昼の曇りは白い空
呼吸器病棟の看護師である前田優孝には好きな人がいる。その人は午前9時半頃、彼の勤める病棟に上がってくる。夜勤明けの前田は、カルテに患者の様子を書き込みながら彼を待つ。5号室の中村さんは異常なし。8号室の里見さんは眠れないと言ってナースコールを押した。平和な夜勤だった。
「おはようございます薬局です」
平坦な朝の挨拶がナースステーションの入り口から聞こえた。パソコンのモニターから目だけ出して、前田はそちらを見る。男としては少し長い髪。すらりとした体型に白衣がよく似合っている。そして眠たげな目。薬剤師の百瀬宙だ。
「おはようございます」
前田はそれだけ声を掛けて、カルテの入力に戻った。本当はもっと話しかけたい。けれど、日勤の百瀬はこれから仕事に入る。カルテ入力で勤務が終わる自分とは違ってやることが多いのだ。だから無駄に声を掛けて邪魔をしたくない。でも、帰り際にちょっと声を掛けるくらいなら良いだろう。その後数分して仕事を終わらせると、前田は電子カルテからログアウトして、師長に挨拶をすると貴重品を入れたバッグを持って同僚達に声を掛けながら出口に向かう。
「百瀬さん、お先に失礼します」
「あ、前田さん夜勤だったんですね」
百瀬が薬の袋を持ったまま彼を振り仰いだ。「お疲れ様です」
彼はあまり笑わない。それでも声には感情がこもっているのがわかる。優しい声をしている。
「お疲れ様です」
それで出て行けば良いのに、何か話したくて、前田は言葉を探した。でもやっぱり言葉なんて出てこなくって、言葉を待つ百瀬の顔をしばらく眺めてから、
「あ、じゃあ俺はこれで……」
軽く手を挙げてその場を立ち去った。
いつから好きになっていたかは覚えていない。気づいたのはある日の夜勤だ。はっきりと覚えている。夜中に追加で処方が出た。今1回分先に投薬しといて。医師からそう指示を受けた前田は、薬局に電話をした。今日の夜勤は誰だろう。
『はい、薬局百瀬です』
その平坦な声が電話口から飛び出してきたときに、心臓が一瞬だけ跳ねた。何故そうなったかはわからなかった。自分は別に百瀬に怯えているつもりもなかったからだ。
「呼吸器病棟の前田ですが、今処方が出て…」
『あ、もしかしてこれかな? 伊藤さんの処方ですか?』
「あ、そうです。先生が1回分先に投薬してくれって言ってて。今受け取りに行っても良いですか?」
『わかりました。5分後くらいしたら来てください。作っときます』
「よろしくお願いします」
そうして5分後、前田は階段を降りて薬局まで出向いた。外来のロビーは、昼なら患者でごった返すが、今は静まりかえって誰もいない。明かりも消され、正面玄関の明かりがよく目立った。薬局に到着すると、ノックをしてドアを開ける。
「お疲れ様です、呼吸器病棟ですが、さっきのお薬……」
蛍光灯がついていれば、明るければ、昼も夜も関係ないと思っていた子供の頃。大人になってから、それは違うのだと知った。煌々と電気がついていたとしても、窓の外が真っ暗なのは紛れもない事実。病棟がそうであるように、薬局もまた一部の蛍光灯が消されていた。明かりの付いたこちら側に、白衣を着た百瀬が、夜の闇から蛍光灯に守られて立っている。
(あかりを消したら、彼が消えてしまいそうだ)
不意に、前田はそんな焦燥に駆られた。百瀬は、途中で言葉を切った前田を不思議そうに眺めている。
「前田さん?」
「あ、すいません……さっきのお薬ってできてますか?」
「とりあえず1回分で良いんですよね?」
「はい……ありがとうございます」
薬袋を受け取ると、前田は逃げるように薬局を去る。病棟に戻って患者に投薬をしてから、彼は自分が恋していることを知って愕然とした。
夜の闇に建つ病院の片隅。そこで蛍光灯に守られる白衣の百瀬。そのビジョンがずっと消えない。煩悶として、夜勤明けに帰宅してもしばらくは眠れなかった。
何で男に、というのが最初に浮かんだ考えだった。世界各国で同性婚が認められつつある昨今であっても、前田は異性愛が当然という教育を受けてきた。今まで付き合ってきた相手も女性だった。
それなのに、何で男に。
気の迷いとかき消そうとしたところで、脳裏に浮かんでくるのはやはり夜の薬局に立つ白衣の百瀬で、その百瀬が自分に微笑みかけてくれるところばかり想像している。前田さん。優しくそう呼んでくれたら何も要らない。
