9. きみは二度と帰らない

 新しい年が始まった。

 年越しの日、急な仕事が入ってしまった麻野さんを除く五人は仲良く蕎麦を啜り、日付が変わるのを待った。佐賀さんと涼さんはお酒を飲みまくり、絡まれている皐月くんが少し可哀そうだった。

 気が付けば全員で雑魚寝していて、時刻はとっくにお昼を迎えている。みんなを起こして近所の神社に初詣に向かい(もちろん一人は留守番だが)、ドタキャンしてしまった麻野さんの分も手を合わせた。


 どうかこの一年がサガシヤ全員にとって素晴らしい年になりますように——。






 麻野は重大な事件の処理に追われていた。麻野がその存在を知ったのは年末の連続強盗殺人犯を捕まえるよりも前のことだった。


「麻野くんの管轄もやられたの?」


 熱心にパソコンと向かい合う麻野を見て、隣の席の同僚が声をかけてきた。


「いや、先日合同で捜査したときに協力してもらったところです……」

「ああ、朱雀組か」


 パソコンの画面には彼らがよく溜まっていた場所の写真が表示されている。

 赤、赤、赤。写真の全てが血に塗れ赤く染まっていた。五十人ほどの集団は数刻の間に文字通り解体されてしまったのだ。


「一人だけ無事だったんでしょ。俺のところなんて全滅だよ」


 同僚は面倒くさそうに頭の後ろに手を回して椅子を揺らした。

 全滅とあっさり言ってしまえる神経を疑いたくなるが、ここに居る人間は皆そう思っているのだろう。協力者は駒だ。壊れてしまっても、死んでしまってもプレイヤーが不利になるだけ。


「代わりの人員を選別するんでしょう? 手伝いますよ」

「助かるわー」


 麻野はそうやって同僚の管理していた駒の情報を閲覧する権利を得た。

 他人の管理する協力者の情報を見ることは基本的に許されていない。ごく一部の上層部は誰の管轄でも自由に閲覧する権利を持っているらしいが。


「警察の仕事が山積みだからあと頼むわ」

「わ、わかりました……」


 同僚はそう言って部屋を出ていく。警察としては彼の方が偉い。しかし、組織には麻野の方が長く在籍している。


「はぁー」


 長い溜息をついて、再び画面を見つめる。

 組織の協力者たちが次々とバラバラに殺されていく事件が始まったのはひと月ほど前のこと。集団の場合には全員殺されたものから一人しか殺されなかったものまで。被害者に共通点はなく、管理している組織の人間同士にも共通点はない。


「協力者を狙った殺人……」


 歪んだ正義感に見えるその事件は表向きには明かされていない。協力者の存在を知られる訳にはいかないからだ。万が一にでもメディアに見つかったら大事になる。一般に被害が及んでいない以上堂々と捜査はできず、指をくわえて見ているしかない。


「麻野くん」


 ポンと肩を叩かれて麻野は急ぎ振り返る。素早く立ち上がり敬礼をする。

 そこには朱雀組の管理者、篠木が立っていた。


「少し話があるんだけど」

「はっ」


 二人は部屋を出る。篠木は麻野の組織入りを後押ししてくれた人物の一人だ。今では上層部の仲間入りを果たし、滅多に会うことはできない。


「最近の事件は知っているよね?」

「はい。イヌガリの事件ですよね」


 誰が初めに呼んだのか、この一連の犯行の犯人を協力者イヌ殺人犯ガリと称した。


緘口令かんこうれいが敷かれているのも知っているね?」

「もちろんです」


 協力者にこのことを知らせてしまったら混乱を招くことになる。自分も殺されるかもしれないと知らされた協力者の行動が、一般市民に影響を与える可能性があるからだ。


「相良くんには知らせた方がいい」


 篠木は顔色を変えずにあっさりと言った。


「上層部の決定ですか……?」

「いや、僕の独断です。命令ではありませんが」


 わざわざ緘口令が出ているからには、他言すれば左遷されるのは間違いない。麻野は言葉を失った。


「イヌガリは一族に関わっているか、組織の上層部にいる人間が関与していると考えるのが自然です」


 篠木は声量を落として、麻野にしか聞こえないように話した。


「ずっと影を潜めてきた一族がこんな派手なことをするでしょうか」


 一族はずっと尻尾を見せなかった。手がかりは少しも見つからず、今の組織の人間の中には一族の存在を知らない者までいる。一族に関わる資料が消えたり、閲覧に制限がかかったことも影響しているだろう。


「そうそう、これを機に監視の役目は退こうと思って」


 篠木はすぐに普通の話し方に戻った。


「君と相良くんにお任せしたいんですけど、いいですかね?」


 朱雀組の唯一の生き残りをサガシヤで迎える。

 麻野の脳内を様々な思考が廻った。


 イヌガリの関係者をサガシヤに引き入れることは危険ではないか。

 なぜ自分に任せるのか。

 わざわざ上層部の人間が関与しているかもしれない可能性を強調したのはなぜだ。

 相良に緘口令が敷かれていることを話した方がいいと言ったのも何か企んでいるのかもしれない。


「……わかりました」


 麻野は篠木を信じた。自分の父が信じた人を。


「ありがとう。彼は少し荒れているから地下に居てもらっているよ。権利の譲渡はもう終わっているから」


 そう言って篠木は去ってしまった。


「譲渡が終わってるって、任せる気満々じゃねえか……」


 これでよかったのか。篠木を疑いたくないだけではないか。そんな葛藤が麻野の悩みを増やしていくのだった。

 仕方なく麻野は地下へ向かう。地下には外には出せないような凶悪な犯罪者たちが暮らしている。そこにいる人間の担当になったことなど無かったので、牢屋の並びに行くのは久しぶりだった。

