マネキンの手を差し出して
手を差し伸べてくれる彼にマネキンの手を握らせるようなことばかりしている。
自分が担当している病棟の看護師である前田が、自分に好意を持ってくれていることを、薬剤師の百瀬は知っている。知ると言うよりは、肌で感じると言った方が近いかもしれない。薬袋を差し出す手を、眼差しで撫でられる。背を向けた時にうなじを見つめられる。戸惑った視線だ。多分、前田も自分の気持ちに整理がついてない。
百瀬としては、良くも悪くもどうでも良かった。前田に、「俺のこと好きでしょ?」と言うつもりもない。言おうと思えば言えるが、それは今ではない。同性がどうのと言うつもりもなかった。既婚者に横恋慕する自分が性別のことをとやかくは言えない。
正確には、既婚者になる前から好きだった。薬剤科の主任薬剤師。彼氏がいるなんて聞いてなかった。知らなかった。科長は知ってたから、薬局中に黙っていたわけではないだろう。
私事ですが、と前置きをされて朝礼で告げられた結婚。他の薬剤師も助手も一様に驚いていたから、自分の間抜け面は目立たなかっただろう。食欲が出なくて、昼休憩は最後にしてもらった。病棟も忙しかった。
「なんで教えてくれなかったんですか」
職員食堂とは名ばかりの、最上階のスペースで、カップ麺を平らげて独りごちる。思ったよりも空腹だったらしく、売店で買った味噌ラーメンはすぐ空になった。昼にしては遅いせいか、食堂には誰もいない。眺めだけが取り柄の窓から、ぼんやりと住宅街を見下ろした。
恋に破れて死ぬには、百瀬はリアリストだった。ただ、もう好きでいてはいけないと言うのがひたすらに虚しかった。好きでいるだけなら良いよね? 駄目? 横恋慕はいけないことだと教えられて来た。医療従事者である百瀬は倫理に弱い。
後ろでドアが開いた。前田さんだったら良いな。その人はドアを開けたところで立ち止まった様だ。誰だろう。振り返ると、やっぱり前田で、彼は売店のビニール袋をぶら下げながら、困惑したような顔で百瀬を見ている。だから百瀬は何でもないかの様に声を掛けた。
「お疲れ様です。前田さんお昼これから?」
「え、は、はい……」
「隣来て」
「お邪魔します」
前田は百瀬の左側の椅子に座ると、ビニール袋からカップ麺を取り出した。「お湯入れてきますね」
「いってら」
彼はすぐに戻って来た。蓋の上に後入れスープを乗せて、百瀬を気遣わしげに見る。
「……大丈夫ですか?」
「んー?うーん……」
言おうかどうか迷った。なんとなく、彼の視線から、自分が主任に抱いていた種類のものを感じる彼に。いつもの百瀬なら言わなかっただろう。でも、今は誰かに甘えたくて。
「主任が結婚しちゃうんだって」
そう告げた。「俺主任が好きだったんだよね。言わなかったけど」
前田はなんと言って良いかわからないようだった。優しいなぁ。看護師さんだもんね。自分の気持ちよりも百瀬の気持ちを慮ってくれているような。
「ねえ前田さん」
だから百瀬は図に乗った。
「はい」
「慰めてよ」
そう言ってもたれかかると、前田はおずおずと百瀬の肩を抱いてくれる。ああ、俺が欲しいのこういうのだった。下手に慰めの言葉をかけるでもなく、ざまあみろと笑うでもなく、ただ黙って失恋の痛みを受け止めてくれる。
恋に破れて、優しくされてころっと参っちゃうなんて、王道が過ぎる。ちょっとだけ気持ちが前田に傾いていることを百瀬は自覚した。
とはいえ、薬局に戻って主任の顔を見ると、やっぱり心のどこかがどうしても痛くなる。思ったより自分の感情は根深いようで。駄目だよ、決まった相手がいる人を思い続けるだなんて。
「百瀬さん」
同僚の薬剤師に呼ばれて百瀬は振り返る。「呼吸器の師長からお電話です」
「あ、はいはい……お電話替わりました百瀬です。里見さんの吸入?昼前に持って行って、原島さんに渡しましたけど。チームの人が持ってないですか?」
慰めて、優しくして、一緒にいて。居心地の良い前田の傍にいて、彼を好きになるのは多分今の自分なら簡単だと思う。百瀬はそれをわかっているから、手を差し伸べてくれる前田にマネキンの手を掴ませるようなことばかりしている。偽物の手でも前田は優しく握ってくれている。
「百瀬さん夜勤ですか?」
5時過ぎて、前田がドアから顔を覗かせる。百瀬は処方をチェックするためのパソコンに向かっていた。作業を中断して振り返る。
「夜勤ですよ。前田さんは上がり?」
夜勤だとしたら、今の時間に鞄を持っていたら遅刻だ。前田の勤務態度が悪いと言う話は聞いたことがない。
「上がりでーす」
「泊まってけよ」
夜勤のある職業ではよくある冗談だと思っている。あれから少し距離が近くなって、百瀬も前田に対してはだいぶ砕けた態度になった。前田の方も同じである。遠慮がちな笑みは次第に心から楽しそうな笑顔になる。病棟ではずっとこうだったのかな。もっと早く見たかった。
「じゃあ今度俺が夜勤の時、百瀬さんも泊まってくださいよ」
「お、良いぜ? シフト決めるとき連絡してよ」
示し合わせなくても、夜勤が同じ日になることはある。それを、前もって決めてしまおうと言うのだ。密会のようで、少し後ろめたくも甘い。
「……ほんとに言いに来て良いですか?」
少しの沈黙を置いて、あの控えめな笑顔を浮かべた前田が言う。
「……良いよ」
「じゃ、じゃあ……また……来ます」
「う……うん……」
さっきまでの軽いやりとりが嘘の様に、前田と百瀬はぎくしゃくとした応酬で別れた。今日は比較的平和な日で、助手も薬剤師も全員帰っていて助かった。特に主任に見られたいやりとりではない。
「あーあ……」
マネキンの手を出すつもりが自分の手を出してしまった様だ。握られた手は温かくて、とても心地良い。
「俺って簡単すぎる……」
首を横に振る。タイミング良く電話が鳴った。「はい、薬局百瀬です…」
夜は長いけれど今日は少し暖かい。百瀬は問い合わせに耳を傾けながら、電子カルテに患者のIDを打ち込んだ。
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