか、整理しようにも頭がついていかない。
もうこのまま寝てしまおうか。妻の朝は早いから、彼女のたてる物音で目を覚ませば、朝にシャワーを浴びる時間もあるはずだ。重い。とにかく体が重い。たぷたぷと波打つ黒い液体の動きに任せて、体を倒した。ソファーの肘掛けにもたれ掛かるように背を
沈んだ気持ちとは裏腹に、体は素直に空腹を訴える。そういえば、昼にコンビニのおにぎりを食べてから何も口にしていない。真っ黒な液体に体まで壊されないように、のっそりと立ち上がり椅子に座った。
メインと
イワシに箸をさすと、もう保っていられないとばかりにホロホロと身が崩れ落ちた。出てきた白い身にタレを絡ませて口に運ぶ。口に入れたイワシは、咀嚼するまでもなく香ばしい味わいを残して消えていった。続けてもう一口と箸を戻すと、イワシは骨までも崩れ落ち、僕もホロホロと涙をこぼしながら崩れ落ちた。
家族が寝ていてよかった。声を殺してしばらく泣いた。
泣きながら食べ物を頬張るのは子供の時以来だ。最近、いつ涙したのかも思い出せない。母の葬式でも泣けなかった。目から次々と溢れる涙はいつもどおり透明だったが、心の中の黒い液体が外へ外へと流れ出ているような気がした。
骨が崩れるほど優しく煮られたイワシをすべて口の中に放り込む頃には、黒い液体の存在すら感じなくなって、僕はきちんと明日を迎えに風呂場へと向かった。
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