4-2

 ピンポーン。


 レンガ造りの塀には『泉』の表札。俺はその下に設置されたインターホンのボタンを押した。


『はい』


 応答したのは女性の声。母親だろうか。


「こんにちは。私、真衣さんの友達の並木健太郎と申します。真衣さんが欠席している間に配られた学校のプリントを届けに参りました」

『……』


 ブツッ。

 ブツッ?あれ、もしかして切られた?何か失礼なことしただろうか。そんなことを思っていると、塀の向こう、赤い屋根と白い壁の一軒家、その黒い扉が開かれた。


「…ケンタロー?」


 いつもの派手な感じの服装は鳴りを潜め、灰色のスウェットに身を包む泉。綺麗だった金色の髪はぼさぼさになっている。目にはクマがあり、その顔つきはどこかやつれていた。


「久しぶりだな。遊びに来たぞ」


 目に見えてわかる泉の不調。だからこそ俺は、努めていつも通りの調子で声を掛けた。


「…何でここに」

「まあ実はプリントっていうのも、遊びに来たってのも方便でな。例の絵が完成したからお前に見せに来た」


 そう言うと、泉は顔を俯かせてぼそぼそと呟く。


「ごめん、今あたし何も見たくないし何も聞きたくない…」


 行動というのは時として口よりも雄弁に真実を語る。泉が本当にそう思うならどうして扉は開かれたのか。実体のない大義名分を手にした俺は、目の前にいる友人の強引さを真似てみる。


「いやそれは困る」


 一歩踏み出す。


「だって俺はお前にこの絵を見せなきゃ気が済まないんだから」


 一歩。また一歩。いつしか俺は傘をたたんで玄関の屋根の下に辿り着いていた。


「ということで、お邪魔します」

「ちょっ…」


 そして戸惑う泉の横を通り過ぎて家に押し入る。文句のつけようがない不法侵入だ。いつだったか泉に通報されかけたことがあったが、今度こそお縄についてしまうかもしれない。


「……」


 しかし、泉は無言で数秒間俺を見つめた後、ぱたりと扉を閉めた。サンダルを脱いで、廊下に続く段差を上る。


「こっち」


 そういって歩き出す泉を追うように、俺も靴を脱いで泉の家に上がった。玄関の右脇にある階段を上る。


「ご両親に挨拶しなくてもいいか?」

「うち共働きだから」

「そうか」


 階段を上り切ると左に二つ、前方に一つドアがあった。泉は左側手前の部屋のドアを開ける。


 ドアの向こうは暗かったが、泉が電気をつけると部屋全体が照らされた。白い壁にフローリングの床。ベッドに勉強机、クローゼットなど基本的な家具が並ぶ。その中で目を引いたのは倒れた本棚とちゃぶ台だった。窓は二つ設置されているようだったがいずれも濃いブラウンの遮光カーテンが外の景色を遮っていた。


「適当に座ってよ」


 そう言いながら泉はベッドに座った。俺も遠慮なく、床に置かれたクッションに腰掛ける。そして絵の入った黒いバッグに手を掛けた。


「じゃあさっそく見てもらおうか」

「待って」


 泉が制止する。俺は手を止めて、視線を泉に向けた。その表情は困惑しているような、怯えているような感情が入り混じっているように見えた。


「な、なんで、あたしにその絵を見せようと思ったの…?」


 問いかける声は酷くか細い。


「だってさぁ、そんなのケンタローらしくないよ」

「俺らしくない?」

「うん。ケンタローは人のために絵を描くような人じゃないじゃん」


 確かに俺は誰かに捧げる絵を描くようなタイプじゃない。


「自分が美しいと思うものこそ美しいってさ、そうやって自分を貫けるのがケンタローの強さじゃん」


 その通りだ。俺が美しいと思うものこそ美しい。


「そんな奴があたしに絵を見せたいっていうのが分からないよ。もしかして今のあたしに同情してるの?慰めようとしてるの?そんなの、そんなのって…」


 当然の疑問と重なる苛立ち。あんなにか細かった泉の声はいつしか熱を帯びていた。


「俺は同情もしてないし、慰めようとも思ってない。この絵はそんなもののために見せるわけじゃない」

「じゃあなんで!?」


 声を荒げる泉の問いに冷静に答える。


「お前が強いからだ」

「え?」

「お前みたいな強い人間が俺の絵を見て何を感じるか気になった」


 それを聞いた泉は薄ら笑う。それはまるで自分自身に向けられた嘲笑だった。


「…ケンタローは勘違いしてるよ、あたしは強くなんてない」


 そして泉は告解するように、懺悔するように、語り始める。


「朝がね、怖いの」

「……」

「まるで一日の始まりを告げる太陽の光が、弱いあたしを照らし出しているみたいで…」


 呟くような語り口はあの日の公園でのことを彷彿とさせた。


「あたしもそれなりに普通の生きるってやつをやったことがあるから分かるんだけど、みんなの朝は目的で溢れてるの。例えばケンタローは朝バイトがあるでしょ。それと同じように学校に行くとか、仕事に行くとか」