 薄暗い階段を降りるとオレンジ色のランプがいくつか灯っていた。幽霊でも出そうな物騒な場所。その一番手前の部屋に目的の人物はいた。


「一茶」


 名を呼ぶと床に座っていたそいつは顔を上げて、鋭い目で睨みつけてきた。


「今日からお前の担当になる。サガシヤに行く気はあるか?」


 サガシヤに行かないのならここに居てもらうしかない。麻野はそう決めていた。


「んなことはどうでもいいんだよ!」


 一茶は勢いよく立ち上がり、牢屋の柵を掴んで麻野に詰め寄った。


「頭領と組のやつらを殺ったのはどいつか調べろ!」


 一茶の主張はよくわかる。

 偶然一人だけ組から離れている間に仲間が殺され、その無残な遺体を目にしたのだから。犯人に対する怒りと、一人だけ生き残ってしまったことの罪悪感。だが、彼が新たなる罪を犯すなら、処分の対象になってしまう。


「この件についてお前に報告をすることはない。この事件に囚われるな」

「俺にとってはあの人は全てだった! あの人が篠木に協力するっていうから俺たちはお前らに協力したんだ!」


 よく知っている。朱雀組の構成員たちが頭領をどれほど信用していたか。大切に思っていたかを。


「すまない」


 麻野は頭を下げた。


「けど頼む、どうか生きてくれ」


 このまま地下送りになるのも、処分の対象になるのも頭領はきっと望まないだろう。


「こんなところで終わらないでくれ」


 処分の決定をするのは麻野ではない。もっと上の立場の人間たちが、駒としての利用価値を判断する。一茶を助けるためには彼を説得するしかなかった。麻野に権力がないことを、おそらく一茶は分かっていた。






「千宜が今から来るってさ」


 神社から戻って遅めの昼食を食べ終えた頃、佐賀さんのスマホに連絡が入った。


「ようやくお仕事終わったんですかね?」


 年末年始も仕事三昧なんてかわいそうに。あの人はいつ見ても疲れたような顔をしていて、いつ過労死してしまうかと心配になる。

 佐賀さんたちを守るために、麻野さんは功績をあげて権力を手に入れようとしているのだ。


「あ、車来ましたよ」


 窓を覗いていた皐月くんが言った。仁穂ちゃんは聞こえていないのか、理科の問題集と向かい合いながらぼそぼそと呟いている。仁穂ちゃんの生活が援助されるためには高校に進学しなくてはいけないらしく、ここ数日は自宅や事務所で勉強に励んでいた。

 事務所のドアがノックされて麻野さんが姿を現す。


「明けましておめでとうございます」

「ああ……明けていたのか」


 これはかなり重症だろう。


「お節ありますよ、食べますか?」

「いや、その前に……」


 麻野さんがドアの外に向かって手招きをすると見覚えのある人が入ってきた。


「なんで一茶くんが?」


 佐賀さんは不思議そうに首を傾げた。佐賀さんから見ても異質な組み合わせなのだろう。


「訳あってしばらくサガシヤに居てもらうことになった」

「よろしくお願いします」


 一茶くんは少し嫌そうにしながら軽く頭を下げた。


「何かあったのか?」


 佐賀さんの問いに対して、麻野さんは何も言わなかった。視線を合わせようとせずに、麻野さんは私の方を向く。


「そうだ、ようやくあなたの存在が認められましたよ」


 私は言っている意味が分からず首を傾げた。


「一般人の協力者ってことで申請が通ったので、これからは彼らと同じ扱いを受けることはありません」


 認められたということは仕切りのある車の後部座席に座らせられることはないということ。拳銃を持った警察官に睨まれることもなくなるだろう。


「ありがとうございます」


 警察から犯罪者みたいな扱いをされなくなるのは嬉しいが、少し複雑だった。私は麻野さんと同じで、佐賀さんたちを犯罪者のように扱いたくない。同じ事務者の仲間として側にいたい。そう思っていたから、同じ扱いをされることは苦ではなかった。

 けれど、いつも通り疲れた顔をしている麻野さんに悟られたくはなかった。きっとこのために色々な根回しをしてくれただろうから。


「じゃあ、後は頼むぞ」


 到着してからほんの数分で麻野さんは事務所を出ていったしまった。お節も食べずに。


「千宜!」


 その義兄を佐賀さんは追いかけていく。


「よっぽど忙しいんですね」

「受験期なんじゃない?」

「あなたはそんなに大変に見えませんけど」

「はぁ⁉」


 若い二人の仲睦まじいやり取りが聞こえる。皐月くんは仁穂ちゃんが苦手なのかと思っていたがそこまででもないらしい。あるいは大丈夫になってきたのか。

 麻野さんのことも心配だが、目の前にいるイチくんも心配だった。初対面の時とは雰囲気が違う。表情のない顔、でもその瞳の奥には深く激しい感情があるように見える。


「イチくん、よろしくお願いします」


 そんな彼に気づかないふりをして、私はいつも通りに振舞う。


「うん…」


 彼が一人でサガシヤに来た理由は一体何なのだろう。





「千宜!」


 佐賀は肩を掴んだ。これほどまでに見たことのないくらい冷たい目をしていた。


「車まで来い」


 麻野はそう言ってベルの鳴るドアを開けて車に乗り込む。


「何があったんだ?」


 麻野は悩んでいた。篠木が言ったように佐賀に伝える方がいいのか、それとも篠木を疑った行動をとるべきなのか。

 事務所を出て佐賀に引き留められて麻野はようやく決心した。


「何者かが協力者を殺している」

「え?」


 この連続殺人の一部始終を話した。


「被害者が協力者である以上、公な捜査はできない。上層部も隠蔽の方向に動いている」


 一茶がサガシヤに連れてこられた理由に納得がいった佐賀は小さく頷く。


「……それを話したのは探してほしいからか?」

「違う」


 探すなんて危険なことをさせるわけにはいかない。


「気をつけろ、と警告したいだけだ」


 麻野は少し前に仕事をした朱雀組を思い出していた。あの中には大した犯罪をしていない奴もいた。裁判にかけられていたら執行猶予が付くような犯罪だ。あの中の大半がそういう奴。


