第9話 名無しの名
日頃の癖か、グレゴールは怒りに顔を歪ませながらも、自分に楯突いたその男を余すところなく監察した。
研究とは観察の上に成り立つ。たとえ初めて遭遇するものであっても、観察という過程を経ることで既知へと代わる。未知を既知へと変えていくのことそ、研究者の本分であり、グレゴールもそれは変わらない。
もっとも、彼が相手を観察するのは、相手の弱みを見つけるためであり、究極的には自分の利益のためだった。
「貴様、私が誰だか分かっているのか?」
グレゴールはウェルペンの街の出身ではない。
幼い頃に、その才能を見出されてメルスースの弟子となった中央貴族の四男だ。
ウェルペンの街に彼の生家の力は及ばないが、貴族の息子というだけで、必要以上の期待もやっかみも受けてきた。そんな中で自分を守り、栄達を果たすためには、相対した者を如何にして自分の利益へと変えるかが重要になる。
グレゴールには、その才能があった。そしてその才能は、彼の野心をより大きく、先鋭化させた。
「おい、きさ――」
――ガァンッ!
「!!」
だが、そんなことはヒューマにはまったく、微塵も、寸毫ほども関わりのないことだ。
ヒューマにとってのグレゴールは、慣れない仕事をしている自分の邪魔をしに現れたどこかのお坊ちゃんなのである。
「なんのまね――」
――ガンッ!!
「きさ――」
――ガンッ!!
「おい、それをやめ――」
――ガンッ!!
「この――」
自分を馬鹿にした態度を崩さないヒューマに耐えきれず、メイアをその場に放り出すグレゴール。
メイアは震える体を両腕で抱き締め、グレゴールから離れた。
ヒューマに向けた視線には、困惑と同じだけの安堵が見えた。
「…………」
それをちらりと見遣り、ヒューマはのんびりと立ち上がる。
ヒューマとグレゴール。視線の位置は、ほとんど変わらない。
「私に対して、なにか存念でもあるのか?」
「存念? お前にそんな価値があるのか? それは知らなかった」
「くっ! 貴様は自分の立場が分かっているのか! 護衛ならばもう必要あるまい。さっさと失せろ!」
「俺の雇い主はそこのメイアだ。お前じゃない。お前の指図など受ける理由はない」
「この街で私に逆らうなど――」
グレゴールは怒気を孕んだ声を上げ、ヒューマの胸に人差し指を突き付ける。
傭兵ひとりなど、グレゴールの権力があれば簡単に処理できる。それは事実であり、グレゴールの自信の源のひとつだった。
「逆らう? この街には不便な法があるんだな。では俺を捕らえてみろ」
「よくぞ言った、ならば望み通りにしてやろう! おい、この者を捕らえろ!」
グレゴールに命じられて兵士たちが動こうとするが、その動きはすぐに止まる。
戸惑ったようにグレゴールとヒューマの間で視線を彷徨わせ、その場で立ち竦む。
「おい! なにをやっている!」
「そ、その者はすでに牢におります! 法の裁きもなく、これ以上どうすれば……」
「なに?」
「おい、部下が困ってるぞ。俺がなんの罪を犯して、お前がなんの権限でその罪を裁いたのか、彼らに教えてやったらどうだ?」
ヒューマはこれまでの街や人々の様子から、グレゴールのもつ権限がひどく不安定なものだと推測していた。
彼がメルスースの後継者で、大きな権限を持っていることは事実だろう。だが、法を司るような行動はできないと踏んだのだ。
もしもグレゴールが法さえも手中に収めていれば、すでにメイアと自分は引き離されているし、兵士たちが彼に逆らうようなこともできなかっただろう。
(メルスースという人物は、大したものだ)
人々に法というものを理解させ、それに基づいた街の統治機構を作り上げている。
それもここ最近のことではなく、人々がそれを当たり前のものとして受け入れるほどの時間を掛けてだ。
『あまり分のいい賭けとは思いません』
(持ち金を持たない奴のほうが、大きな賭けができるんだ。なにせ、失うものもないんだからな)
ヒューマの持つ財産は、彼自身と秘匿された移民船の残骸だけだ。
多くのものを手に入れ、そして守らなければならないグレゴールとは正反対の場所にいる。
「それとも、一時の激情で単なる護衛の男を排除したいだけか? 自分の持つ権力を使って、我が侭を叶えたいのか?」
「き、きさま……!」
ヒューマの論理には多くの穴がある。
冷静な第三者であればいくらでもその穴を突くことはできるだろう。だが、グレゴールにはふたつの意味でそれができない。
(私が、こんな取るに足らぬ流れ者に全力を尽くすなど、できる訳がない!)
