第4話

 北乃先輩が卒業して、俺たちは、三年生の春を迎えていた。

 加原涼子との交際も二年目を迎え、俺たちの交際は順調に見えた。

「ねえハル君、これ、なんて書いた?」

 涼子は一枚のプリントをひらひらと泳がせながら、そう切り出した。進級そうそう配られた進路希望調査書は、否が応でも俺たちが受験生であることを意識させる。

「どうする、って言っても、涼子、お前、大学に行ける頭、あるのかよ」

「えー、……ない、へへっ」

「あのなあ、今日は笑って許してもらおうなんて、考えるなよ」

「大丈夫、私、花嫁修業って書くから」

「それ、どういうことだよ?」

「ハル君の、お嫁さんになるってこと」

「んな!」

「大丈夫?ハル君」

「お前が変なこと言うからだろ?涼子」

「へへ。ごめん」

「ほんとさー、そうやってかわいい顔すれば許してくれると思って……」

「ははは。さ、帰ろうよ。ハル君」

「わかったよ」

 俺たちは、教室にまだまばらに残っていたクラスメイトに半分からかわれながら、そいつらに文句を言いつつ、夕暮れで薄く暗くなった廊下を、下駄箱に向かって進んだ。

 途中、学年成績が貼り出される掲示板の横、クラブ成績紹介棚なる、地方大会レベルの小規模な大会の表彰やタペストリーといったものに混ざって、真新しい、それも、珍しく金色の装飾をなされた表彰状が目に映り、俺は足を止めた。

「ハル君?どうしたの?」

「ああ、この表彰状、なんかスゲーこってんな、て」

「そう?とくに気にならないけど?」

 涼子がそっけない態度を取ったわけは、すぐにわかった。全国高校生写真コンクール金賞。受賞者、葵みさと。

「ねえ、それより、かえろ?今日、ハル君の部屋に行く約束でしょ」

ハル 「そうだったな。ごめん」

膨れた涼子に勝てず、俺は涼子に引っ張られるまま、下駄箱まで誘導された。

「もー、本当にさー、ハル君って、葵さんのことになると――」

「ごめん、幼なじみだから」

「もー……。じゃーあ、うーんとね、……あのさあ、ハル君。その、キス、しない?」

「……え、こ、ここでか?」

「……だめ?」

「いやいや、そのさ、が、学校じゃ、だめだろ。なあ」

「あのね、ハル君。私、すっごいばかだけど、れ、恋愛小説とかも読むんだ。ねえ、私たち、もう三年生でしょ?」

「いや、だから、今、下校時間だし、誰かにばれたりとか、そのさ」

 涼子のとろりとした上目づかいに気圧されて、俺は、下駄箱を背に追いやられた。涼子の手が、やさしく俺の胸におかれる。

「な、なあ、涼子、こういうことは、家でしよう。なあ、頼むから」

「だめ。ここで、するの」

自分の体のはずなのに、まるで金縛りにあったように、ただ首から上だけが、どうにか抵抗できた。すぐ近くにある涼子の頭から、理性のとぶような芳しい香りが漂ってくる。頭のてっぺんの汗すら、沸騰していた。涼子のやわらかそうな唇が、すぐそこにある。これ以上は、だめだ。

「なに、してるの」

 ガラスを割ったような鋭いおとともに、聞き覚えのある、しかしこの時ばかりは震えた声が耳をかすめ、俺は反射的に顔を向けた。

「ハ……ル?」

「葵さん?もしかして、見てた?」

 俺は壊れた首降り人形のように、お互いの顔を驚きの表情で見合う女子高生の顔を交互に見つめた。涼子は単純に、しかし葵と言えば、だんだん何かを耐えているかのように、口をギュッとつぐんだまま、次第には、肩を震わし、うつむいてしまった。

「あお……い」

「ごめんなさい!……さようなら」

「おい、待てよ」

「いかないで!」

「なんだよ!」

「ハル君は、わたしの恋人でしょ?お願い、いかないで。じゃないとわたし、葵さんに負けちゃう。葵さんと比べたらわたし、何のとりえもないし、ハル君に教えてもらっても勉強できないし、だから……いかないで。わたし、ハル君が行っちゃったら、葵さんになんにも勝てないんだよ。だから、ね……」

 急に痛み出したこの胸の気持ちを、どうしたらいいんだろう。

「涼子。君は、すごくかわいくて、愛らしくて、すごくいい恋人だと思う。俺、君といてすごい幸せだよ」

 だけど。

「ごめん。それ以上に、幼馴染の……葵のことが、大切なんだ」

 崩れるように泣く涼子を置いて、本当にひどい男だよ、俺は。だけど、今は、なんとなく追わないといけないんだ。葵のことを。たぶん、あの部屋。写真部が使っている、あの部屋。俺は体中に走る痛みをこらえながら、胸につけた傷を握りしめながら、階段を駆け上がった。

 ほんと、最低だよ。すごく好きだった恋人を泣かして、幼馴染を泣かして、幼馴染のほうを取るんだから。でも、それでも。俺は、勢いに任せて、写真部の張り紙のある扉を引いた。

「……ハル?」

「ごめん、葵。お前のこと、全然気づかなくて、俺――。」

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