「イヌガリが選ぶ基準は犯罪の大小じゃない」


 であれば、サガシヤだって巻き込まれる可能性がある。


「だからあすみさんを正式に認めてもらえるように急いだのか」


 麻野は頷く。犯罪者ではない彼女の危険を減らすため。そして、そんな存在がいるサガシヤが狙われるリスクが少しでも低くなればいいと思って。


「俺はお前たちを守る。何を犠牲にしても」


 一族を見つけるためにならどんな犠牲でも払うと言った佐賀へのお返しだった。


「話はそれだけだ。降りろ」


 麻野は手で追い払った。


「気を付けて」

「ああ、ここは任せたぞ」


 佐賀が頷いたのを確認して麻野は車を発進させた。


「背負うものがどんどん増えていく……まるで父さんみたいだよ」


 真っ黒な車は交差点を曲がって見えなくなっていた。






 イチくんがサガシヤに来てから数週間がたった。彼も少しはこの職場と新しい仕事に慣れてきていた。そう、秘書としての仕事に。


「前から聞こうと思っていたんですけど、なんでイチくんは秘書なんですか?」


 彼はどちらかというと警備員の方が向いていると思う。喧嘩に強いし。皐月くんが警備員らしいのは事務所から出ないというところだけだ。


「だってイチくんおいしいお菓子いっぱい知ってるし」


 そう言いながら佐賀さんは今朝買ってきた最中を口に運んだ。


「イチくんのおかげで最近のお茶請けはとてもおいしい。お客さんも喜んでくれているしね」


 実際、彼はかなりの通だ。イチくんが持ち込むお菓子はどれもおいしいし、皐月くんが用意するお茶の種類によってお菓子を使い分けてくるという技まで持っている。


「役に立ってよかった」


 イチくんは嬉しそうに笑った。


「秘書の役目は仕事が円滑に進むように調整することだからね。ピンチの時には頼りにしてるよ」


 佐賀さんは最後の一口を食べて、皐月くんの用意したお茶を啜った。


「仁穂ちゃんは順調かねぇ」


 今日、仁穂ちゃんは出勤していない。受験まであと一週間。毎日学校に通って先生の協力の元、最後の追込みをしている。

 初めは面倒臭そうにしていた受験勉強もとても積極的に取り組むようになってきた。どうやら、学校で一緒にお弁当を食べる仲になった子と目指している高校が一緒らしい。

 仁穂ちゃんたちの努力が実を結ぶことを願ってやまない。


「そういえば、皐月くんのお母さんから連絡あって、週末来るってさ」


 不意に佐賀さんが言うと、パソコンを叩く音が止まった。


「……そうですか」


 一瞬変わった空気は、彼のタイピングでかき消されていく。

 その時、事務所のドアがノックされた。


「はい、どうぞ?」


 私たちは急いでお客さんを迎え入れる準備をする。机の上の最中のゴミを片付けて、ソファーを空けた。


「すみません……」


 現れたのはかなり着まわしたようなスーツを着た中年の男性だった。その陰からふくよかな女性が見えた。


「あの……」


 女性は一歩前に出て、佐賀さんに向き合う。するとその瞳からポロリと涙が落ちた。


「息子を……見つけてください!」


 そう言いながら彼女は膝から崩れ落ちる。私は駆け寄ってハンカチを差し出した。


「息子がいなくなってしまったんです、誘拐されたんです!」

「誘拐ですか?」


 佐賀さんの視線が女性から男性に移る。それにつられて、私も男性を見た。

 女性の取り見出しように対して男性は冷静だった。むしろ女性に冷ややかな視線を送っているようにさえ見えた。

 二人の薬指には同じ指輪がはめられているように見える。おそらく二人は夫婦だろう。


「あの子を助けて!」


 彼女の悲痛な叫びに私は困惑した。


「じゃあ、奥さん。とりあえず俺と下に行きましょう。下はブティックですが、喫茶店顔負けのいいコーヒーを用意してくれますから」


 そう言ってイチくんは彼女の手を取り、立ち上がらせた。そして、イチくんは振り返り佐賀さんにウインクをするとそのまま階段を下りて行った。なんてスムーズな誘導なのだろう。


「どうぞ」


 佐賀さんは残された旦那さんを中に促した。旦那さんは申し訳なさそうに下を向きながら事務所に入り、ソファーに浅く腰かけた。


「佐賀と申します」

「飯島です……」


 飯島と名乗った旦那さんは佐賀さんと視線を合わせようとはしなかった。


「飯島さんは息子さんを探されているのですか?」


 相変わらずの素早さで用意されたお茶がテーブルに並ぶ。


「いえ……」


 私と皐月くんは互いの顔を見る。一体どういうことなのか、さっぱりわからない。


「息子は半年前に死んだんです」


 そう言うと飯島さんは鞄から大きな茶封筒を取り出して、中から紙を出した。


「自殺でした……」


 それは警察から渡されたであろう資料だった。当時高校生だった息子さんをいじめていた五人組。学校側はいじめを否定したが、最終的には謝罪をされたと書かれている。


「慰謝料はたくさんもらいましたが、息子は帰ってきません。でもあいつは、このお金を使えば息子が帰ってくるって言うようになったんです」


 泣き叫ぶ奥さんに対する態度に納得がいった。もう二度と戻らない命だと、受け止めることができないのだ。


「あいつに息子は新天地で元気にやっていると言ってもらえませんか。プロの言葉なら信じると思うんです。お金は支払いますから……!」


 必死にそう訴える旦那さんに私の心は痛んだ。息子さんを失くし、奥さんの心までもが失われつつある。帰ってくると信じている奥さんに、帰って来ないと言うことがどれほど辛いことだろう。帰ってきてほしいと望んでいるのは旦那さんも同じなのに。


「それはできません」


 佐賀さんはきっぱりとそう言った。目に涙を溜めて話す飯島さんに。


「なぜ……ですか」

「僕らの仕事は探すことです。探すことで顧客の力になれるのなら喜んでやりましょう。しかし、あなたの依頼内容は真実を伏せ、何も探さずに虚偽を述べるだけです。それなら僕らじゃなくていい」


