第4話 今と過去、光と闇
時計の小さい針が九のところを指した瞬間におばさんがこの店の入り口に「のれん」と呼ばれるヒラヒラした赤い旗のようなものを取り付ける。人が入ってくるときに邪魔になるのではないかとずーっと思っているが、そんな目障りそうな赤旗を気にもせず、手の甲で軽く開くようにして、店の中に入ってくる。
「いらっしゃませ!!」
おばさんの第一声が今日一日の仕事を開始させた。
この時間帯のお客様は、お年寄りの方が多い。今までのおじさんとおばさんの会話によると、人間は年を取ったら、仕事をする必要がなく、死ぬまでの間は自由に暮らすことができるらしい。それを知った時、人間は年を取るまでは自由に暮らすことができないのかと驚嘆した。確かに今のおじさんおばさんの姿を見ていると、中華料理屋の仕事に縛られて生きているような気もする。彼らが気を抜いて、どこかでリラックスしているところを見たことがない。常にこの「中華料理屋」と呼ばれる檻の中から抜け出すことなく、齷齪している気がする。それでも毎日毎日おばさんは笑顔を振りまき、おじさんは汗水たらして料理をしている。彼らは毎日何かと戦っているように見えた。
そんな彼らの戦いが戦争レベルにまで達するのが、時計の小さい針が十二を越えてからだ。その瞬間に、きれいな服を着た人や泥だらけの汚い服を着た人がたくさん店に押し寄せてくる。人が増えるにつれて、おばさんの声が高く、早口になるような気がする。おじさんも段々と汗の量が増え、頭に巻いたタオルが変色していく。この時間帯の彼らは、ただ目の前にあるやるべきことを必死にこなしている。先の事や過去の事には執着せず、今に集中しているように見える。お客様も運ばれてきた料理に夢中になっている。
今この空間で過去のことに執着している生き物は、この僕だけなのだろう。
おじさんとおばさんは朝起きたことを忘れていないだろうか。今の彼らの頭の中の片隅にでも娘はいるのだろうか。
必死に笑顔を振りまくおばさん、必死に料理をするおじさん。
その言動と汗、笑顔を見る限り、今の彼らの頭の中には「今この場所」しかないのだろう。あくまでも「この場所」であり、「あの場所」では何が起きているのだろうかは気にしていない。今の彼らの中には、娘なんていない。そんな気がした。
時計の小さい針が五を指した。さっきとは違って、彼らの顔つきはリラックスしているように見えた。お客様が数人になったぶん、彼らにも何もすることがない隙間時間が生まれるようになる。その隙間時間で、お互い話をすることはなく、とにかく自分の体を休めようと、椅子に座ってボーっとしている。彼らのリラックスしていた顔に少し曇り空が宿った気がした。それが過労によるものなのか。それとも…
もうすぐ帰ってくる時間だ。
会計を済まして、お客様が出ていく。とうとう店内にはお客様がいなくなり、おじさんとおばさんの二人きりになった。彼らはお互いに顔を見合わせ、安堵の表情を見せた。彼らがちゃんと顔を見合わせたのは、朝ぶりだった気がする。
その時だった。この古臭い中華料理屋にまた新しい風が吹いた。
ガラガラガラ
ドアが開く音が聞こえると、おばさんは反射的に声を出す。
「いらっしゃ…」
声を出すはずだった。
「…優子?」
娘の名を呼ぶおばさんの声は、小さかった。おばさんの小さい声を久々に聞いた。
おじさんはまた黙ったままだった。しかし、今回の沈黙は今日の朝とは明らかに違う心境のものだろう。僕も開いたドアの先にいる優子を見つめた。昨日と同じく、外は日の光を失い、あたりが暗くなっている。その薄い暗闇の先にいる優子は、ビショビショに濡れていた。髪から靴の先までしっかりとビショビショだった。雨は降っていない。
店内の電気の光に照らされ、立っているおじさんとおばさん。店外の暗闇の中に立っている優子。
そのドアを境に違う世界が存在しているように見えた。
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