第5話 無害な有害
「…中、入りなさい」
おばさんが優子の左肩甲骨を優しく触りながら、彼女を電光のある世界へと入れた。光に照らされた優子の髪は、良い風に言えばキラキラ光っていた。顔は濡れていて、いつもは色鮮やかだった紺色のブレザーも濡れて、黒っぽくなってしまっていた。
「…優子」
「…」
おばさんは他の人には聞こえないくらいのか細い声で名を呼んだ。呼んだ名の後に、「何があったの?」という質問が隠されているのがわかる。それでも優子は、自分の髪から垂れる水滴を見つめるように下を見ているだけだ。水滴が床に落ちる音が聞こえるくらいの沈黙がこの空気を覆う。
「優子、何があったんだ。言ってくれ」
さすがのおじさんもその沈黙に耐えられなかったのだろうか。とうとうおじさんが娘に声をかけた。周りが何一つ音を作り出さない分、おじさんのかすれた低い声は部屋中に響いた気がした。それでもこの空気が作り出したのは、またもや沈黙だった。遠くの方から微かに救急車の音が聞こえる。
「…どうせわかってくれないもん」
救急車の音より少し大きい声で優子が呟いた。その空間にいたおじさんとおばさんの頭にはてなマークがついているのは確実だった。
「え?」そのはてなマークが声として漏れたのはおばさんだった。
「どうして…?」
優子がそういうと、下を向いていた顔を前差し出し、顔をあらわにさせた。濡れた顔は水によってだけではなく、目から放たれた涙によって、再びビショビショになっていた。
「優子…?」
「うるさい!何も知らないくせに!!!」
突然の怒鳴り声。今まで、沈黙や呟くような声で会話がされていた分、突然の大きな声に、おじさんもおばさんも僕も慌てたような表情を見せる。
「クラスでただただ一人で本を読んで、周りの人と関わろうとしないだけで、何でこんな目にあわなきゃいけないの!?本を読むことで、周りに迷惑もかけてないのに!ただ本を読んでいる姿だけを見て、軽蔑したような目をされて、最終的にはお前は害だって言われて!なんで?誰にも迷惑をかけてないのになんで害って言われなきゃいけないの!?」
彼女の体に溜まり込んでいたものが全て口から勢いよく吐き出された。
誰にも迷惑をかけていないのに害。彼女の勢いと放たれた言葉に溺れそうになる。何故だろうか。心が苦しい。殺虫スプレーの匂いをうっすら嗅いだときと同じくらいの苦しみを感じる。
おばさんとおじさんは呆然とした様子で優子を見つめていた。
「それに…」
優子の言いたいことは、まだ吐き切っていないようだった。さっきの勢いとは違うトーンで出された声は、余力で出されたようだ。僕は、スプレーの匂いを感じたくない理由も含め、息をのむ。
「お母さんもお父さんも、、ずっと見知らぬお客さんと向き合ってばっかじゃない、、私なんか放っておいて、、、誰も私のことなんてわかってくれないのよ、、私はこれからも分かり合えない人と生きていかなきゃいけないの、、、そんなのもう、うんざりだよ、、」
その声はだんだんと優しくなっていくようであった。
——— 分かり合えない人と生きていかなきゃいけない
優しい声の中にも彼女の放った言葉は深く深く自分の心の核となる部分をピンポイントで刺激した。さっきの大声で言ったことよりも重要であるような気がした。人はその言葉が心の底からであればあるほど、優しい語り口になるのだろうか。
視線の先を優子の両親に授ける。二人とも口を半開きにしながら震わせ、眉をハの字に曲げ、瞬き一つとしない目は優子をずっと捉えていたように見える。
僕は今立たされている人生の岐路を、この家族がどう判断を下し、最初の一歩を踏み締めるのかを見守ることにする。
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