 佐賀さんは立ち上がり退室するように促した。


「でも、ここは妻が選んだところなんです。あなた方のことを信用して……」

「偽りを伝えたと知られて、他の依頼者からの信用が損なわれたら困りますから」


 佐賀さんはにこやかだった。


「いくら何でも……」

「じゃあ別の方法を探せばいいじゃないですか」


 佐賀さんを止めようとしたのは皐月くんだった。


「真実を伝えて、依頼者に満足してもらえるような手段を見つければいいじゃないですか」


 旦那さんは勢いよく膝をつき、額を床にぶつけた。


「お願いします!」

「……」


 震えた声。佐賀さんは黙ってその姿を見て、皐月くんに視線を向けた。


「お願いします。このままだと妻も死んでしまうんです」


 皐月くんは頷いた。


「はぁ……」


 佐賀さんはため息をついて、土下座する飯島さんの肩に触れた。


「真実を伝えて、奥さんを守る道を探しましょう」

「ありがとうございます!」


 旦那さんはその目から大粒の涙を流した。

 私たちは彼の最愛の息子がもういない証を探す。この依頼は誰にも幸福をもたらさない。この場にいる全員がそれを分かっていた。


「ご自宅にお伺いしてもいいですか?」

「もちろんです」


 旦那さんは胸元から薄い紫色のハンカチを取り出して目元を押さえた。


「少し妻と話をしてきます」

「分かりました」


 飯島さんは足早に事務所を出ていった。

 すると、佐賀さんの顔が険しくなり、皐月くんを睨みつけた。


「どういうつもりだ?」

「別に、社長こそ断るなんておかしいですよ」


 初めて見る二人の険悪ムードに私は困惑する。


「どう解決する? あの時みたいに復讐でもするか?」


 なんのことを言っているのかさっぱりわからない。


「落ち着いて下さいよ!」


 二人の間に立って止めようとする。いつもと違う顔をしている佐賀さんが怖い。


「……同じことはしません」

「それでも君はこの件に関わるな」


 佐賀さんは上着を手に取る。


「行くよ、あすみさん」

「は、はい」


 私も急いで上着を取って事務所のドアをくぐろうとした。振り返ると、寂しそうに目を伏せた皐月くんが立っていた。


「お車ですか?」

「はい。これが住所になります」


 階段を降りた先で飯島さんと佐賀さんが話した。飯島さんの車を私たちが追いかけるということが決定したらしい。事務所で何があったのか知らないイチくんは複雑そうな表情をする私を見て首を傾げた。


『なんかあった?』


 口をパクパク開きながらイチくんは聞いてくる。

 なんて返したらいいのか分からなくて、私は愛想笑いをした。


「行こう」


 佐賀さんに促されて外に向かって一歩進んだ。


「ボス、俺は?」

「イチくんは待機。というより、ネスティーの監視をお願い」

「警備員くんの監視?」

「変なことしないか見といてくれればいいから」


 イチくんはますます首を傾げた。


「行ってきます」


 そう言ってお店を出て、見慣れた車の助手席に乗り込む。


「カーナビにこの住所入れてくれる?」

「は、はい」


 佐賀さんは飯島さんが書いたメモを渡してくると、エンジンを入れて車を発進させた。飯島さんの車の真後ろを走ることに成功する。

 佐賀さんの表情はもういつも通りだった。


「聞いてこないんだね」


 どうしたものかと悩んでいると、先に話を振ってきたのは佐賀さんだった。


「聞いていいんですか?」

「君に言うことをきっとあの子は嫌がらないよ」


 それはさっきの対立を見てしまったからか、皐月くんとも信頼関係が築けているということか。


「彼と僕が出会ったときの話なんだけれどね……」


 そう言ってサガシヤを立ち上げた二人が出会った経緯を話し始めた。


「前に言ったでしょ、あの子はいじめられていたって」

「はい」


 その話をした時もこんな風に車の中だった。


「学校に行けなくなって引きこもっていたんだけれど、家族もそんな彼を煩わしく思っていてね。学校には行かなくてもいいからとにかく追い出したくて仕方なかったんだ」


 自分の家に引きこもりという社会不適合者がいるのが恥ずかしくてたまらなかったそうだ。


「そんな風に追い詰められて、孤独に苦しんだ皐月くんがした選択は自分が死ぬことではなくて、得意だったパソコンを使って間接的に彼らを殺すことだったんだ」

「どういうことですか?」


 事務所で言っていた復讐という言葉が頭を過る。


「自殺に追い込むっていうのかな、あることないことネットに書き込んだり、いじめた奴の親の会社の機密情報を流出させたり」

「ハッキング……」


 佐賀さんは頷いた。


「結局、いじめの主犯格だった子の家族が崩壊してしまって」


 蓄積された皐月くんの怒りは多くのクラスメイトに向いた。


「けれど彼はそれだけでは満足せず、社会に対して恨みを持ち始めて警察のコンピューターに侵入を試みたんだ」

「そこで佐賀さんと?」

「そう、僕は彼とインターネット上で出会うことが分かっていたから待っていたんだ」


 佐賀さんは現実の出会い以外も見れるのか。


「その後はスカウトして、迎えに行って、ここに連れてきた。彼に居場所と、役目を与えてね」


 サガシヤとして依頼を受けて、麻野さんの下で協力者として働いて。そして今のような生活を手に入れたのだろう。


「今回の依頼は彼と境遇と似ている。だから心配なんだ。あの子にこれ以上罪を犯してほしくないから」


 佐賀さんの守りたいもの。そんな言葉が浮かんだ。


「大丈夫ですよ、皐月くんは優しい人ですから」


 私が困っていたら助言してくれるし、仁穂ちゃんのことを苦手だと言っているが実際にはちゃんと面倒を見ている。彼が勉強を教えているところも何度か見た。


「これがきっかけで、皐月くんが一歩踏み出せるようにお手伝いしませんか?」


 誰も幸福になれないこの依頼。それがせめて、誰かに希望を与えることができるかもしれない。そんな皐月くんだから伝えられることがあるかもしれない。飯島さんに響く何かを。


