1章 The Sunflower
桜の花はすでに散り、青々とした緑への移り変わりとともに、温かさが暑さへと変わっていく。そんなある日の放課後のこと、俺はいつものように一人、美術室で絵を描いていた。
題材は向日葵。家の近所で、季節には少し早いというのに、のびのびと天に向かって咲く一本の向日葵を見て描きたいと思ったのだ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
向日葵といえば、ゴッホの連作はあまりにも有名だろう。花瓶に生けられた複数の向日葵は作品ごとに本数が異なる。堂々と咲く者や下に顔を向けて咲く者、うねりのある茎を持つ者、その一本一本が個性を持ち、溢れる生命の黄色で彩られていた。
反面、花瓶の中に生けられている向日葵たちは、俺が見たあの向日葵とは違ってなんだか窮屈そうだなとも感じられる。
「ねえってば」
うん、とりあえずある程度は描けたような気もするけど、何か足りないな…。あの向日葵の力強さを表現するにはどうしたらいいのだろう。
「ちょっと、聞いてんの!?」
思案にふけっていると、向日葵の描かれたキャンバスを映した視界に、人の顔が現れた。
「うわ!」
あまりにも突然のことに驚いた俺は飛び退いた。
そして再び視線を戻すと、キャンパスの前には金髪のギャルが立っていた。
「そんなびっくりすることないじゃん、ウケるー」
ギャルがクスクスと笑う。俺は改めてその風体を見やる。
シャツは第二ボタンまで開かれ、襟には緩く巻かれたネクタイ。標準より短いスカートからはすらりとした足が伸び、その先には白いルーズソックスを履いている。金色の軽くカールされた長い髪とぱちりとした大きな目が特徴的だった。
「え、急に何…。というかお前誰?」
普段、俺以外いない放課後の美術室に突如現れたギャルに素性を問う。
「いや、誰って。あんたと同じクラスの泉真衣ちゃんでしょーが!」
問われたギャルは怒ったように言う。同じクラスの泉真衣…。うん、全然わからん。自慢じゃないが、人の顔と名前を覚えるのは苦手だ。本当に自慢することじゃないな…。
「まあでも、あんたぼっちだし。人の名前を覚えられなくても仕方ないかー」
小馬鹿にしたように笑い、人をぼっち扱いしてくる泉。ただ、それは普通に事実なので特に反論することもない。俺は友達が少ない、というかいない。
「それで、その泉が何の用だ?」
「そうそう、あんたに聞きたいことがあるんだった。」
そう言うと、泉は少し神妙な面持ちで目をそらして続けた。
「あたしの絵の具ケース見なかった?」
「絵の具ケース?」
俺は問い返す。
「そう、今日授業で使ったから家に持って帰ろうと思ったんだけど、ロッカーになくてさ。美術室に忘れたんかなーって思って探しに来たの」
「そうなのか」
当たり前だが、美術の授業は美術室で行われる。それゆえ、泉の探し物が美術室にあるかもしれないというのは道理だろう。俺は辺りを見回した。
「ざっと見た感じ、それらしいものは見当たらないな。そのケースって何色なんだ?」
「ピンク色だよ。ていうか、あたしもうこの部屋けっこー探したんだけど見つからなくてさ。なんか無いっぽいよね…」
泉の顔には諦めが見える。俺は全く気付かなかったが、すでに美術室の中はあらかた探し回ったのだろう。その他に探していないところといえば…。
「ここは調べたか?」
俺は美術準備室の扉の前に立って言った。この美術室は、黒板の横の扉の先が美術準備室になっており、そこには画材やら粘土やらの様々な物が置かれている。
「あ、そこはまだ調べてなかったわー、でも多分そこにはないんじゃない?」
そう、美術準備室は俺も含めた過去の美術部員たちの物置と化しており、一般の生徒がそこに立ち寄る用などないはずだった。だから俺も特に期待はせずにそのドアノブに手を掛けた。
「ま、念のためだな」
扉を開けると、相変わらず雑然と積まれた木箱の上にピンク色のケースが置かれていた。というか、もしかしなくても泉の探し物ってコレだよな。俺はそのケースを手に取り美術室に戻る。
「お前の探し物ってコレか?」
ケースを差し出すと、泉は安堵したように顔を綻ばせた。
「おぉ!コレだよ、あたしの絵の具ケース!見つかって良かった~」
泉は差し出したケースを受け取ると、少し考え込むような表情を見せた。
「でも、なんでそんなとこにあったんだろう…」
「さあな」
確かに普段、人が立ち寄らないような場所に泉のケースがあったことは疑問だが、とりあえずはそれも見つかったことだし、気にすることもないだろう。泉もそう考えたのか、やがてにかっと笑った。
「ま、見つかったからいいか!探してくれてありがとね!」
