4-3

 その翌朝、教室の扉をくぐった俺は自分の席に着いた。いつも通りめちゃくちゃ眠い。ただ、今日に限ってはもう少し起きていようと決めていた。それはまるで眠いのを堪えて、見たい深夜番組を心待ちにするような感覚。今日は面白いことが起きる予感があった。


※ ※ ※


「あーあ、ケンタローに泣かされたー」

「人聞きが悪いな」


 散々泣きわめいていた泉も少しは落ち着いたのかこちらに背を向けて壁に向かって喋っている。


「分かってるよ、この涙は私のもの、でしょ?」

「きっとそうだ」


 ベッドの上に座る泉は時々鼻をすすっていたが、その口調は徐々に本来の泉が持つ明るさを取り戻しているようだった。


「でもさあ、こんな恥ずかしいところ見られたらもうお嫁にいけないよ」

「大丈夫だろ、見たの俺だけだし」

「そういうことじゃないんだよねぇ」


 そう口にする泉の声音は不満そうであり楽しそうでもあった。


「今度のことで分かったんだけど、たぶんあたし憧れやすいタイプだわ」

「そうなのか」

「うん。前はギャルのモデルさん。で、今度はケンタローの向日葵」


 泉は俺の絵を手に持ちながら言った。


「あたしもこんなに強く気高い存在になりたいよ」

「………」

「多分そのためにはさ、太陽に向かわなくちゃいけないんだよね」


 そう呟くと、泉らしい明るくおどけた口調で声を上げた。


「さしあたっては誰だあ?このあたしをこんな目に合わせた奴は」

「心当たりはあるぞ」

「えっ」


 俺は記憶をたどる。美術室に行く道すがら遭遇した姦しい喧噪。


「なんか女連中だったんだよ。名前は…。名前…。…………忘れた」

「……」


 泉は依然壁を向いている。しかしその沈黙からは心底呆れ果てたような雰囲気を醸し出していた。そうだ、あいつら確か前に少し泉を観察してた時によく一緒にいたような…。


「でもなんかそいつらいつもお前と一緒にいる奴らだったような…」

「…!そいつらの中に茶髪のボブの子いなかった?」

「ボブ?なんだそのアメリカ人みたいなやつは」

「違うっての!茶髪の、こう、短めの髪で、丸顔で身長も小さめな子!」

「そういえば名前を呼ばれてたやつがそんな感じだったような」


 思い出すだけで吐き気を催す醜い悪意を口走っていた奴がいた。


「ねえその子、日向って呼ばれてなかった?」

「あ!そう、それだ!」

「ひらがな三文字の名前すら覚えられんのかあんたは…」


 そして、まさかね…と呟く泉は少し逡巡する様子だったが、やがて意を決したようだった。


「でもまあ、これで闘う準備は整ったよ」


 泉の口から出たその言葉に俺はワクワクしてしまう。何か面白いものが見れそうだ。


「ケンタローはいらないって言うかもだけど、やっぱり言わせて」


 そうしてこちらを振り向くと、さっきまでの落ち込みようが嘘のような、血色のいい満面の笑顔で言った。


「今日はありがと!」


※ ※ ※


 教室の扉が開かれる。


 さらりと流れる金色の髪、着崩した制服。前回会った時とは全く違う、しかしそれこそが本来の姿だと言わんばかりの泉真衣が教室に入ってくる。教室がざわざわし始めた中、日向と呼ばれていた女子が泉に駆け寄った。