 泉の視線は、カーテンに閉じられて見えないはずの景色に向けられていた。それは酷く遠くのものを見つめているようだった。


「でも今のあたしには何もない。朝はそれを嫌でも突き付けてくる。罪悪感やら焦燥感やらが流れ込んできて叫びだしたくなるような気持ちになるの。ベッドの柔らかさも窓が明るむのも全部全部、気持ち悪い」


 徐々に泉が抱える負の感情が溢れ出す。


「こんなの嫌だよ。嫌なんだよっ。でもどうしていいか分かんない。この世界には私の敵しかいないんだ…っ」


 昔、世界を変えた少女は、再び世界に裏切られた。


「ねえケンタロー、あたしのやってきたことは間違ってたのかなぁ?あたしなんかが強くなろうとするなんておこがましかったのかなぁ?」


 泉はきっと答えを求めている。何が正しくて何が間違っているのか。そしてその問いには泉の後悔のようなものが含まれているような気がした。



「人は人の心を救えない…」

「…?」

「お前が弱ってるのは姿を見て、話を聞けば分かることだ。でもその苦しみや辛さは俺には理解できない。その痛みはお前のものだ」

「私のもの…」

「例えば俺は小学生の頃に両親を亡くして苦しんだことがある。じゃあ同じように両親を亡くした小学生がいたとしてその苦しみは俺と同一のものか。否だ。なぜなら俺とそいつでは環境も考え方も何もかも違うのだから」


 そしてこれが、俺がはるか昔に辿り着いた結論だった。


「絶対的に個である以上、俺たちは相手を理解することなんてできないし、ましてや救うことなんて決してできない」


 だが、今はきっと、それだけじゃない。


「でも、俺たちは感じることができた」

「感じる…?」

「そう。何かを見て美しいと感じ、何かに触れて汚いと感じるように。何かを楽しいと感じ、何かを悲しいと感じるように」


 その感覚に正解はないが、きっとその全てが正しい。


「俺は泉を強いと感じた」

「…っ」

「…あの公園でお前の話を聞いた次の日に、自分の絵を見たんだ。そしたらびっくりするほど何も感じなかった。そこには向日葵の力強さも美しさもなくて、思わず破り捨てた」


 次は俺の世界の話。


「それですぐに書き直してみたんだ。泉の強さを知ったから、俺もお前みたいな力強さを絵に反映できるんじゃないかって思った。でも、何枚書いてもうまくいかない。それで気づいたんだ。泉のような強さを表現できないのは俺が弱いからだって」


 俺が他の世界に触れた話。


「俺は絵に救われた。両親のいない世界に絶望した俺に、絵は別の世界を与えてくれたんだ。それから俺はずっと絵の世界で生きてきた。でも泉の話を聞いて、俺の絵との関わり方が逃げなんだと気づいた」


 俺が自らの弱さを認めた話。


「俺もさ、闘わなくちゃいけないんだって。それで、こないだ初めて両親の墓参りに行ったよ。いろんな…いろんなことを話した気がする。そしたら帰り道のアスファルトの感触も、頬を撫でる風も、頭上に広がる空も、その全てが確かに自分のものになっていた」


 俺の世界が広がった話。

 その全ての話を泉が理解することはきっとできないけれど。


「この絵には今の俺の世界を込めた。お前は何を感じるかな」


 それは、何の変哲もない住宅街の片隅に咲く、一本の向日葵を描き出した風景画。

 気づかなければ通り過ぎてしまうようなありふれた光景。その中にあって、黄色に彩られた花弁は確かな生命力に満ち溢れていた。

 向日葵は世界の一部であるからこそ、強く、美しかったのだ。

 そしてその花はきっと、愚直に、まっすぐに、ただ太陽だけを目指している。


「…………」


 沈黙。泉は瞬きすることもなく、じっとその絵を見つめていた。


「うぅ…………」


 声が漏れる。いつしかその瞳には泉を映す雫が浮かんでいた。


「うっ、うわあああぁぁぁぁぁ……!!」


 溢れ出す感情の奔流。それはきっと幾重にも重なる、泉だけが理解できるもの。


「俺たちは感じることができる。そしてそれは力になる。泉、俺たちはいつだって俺たち自身を救うことができたんだ」


 どんなに孤独でも、どんなに苦しくても、何度世界に絶望しても。温かな光はいつでも俺たちを照らしている。そのことさえ忘れなければ、必ず。


「わ、分がんないっ。分かんないけどっ!止まらない…止まらないよぉっ…!」


 窓の外を見ると、降り続けていた雨がやんでいた。


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