「そうだね」


 私の言葉に佐賀さんは優しそうな顔をして返事をした。






 しばらく車を走らせて、私たちは飯島さんの家に着いた。家はごく普通の一軒家。新しく綺麗なわけでもなく、古民家のように古いわけでもない、どこにでもあるようなお家だった。

 促されるまま家に入り、階段を上って突き当りの部屋に通される。


「ここが息子の部屋です」


 綺麗に整頓された部屋。勉強机にはカレンダーと写真が置かれている。写真はサッカークラブの集合写真だろうか。子どもたちがユニホームを着てたくさん並んで写っていた。


「息子さんのことを聞いてもいいですか?」


 佐賀さんの指先が写真を撫でた。


「息子は賢一郎と言います。とても優しい子なんです」


 奥さんが穏やかな表情で教えてくれる。家の手伝いをよくしてくれて、困っている人に手を貸してあげるような優しい子だったと。

 けれどたぶん、佐賀さんが知りたがっているのはそういう情報ではない。彼がどのようにして亡くなったのか、自殺に関することを聞きたいのだと思う。その証拠に佐賀さんは黙って旦那さんを見ていた。


「お前はお茶の用意でもしてきてくれ……」


 その意図を読み取ってか、旦那さんは奥さんが退席するように誘導した。


「ええ」


 奥さんが階段を下りていくのを見守って、旦那さんは口を開く。


「学校の屋上から飛び降りたんです。その日は雨が降っていました」


 梅雨も終わりが迫っていた蒸し暑い日。頭から落ちた彼の体は地面にたたきつけられた。雨に混ざった血が流れ、その光景をより悲惨なものにさせる。授業を受けていた多くの生徒がその光景を目の当たりにしてしまった。


「遺書はなかったんですか?」

「いじめの内容が箇条書きにされたメモがポケットから見つかりましたが、それだけでした。スマートフォンも、持たせていなかったので……」


 雨に濡れてしわくちゃになった紙。その写真を飯島さんは見せてくれた。


「ひどい……」


 暴力的なこと、精神的ないじめ、小さな紙に小さな字でいくつも書かれている。紙の端は黒っぽく変色していて、彼の痛みが伝わってくる気がした。


「屋上は普段鍵がかかっているそうなのですがなぜか開けられていて、だから自殺は計画的だった可能性が高いと言われました……」

「その日は息子さんと会われましたか?」

「ええ、あの日の朝、いつも通りに挨拶をして家を出たんです。そんな素振りは少しもなかった。あれが最後だなんて……」


 飯島さんはそう言って顔を手で覆う。


「家族思いの子ならば、親や家族に対する遺書がある可能性もあります。この部屋は探しましたか?」

「もちろんです。自分たちも警察も隈なく探しました。けれど何も……」

「遺書がもしもあったら、その方がいいんですか?」


 私は佐賀さんに聞く。


「内容にもよるけれど、先に死ぬことを謝っていたり、今まで育ててくれてありがとうとかなら奥さんに響くかもしれない。第三者がとやかく言うより、本人からの言葉が一番届くことに変わりないよ」


 では遺書を探すということが依頼を達成するということになるのだろうか。

 佐賀さんは机の一番上の引き出しを開けた。


「これは?」


 そこにはブックカバーがかけられた本のような物が入っていた。本にしては薄い気がする。


「スケジュール帳です。読書が好きな子だったので、手帳のカバーは毎年ブックカバーでした」


 佐賀さんはその場で手帳を開き始めた。


「ちょっと、勝手に……」


 他人の手帳を見るなんて、そう言いかけて気づく。この手帳の持ち主はもういないのだ。その人のプライバシーを侵害してもいいか聞く相手はもういない。


「何か手がかりがありますでしょうか?」


 飯島さんは手帳を見ることを気にしていないようだった。

 佐賀さんはふむ、と言うと開いたままの手帳を渡して来た。どの日にも遊ぶ予定は書かれていない。塾の時間だけが毎日書かれていた。

 彼が亡くなった日以降の予定は真っ白のまま。もしかしたらこれも彼の計画的自殺を裏付けたのかもしれない。


「どうしたら妻を納得させられるでしょうか……」


 自身もなさそうに飯島さんは俯く。

 佐賀さんは部屋をぐるりと見渡して、他に何かないか探しているようだった。


「読書好きね……」


 部屋に置かれた本棚は二つ。そのうちの片方には教科書や参考書が並んでいて、もう片方の本棚にはどれもブックカバーがかけられたものが並んでいた。本は隙間なく並べられている。


