第6話 黄泉国のバケモノ

 イザナギは適当な岩を見つけると、腰をおろしてイザナミの帰りを待った。しかし、半刻(一時間)が過ぎてもイザナミは戻ってこない。そのうちイザナギは不安になってきた。


 死者が住まう黄泉国よもつくにの神さま連中はひと癖もふた癖もありそうだ。そいつらに意地悪されて、イザナミは困っていないだろうか。イザナギに助けを求めて泣いてはいないだろうか。


 そう思うと、イザナギはじっとしていられなくなった。跳ねるように立ちあがって、岩の扉に駆け寄る。


「絶対に黄泉国に入ってきちゃダメだよ。なにがあっても絶対だからね。約束してね、お兄ちゃん。絶対に絶対だからね」


 イザナミの言い残した言葉が頭の中に響いた。だが、イザナギをここに押しとどめる効果はなかった。


 扉を慎重に押すと、音もなく簡単に開いた。簡単すぎて、イザナギは余計に不気味に思った。まるで死者の世界に誘いこまれているかのようだ。


 扉の向こうは洞窟のようになっており、濃厚な闇がずっと奥まで続いていた。光がまったく届いていないのだ。イザナギは髪に挿していたくしを抜き取ると、太い歯を一本折ってしっかりと握り締めた。それはあっと言う間に松明の大きさになり、火をつければ闇を照らすあかりになる。


 恐るおそる洞窟に足を踏み入れると、背筋がぞくりとして肌が粟立った。奥から迫ってくる禍々しい気配が、まるで巨大な舌かのように、全身をねっとりと舐めるからだった。


 イザナギは決心をより固くした。こんな気味悪さしかない陰鬱な世界に、愛しいイザナミを残していくわけにはいかない。必ず現世うつしよに連れて帰る。


 櫛の灯りを頼りに歩を進めていくと、禍々しい気配がいっそう濃くなり、ひどい悪臭があたりに立ちこめはじめた。毛穴に目詰まりそうなそのどろりとしたその悪臭が、死の臭いであることは確かめるまでもない。


 黄泉国は死者の国だ。死臭が漂っていてもおかしくはないが、ここまでの臭いを放つには、いかほどのむくろが必要なのだろうか。しかし、苛烈な臭いに怯んでいる場合ではない。一刻も早くイザナミを見つけて、現世に連れて帰らなければ。


 気を引き締め直したときだった。灯りがぎりぎり届くところで、影らしきものがわずかに揺らいだ。


 なにかいる。よくないものだ。直感で危険を察知したイザナギは、灯りを足もとに置き、一戦交える覚悟で十拳剣とつかのつるぎに手を伸ばした。

 

 臨戦態勢のイザナギに気づいているのかいないのか、そのなにかはゆっくりとこちらに近づいてきた。それに伴って死臭がどんどん強くなっていく。気を抜くと嘔吐してしまいそうな凄まじい臭いだ。

 

 イザナギは耐えがたい死臭に苛まれながらも、警戒を解かずにそのなにかを睨み続けた。すると、松明の灯りがそいつの見目形をはっきりさせた。


 それはかろうじて人の形をなしていたが、化け物と表現したほうが言い得ていた。身体のあちこちが腐り落ちて、骨や内臓の一部があらわになっている。ぶつぶつとうごめいているものはうじのようだ。それだけでも充分に嫌悪する風体だが、全身に八つもの邪神が取り憑いていた。頭部、胴体、四肢、陰部。それらに垂れさがっている邪神が、ケタケタといやな笑い声をあげている。


 忌まわしいとさえ感じる極めて醜悪な姿は、近づくだけでもけがれをもらいそうだった。美しいイザナミに悪影響を及ぼすと大変だ。小さな肉片すら残らないように、ここでしっかりと葬っておかなければ。


 イザナギが十拳剣を抜こうとしたとき、化け物が予想外の言葉を発した。


「お、お兄ちゃん?」


【最終話に続く】


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