第5話 黄泉国へと

 島根県と鳥取県の境いに比婆ひばの山がある。イザナギはそこにイザナミの亡骸を運んで手厚く葬った。


 しばらくは悲しみでなにもする気が起こらなかった。しかし、だんだん怒りで涙が熱くなっていき、ついには募った恨みが沸点に達した。イザナギはつかだけでも拳をとう並べたほどの長さがある長剣、十拳剣とつかのつるぎを手にして火の神の前に立った。


 火の神はイザナミの陰部を焼いた張本人だ。


「お前さえいなければ……」噛み締めた奥歯がぎりぎり鳴った。「お前さえいなければイザナミは……」


 とはいえ、火の神も生まれ出てきただけだ。悪気があったわけでないだろう。反省を色を見せれば許す余地もあったが、火の神の言いぶんはイザナギを激昂させた。


「そりゃ、まあ、死んじまったのは少し気の毒に思うぜ。けど、俺のせいにするのはお門違いなんじゃないか。だってよ、俺の仕事は燃やすことなんだぜ。じゃなきゃ、火の神なんて名乗れねえって。お袋だってそれはわかっていたはずだが、たいして警戒もせずに俺を産んだ。ようするに俺をなめていたってことだ。そりゃあ、すべてを焼き尽くす火の神をなめていたら、こういう事態を招くこともあるだろうよ。俺のせいじゃなくて、自業自得ってやつだな」


 たとえ我が子であろうが、もう容赦するつもりはなかった。


「この(ピー)の(ピー)野郎が! (ピー)しやがれ!」


 文字にできない下品な怒号をあげたイザナギは、十拳剣を横一線に薙いた。首を切断された火の神の頭が、ぼとりと落ちる。


「この馬鹿(ピー)息子が……」


 十拳剣に血ぶりをくれると、飛び散った血からたくさんの神が生まれた。柄や指についた血からも神が生まれ、火の神の亡骸からも次々に神が生まれた。


 イザナギはいっきに子沢山になった。稀に見る大家族だ。しかし、何者もイザナミの代わりにはならず、イザナギの寂しさが紛れることはなかった。


 男は人前で泣くもんじゃない。イザナギはいつも考えていたが、今回ばかりは毎日毎日泣いてすごした。イザナミが嫌うと思って飲まなかった酒も、記憶がなくなるほど飲んで飲んで飲みまくった。酒に逃げなければ、気が狂いそうだった。


「気持ちは察するけどね、ちょっと飲みすぎなんじゃない? もし君が身体を壊しでもしたら、黄泉国よもつくにのイザナミちゃんが悲しむよ」


 天之御中主神あめのみなかぬしのかみに言われて、イザナギははっと気づいた。


 そうだ、黄泉国よもつくにだ。


 なぜ、今まで気づかなかったのだろう。黄泉国は地下にある死者の国だ。黄泉国に出向いてイザナミを連れ戻せばいいんだ。


 イザナギは十拳剣を腰に帯びると、愛しいイザナミを追って黄泉国に向かった。


     ◇


 生者の住む現世うつしよと死者の国である黄泉国よもつくにの境いに黄泉比良坂よもつひらさかがある。約半刻(一時間)後にそこに到着したイザナギは、岩造りの巨大な御殿を見つけた。あたりがやけに暗いせいか、岩山のようなその影が、得体の知れない化け物に見えた。


 御殿をよく観察すると巨大な扉が設けられていた。扉も岩でできているようだ。おそらくそこが黄泉国への入口だろう。嫌な気配がねっとりと漏れ出ていた。


 イザナギは扉を見あげて叫んだ。


「イザナミ、兄ちゃんだ。迎えにきたぞ! 俺と一緒に現世に帰ろう!」


 自分の声が虚しく反響するだけで、イザナミの返事はなかった。しかし、ここまできて簡単に諦めるわけにはいかない。イザナギはもう一度叫んだ。


「イザナミ、返事をしてくれ! お前を迎えにきた。また、ガッチャンコしよう!」


 すると、扉の向こうで慌てた声がした。


「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん! 大きな声でガッチャンコなんて言わないで!」


 イザナギははっとして扉に両手を置いた。


「イザナミか!」


 扉の向こうでも両手を置く気配があった。そして、懐かしい声が返ってきた。


「うん、私だよ……会いにきてくれたの?」


 イザナギは目頭が熱くなるのを感じた。だが、涙を流すのはあとだ。ここにやってきた大切な目的を、イザナミに伝えるのが最優先だ。


「イザナミ、俺と一緒に現世に帰ろう」


 すると、イザナミは「え……」と漏らした。なぜか動揺しているようだ。


「俺はお前がいないとダメなんだ。ガッチャンコはしたいが、国はもう産まなくてもいい。俺のそばにいてくれるだけでいいんだ。頼む。俺と一緒に現世に帰ってくれ」


 ややの間のあと、イザナミは言った。


「私もお兄ちゃんのそばにいたいよ。でも、もう遅いの。現世には戻れない……」

「なぜだ。俺がなんとしてでもお前を現世に連れ戻してやる。だから諦めるな」


 さっきよりも長い間のあと、かなしげな声が返ってきた。


「私、食べたの……黄泉国のものを……」

「食べた?」尋ねてからイザナギは気づいた。「もしかして黄泉戸喫よもつへぐひか?」


 黄泉戸喫とは同じかまどで煮炊きした食物を、黄泉国の神々と共食きょうしょくすることだ。共食した者は死者の世界の一部となり、生者が住まう現世には二度と戻れなくなる。黄泉国の絶対的な掟だった。


 だが、黄泉国のまずい飯を口にしただけで、現世に戻れないなんて馬鹿げている。黄泉戸喫なんか糞食らえだ。


「イザナミ、黄泉国の神を俺に紹介してくれ。現世に帰れるよう、俺が話をつけてやる」


 イザナギが扉を押し開けようしたとき、イザナミの甲高い声が響いた。


「ダメ、お兄ちゃん、扉を開けないで!」


 切羽詰まった声だった。イザナギは動きを止めて訊いた。


「どうした、なぜ扉を開けちゃいけないんだ? なにかまずいことでもあるのか?」

「ごめんね、今は理由を言えないの。でも、お願いだから扉を開けないで」

「いや、しかしな、扉を開けないことには、お前を連れて帰れないぞ」

「うん、そうだね。それはわかってる……」


 神妙に言った切り、妹は黙りこくった。不安になったイザナギが、「……イザナミ?」と呼びかけるまで、重い沈黙が続いた。


「私もお兄ちゃんと一緒にいたい。叶うかどうかわからないけど、現世に帰してくれないか、こっちの神さまに頼んでみる。だから、少しだけここで待ってて」


 イザナミはなにか困ったことがあるとイザナギに頼る。だが、今回は自分の力で事をおさめようとしているようだ。自立を意識してのことだろうか。であれば、ここは一歩引いて首を突っこまず、その意志を尊重してやるべきだろう。


「そうか、わかった。けどな、そいつらがごちゃごちゃ抜かすようだったら、適当なところで切りあげて俺に言えよ。黄泉国の神さまだろうがなんだろうが、いざとなれば俺がねじ伏せてやるからな」

「ありがとう。でも、必ずここに戻ってくるから、絶対に黄泉国に入ってきちゃダメだよ。なにがあっても絶対だからね。約束してね、お兄ちゃん。絶対に絶対だからね」


 念押しするその言葉を最後に、扉の向こうにあるイザナミの気配がすっと消えた。


【第六話に続く】


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