赤橙
増黒 豊
第一章 いたどりの剣
赤と、橙の狭間で
助けて、という言葉ほど虚しいものはない。それは助けを求めながら、それが期待できぬときに決まって発せられるものであるからである。実際、必死の形相で逃げる薄汚れた少女とその両親を救いに入ろうとする者はなかった。
冷たい土が蹴り上げられ、風と一緒になって流れてゆく。そして、それを男たちの怒号が塗り潰す。
助けて、という言葉はやはり何の意味も持たず、父親が、まず血祭りに上げられた。どうにか妻と娘を逃がそうと踏みとどまったのが、よくなかった。
続いて、母が。母は土から顔を覗かせている石に足を取られ、転んでしまった。そこを群がり集まる男たちにさんざんな扱いを受けた。
それを、少女は見ていた。
誰も、助けるものはなかった。村の者は、血まみれになって転がる父や、衣を破り取られて泣き叫び、殴られたりしながら背後から突き上げられている母を見て、あれが己でなくてよかったとのみ思った。そして、少女にこれから襲い掛かる定めが、我が子のものでなくてよかったとのみ思った。
彼らが、乱暴の限りを尽くす男どものために生贄になってくれている間に、逃げようとすら思った。
少女は、それをただ見ていた。冷たい土を、尻に感じながら。
南の国の者がやってきてから、神とそれがもたらす恵みで溢れていたこの北の地は、血に染まった。もともと、この大地は冬は厳しいが、春になれば止まっていたすべての時間が一気に流れ始めるようにしていのちが息吹き、夏にはそれが恵みとなって海と大地とそこに生きる全てのいのちを潤し、そのいのちはまた別のいのちの糧となるだけの美しい国であり、人もまたその天地万物の一部として息吹いていた。
そういう人々は、突如として船でやってきた、それまで交易などをして過ごすのみであったはずの南の国の者の振るう凄まじい切れ味の刀や、精度の高い弓などの前に蹂躙され尽くしていた。
人は、それを悲しみ、それを怒った。
いたどりという植物がある。それは古くからこの北の民の間で、傷を癒し、痛みを取り去るものとして知られている。
あるとき、ある神が、それを剣にして人に授けたという。その剣は、人の痛みを癒すときにのみ抜くことができるという。人が血を流し、痛みを叫ぶとき、その剣は人の前にあらわれる。
そういう言い伝えがある。それがほんとうなら、今こそ。
彼らは、痛みを癒すものを求めていた。
目深に被った笠が、揺れている。
鹿の皮で作った外套にくるまりながら、それは歩いていた。姿形からして、女であろう。外套は防寒のためでもあるが、何かを隠すためであるようにも見えた。
「おい」
草のうっすら生えた街道を塞ぐ声。女が笠を少し上げてそれを見ると、数人の男が道を塞いでいた。
「この先の村は、俺たちがいただいた」
手には、剣や槍。それが放つ血の気配に、笠の奥の女はわずかに反応を示した。
「用のねえ奴は、去れ」
去れ、と言われても、もとより女にはゆくあてなどない。この先に村があることすら、知らないのだ。深かった草が薄くなっているから、人がよく通るのだろうとは思っていた程度である。
間抜けな雲が、ぷかりと浮かんでいる。栗鼠に似た形だった。それを、ふと見上げた。
「おい、待て。こいつ、女じゃねえか」
とにかく、南の男というのは女に目がない。暴力でもってこの北の大地で何をしようというのか女の知るところではないが、女だと見る度にこうして絡まれるのではたまったものではない。
浅いため息。それすら楽しむように、じりじりと武器を擬しながら迫ってくる男たち。
「――痛てえ!」
一人が女に向かって伸ばしかけた手を押さえ、うずくまった。
「こいつ、剣を持っていやがるぞ」
男どもが、一斉に殺気立つ。言葉の通り、鹿の外套からにょっきりと覗く女の白い腕の先に頼りなげに付いている手には、剣。それも、鞘のまま。
