丘の向こうで

河原四郎

プロローグ

 私は珍しく、会社の休み時間に一軒の古本屋に足を運んでいた。

オフィスが軒を連ねるビル街の一角にあるその古本屋は、有名メーカーのロゴが入った年季の入ったカメラや、往年のカメラ雑誌がショーウィンドウを理路整然と飾りながら、ガラス戸からのぞき込める店内にはびっしりと大判の古本がところせましと並び積まれているという何ともちぐはぐな店だった。

カメラの趣味も読書の趣味もたいして持たない私が、どういうわけかこの日だけは、何かに誘われたかのように、足を踏み入れたのである。

「いらっしゃい」

「ああ、どうも」

私は四十ばかりの男性書店員と適当な挨拶を交わして、足元に積まれた厚い本の山に気を取られながら、何を探すでもなく、壁伝いに本を眺めてみた。

どれもこれも同じ本に見えてしまう。往年の名画集というのだろうか、写真家なら目を輝かすような雑誌の束や、わたしでも名前の聞いたことのあるほど有名な写真雑誌。はたまた、おそらくは名前のよく知られているのであろう写真家の、装飾のこった額に納められた作品――。

ところが、不意に目に留まった額入りの写真を、私はいつの間にか手に取っていたのである。

本の山に無造作にかけられた、少しばかり体の整っただけのやすっぽい作りの額縁に納められた写真。店内には、本の山々に交じって同じような古い額縁がごろごろとしているのだが、この額だけが妙に気にかかった。

「これは……」

 額に収められていたのは、モノクロでとられた、一枚の春の風景写真だった。峰の上からとられたのであろう谷間一面を舞う桜吹雪は、どこかで見たことのあるような懐かしい、いやしかし、まるで自分の体験であったかのように見せる力を持っているのか。私はまるで、霞みがかるほどの遠い記憶のむずがゆい部分をくすぐられているような気さえ起こした。

「ああ、それかい」

長沼にあらわれた書店員は、私よりも懐かしそうな顔をほころばせて、何か話したげに額の写真を見つめていた。

「お客さん、この写真、えらいべっぴんさんだろう。だいぶ前の写真なんだけどね、高校生か大学生かの写真コンクールで金賞を取った写真だよ」

「なぜ、そんなものが?」

「何年か前の大不況でね、主催者の会社が倒産したか買収されたかで、過去の作品がたまたま流れてきてね。この写真、女の子がとったにしてはなかなかごつい写真でね……」

「女の子……」

 わたしの頭の中を、一人の女性の名前が走り過ぎたが、すぐに気のせいだと気付いた。額の裏側に貼られた今にも剥がれ落ちそうな名札は、私にこの写真の撮影者が、頭をよぎった女性とは別人だと教えてくれたからだ。

「……まあ、なかなか古い写真だし、人気もないから、そろそろ処分しようかなって、思ってるんだけどねえ」

「それなら私に、譲ってはくれないでしょうか」

「本当かい、いやあ、助かるよ。値段も、少し引いておくからねえ」

 私が好んで写真を買うなど、実に驚きではあるが、この時の私は、その写真を今ここで手に入れなければ、残りの人生を、わけもなく途方に後悔しそうでならなかったのだ。

 まあ、どうせ退職までの数日ぐらい、私物の少ない私のデスク周りにおいてもいいだろうと、退職の日まで目に見える壁にかけておいたのだが、どこかで見たことのあるような風景が、ノスタルジックに感じただけの記憶違いなのか、それとも年のせいで思い出せないのか、結局、退職当日まで結論が出ず、私は、とうとうこの写真とともに会社を去らねばならなくなった。

 会社の公費で購入したものではないからと、額に入ったその写真とともに部下に送られながら会社を後にした私は、たまには電車で帰ってみようかと、いつものように社屋の隅で出待ちをする顔なじみのタクシーを断り、風呂敷に包んだ写真を小脇に抱えながら、帰宅ラッシュにはまだ時間の早いすいた車両に腰を下ろして、ぼんやりと流れるビル街をみつめた。

 勤続四十年。その間に妻も娶り、二人の子供を授かった。その子は二人とも今は家を出て、家庭を持っている。明日からの日々を妻と過ごすことを考えると、多少の趣味でも作らねばと、ぼんやりと考えながら、私は小さく息を吐き、ほんの少しのつもりで目を閉じた。

 あのころの自分と、彼女のこと思い出して――。

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