「この本棚に入りきらない物はどうしていたんですか?」

「入りきらない分は売っていました。図書館で借りてくることも多かったので、新しく本棚が欲しいと言われたことはありませんでした」


 佐賀さんは本棚からランダムに選んで開いた。


「本に何か挟まれているかもしれないと思って一通り探しはしたのですが……」


 私も手帳を置いて一冊本を選んでみる。表紙が隠されているので開くまでどんな物語かはわからなかった。

 私が開いたタイトルの書かれたページを佐賀さんは覗き込んできた。


「全然違うなぁ」


 どうやら続きの話ではないらしい。佐賀さんは本棚に少し触れて本を戻した。


「この部屋からなくなっているものとかありませんでしたか?」


 佐賀さんの問いに飯島さんは俯いたまま首を振った。


「いつもと変わらないから、私でさえまだ息子が生きているのではと思ってしまいます……」


 佐賀さんは部屋を歩き回る。壁に触れ、置いてある小物に触れ、少しでも情報を集めようとしているように見えた。


「加害者はどうしてますか?」

「……主犯格の男子生徒は引っ越して行きました。どこへ行ったかは知りません」


 佐賀さんが情報を集めたい気持ちはわかるが、聞きすぎてしまうのはあまりよくないのではないか。そんな思いが浮かんで私は佐賀さんを止めようとした。


「息子の遺体を見た他のクラスメイトにも、精神的に病んでしまった子が何人かいると聞きました。正直、いじめを止めなかった彼らにも罰が当たったんだと思っています……」


 ぐっと拳を握る飯島さん。いじめに気付いていた誰かが、何か行動を起こしていたら。未来は変えられたかもしれないのに。


「ですが、私も息子が苦しんでいることに気づけませんでした。自殺する数日前には楽しそうに出かけて行きましたし……。妻がこうなったのも罰なのかもしれません……」


 壁に掛けられていた時計に触れようとした佐賀さんの動きが止まった。


「え?」

「え?」

「今、出かけたって言いました? どこに?」

「それは聞いていなかったので……」


 佐賀さんはもう一度机に置かれたスケジュール帳を開いた。彼が亡くなった日の載っているページ。その数日前。


「この日ですか?」


 指していたのは亡くなる三日前の日曜日だった。その日は塾の予定も入っていないようで、珍しく白紙のままだった。


「そうです」


 飯島さんが答えると、下の階から奥さんの声がした。旦那さんを呼んでいるらしい。


「ちょっと行ってきますね」


 旦那さんは足早に階段を下りて行った。


「その日に何かあるんですか?」


 私も手帳を覗き込む。


「計画的に自殺する人間が死ぬ前に行きたいと思った場所か、会いたいと思った人に会いに行っている可能性が高い。この外出に自分の死が絡んでいるのが普通だろう」

「でも、そういうのって警察は調べないんですか?」

「この自殺に事件性はない。他殺みたいなものだけどね」


 原因は自殺。それ以上の追及はする必要がない。


「この日彼は何をしていたのだろうね」

「視れないんですか?」


 佐賀さんは意図的に視ることもできるはず。小さな子どもが誘拐されたときも、そうやって彼は足取りを掴んだのだ。


「できないことはないけれど、無駄遣いはしたくない。一族のこともあるからね……」


 佐賀さんの力には制限がある。何度も視ようとすると体に負荷がかかって倒れてしまうのだ。

 この依頼の緊急性は低い。使わずに済むならそうしたいということだろう。


「この日がきっかけで自殺を決意した可能性もありますよね」

「そうだね」


 無関係と断言できない。この日を知ることが、彼の母を救うきっかけになるだろうか。時間をかけて探っても、全て無駄に終わるかもしれない。


「この日のこと調べてみよう」


 佐賀さんは私を見てそう言った。


「分かりました」


 できることを一つずつ。私たちはそうやって積み上げていくしかない。

 階段を下りて、リビングにいる旦那さんに声をかけた。


「日曜日、彼は歩いて出かけたんですか?」

「そうですね。ああ、でも、パスケースを持っていくのは見たので、電車に乗っていたかもしれません」

「ありがとうございます」


 佐賀さんは会釈をして玄関に向かう。

 飯島さんもそれを追って玄関に来た。


「あの、どこへ?」

「少し出かけてきます。また何かありましたら連絡しますから」


 ぽかんとした飯島さんを置いて、私たちは家を出た。


「最寄り駅はここから十五分のところですね」


 スマホでマップを開く。最寄り駅から何駅か乗ると、色々な路線が交差する大きな駅に出る。電車を使えば結構遠くまで行けるような気がする。

 マップの案内は十五分となっていたが、実際にはもう少し早く着くことができた。改装工事中の最寄り駅はほとんどが白いカバーで隠されていて、本来の駅の様子はよくわからない。