その日、前田は日曜日に出勤をした。時間が来て、交代の夜勤にお疲れ様を言って病棟を出る。外来はやっぱり暗く静まりかえっていた。
なんとなく、の出来心だった。なんとなく。今日の出勤が百瀬だったら良いな。あわよくば言葉を交わせたりなんかして。そんな下心も含んだ出来心だった。前田は薬局に寄った。
「あ……」
「あ、お疲れ様です。帰りですか?」
薬局にはその人しかいなかった。電子カルテを閲覧するパソコンの前に、百瀬が座っている。夜勤用のPHSについたストラップを弄んでいた。
「あ、はい、帰りです。百瀬さんは、夜勤ですか?」
「うん。今日は平和でしたね。夜もこうだと良いんだけど。前田さんも、一緒に泊まっていく?」
男同士、同じく夜勤のある職種同士にはよくある冗談だ。お前も泊まって行けよ。看護師は圧倒的に女性の方が多いから、数少ない男性看護師同士でよく飛び交う冗談。女性の薬剤師が女性の看護師に言っているのも聞く。
「泊まる……」
「ベッド1個しかないから一緒に寝ようよ」
実現しないとわかりきっているから言っている冗談。百瀬がいたずらっぽく笑っている。実現してしまったら自分は何をやらかすだろう。
「いえ……」
その笑みから目が離せない。
「冗談だよ?」
「ですよね……」
「ごめんね……お疲れ様。引き留めてすみません」
「今日は帰らないとなんで、また今度誘ってください」
冗談めかしてそういうのが精一杯だった。
劣情を抱くには、前田は自分の感情を受け入れかねている。だから、何も知らない百瀬と2人、夜勤用の狭いベッドで一緒に入って、やましいことは何もないまま、抱き合って眠れたら、幸せかもしれない。そんなうぶなことも考える。寝入った百瀬の髪の毛を弄ぶ。つむじに鼻先をつける、寝息を傍に聞く。
ロッカーでぼんやりと着替えながら、百瀬からどんな匂いがするのか考えた。彼も男だから男ながらの体臭がするに決まっているけど、シャンプーの匂いとか、歯磨き粉の匂いとか、そういった彼だけの匂いを前田は求めた。
もちろんそんなことが実現するはずないのだけれど。
そしてまた別の日、多忙を極めた午前中の後に、休憩の順番を決めるじゃんけんで見事に負け越した前田は、かなり遅い時間に昼休憩を取った。曇りだが、降水確率の低い日のことである。
職員食堂はがら空きだった。食堂と言っても、職員専用の飲食スペースで、最上階にある。前田は買ってきたカップラーメンの入った売店の袋を提げてドアを開けた。目に飛び込んだ後ろ姿にどきりとする。見間違えようがない。百瀬だ。同じく売店で買ったらしいカップ麺は空になっている。割り箸が丁寧にそろえて、その上を渡すように置かれている。
夜の薬局で見たときよりも、さらに弱々しく見えて、前田は声を掛けるのをためらった。だが、百瀬の方が気配に気づいて振り返る。
「お疲れ様です。前田さんお昼これから?」
「え、は、はい……」
「隣来て」
「お邪魔します」
百瀬はうっすらとした笑みを作っている。そこにいつもの呑気そうなのびやかさは影を潜めていて、そうでないと違う顔を、泣き顔をしてしまいそうだと言わんばかりの張り詰めた空気を纏っていた。どうしたんだろう?
「お湯入れてきますね」
「いってら」
そう送られたところで、電気ポットはすぐそこにある。蓋を開けて、中の線までお湯を注ぐ。上に後入れスープを乗せて席に戻った。百瀬はすでに食事を終えているようだったが、三分の一ほどスープが残ったカップ麺の容器がその前に置いてある。ぴらりと丸まって反った蓋がものがなしさを誘った。
「……大丈夫ですか?」
「んー? うーん……」
彼の視線は空き容器の中をさまよっている。やがて、彼はぽつりと呟いた。
「主任が結婚しちゃうんだって」
前田はぽかんとしてそれを聞いていた。
「俺、主任が好きだったんだよね。言わなかったけど」
薬局の主任が誰か知らない。
「ねえ前田さん」
「はい」
「慰めてよ」
笑いながら言う百瀬に心臓が締め付けられる想いがする。
自分も、彼への想いはすべてが終わってから誰かに告げるのかもしれない。冗談めかして、体重を乗せてもたれかかってくる百瀬の肩を抱いて、前田は視線を前に投げかける。
昼間の曇りは空が白い。
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