「生意気な」
それを奪い取ろうと、男どもが飛びかかる。
しばらくのあと、女はまた歩きだした。その背の向こうには、呻き声を上げながら転がる男どもがあった。
男どもの言葉によると、この先に村があるらしい。空腹を覚えたのか、女は腹をひとさすりし、道の先を目指した。
なるほど、村があった。村人どもはどれも死んだ魚のような目をしており、それをじろりと笠の女に向けてきた。
食い物を求めることを諦めようとしたのか、女が立ち止まり、もと来た方へ身体を向ける。その視界に、一人の少女。
「――どうした」
笠のために顔は分からぬが、女の声は、若い。
「お姉」
少女は、女が剣を帯びているのを見つめ、細く声を発した。
「その剣、ちょうだい」
「なぜだ」
少女がつかつかと歩み寄り、女から剣をもぎ取る。そして、それを抜こうと力をこめた。しかし、どうやってもそれは抜けず、少女は顔を真っ赤にして、やがて息を切らせて尻餅をついた。
「やめておけ。抜けぬのだ、この剣は」
女は屈み込んで少女の手からそれをそっと抜きとり、あるべきところに戻した。
「そんな剣、何の役にも立たない」
少女が怒って駆け出し、そしてすぐに足を止めた。
村の入り口に立ち塞がる男ども。さきほどの連中である。
「いやがった。この女――」
「おい、皆、集まれ!」
声に応じ、あちこちから南の装束の男どもが湧き出してくる。それが、少女と女を囲む。少女は恐怖のあまり声も出ぬのか、蒼白な顔で立ち尽くしている。
「逃げろ」
女は少女の腕を掴み、強く引いて輪から放り出した。そして、手にした剣を、鞘のまま振るった。どのようにして覚えたのか、一人、二人と打ち倒す技は見事なものであるが、後ろから腰を蹴られて体勢を崩したところ、寄ってたかって殴られた。
「やめて!」
うつ伏せになり、痛みをこらえる女に覆いかぶさる、別の女の声。
「わたしの姉を殺し、その夫も殺し。次はこの子。それに、この村の者ですらない旅人。あなた方は、どこまで人のいのちを奪うのですか」
「人のいのち」
繰り返し、男どもはげらげらと笑った。
「人のいのちは、重んじなければ。だが、人でないもののいのちをどうなろうが、俺たちの知ったこっちゃねえや」
そう言って、身を挺して笠の女を庇う健気な娘の腕を掴んで持ち上げ、その衣を剥いた。
「やめろ――」
笠の女は呻いたが、痛みのために立ち上がることすらできない。少女にとって、この娘は叔母ということになるのだろう。自らの血に連なる知り人が裸に剥かれ、男たちのいいようにされて悲鳴を上げるのを、少女はただ見ていた。霞む意識の中で、笠の女はそれを見ていた。
やがて娘はあちこちから血を垂らしながら動かぬようになり、男どもは笑いながら村の奥に引っ込んでいった。
「お姉、痛い?」
少女が、自分の家にしている小屋の中で、女の傷にいたどりの葉を塗りこめてやっている。笠を外したその顔に刺青がないのを、不思議がっている。この国では、女は長じると刺青を施す。はじめ、右腕。次いで、左腕。そしてそれが胴にゆき、さいごに顔。手当てを受けているこの女くらいの年頃になれば夫を持ち、その婚姻の前に夫が妻となる女の肌に小刀で傷を入れ、そこに白樺の灰を塗って刺青をほどこしてゆくのだ。
磨り潰したいたどりの葉が癒す右腕にだけ、刺青がある。まるで、途切れてしまっているように。そのことを質問するより、先ほど目の前で起きたおそるべき光景を、女の手当てをすることで塗り潰そうとしているように、少女は黙々と作業を続けた。
「あの娘は、お前の知り人か」
視界を穿つ戸口の向こうには、まだ娘の亡骸が放置されている。それを顧みることなく、少女は頷いた。
「お前の父や母は、死んだのか」
また、頷く。
「南の者に、殺されたのか」
