2-6
喫茶店を出ると日もだいぶ傾き始めていた。数時間前のうだるような暑さも和らいで、過ごしやすい。さて、そろそろ解散かなと思っていると、泉が声を掛けてきた。
「ケンタローまだ時間大丈夫?大丈夫だったら、ちょっと行きたい所があるんだけど」
「ああ、大丈夫だ」
泉の先導ですみれ通りを抜けた俺たちは、その先の坂道を登る途中にある小さな公園を訪れていた。
不思議なもので、すみれ通りにはあんなに多くの人が詰め掛けていたというのにそこから十分ほど歩くと人の姿はほとんど見られなくなっていた。
公園には鉄棒だけがぽつんと設置されていてどこか寂しげな印象を抱かせる。
公園の縁はちょっとした崖のようになっていて、落ちても怪我はしないだろう高さではあるが、一応落下防止用の柵が設置されていた。
そこから見下ろすと商店街、駅、住宅群で構成される街の様子を一望できる。夕焼けで赤く染め上げられたその光景はとても幻想的で、実際に移動した距離よりもっと遠くに来てしまったような錯覚を覚えた。泉は柵に腕をもたれかける。
「綺麗でしょ?ここあたしのお気に入りの場所なんだー」
夕焼けに彩られるのは泉も例外ではなく、その姿はどこか暖かさを感じさせるものだった。
「ありがとね」
「え?」
「今日、楽しかったって言ってくれて。ホントは迷惑なんじゃないかーって思ってたから」
「あ、ああ」
本心ではあったが半ば勢いで言ったこともあり、改めて掘り返されると照れ臭いものだなと思った。泉は少し間を空けてから口を開く。
「さっきケンタローあたしのこと明るくて元気って言ってくれたじゃん?」
泉の視線はぼーっと暮れ行く夕日を見つめていた。
「あたしさー、中学の時はめっちゃ暗くて。それが原因で軽いいじめにもあったりして。まあ早い話が不登校だったんだよねー」
「へえ」
「…あんまり驚かないんだね」
「まあそういうこともあるだろ」
正直言って暗い泉なんて想像もつかなかったが、自分自身過去にいろいろあったので、その手の話は納得して聞くことができた。
「最初はずっと家にいたんだけど、だんだん飽きてきて。そのうち皆が学校行ってる時間に町をふらふらするようになってさ。ここもその時見つけたりして。あとゲーセンとかよく行ってたなあ」
それであのゲームの腕か。よっぽどのめりこんだのだろう。その感覚はなんとなく分かるような気がした。
「でもだんだんそんな風に毎日を過ごす弱い自分が嫌になってきて。また家にこもったのね」
相変わらず泉はぼんやり夕焼けを見つめ、淡々と語る。
「それである日なんとなくテレビを見てたら、いわゆるギャル系のモデルさんのインタビューが流れてて。そしたらその人も昔いじめられて不登校だったって喋っててさ。単純だけど、なんだかその人に自分を重ねて聞いてたの。で、その経験を踏まえて子どもたちにメッセージをって感じの事を聞かれてたんだけど、その時の言葉がすごく印象に残ったんだよね」
淡々と語っていた泉だったが、その言葉は噛みしめるような、自分に言い聞かせるような響きを持っていた。
「大事なことは二つです。一つは逃げること、そしてもう一つは闘うこと」
「闘う…」
「その人は、逃げることは恥でも何でもないからまずは逃げろって言ってて。でもいくら周りが逃げることが正しいことなんだって言ったって、逃げ出した本人にはいつも弱い自分が付きまとうものだって。その時はそんな自分と闘う必要があるんだって」
俺にはその言葉がなんだか他人事とは思えなかった。
「その一歩を踏み出すことはめちゃくちゃ怖いことかもしれない。けどずっとそこにいることが辛いなら思い切って踏み出してみて。その一歩が君の世界を素敵なものにしてくれるからって」
そう言い終えると、やがて泉は破顔した。
「こっからは笑い話なんだけど、それにモロ影響受けたあたしはとりあえずその人の真似しようと思って、こっそりお母さんの化粧品でメイクしたの。思い返してみてもあれは酷い出来だったけど…」
泉は過去の自分を懐かしむように笑う。
「でも、鏡に映った酷い顔のあたしは、前のあたしより強くなったような気がしたんだよね」
それは多分、無意識に泉が自分を変えようと行動したからなのだろう。
「それがきっかけで保健室だったけど学校に通えるようになってさ。出席日数を取り戻しながら、先生たちも補修とかつけてくれて。受験勉強もやって。そんな感じでなんとか中学は卒業できたんだ」
言葉に表すのは簡単なことだ。しかし似たような経験があるからこそ、その道中がどれだけ過酷なモノだったかは想像もつかなかった。
「高校は中学の奴があんまりいないところを選んで。引き続きそのモデルさんの真似みたいなことは続けて、メイクしたり髪染めたり、昔のあたしだったら絶対やらなかったようなことをやって。そしたらいつの間にか友達ができてて、気づいたら不登校の時が嘘みたいに毎日が楽しくなってたんだ」
泉はその一歩をきっかけに弱い自分を打ち倒し、自分を取り巻く世界も変えたのだった。俺はなんとなく、あの季節外れに咲く一本の向日葵の堂々たる姿を思い出していた。
