第5話 黄泉国へと
島根県と鳥取県の境いに
しばらくは悲しみでなにもする気が起こらなかった。しかし、だんだん怒りで涙が熱くなっていき、ついには募った恨みが沸点に達した。イザナギは
火の神はイザナミの陰部を焼いた張本人だ。
「お前さえいなければ……」噛み締めた奥歯がぎりぎり鳴った。「お前さえいなければイザナミは……」
とはいえ、火の神も生まれ出てきただけだ。悪気があったわけでないだろう。反省を色を見せれば許す余地もあったが、火の神の言いぶんはイザナギを激昂させた。
「そりゃ、まあ、死んじまったのは少し気の毒に思うぜ。けど、俺のせいにするのはお門違いなんじゃないか。だってよ、俺の仕事は燃やすことなんだぜ。じゃなきゃ、火の神なんて名乗れねえって。お袋だってそれはわかっていたはずだが、たいして警戒もせずに俺を産んだ。ようするに俺をなめていたってことだ。そりゃあ、すべてを焼き尽くす火の神をなめていたら、こういう事態を招くこともあるだろうよ。俺のせいじゃなくて、自業自得ってやつだな」
たとえ我が子であろうが、もう容赦するつもりはなかった。
「この(ピー)の(ピー)野郎が! (ピー)しやがれ!」
文字にできない下品な怒号をあげたイザナギは、十拳剣を横一線に薙いた。首を切断された火の神の頭が、ぼとりと落ちる。
「この馬鹿(ピー)息子が……」
十拳剣に血ぶりをくれると、飛び散った血からたくさんの神が生まれた。柄や指についた血からも神が生まれ、火の神の亡骸からも次々に神が生まれた。
イザナギはいっきに子沢山になった。稀に見る大家族だ。しかし、何者もイザナミの代わりにはならず、イザナギの寂しさが紛れることはなかった。
男は人前で泣くもんじゃない。イザナギはいつも考えていたが、今回ばかりは毎日毎日泣いてすごした。イザナミが嫌うと思って飲まなかった酒も、記憶がなくなるほど飲んで飲んで飲みまくった。酒に逃げなければ、気が狂いそうだった。
「気持ちは察するけどね、ちょっと飲みすぎなんじゃない? もし君が身体を壊しでもしたら、
そうだ、
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。黄泉国は地下にある死者の国だ。黄泉国に出向いてイザナミを連れ戻せばいいんだ。
イザナギは十拳剣を腰に帯びると、愛しいイザナミを追って黄泉国に向かった。
◇
生者の住む
御殿をよく観察すると巨大な扉が設けられていた。扉も岩でできているようだ。おそらくそこが黄泉国への入口だろう。嫌な気配がねっとりと漏れ出ていた。
イザナギは扉を見あげて叫んだ。
「イザナミ、兄ちゃんだ。迎えにきたぞ! 俺と一緒に現世に帰ろう!」
自分の声が虚しく反響するだけで、イザナミの返事はなかった。しかし、ここまできて簡単に諦めるわけにはいかない。イザナギはもう一度叫んだ。
「イザナミ、返事をしてくれ! お前を迎えにきた。また、ガッチャンコしよう!」
すると、扉の向こうで慌てた声がした。
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん! 大きな声でガッチャンコなんて言わないで!」
イザナギははっとして扉に両手を置いた。
「イザナミか!」
扉の向こうでも両手を置く気配があった。そして、懐かしい声が返ってきた。
「うん、私だよ……会いにきてくれたの?」
イザナギは目頭が熱くなるのを感じた。だが、涙を流すのはあとだ。ここにやってきた大切な目的を、イザナミに伝えるのが最優先だ。
「イザナミ、俺と一緒に現世に帰ろう」
すると、イザナミは「え……」と漏らした。なぜか動揺しているようだ。
「俺はお前がいないとダメなんだ。ガッチャンコはしたいが、国はもう産まなくてもいい。俺のそばにいてくれるだけでいいんだ。頼む。俺と一緒に現世に帰ってくれ」
ややの間のあと、イザナミは言った。
「私もお兄ちゃんのそばにいたいよ。でも、もう遅いの。現世には戻れない……」
「なぜだ。俺がなんとしてでもお前を現世に連れ戻してやる。だから諦めるな」
さっきよりも長い間のあと、かなしげな声が返ってきた。
「私、食べたの……黄泉国のものを……」
「食べた?」尋ねてからイザナギは気づいた。「もしかして
黄泉戸喫とは同じ
だが、黄泉国のまずい飯を口にしただけで、現世に戻れないなんて馬鹿げている。黄泉戸喫なんか糞食らえだ。
「イザナミ、黄泉国の神を俺に紹介してくれ。現世に帰れるよう、俺が話をつけてやる」
イザナギが扉を押し開けようしたとき、イザナミの甲高い声が響いた。
「ダメ、お兄ちゃん、扉を開けないで!」
切羽詰まった声だった。イザナギは動きを止めて訊いた。
「どうした、なぜ扉を開けちゃいけないんだ? なにかまずいことでもあるのか?」
「ごめんね、今は理由を言えないの。でも、お願いだから扉を開けないで」
「いや、しかしな、扉を開けないことには、お前を連れて帰れないぞ」
「うん、そうだね。それはわかってる……」
神妙に言った切り、妹は黙りこくった。不安になったイザナギが、「……イザナミ?」と呼びかけるまで、重い沈黙が続いた。
「私もお兄ちゃんと一緒にいたい。叶うかどうかわからないけど、現世に帰してくれないか、こっちの神さまに頼んでみる。だから、少しだけここで待ってて」
イザナミはなにか困ったことがあるとイザナギに頼る。だが、今回は自分の力で事をおさめようとしているようだ。自立を意識してのことだろうか。であれば、ここは一歩引いて首を突っこまず、その意志を尊重してやるべきだろう。
「そうか、わかった。けどな、そいつらがごちゃごちゃ抜かすようだったら、適当なところで切りあげて俺に言えよ。黄泉国の神さまだろうがなんだろうが、いざとなれば俺がねじ伏せてやるからな」
「ありがとう。でも、必ずここに戻ってくるから、絶対に黄泉国に入ってきちゃダメだよ。なにがあっても絶対だからね。約束してね、お兄ちゃん。絶対に絶対だからね」
念押しするその言葉を最後に、扉の向こうにあるイザナミの気配がすっと消えた。
【第六話に続く】
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