「お父はわたしたちを逃がそうとして死んだ。お母は、あのお姉みたいにして、死んだ」
それを、少女は見ていた。それ以外、どうすることもできなかった。
その真っ黒い瞳には涙すらなく、ただ乾いた何かがあるだけだった。
それの名を、笠の女は言い当てることができた。
「悲しいか」
少女はわずかに首を傾げ、やがて頷いた。
それきり笠の女は何も言わぬようになり、冬の前に鳴く鳥の声と炉に焚かれた小さな火の音だけが屋内に満ち、手当てが終わると少女は女に食わせるものを求めるため家を出ていった。
男どもは、食うものに困っていなかった。
この実り豊かな大地は、獣もいれば魚も獲れるし、南にはない実なども多くある。そして、それを北の民を使役して獲得させ、持ってこさせる。彼らにしてみれば、笑いが止まらぬとはこのことであろう。
村の最奥、あたらしく切り開かれたであろう場所に、彼らはいた。
夕暮れ。大きく傾いた陽が海風とひとつになろうとしている。その橙に、赤がひとつ咲いた。
何が起きたのか、男どもは分からなかった。遅れて、その赤が仲間の一人の首のない胴から噴き上がる血であることを知った。
「――泣け」
すぐ近くで声がして、男どもは驚いて声を上げて武器を握った。
夕闇がもたらす、影だった。いや、昼間の女だった。手には、片刃の剣。刃渡りもたいしたことはなく、おおよそ人間の首を刎ね落とすような斬れ味を持つとも思えないものであった。だが、それが放つ異様な気は、男どもにも感じられた。
その気は、光となった。傾き落ちる陽を照り返しているのだ。
一人が、ゆらゆらと揺れる女の姿に向かって、槍を繰り出す。しかし、それはただ虚しく空を突き刺すのみであった。
ふわりと、霞が漂うように、女の身体が旋回する。そして、緩慢すぎるほどの動作で、槍を突き出した姿勢の男の喉笛を斬った。
血と息を噴き出して崩れる男の向こうの一人。それが振り下ろす、大刀。
その刃の腹を女がわずかに押すと、大げさなほどに男の姿勢が崩れ、そして同じ瞬間、無惨な死骸となった。
「な、なんだ、こいつ――」
恐怖。それが、橙と赤の世界に満ちた。
「――泣け」
まるで歌い舞うように、女はするすると身を滑らせた。そして、腕が、首が、血が飛んだ。
「泣け」
女がわずかな間に作り出した骸の数を数える前に、最後の一人が尻餅をついて己の命を永らえることを求めた。
「た、たすけてくれ」
「人でないもののいのちなど、数えるに値せぬ。お前は、そう言ったな」
静かな、まるで風が木々の間で囁くような。そういう声で、呟いた。
「だから、泣け」
最後の一人もまた、断末魔とともに骸となった。
「――泣け。クトネシリカ。わたしの代わりに」
血振るい。そして、納刀。
橙と赤との混じり合った世界に、その音が冷たく響いた。
「あいつらを、やっつけてくれたの」
少女の虚ろな声が、女を見上げている。
「これで、お父も、お母も、お姉も――」
言いかけて、少女は涙を流した。おそらく、彼女の知り人が死んでから、はじめて流す涙なのだろう。
それを、女はそっと拭ってやった。
女の半端な刺青の施された右手にべっとりとこびりついた返り血が溶けて、薄赤い線になって少女の頬に残った。それは、ちょうど赤と橙の狭間の色だった。
「――お前の知り人を殺した者は、ことごとく死んだ」
女の声は、消え入りそうに悲しげである。
「それでも、悲しみは、癒えぬな」
言って、立ち上がり、少女の前から立ち去ろうとした。
「お姉」
その足が、止まる。
「お姉の、名前は」
「――セキトウ」
人の痛みに応じてあらわれ、それを癒す宝剣、クトネシリカ。
だが、セキトウは言った。殺した者を殺しても、それでも、悲しみは癒えぬと。
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