「泉は強いな」
「まーね!そっからあたしの快進撃は続いてさ、友達はどんどん増えて、勉強も頑張って、読モの仕事もやったりして。今までの反動っていうか、なんか努力することがめっちゃ楽しくなってたんだよね~」
背景が分かると、クラス内での人気も頷けた。しかし泉はこんなことを言う。
「でも最近思うんだ。このままどんどん強くなっちゃっていいのかなって」
俺はその言葉の真意を読み取れなかった。
「今日誘ったの、急だなって思わなかった?」
泉が俺に質問してくる。まあ、いきなり友達って言いだしたことも含めてそのあたりのスピード感には違和感があった。
「いくらあたしでも知り合ったばっかの男の子と二人きりで遊びに行こうなんて言えないよ~」
「じゃあ、どうして?」
「うーん、ケンタローの真似をするなら、ケンタローのことがもっと知りたかったから、かな」
どうやらこちらと同様、泉も何かしらの目的があって、俺を誘ったらしかった。
「初めて美術室で話した時ケンタロー言ったじゃん?俺が美しいと思うものが美しいもので、お前が美しいと思うものが美しいものだろって」
「そういえばそんなことも言ったな」
「ケンタローはさっきあたしのこと強いとか言ってたけど、あたしはそれ聞いた時、こいつめっちゃ強いな!って素直に感心しちゃったんだよね」
感心されるほど大したことを言ったつもりはなかったが、どうやら俺の言葉は泉の琴線に触れたらしかった。
「正直ケンタローのことは、学校で惰眠を貪るぼっちくんとして憐れみすら抱いてたんだけど…。話してみたらすごくしっかりした芯があるっていう感じで驚いちゃった」
「憐れんでいたやつを驚かせられたんなら光栄だな」
泉は悪戯がバレた子どものように無邪気に笑う。
「あはは!まあそんな風に自分の世界がしっかりとあるケンタローのことを知りたいと思ったから誘ったんだけどさ。今になって思うと、もしかしたらあたしの話を聞いてほしかっただけなのかも」
いつしか日は沈み、月明かりと心もとない街灯のわずかな光だけが俺たちを照らしていた。
「ケンタローは不安じゃない?自分の世界がみんなの世界から浮き上がっちゃうの」
見下ろす街に灯っている明かりは、人間の営みが行われていることを示している。暗がりを照らす生活の灯が広がることに安心していると、さっきまで見えていた星が見えなくなっていることに気がついた。
「なんか最近違和感があって。今まで普通に話してた友達たちが一歩引いてるっていうか。はっきり何か言われたとかじゃないんだけど、なんか特別視されてるみたいな…」
話を聞きながらなんとなく俺の頭には、海の底に沈んだ星が再び天上の座に戻っていく童話のイメージが浮かんでいた。
「あたしは、このままのあたしでいいのかな?」
泉は迷っていた。だから俺に何かを求めているのかもしれない。だが。
「その質問は無意味だと思うぞ」
「え?」
「なぜなら俺はお前になれないし、かといってお前も俺にはなれないからだ」
「ケンタローはあたしになれなくて、あたしもケンタローにはなれない…」
「泉が泉のままでいいかって質問に答えるには、泉の立場に立つか、無視して俺の意見を言うかどちらかの視点になる必要がある。でもそれってどっちも結局は想像なんだよ。俺が泉の気持ちになろうとするのも、泉が俺から何かを読み取ろうとするのも。想像なんてものは脆いものだから、そんなもんに立脚した答えなんてどうせすぐに崩壊する。まあ要するに、大切なことは自分で決めろってことだな」
そう、いつだって信じられるのは自分だけなのだ。
「そんなわけで俺はその質問には答えられないけど」
泉をしっかりと見据える。
「俺は、お前の強さに憧れるよ」
しばらくの間、沈黙が場を支配したが、やがて泉が持ち前の明るさを取り戻したかのようにクツクツと笑い出す。
「マジでケンタローは、ケンタローって感じだよね」
「なんだそれ」
「ふふっ、なーんかめっちゃ語っちゃったねぇ。でもなんかスッキリしたかも」
その砕けた笑顔のおかげか、先程までどこか張りつめていた空気が緩む。びゅうと吹いた夜風は冷たくて、俺にはそれが心地よく感じられた。
「そろそろ帰るか」
「そーだね。あっ、今日のことは二人だけの秘密だからね!まあ、ケンタローに他に喋る相手なんていないだろうけど」
「事実だが腹立つな、なんか」
こうして長かったような短かったような、そんな一日が終わりを告げる。坂道を下り、すみれ通りを抜けて、お互い反対方向の電車に乗る駅で泉と別れた。
帰り道の電車で今日のことを振り返る。知りたいことを知ることができたのか、これが絵につながるのか。そのあたりのことはまだ何も分からないままだったが、今あの向日葵を書いたらどうなるんだろうという、どこかワクワクとした好奇心が膨らんでいた。
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