グレゴールは、己の価値を他人に映すことで己の価値を計っている。
自然と、己を映し出す相手は、己と比較するのに相応しい者を選ぶようになっていた。
メルスース、アイリア、そして最後の賢者の弟子であるメイア。
いずれもグレゴールの鏡として、彼の自尊心を満足させる相手だった。
(だが、こいつは違う!)
ヒューマは単なる流れ者の剣士だ。
実力は分からないが、何の後ろ盾もなく、経歴も定かではないような者を己の鏡とすることに、グレゴールは耐えることができない。
いっそ、ヒューマのすべてが自分より劣っていると分かっていれば、戯れとして相手にすることもあったかもしれないが、今となってはそれもできない。
(この男は、私の邪魔をした。この世の総ての知識を手に入れる私の!)
己の価値を高く見積もれば見積もるほど、グレゴールは自縄自縛に陥る。
彼は握り締めた拳を震わせ、じろりとメイアを一瞥した。
「あっ」
メイアは怯えたように震え、じりじりとヒューマのほうへと移動する。
今までの旅を経てヒューマの実力を知っているメイアにとっては、自分の身を守るための判断としては至極当たり前のことだったが、グレゴールにはそう見えない。
メイアという少女の目から見て、自分がヒューマに劣っていると看做されたようにしか思えなかった。
「――そうか」
その瞬間、グレゴールの中でひとつの感情が芽生えた。
憎悪だ。
(この者たちは、私の邪魔になる)
計算ではない。
グレゴールは、彼の感情の判断したままにそう結論付けた。
「メイア嬢には部屋を用意しよう。そちらで旅の疲れを癒すといい」
「は、はい……」
「護衛の彼にも部屋を用意させよう。なに、ここよりは快適だろう」
グレゴールの視線を、ヒューマは真正面から受け止めた。
敵意も、怒りも、憎悪も手に取るように分かる。
(これは、余計な敵を作ったか?)
『分かっていてやったのでしょう。今さらなにを言っているのですか』
アルゴノートに呆れという感情はないはずだが、その口調にはそれが感じられた。
ヒューマはアルゴノートに反論することもせず、ただ無感動にグレゴールを見た。
「御曹司の用意してくれる部屋となれば、ようやく、旅の疲れが取れそうだな」
「――期待には応えよう。では、私は仕事が残っているので失礼する」
グレゴールはローブを翻し、牢を出て行く。
供の兵士たちがそれに続き、地下牢にはヒューマとメイア、そして見張りだった兵士ふたりが残された。
そして残された兵士のうち、若いほうの兵士がヒューマにいった。
「なかなかいい啖呵だったぜ、兄ちゃん」
「見栄を張る機会があるなら、張っておいて損はないからな」
そう言ってメイアに視線を向けると、兵士たちはふたり揃って笑い出した。
そしてひとしきり笑うと、真剣な眼差しでヒューマを見つめた。
「そうだな、あんたの言う通りだ。アイリア様に鍛えられた俺たちも、あの方に対する見栄を張るころなのかもしれないな」
ヒューマはその視線の意味は理解できなかったが、この街で面倒事が起きることはわかった。
だが――
「あの、ヒューマさん、ありがとうございました」
この世間知らずな少女を森で拾った分の責任くらいは、果たさなければならない。
「どういたしまして」
ヒューマはそう返事をして、メイアの頭を強く撫でた。
メイアは一瞬驚いたように目を大きく見開いたが、僅かな戸惑いのあと、ヒューマの服を小さく掴む。
(この人、先生に似てる……)
それは、今まで一度も感じたことがない心の疼きだった。
自分を拾い、教育し、しかし置いていってしまった師を誰かに重ねることなどなかった。それ程までに、彼女にとって師は大切で、不可侵な存在だったからだ。
だが、この生まれも育ちも知らない旅の剣士には、師と同じなにかを感じている。メイアにはそれが不思議だった。
(私には先生の跡を継ぐなんてことはできない。でも、先生が残したものを守らなきゃ)
どこかに、賢者たちが残した数々の知識を受け継ぐに相応しい者がいる。
メイアの目的は、その人物に会い、賢者の書を渡して迫り来る危機に備えることだ。
(メルスース様なら、きっと……)
メイアにとって、師の遺産は生きる理由そのものだ。
それを守ることだけが目的と言っていい。
「……大丈夫」
そう、大丈夫のはずだ。
自分はきちんとできる。
そうでなければ、自分に生きている意味などないのだから。
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