Siren
車の窓を開けて走っていたら、どこかの小学校でサイレンが鳴っていた。朝礼の様にスーツを着た年配の男性が台に立って拡声器を持っている。その前に子供達が続々と集まってくるのが、ちらりと見ただけで大月にも視認できた。
皆さんが静かになるまでにこれだけの時間がかかりました。いやみったらしく言われた記憶が蘇る。実際、どうしたら子供の自分は納得しただろうか。ことあるごとに想像したけれど、周りがしゃべらなければ自分もしゃべらなかっただろう。「学校」では同調圧力が何より強いのだ。
やがて目的地に着いた。ステアリングを回して駐車場に車を入れる。こういうときに、このスーツのありがたみがよくわかる。自分の体に沿って、無駄に引きつれたりしない。今日の商談も上手く行きそうだ。自分の気分が良いのが一番だ。
験担ぎは人並みにするが、基本的に自分の実力を信じている大月にとって、今日の商談もまた自分の実力であれば上手くまとまることはわかっていた。双方にとって丁度良い利益が出るように条件を調整した話は、先方も快く受け入れた。押印と笑顔と握手で辞去すると、時間は午後3時を示している。思ったより早く終わってしまった。今日はこの商談を終えたら直帰で良かったから、大月は機嫌良く、「ロンドン橋落ちた」を口ずさみながら車を西に走らせた。雨が降り始める。予報通りだった。
東京都多摩地区――要するに23区外の市部のことだが――の某市にひっそりと建つテーラーには3台程度の駐車場がある。1台分の枠にぴったりと車を納めると、鍵を掛けて外に出る。すぐそことは言え、このスーツを無駄に濡らすつもりない。店まで少し離れたところ。傘を差して歩く。
ドアの外から彼の姿が見えた。店番だろうか。この店はオーダーに関しては予約制だから、あとのテーラーは皆奥に引っ込んで仕事をしているのかもしれない。彼が表にいるのは、これから予約の客でもあるのか。それとも自分を待っていてくれているのだろうか。誰かのスーツにミシンを書ける彼のつむじをしばらく眺めて、大月はドアを開けた。からん、と彼の来訪を知らせる音が鳴る。
「大月」
市ヶ谷瑞紀は顔を上げて、彼の名前を呼ぶ。少し驚かれた様にも見える。忘れられていたのだろうか。少し悔しい気もする。待ってた、くらいは言って欲しい。そんなことまだ言えやしないのだけど。
「よう」
できるだけ、好青年を装って。「できてる?」
「ああ、できてるよ」
ミシンを止めて、立ち上がる。その背中に、腰のラインにジャケットがちゃんと沿っているのを見て、あれは誰が作ったんだろうと毎度考える。誰があの腰にメジャーを巻いたんだろう。誰があの胸にメジャーを巻いたんだろう。尻には?
「着てみてくれ」
「大丈夫だろ?」
今までに作ってもらったスーツのできはどれも素晴らしかった。今日来ているこれだってそうだ。いつも、着てみてくれの言葉に頷いて着ればぴったりなんだから。
「着てみてくれ」
「わかったよ」
それでも、市ヶ谷は妥協しなかった。スーツを受け取って、試着室に入る。カーテン1枚隔てた向こうではっきりと彼の気配を感じる。
ジャケットを脱いで、ネクタイを外し、ズボンを下ろす。今このまま出て行ったら彼はなんて言うだろう。早く着ろと言って自分を試着室に押し込むだろうか。その手を引いて試着室に引き込んだら。
そこまで考えて、やめた。不毛だ。奥の部屋にはテーラーが大勢いる。予約制を知らない客だって来るだろう。不埒な行為に及ぶにはリスクが高い。
着替えを済ませる。丁寧に、体型に合って作られたスーツは自分をラッピングするようだ。魅力的に見せるという意味では同じだろう。鏡の前に立って、満足して頷く。1ヶ月。1ヶ月、市ヶ谷に大月の体のことだけ考えさせた結果。その過程も併せて、大月は非常に満足している。
カーテンを開けて試着室を出ると、市ヶ谷は職人の目つきで迎えた。腕を広げて見せると、「動きにくくないか?きついところや余るところは?」
「なさそうだ。しかし、毎回毎回よくこんなにぴったりなものを作れるな」
「仕事だからだ。それが作れなければテーラーとは言わない」
「立派だよ」
心の底からそう告げる。「請求書はまた郵送してくれ」
「わかった」
「また頼む」
「いつでも」
言ったな。言質を取った気分だ。経済的に許されるなら、常に発注して、ずっと彼が自分のことだけ考えるように仕向けるのだけど。そうは言っても、今まで作ってもらったスーツがタンスの肥やしになるのも頂けない。
「ところで、今度食事でもどうだ?」
何でもない風に誘いを掛ける。下心を感じさせて市ヶ谷が断らないように。この今度は社交辞令の今度でも何でもない。市ヶ谷が少しでも肯定するならばすぐにでも予定を詰める「今度」だ。
「ああ……来週は木曜日に休みを取っている」
「決まりだな。空けておくよ」
「ありがとう」
彼にとって、自分が「年下の友達」に過ぎないことはわかっている。けれど、必要になる度に彼にスーツを頼んでいれば、彼が大月の体のことを真剣に考える時間があれば、彼の頭に自分の存在が染みつくに違いない。
生地を選ぶ自分の指先を真剣に見つめる目、ミシンの針の動きを注視する目、その下の頬をいつか自分の存在で赤く染めたい。互いの手がメジャーよりも互いの体を知るようにしたい。あの指をシャツ越しにではなく素肌に感じたい。
だから、セイレーンの様に、ずっと歌うように彼に誘いをかけ続ける。自分が魅力的に見えるように。本当は彼を前にする度に邪なことしか考えていないけれど、それは隠す。隠して、隠して、いつかそれすら魅力に見えるように。
彼に知らしめるサイレンは切ってある。お前、俺とあんまり一緒にいるといつか海に引きずり込まれて食われるぜ。
いつか彼を沈める日。
セイレーンは黙らない。船が沈むまで歌ってる。
声がどれほど持つかはわからない。
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