「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが」


 駅員室の窓口に向かって佐賀さんは言った。その話を盗み聞きしながら、私は駅の写真を撮る。


「この駅って防犯カメラありますか?」

「ありますが、一般の方に見せることはできません」


 窓口の対応をしてくれた若いお兄さんはそう言った。佐賀さんよりも少し若く見える。イチくんと同じくらいだろうか。


「ここの工事っていつからしているのですか?」

「えーっと、二か月前くらいからですね」

「工事前の写真とかありますか?」

「ええ……」


 突然訪れた不思議な利用者に戸惑いながら駅員さんは部屋の奥の方に写真を取りに行った。


「あすみさん」


 佐賀さんに呼ばれて、私は窓口に近づく。


「これですね」


 若い駅員さんが見せてくれた写真には桜の花が写っていた。


「写真を撮ってもいいですか?」

「ええ、どうぞ……」


 私は許可を取ってスマホを構える。


「これは去年の春ですか?」

「はい、とてもいい天気だったので、撮ったんですよ」


 二本の線路を挟んでホームが写っている。木のベンチに自動販売機。その奥にはホームを繋ぐ階段があった。その景色は、この駅員室から見えるものとほとんど同じ。


「この少年を見たことはありますか?」


 いつの間に用意していたのか、賢一郎くんの写真を提示する。


「さぁ? たくさんのお客様が利用されますから」


 駅員さんは何回も質問する佐賀さんが面倒になったのか、あからさまに嫌な顔をして写真を回収した。


「お時間いただいてすみません、ありがとうございました」


 にっこりと笑って私たちはその場を離れる。階段を上って反対側のホームに行き、自動販売機の近くで電車が来るのを待った。

 待合室でもあれば寒さを凌げるのだが、ここにはない。自動販売機を見ると温かいココアが私を誘ってきた。


「上りのホームに来ましたけど、彼はどっちに向かったんですかね」


 ココアの誘惑に負けないようにわざわざ佐賀さんの顔を見る。


「スマホを持たせていなかったなら、彼は乗り換えルートを聞いていると思ったんだけど、事前にパソコンとかで調べていたのかな」

「そんなに遠出していないんじゃないですか?」

「珍しく丸一日予定を開けていたから長い時間外出していたのは間違いないと思うのだけれど」


 佐賀さんは顎に手を当てて考え込む。


「すみません!」


 間もなく電車が到着するというアナウンスと共に、向かいのホームから声がした。そちらを見ると、先ほどの駅員さんが私たちに向かって叫んでいる。

 そんな私たちを遮るようにホームに電車が入ってきた。


「戻ろう」


 もう一度階段を上る。そのホームを繋ぐ橋の上で駅員さんと会うことができた。


「あの、先ほどの少年」

「この子ですか?」


 もう一度佐賀さんは写真を見せる。


「一度、話したことがあるかもしれません。サービスエリアの行き方を聞かれたんです」

「サービスエリア?」

「自分もとても驚きました。どうして電車でサービスエリアに向かうのかって」


 私は佐賀さんと顔を見合わせる。


「それはいつごろでしょう?」

「いつだったでしょう……一年以内のことだとは思うのですが……」


 一年以内ということは彼が亡くなる前の可能性もある。


「ちなみにどこのサービスエリアですか?」

「それも忘れてしまいました……」


 申し訳なさそうに彼は頭を掻く。けれど、これだけ新しい情報が手に入れば十分だろう。


「ありがとうございます」


 佐賀さんは駅員さんに頭を下げる。

 賢一郎くんと思われる人はどこかのサービスエリアに行こうとしていたのだ。車に乗っているわけでもないのに、彼はなぜそこに向かったのか。その動機を知ることができれば、また一歩賢一郎君に近づけるかもしれない。


「戻ろう」

「はい」


 私たちは再び飯島家に向かった。






「サービスエリア?」

「はい、心当たりはありますか?」


 駅員さんに聞いたことを話して、旦那さんと奥さんの二人に聞いてみる。家族で立ち寄った思い出の場所とか、彼が食べたがっていたものが売っていたとか。何かのイベントでもやっていたのかもしれない。些細なことでもいいから、賢一郎くんとサービスエリアを結ぶ要素が欲しかった。


「わからないですね……。車で旅行に行くことはほとんどありませんでしたし、思い出になるようなサービスエリアなんて」

「普段の会話でサービスエリアの話もしないですよ」


 テレビでサービスエリアの特集でもしていない限り、関心が向くことはないだろう。


「あの子はテレビほとんど見ないですよ。普段も勉強で忙しいですし、そんな時間があるなら読書を優先するような子ですから」

「そうですか……」


 やはり人違いなのだろうか。


「本か……」


 ぽつりと佐賀さんが呟く。家にある本以外にも図書館で借りることも多いと言っていた。調べるとしたら膨大な量になる。


「力を借りましょう」


 佐賀さんは避けたかったかもしれないが、調べることに関してあの人の右に出るものはいないだろう。

 私は賢一郎くんの部屋にある本のタイトルを全て書き写した。佐賀さんは図書館に行き、彼が読んだ履歴を調べた。そうして集めた膨大な量のタイトルを事務所に持ち帰った。


「……というわけで、みんなで読書をしましょう」


 箇条書きにまとめた紙には五十個ほどのタイトルが並ぶ。


「読書とか小学校以来すよ……」


 紙を見ただけでイチくんは顔を歪ませる。


「みんなでやれば早く終わりますから。頑張りましょう」


 こうして始まった読書週間の参加者は五人。佐賀さんと皐月くんとイチくんと私。あともう一人は一階の従業員である涼さんだ。仁穂ちゃんは受験があるから手伝ってもらう訳にはいかない、という話をしているところに協力を申し出てくれた。あの日、奥さんの話をイチくんと一緒に聞いていたようだった。


「終わった……」


 事務所に泊まり込み、全員で読み続けること丸三日。内容はほとんど頭に入っていなかったけれど一通り目を通すことができた。


「担当した分にはサービスエリアの記述はなかったよ」

「私もです」

「僕もありませんでした」

「俺もナシ」

「私のところもなかったけど」


 私たちは顔を見合わせる。


「他の本かな?」

「もう体が文字を受け付けねえ……」


 イチくんは大の字になって床に転がる。涼さんはぐーっと伸びをした。


「どうします……?」


 佐賀さんは躊躇っている。もう一度読書をさせられるのは抵抗があるんだろう。

 どうしたらいいかを悩んでいたら、皐月くんが声を上げた。


「一つ気になったことがあるんですけど」


 皐月くんは図書館で借りてきた本のタワーから一冊選び取ると私たちに見せた。


「この小説、本当は続きがあるみたいです」


 それはとても厚い本だった。賢一郎くんの部屋にあった小説だ。

 アメリカ生まれの主人公が自転車に乗って世界中を旅するお話。外人の作者が書いた少し古い小説である。


「これだけでも十分完結しているように見えるのですが、第四巻で日本に来るみたいで」


 皐月くんは主人公が日本に来た巻の概要が書かれたまとめサイトをスマホで見せてきた。


「本当だ」

「でも自転車だったらサービスエリアは寄らないよな?」


 皐月くんは首を振る。


「終盤に道の駅が登場するんです。どうやらそのモデルが実在するサービスエリアなのではないかって、ファンの間で話題になったみたいです」

「サービスエリア……」


 彼が持っていた小説の続きで登場する聖地。点と点が結ばれていく。


「……行ってみようか」


 佐賀さんは腰を上げ、私も立ち上がった。スマホを握りしめた皐月くんも立ち上がった。


「僕も……行きます」






 皐月くんが調べてくれた目的のサービスエリアまでは少し距離があった。賢一郎くんは電車に乗り、新幹線に乗り、バスに乗って、片道四時間かけてその場所まで向かったのだろうか。高速道路の外からも入れるサービスエリアに。

