1-3
「ねえ、ケンタロー」
「んあ?」
肩を揺さぶられながら呼びかけられて、意識が浮上する。顔を上げると、机の前に泉がしゃがみ込んでいた。泉は呆れたように笑う。
「知ってたけどケンタロー寝すぎ。もうみんな帰っちゃったよ?」
「あれ、もうそんな時間か」
黒板の上にかけられた時計を見ると午後四時。授業が三時半に終わることを考えると、それから三十分も経てば、ほとんどの生徒が教室にいないというのも道理だろう。実際、あたりを見渡すと俺と泉だけしか教室にはいなかった。どうやら少し寝すぎたらしい。
「というか、なんで泉もまだ残ってるんだ?」
「う」
教室に用のない生徒には泉だって含まれているはずだ。泉は美術室で見せたような少し翳りのある表情をした後、口を開いた。
「あたし体操服なくしちゃったみたいでさ」
「体操服?」
泉は昨日の今日でまた物をなくしたらしい。そういえば今日は体育の授業があったな。流石の俺でも眠りながら体育の授業に出席はできないので、なんとか起きて見学という形で参加している。それにしても体操服なんてなくすような物だろうか。
「うん、授業で使った後ロッカーに入れてたはずなんだけど…」
「まあそうだよな」
体操服なんてどこにでも持ち歩く物でもない。大体みんなロッカーに入れておくだろう。保管する場所が限定されている以上、そう簡単になくすとは考えにくい。
「それってもしかすると、盗まれたんじゃないか?」
「えっ」
女子の体操服を盗む変態野郎なんて漫画の世界の中だけだと思っていたが、泉は派手だけど美人だし、そういうこともあるのかもしれない。泉は青ざめた顔で言う。
「それって、めっちゃ可愛くて聡明なあたしのことが好きだけど、万に一つも可能性がないキモイ豚野郎が、盗んだ体操服でハアハアしてるってこと!?」
「お前、自己評価高い上に口が悪いな」
聡明って…。目の前にいる制服を着崩した金髪のギャルは知性とは程遠いところにいる気がする。
「俺にはお前が聡明に見えないんだけど…」
「あ、ひっどー!あたし前回のテスト学年二位だからねー!?」
「マジすか」
「マジマジ」
どうよ!と泉がピースする。こいつ頭良かったのか。まあ俺だって前回のテストは十本の指に入っていたけどな、下から。
「どうやらあたしの勝ちだね」
「まあそれは置いとくとして」
「ちょっと!」
「体操服のことは先生にでも相談した方がいいんじゃないか」
俺は話を元に戻す。すると、泉は神妙な面持ちで元気なく答える。
「やっぱ、そうした方がいいのかな…」
「まあ念のためだな」
泉は少し悩むような素振りを見せた後、目をそらすようにして言った。
「わかった。じゃあ、ケンタローも一緒に来て」
「なんでだ」
「ひどっ!体操服を盗まれたかもしれなくて、恐怖と心細さで震える女の子を放っていっちゃうっていうの!?」
「そう見られたいなら、もう少ししおらしくしろよ」
「ケンタローの意地悪!言っとくけど、一緒に来てくれないなら体操服探し手伝わせるからね!」
泉は不満そうに言う。正直、手がかりもなく探すのは面倒だ。ここで問答していても泉は解放してくれないだろうし、先生のところに一緒に行くのが手っ取り早いか。早く美術室に行って絵描きたいしな。
「分かったから。準備するからちょっと待っててくれ」
「ん」
満足したような表情の泉を背に、俺は自分の体操服を取り出すためにロッカーに向かった。扉を開けると、自分の体操服が入った黒い袋とは別に、見慣れない黄色の袋が置いてあった。
頭の中に警報が鳴り響く。こ、これってまさか…。
俺は二つの袋を手に持ち、黄色の袋は背に隠して、泉が待つ自分の席に戻った。
「じゃあ、行こっか」
「ちょっと待ってくれ…」
「ん?」
泉が足を止めてこちらを見る。背後に隠したそれを泉に見せるのはためらわれるが、このまま放置しておくわけにもいかないと思った俺は、ええいままよと泉に黄色い袋を差し出す。
「こ、これ…」
内心で汗をだらだら流して言うと、泉はこちらをジト目で見た後、腕で体を抱えるようにしながら口を開いた。
「ケンタローって、変態野郎の豚野郎で犯罪者?」
「誤解だ!!」
「誤解ねえ…」
そう言って、こちらを見る冷たい視線はまるで汚物でも見ているかのようだった。泉は携帯を取り出すと何やら操作し始めた。
「何してんだ?」
「警察に連絡しようと思って」
「待て待て待て」
冗談じゃない。このままでは濡れ衣で性犯罪者にされてしまう。早く弁解しないと…!