「おう」
俺は泉の感謝の言葉を軽く受け流した後、さっきまで作業していたキャンパスの前に戻る。やれやれ、急な来客には驚いたが問題も解決したようだし作業を続けよう。
キャンパスの前に座り、再び筆を取ろうとすると、視界の端、左肩の方に金色の髪が見えた。
「おぉ~綺麗じゃん、これ向日葵の絵だよね」
声のする方に視線を向けると、泉が俺の顔のすぐそばにしゃがみこむようにして顔を寄せていた。先程のように飛び上がることこそなかった。しかし、間近にある整った顔、少し視線を下げると覗く首筋、さらに視線を下げた先にある第二ボタンが開け放たれたシャツから見える胸元に、なんだかすごく緊張してしまう。泉の体から放たれる良い香りはその緊張をさらに倍増させた。
「ち、近いぞ」
その距離感に抗議を示すと、泉はニヤニヤと笑みを浮かべる。
「え~、こんくらいで照れてんのー?ウケる」
泉は愉快そうに距離を詰めてくる。この女にパーソナルスペースという概念はないのか。
「でもさあ、なんか意外だったわ。あんたいつも一人でぐーたらしてるけど、なんかすごく絵がうまかったんだね」
「うまいかどうかは分からんが、絵は俺の全てだから。美しいものを、美しく描けるように頑張ってるよ」
ふーんと相槌を打った泉は愉快そうだった表情を少し翳らせ、こんなことを言う。
「美しいものって、何なんだろうね」
不思議なことを聞くものだ。その答えは一つしかない。
「そんなの、お前が美しいと思うものが美しいもので、俺が美しいと思うものが美しいものだろう」
泉は少し驚いたような顔を見せた後、クツクツと笑い出した。
「あはは、ぼっちのくせに何カッコつけてんだよ~」
泉はバシバシ俺の肩をたたいた後、なんだか得心がいったような表情をして。
「でも、実はケンタローって面白い奴なんだね?」
と、俺の下の名を呼んだ。会ったばかりのくせに妙に馴れ馴れしいな。
「お前、俺の名前知ってたのか」
「あのね、どっかのぼっち君と一緒にしないでくれる?同じクラスの子の名前を覚えるなんて最低限の礼儀でしょう」
社会性が欠落している自覚はある。しかし、ギャルに礼儀を説かれるとは…。
「ふう。じゃ、用事も済んだしそろそろ帰るね」
「おう」
泉はスクールバッグと絵の具ケースを手に持つと、また明日!とか言いながら教室を出ていった。しーんと静まり返る教室。なんだか嵐のような女だったな。そんなことを思い、今度こそ筆を取ろうとした時だった。
「ふむ、今度の題材は向日葵かい。」
声の方向に目を向けると、坊主頭と鼻の下にたくわえた白いヒゲが特徴的な風体のおじいさんが傍らに立ち、絵を眺めていた。
「うわ、川端先生いたんですか」
「ついさっき来てね」
声の主は美術部顧問の川端先生だった。物腰の柔らかそうなおじいちゃん先生ではあるが、昔は日本美術界の権威として知られていたそうだ。今は隠居生活の傍ら、学校で美術の授業をしたり、こうして美術部の面倒を見てくれたりしている。
「それにしても君の絵は相変わらず隙がないねえ」
「はあ」
完成された美。
それはいつだったか受賞したコンクールで受けた俺の作品への評価だった。正直な話、俺は自分の絵に対する人からの評価はまったく気にしていない。美しさだけが表現できればそれでいい。
にもかかわらず、あの時はなぜかコンクールに出展していた。どうやら審査員には評判が良かったようだが、形にもなっていない目的は達成されることもなく、良かったことと言えばいくらかの賞金を得たことくらいだった。それ以降、俺がコンクールに出品することはなくなった。
そして今日まで特に変わることもなく絵を描き続けていた俺だったが、この向日葵の絵だけは満足のいく出来になっていなかった。
川端先生は俺の表情をしげしげと見つめて言う。
「でも並木君はこの絵にまだ満足していないようだね」
「えっ」
図星を突かれた俺は思わず声を上げてしまう。
「まあ、そうです。何かが足りない気がして」
「ほっほ、何かが足りないか」
川端先生は面白そうに笑い、口を開く。
「そうだね…。並木君はもっと人を知るといいんじゃないかな」
「人を知る、ですか?」
「うん。これは芸術に限った話じゃないけどね、自分以外の誰かに想いを馳せることは大切なことだよ。相手が何を信じ、何を考えているか。そこから生まれるものは、きっと君の表現の幅を広げてくれると思うんだ」
俺は川端先生の言うことを半分理解したような、そうでもないような感覚を覚えながら曖昧に返事をした。
「そういうもんですかね…」
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