 車を運転する佐賀さんの隣で私は小説を読んでいた。日本に来たアメリカ人の少年はたくさんの日本人に助けてもらいながらこの場所に辿り着いていた。

 後部座席には静かにスマホで調べごとをしている皐月くんがいる。車内は静寂に包まれていた。


「もうすぐ着くよ」


 私たちはその場所に着いた。物語に登場したオブジェ、目印のように書かれていた大木。その一つ一つを照らし合わせていく。確かにこの場所が作品のモデルであると。

 佐賀さんは中に入ってレジにいたお姉さんに声をかけた。


「すみません、半年ほど前にこの子がここに来ませんでした?」


 駅員さんに聞いた時と同じように、賢一郎くんの写真を見せた。


「さぁ……?」


 サービスエリアだって利用者は多いだろう。ましてや、彼が来た日は日曜日かもしれないのだ。


「ここってこの作品の聖地なんですか?」


 今度は私の手から本を奪いお姉さんに見せた。


「ああ、そうみたいですよ」


 にっこりと優しい顔でお姉さんは答えてくれた。


「ありがとうございます」


 賢一郎くんはここに来たのだろうか。

 私はぐるりと周囲を見回す。

 小説の中で、主人公の少年はこの場所から手紙を出すのだ。日本でお世話になった人に向けて。自転車と富士山が書かれた絵葉書を買って、そこにいた日本人に平仮名を教えてもらいながら。


「絵葉書はどこにありますか?」

「その柱の向こうです」


 お姉さんに教えてもらった場所に絵葉書を見に行く。富士山や花畑の絵葉書はあるが、さすがに小説に登場したものと同じようなものはなかった。

 少年はここから手紙を出して、すぐに日本を出発した。まだ行ったことのない新しい場所に。それが少し賢一郎くんと重なっているように思えたのだが、彼がここに来たという証を見つけるのは難しいかもしれない。


「飯島さんをここに連れてきてみようか。息子さんが来た可能性がある場所だ」

「そうですね……」


 皐月くんはしゃがみこんで下の方にある絵葉書を眺めていた。


「あの」


 ふと声がして振り返ると、先ほどのお姉さんがいた。


「もしかして、ここのポストから出された宛名のない絵葉書を探されていますか?」


 そう言ってお姉さんは教えてくれた。欠けていたピースがはまっていく音がする。






「お待たせしました」


 飯島さんが再び事務所に来たのは、依頼に来た日から四日後の金曜日のことだった。

 少し遅れて事務所に着いた佐賀さんの手には茶封筒が握られていた。


「進展はあったのでしょうか?」


 旦那さんにそう聞かれて佐賀さんは優しく微笑んだ。


「この小説をご存じですか?」

「ええ、あの子の好きな本です」


 間髪入れずに奥さんは答えた。佐賀さんは頷いて、その隣に別の本を並べる。


「これは?」


 表紙の雰囲気も、題名も共通点は感じられない二つの本。


「実はこの小説シリーズになっているんです」


 そう言って佐賀さんはこの小説の説明を始める。

 主人公はアメリカで生まれ育った好奇心旺盛性な男の子。ある時思い立って自転車と共に世界一周旅行に出かけることを決める。

 賢一郎くんが持っていた一巻は南北アメリカ大陸が舞台。その隣に並ぶ本はアジアが舞台になっている。


「この小説の中で彼は親切な日本人に何度も助けてもらうんです」


 旅行を始めてから初めて風邪をひいて、相棒だった自転車が壊れ、台風に計画を壊された。その度に彼を助けてくれる人が現れ、彼は無事に乗り込む予定だった船に間に合うことが

 できた。


「この小説の中で、日本旅行は最もトラブルが多かったと言っています。けれど、最も人が優しかったと」


 そして船が出港する前に、彼は道の駅に寄った。日本でお世話になった人に向けて絵葉書を書く。拙い日本語で字を書いた。


「『必ず戻ってきます』と平仮名で」


 今度はその隣に賢一郎くんのスケジュール帳を並べる。


「彼が亡くなる直前の日曜日、彼はこの道の駅のモデルになったサービスエリアに行ったんです」


 片道四時間。早朝に家を出て、新幹線に乗り、物語の少年が旅立ったその場所へ。


「どうしてそれが……」

「これを」


 佐賀さんは茶封筒の中から一枚の絵葉書を取り出した。そこには大きな富士山が写されている。

 それに恐る恐る手を伸ばした飯島さんはゆっくりと葉書を裏返した。


「これが証拠です」


 そこには宛名も、差出人も、切手すらも貼られていなかった。扱いに困った郵便局の人。それでも捨てることはできなかったという。


『必ず戻ってきます』


 そこに書かれていたのはこの一文と、小さく日付が残されていた。

 奥さんの口元に運ばれた手が震えている。


「手帳の文字と筆跡鑑定しました。ご本人のもので間違いないと思われます」

「そんなところに……」


 奥さんの瞳から涙が溢れた。


「物語の少年はこの言葉を残して新天地へ向かいました。賢一郎くんもまた、同じように」


 天国という遠いところへ旅立ってしまった。


「彼の最期の言葉を受け止めてあげてください」


 そう告げた佐賀さんの声は少し震えているような気がした。


「なんで……」

「言葉の真意は誰にもわかりません」


 口を開いたのは皐月くんだった。


「けれど、自殺したいくらい苦しかったのに、また戻ってきたいと思えるくらいは幸せだったのではないでしょうか」


 いなくなってしまった子どもの隠された本心。


「戻ってきたいと彼に思わせたのはご両親だと思います」


 飯島さん夫婦は互いの肩を寄せ合って泣いていた。事務所の中に夕日が射していた。

 それでも『必ず戻ってきます』と残した最愛の息子は、もう二度と帰ってくることはないのだ。






 あとは二人で頑張りますと言って飯島さんは帰って行った。手帳と本と、絵葉書を大切そうに抱えて。


「僕には理解できません」


 佐賀さんもほかの誰もいなくなったタイミングで皐月くんはそう話してくれた。


「もう一度戻ってきたいと思った彼がどうして自殺を選択したのか。そんな綺麗事で相手を野放しにしていいのか」


 私はそんな皐月くんを見て言った。


「人ってさ、理屈じゃないときもあるよね」


 佐賀さんの声が少しだけ聞こえる。今頃北海道からの客人の相手をしているはずだ。


「確かに、そうですね……」


 皐月くんは一階に降りることもなく、一階の客人は二階に来ることもなかった。彼もまた、家に帰ることはないのだろうか。

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