第1話

「ハールー君!」

 加原涼子は、私が高校2年時の春に作った、人生初めてのガールフレンドである。

「ねえ、一緒に帰ろ?」

 彼女は私を見つけると決まって、私の左手を両手で覆うように握る。その手がとても柔らかく、そして少し暖かかったのを今でも覚えている。

「いつもそうしてるだろ?」

 このころの私は、初めてできた彼女に浮かれていたのかもしれない。目いっぱいに甘えてくる初彼女に、照れ隠しのためわざとらしいくらいそっけない返事をするのだ。

「今日、少し遠回りしようか?」

「そんな約束、してたっけ?」

「いいでしょー?テスト週間目前だし、ね?」

「そうだな。じゃあ、西野公園でも、どう?」

 スマホも携帯もない時代。まして、大型スーパーのチェーンやコンビニもまだ大都市にしかなかった時代、私たち田舎の学生のデートと言えば、学校の帰り道を少し遠回りして帰るとか、お互いの勉強を教えあうだとか、そんな遊びしかなかった。

「そういえば涼子、今度のテスト大丈夫?」

「ぜんぜん」

「だよなー……、はあ。授業ノートはちゃんととってるんだろ?」

「えへー。それがね、よくわかんないんだー」

だからさ、……あ、葵さんだ」

 とろりとした目線を私に向けていた陵子の顔が、急に涼子の目線の先に、自分の顔の大きさくらいはあろう大きなカメラを持った少女が、花壇の花にレンズを向けていた。

「わたし、葵さんって少し根暗だと思う」

「そういうなよ、真剣なんだぞ、あいつも」

「ハル君って、葵さんのことになるといつも彼女の肩を持つよね、幼馴染だから?」

「そんなことないって」

「フーン。いいもん、別に」

「おい、涼子!」

 涼子は俺の静止も聞かず、足早に葵へ向かっていった。

「こんにちは、葵さん、何を撮っているの?」

「あら、加原さん。こんにちは。今日はキンギョソウをとっているの。かわいいでしょ」

「そうかしら?わたし、コスモスのほうが好き」

「そうね、コスモス畑なんて、素敵よね」

「……」 

 涼子は言い負かされた様子で、口をつぐんでしまった。

「あ、ハルもいたんだね」

葵は、少し寂しそうな様子で俺を見ると、すぐに目を背けるようにうつむいた。

「そう。私、今からハル君と帰るんだ」

「そうなんだ」

「うらやましい?」

「……そんなこと、ないよ」

 葵は涼子からも視線をそらして、カメラだけを見ていた。

 そんな気まずい空気の中、俺の後ろから声をかけてくる人がいた。

「おーい、葵―」

「あ、北乃先輩」

明るくなった葵を横目に、俺は顔をほんの少ししかめて北乃先輩を見つめた。

「お、長沼、お疲れ」

「ああ、北乃先輩。お疲れ様っす。先輩受験生なのに、まだ部活、してるんですか?」

「そう。運動部とは違って、趣味程度にできるしな。ああ、葵。今日はもう時間がないし、現像にまわしてって、先生が」

「分かりました」

「じゃあ、行くぞ」

「はい」

「じゃあ、みさ……葵、俺たちもう帰るわ。写真部、がんばってな」

「ハルも、加原さんと仲良くね」

「え、帰んの?お疲れ」

「すみません。お疲れっした」

「じゃあね、葵さん。ハル君と帰るから」

 明るくなった葵の表情が、また少し、曇った。

「さよなら、加原さん」

 葵の少し寂しそうな見送りは、俺の心を、ちくりと刺した。

「ハールー君。ねえ、今日さ、家に寄っていい?今日の授業、少しわからなかったんだ」

 そんな罪悪感も、涼子に手を握られればすぐに消えてしまう。俺は少し顔を赤くしながら、「寄るだけだからな」とだけ返す。涼子は嬉しそうに、少しだけ体を寄せて、笑っていた。

 私には、一人の幼馴染がいた。葵みさと。彼女がカメラを持ったのは、確か中学校くらいからだったか、そのように記憶している。彼女と次第に距離ができ始めたのはその頃だった。みさとちゃん、と呼んでいた彼女の呼び方も、美里へと代わったのもちょうどこのころだ。

 そして、彼女の呼び方が、みさとから葵になったのは、おれに恋人ができてからだ。

 今思えば、本当は思春期ゆえに、女の子のちゃん付けや、名前の呼び捨てなど、恥ずかしくなってしまったことへの言い訳だと、笑いながら言ってしまえることだ。

 それでも、このころの俺は、葵みさととの距離を彼女の呼び方で測っていた。

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