「真衣ちゃん大丈夫?元気だった?」


 その瞬間だった。泉は一歩踏み込むと、渾身の力を込めて日向の顔面を殴り飛ばした。

 吹っ飛んだ日向は並べられた机に打ち付けられ、それらが崩れる音と共に仰向けに倒れる。泉は日向を見下ろすと、不敵な笑みを浮かべた。


「ねえ、喧嘩しよっか」


 そう言い渡された日向は顔を抑えながらガタガタと震えだした。すると、日向の周りにいた女子たちが泉を咎めるように囲んだ。


「いきなり何してんの!?」

「日向、大丈夫!?」

「謝りなよ!」


 泉に謝罪を求めた女子Aは代わりに蹴りを見舞われた。鳩尾を突かれた女子Aはその場にうずくまる。


「ごめんごめん、ちょっといいとこ入りすぎたかなー」


 泉は全く心のこもっていない謝罪を口にする。


「ちょっ、ちょっと落ち着いてよ…」

「私たち、何もしてないよ!?」

「あたしはまだあんたたちが何かしたなんて言ってないんだけど」

「な…!?」


 泉は心底可笑しそうに笑う。


「あはは!そんなに驚かなくても!まあこの際あんたたちがボロを出すかどうかは関係ないんだ」


 一歩一歩、泉は失言をした女子Bに向かっていく。


「あたしの親友が聞いちゃったらしいんだよね。あんたたちがコソコソあたしを貶めてたことをさあ」

「こ、来ないで…!」


 拒む女子Bを泉は遠慮なく蹴り飛ばす。ドゴォッと机に衝突する音と共に崩れ去っていく。泉は残る女子Cの方を向き、好戦的な笑みを浮かべた。


「ひっ……!」


 顔面蒼白の女子Cはあまりの泉の恐ろしさに耐えかねて、教室のドアから走って逃げ出した。

 うずくまる三人の女子の中心に一人立つ泉。クラスの人間は端に固まり、その戦線の様子を眺めていた。


「あーあ、逃げ出しちゃったよ。…まあ後でぶっ潰せばいいか。……グッ!?」


 ドアの方を見つめていた泉の横頬を、いつの間にか立ち上がっていた日向が死角から殴る。


「はぁ…はぁ…」

「痛いじゃん」

「喧嘩しようって言ったのはそっちでしょ…!」

「ああ、そうだったね」


 そうして取っ組み合いが始まった。さっきまでは急襲と異常なプレッシャーによって相手を圧倒していた泉だったが、こうなっては互角の女同士の喧嘩だ。隙あらば相手を殴るという構図が作り出された。


「どうしてあんなことしたの?」


 そう言って、泉が日向を殴る。


「お前のことが、大嫌いだからだよっ!!!」


 咆哮の勢いに任せて、日向が泉を押し倒す。マウントを取った日向はその体勢から泉を何度も殴る。


「馬鹿っぽいギャルの格好して、まるでビッチみたいなあんたが!何でもできて、人気者!?ウザイ!ウザイ!!ウザイ!!!」

「…………っ」

「あんたが何か成果を出すたびに私たちは劣等感を感じる!でもあんたはそんな私たちに遠慮なく近づくからよけい惨めになる!」


 日向は爆発した感情の赴くままに泉を殴り続ける。


「お前のその明るさから私たちをバカにしてるってのが透けて見えるんだよっ!!」


 日向がとどめに放った一撃は、しかし泉に掴まれて止められる。


「…それが、日向の本音?」


 呟いた声は酷く冷たく聞こえた。


「だとしたら、相当つまんないよ、それ」


 その瞬間、泉はブリッジをするように腰を勢いよく浮かせた。突然のことに日向はバランスを失う。泉は掴んだ腕の方に体を回転させると、馬乗りになっていた日向が崩れ、マウントを取り返した。


「今のヤバくない?ぶっつけ本番でも成功するもんだねー」


 得意気に笑う泉とは対照的に何が起こったのか分からず呆然とする日向。その顔面に再び容赦ない一撃を叩き込む。それをまともに喰らった日向は沈黙し、教室が静まり返る。泉はその場に立ち上がると、気絶している日向を見下ろした。


「やっぱりあたしは前に進むよ。その先できっと自分の望む世界を作り出してみせる」


 そう言った泉の表情はこれ以上ないくらい晴れ晴れとしたように見えた。


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