毎日味噌汁を作って欲しい。

 置かれたライトノベルと目の前の彼女の顔を交互に見て、誤魔化しも後回しにすることもできないのだと目を瞑る。


「はい。俺の原点です」

「……?」


 どういう意味?と奥底を見つめてくるような目だけで問われ、うっと言葉に詰まるかと思ったらすんなり言葉にすることができた。


「この本を読む前なんですけど、俺、けっこう苦しかったんです。学校生活が大きな理由ですけど…… どうすればいいんだろう。どう生きればいいんだろう。自分はどういう人間になりたいんだろうって……。そんな心の支えっていうか、バックボーンもなく自分でもよく分からないループにハマっていました。そんなことを思い続けていたとある日に、この作品に、この巻に出会ったんです」


 ズラズラと一人語りしてしまった。終わった。あぁやっぱり俺もオタクだな。


「そっか」


 自己嫌悪しているとこちらを見つめたまま彼女はそれだけ言ってまた黙ってしまった。特に気にしている様子は見られないが彼女は今どう思っているのだろうか?何を考えているのだろう。普段彼女が無口過ぎてこうやって少しの間だけでも会話出来ていることが不思議なくらいだ。


「……」

「……」


 気まずい。気まず過ぎる……


「あっ!」

「……?」

「すみません! そういえば味噌汁作るって言って中入ってもらったのにまだ準備すらしてませんでした! 今から作ります!」


 逃げた。なんとも言えない空気に耐えられなくて俺はそそくさとキッチンに向かう。


 調理を開始してから約20分で味噌汁は出来上がった。俺の気配に気づきこちらを向いている彼女を無視して(内心ドキドキが止まらない)、目の前に味噌汁を置く。


「大根とわかめ……」


 ぼそっと一言だけ彼女が呟いたのを聞き、ゴクリと俺は唾を飲み込んだ。あぁ、よかった。どうやら彼女の意識はラノベではなく味噌汁に向いているっぽい。


「大根とわかめ嫌いですか……?」

「いいえ……いただきます」


 礼儀良く手を合わせてから汁をすすり、具を口に運ぶ。その繰り返し。食べ終えるまで俺も彼女も無言で、エアコンの機械的な音だけが響いていた。


「ごちそうさまでした」


 自分で持っていたであろうハンカチで、口元を拭いて食べ終えたことを一言伝えてまた黙る彼女。


 長い沈黙だった。いや、部屋の時計を見ても実際には5分も経っていない。この気まずい空気から抜け出すために何か言葉にしなければ……


「あの……まずかったですか?その……普段自分用に作ってるだけで誰かに食べてもらう機会なんて全くないので……」

「……」


 そうやっとの思いで口にした俺をただ見つめてくる彼女。

 お願いです!言葉にして……!


「……欲しい」

「ん?はい?すみません。声が小さすぎて聞こえませんでした」


 聞き返した後に瞬きの回数が増えたかと思ったら、彼女は艶のある唇を震わせて━━


「毎日味噌汁を作って欲しい……」


 そう言った。



 びっくりした。今まで交わしてきた言葉の中で1番と言っていいほど小さい声だった。でも、芯が通ったような真っ直ぐなものは伝わってきたからだろうか、かろうじて聞き取ることが出来た。どう答えたものかと悩んでいるとじーっと彼女にまた見つめられていた。


「あっ!すみませんすみません。えーと」


 素直に聞いていいものか考えたけどやっぱり真っ直ぐが一番いい気がした。


「なんでですか?」

「なに……が?」

「その……なんで俺が味噌汁を……」

「聞こえて……た?」


 少し頬を染め出した彼女が俺から目を逸らした。どうやら聞こえていないと思っていたっぽい。


「……美味しかったから」

「うっ……!」


 今度は俺が涙を流す番だった。


「え!? そのごめんなさい。その本当に美味しくて……大根とわかめ美味しかった。温まったよ……何か母のこと思い出したの。私が作るものより美味しかったから……人が作るものってこんなにも美味しいんだって思い出したから……だからその作って欲しい」

「うぅ……自分も……母のことを思い浮かべてしまって……」

「そうなの……?とりあえず涙拭いて。はい、ハンカチ」


 泣いてる俺に先程とは違うハンカチを差し出す彼女を「大丈夫です」と手で制し、テーブルに置いてあるティッシュで汚い部分全部拭いた。


「お見苦しいところ見せました……その、俺の話になるんですけど……うち小学校の頃から母子家庭で、母が夜遅くまで働いてて俺が家事すること多いんです。だから料理は人並み程度には作れるつもりなんですけど、初めて母に作ったものが味噌汁だったんです」


 そう言って一度呼吸を整えてから続ける。


「それで、『美味しい。元気でたよ』って言ってくれて、絶対そこまで美味しくないのに美味しいってそのひと言が嬉しくて……だから、頑張ろうって母を支えるんだっていう思いを持ってここまで来たんですけど……最近は特に何を言われることもなく、あたりまえになってしまったから。だから……嬉しかったんです。氷室さんの言葉が……」


 長い長い自分語りを終えた。


「ふふっ。あ、ごめんなさい」


 そしたら笑われた。そりゃ当然笑われるよな……しかもやってしまった感が顔に出ていたらしい。


「初めて呼んでくれたね。私の名前……知らないのかなって思ってた」

「え?」


 どうやら違うことで笑われたらしい。確かに彼女のことを1回も名前で呼んでいなかった気がする。というか、扉の前の札を見れば苗字が書いてあるのだからわかっているに決まっている。お隣さんなんだし……え?普通だよな?


「いや……そうでしたっけ?まぁそれはいいじゃないですか。それよりわかりました。味噌汁作ります」

「ありがとう」


 彼女に礼を述べられた後に、『毎日朝の6時頃と夜9時頃に作って欲しい』と言われた。普段夜8時くらいまでバイトしている俺だけど部活に入ってるわけでもないし、誰かに美味しいって言ってもらえるなら━━言ってもらえたから。すぐに了承した。

 平日、休日、祝日関係なく昼はいらないらしい。たぶん、学生の俺に対する配慮だろう。


「その……頑張ります!てか自己紹介してませんでしたね……秋野太陽あきのたいようです!よろしくお願いします氷室さん」

「……」


 あれ……?自己紹介の流れを作ったのに会話がまた途切れてしまった。俺たちの相性最悪では?


氷室雪菜ひむろせつなです……それと」


 何かを決めたような顔で俺に届いたのは、目の前の白くて綺麗な彼女にピッタリの名前だった。


「秋野太陽くん。毎日味噌汁を作ってください」


 その彼女の二度目の願いを最初に、俺たちの新たな日々が始まった。


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ラノベ好きの俺と202号室の氷室さん。 美海未海 @miumi_miumi

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