Trojan Horse

目箒

Trojan Horse

 トロイの木馬と言えば、かなりの人間がコンピューターウィルスと言うだろう。実際にはウィルスではないのだが、その辺の区別が曖昧なのはここで作業している男も同じである。「ロンドン橋落ちた」を歌いながらミシンを踏んでいるこの男、名前は市ヶ谷瑞紀と言って、このテーラーに在籍する職人の一人である。

 ここは東京都下――要するに23区外の市部のことだが――の某市にひっそりと建っている仕立屋である。ベテランと言うには若く、新米と言うには経験を積んでいる彼は、最近になってようやく自分の客を持てるようになった。今日もその内の一人のためにミシンを踏んでいる。1ヶ月はお時間いただきます。最初にそう告げてあっても、1ヶ月でできるんだろうか。間に合わないんじゃないだろうかという弱気の虫が沸いて出る。もっとも、そんなことは一度としてなかったのだけれど。

 35歳の市ヶ谷は周りに合わせて短く刈り込んだ黒い髪に黒縁のハーフフレームの眼鏡を掛けている。一時期はコンタクトだったのだが、目が乾くのでやめた。身長は172センチ。体重はそれ相応より少し細い。

 断続的なミシンの音の合間に、ちらりとラックを見る。今日取りに来ると言っていた客のスーツがそこに吊り下げられている。市ヶ谷が心待ちにしている相手でもある。向こうはそんなこと知らないのだけれど。

 ミシンのリズムに雨の音が混ざり始める。今朝出勤する時から空はどんよりと曇っていたから、すぐにでも降るだろうと思っていたが、現在時刻は午後三時。帰り道で傘がいるかもしれない。

 日本列島を長いこと悩ませていた台風は一時的に落ち着いている。もっとも、すでに南の海では新しい台風が発生していて、こちらに近づいていくるのも時間の問題なのだそうだ。彼が今日来られないなら、台風が接近する前に来てくれれば良い。店は7時までやっているから、まだ4時間ある。けれど、あと4時間で彼は来るのだろうか。

 そこまで考えて、下糸が切れた。他の客に対する物思いに耽っていたのを咎められた様で、少しばつの悪い気持ち。

「悪かったよ」

 ミシンに言い訳するようにぼつりと呟く。針を上げて、ボビンを外すと、糸を引き出してかけ直した。

 タソガレは頻繁に客が来店するわけではない。他の店がどうかは知らないが、タソガレに関しては、オーダーする時は予約が要る。そして今日の予約客は全員来店していた。他のテーラーが奥に引っ込んで、市ヶ谷は店番をしていると言うわけである。

(老体には湿気が堪えるんだろうな)

 口に出したら小突かれそうなことを考えながら、再びミシンを動かす。たんたんたんと小気味良い音を立てて針が生地を縫い付けてゆく。その上では、屋根を雨粒が叩いている。

 からん、ドアベルが鳴って、反射的に市ヶ谷は手を止めた。濡れた傘を傘立てに差して、こちら見る。投げかけた視線は市ヶ谷の瞳に正面から入った。身長は179.8センチ。スリーサイズはカードを見なくても知っている。年齢は32歳。わかるかわからないか程度に染めた茶髪をオールバックにして。見るからにできる男と言った風情。

「大月」

 先輩テーラーがいれば、客を呼び捨てにするとは何事か、とどやしつけられるところだが、大月と市ヶ谷は客とテーラーの関係になる前から知っている。その縁で大月が市ヶ谷にオーダーを出すことになったのだから。

「よう」

 屈託のない笑顔で挨拶をする。「できてる?」

「ああ、できてるよ」

 作業を中断して、ラックからハンガーを外して持ってくる。「着てみてくれ」

「大丈夫だろ?」

「着てみてくれ」

「わかったよ」

 信頼することと、できを確かめることは違う。市ヶ谷はそこに妥協しなかった。試着室のカーテンが閉まる。その下の方が、中にいる大月の動きに合わせて揺れるのを、市ヶ谷は見つめている。

 衣擦れの音がする度、今何を脱いでいるのか。何を着ているのかを想像してしまってどうにも落ち着かない。トロイの木馬なんて誰も中身を想像しなかったのに。当たり前だ。木馬とは本来空のものだからだ。試着室は人が入ることが前提。比べること自体が間違っている。

 それでも、客が試着室に入る度に、市ヶ谷はトロイの木馬を思い出さずにはいられない。トロイアが中を改めたら。その仮定はパンドラの箱にも似ている。開けてしまったらどうなるのだろう?

 自分が今あのカーテンを開けたら、大月はなんて言うだろう?

 そんな妄想をして、カーテン一枚隔てた向こうの相手の裸を想像していることにまごついている内に、大月は着替えを済ませて出てくる。そうすると市ヶ谷の顔は勝手にテーラーのそれになって、笑顔で両腕を広げる大月に歩み寄って、尋ねるのだ。

「動きにくくないか? きついところや余るところは?」

「なさそうだ。しかし、毎回毎回よくこんなにぴったりなものを作れるな」

「仕事だからだ。それが作れなければテーラーとは言わない」

「立派だよ」

 大月は満足そうだった。姿見の前でターンして、また頷いた。

「請求書はまた郵送してくれ」

「わかった」

「また頼む」

「いつでも」

「ところで、今度食事でもどうだ?」

 いつものように何のてらいもなく誘ってくる。市ヶ谷が断るわけがないと思っている誘い方。駆け引きの要素なんてこれっぽっちもない誘い方。

 きっと断られるなんて思ってないし、断られても困らないのだ。当たり前だ。彼にとっての自分の存在はきっと「年上の友達」。

「ああ……来週は木曜日に休みを取っている」

「決まりだな。空けておくよ」

「ありがとう」

 緩く微笑んで見せる。ジャケットの襟が、彼の肩から胸に掛けてなだらかに沿うのを見ればめまいが起きそうだ。彼が何か言った。辞去の挨拶だろう。だから市ヶ谷も手を上げて見送る。


 俺の仕立てたあのスーツが彼の体にぴったりと沿っている。その事実にどうしようもなく興奮してしまう自分の業が恨めしい。彼の肌に触ったこともないのに、長く連れ添ったメジャーが彼の体のサイズを正確に言い当ててしまう。採寸の時にシャツ越しに触れた体温は長く記憶に残って、指先を灼いた。

 チェスト、ウエスト、ヒップの欄に書かれた大月の数値は、市ヶ谷にとっては特別な数字になってしまう。他にも客がいないわけではない。それでも、大月のカードに書かれた数字はすべてが特別だ。選んだ生地も、ボタンも、糸の色も。それを着てどこに行くのかも。

 すべてが特別。


 だから、その特別を形にした自分のスーツが彼を抱きしめていれば、いつかは大月に市ヶ谷の存在が染みつくだろう。トロイの木馬みたいに。彼の内側に入り込む。大月は中を改めない。

 いつか俺で満たされる日。


 トロイの木馬はまだ眠る。


 目覚めの日は保証されない。

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