「ち、違うんだ。ロッカーを見たらなぜかその袋が置いてあってだな、断じて俺は盗んでなんかいない!だから俺は変態野郎でも豚野郎でもないし、犯罪者でもない!きっとこれは俺を陥れようとする国家の陰謀…」
「ぷっ」
濡れ衣を晴らそうと必死に弁解していると、泉の口から声が漏れた。
「ふふっ、あはは!」
こらえきれないというように、泉は大笑いする。
「はあ、ケンタローが盗んでなんかないって最初から分かってたよ~。盗んだ奴が、盗まれたんじゃないか、なんて言うはずないもんね」
「じゃあなんでお前…」
「いやあ、ちょっとからかってみようかなと思ってさ。そしたら、ふふっ、めっちゃ必死なんだもん、超ウケたわ~」
「お前な…」
どうやら泉は最初から全て承知の上で俺のことをからかっていたらしい。趣味が悪すぎるぞ…。
安堵の吐息を一つ吐くと、頭の中に疑問が浮かび上がってくる。
「それにしても、なんだって俺のロッカーにお前の体操服が…」
「うーん、なんでかな…」
誰かの悪戯にしてはタチが悪い。さっきまで楽しそうに笑っていた泉もさすがに困惑したような表情を浮かべている。しかし、考えたところで答えは出ない。
「まあとりあえずは見つかったんだし、いいか」
「そうだね…」
答えの出ないことを気に病んでも仕方がない。泉はまだ少し気にしているようだったが、とりあえず同意を示した。
「じゃあ俺は美術室行くわ」
「あっ、ケンタロー」
「ん?」
「ケンタローは放課後いっつも絵描いてるんだよね」
「ああ」
「平日は無理っぽいか…。じゃあ今度の週末、すみれ通りで遊ばない?」
「えっ」
泉に遊びに誘われた俺は突然のことに戸惑ってしまう。ちなみにすみれ通りは駅前の商店街のことだ。ここに来れば大体何でもあるというくらいには設備が充実していて、俺も画材を買いによく立ち寄ることがある。
「二人の友達記念ってことでさー、どう?昨日今日と探し物に付き合ってくれたお礼もしたいし」
俺は返事に窮してしまう。確かに平日の放課後は絵を描いているが、週末だって絵を描いている。というか、週末の方が学校がない分、思い切り絵に時間を費やすことができる。今までそんな比較をすることもなかったが、友達か絵かを選べと言われたら迷わず絵を選択するのが俺だ。
そういうわけで断ろうとした時、先日の川端先生の言葉が頭に浮かんだ。
『並木君はもっと人を知るといいんじゃないかな』
絵はありとあらゆる試行錯誤の末に完成に至る、というのは俺の経験則だ。絵の世界に生きるのならば、その美しさを描くためになんだってやらなきゃならない。積み上げられた歴史に学び、新しくやってくるものを柔軟に受け入れる必要がある。
もしかしたらこの誘いに乗ることは、あの向日葵の絵を完成させるために必要なことかもしれない。そう思った俺は、泉に返事をする。
「分かった、遊びに行こう」
「よっしゃ、約束ね!」
こうして俺は、週末に泉と遊びに行く約束をしたのだった。
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