8. 罪を摘む
「みんなで一緒に年越ししようか」
クリスマスも終わり、仁穂ちゃんは冬休みに突入。全員が朝から出勤している日々が始まった。
年末と言えばやることは一つ。大掃除だ。サガシヤの清掃員としての大舞台だ。気合を入れて、道具をそろえて、いざ始めようというときに佐賀さんはそう提案してきた。
「……毎年そうなんですか?」
水を差されたような気がするがここは大人な対応をしてあげよう。私は事務所警備員から椅子を奪い取り、カーテンを外していく。それでも警備員は立ったままパソコンを操作していた。
「いや、いつもは適当だったけど」
ちらっと佐賀さんは仁穂ちゃんを見た。中学三年生の仁穂ちゃんは間もなく受験を迎える。彼女はソファーに座ってしかめっ面で問題集と向き合っていた。
いつもは適当だった。ということは、 毎年仁穂ちゃんは一人で新しい年を迎えていたのか。
「もしかして帰省する?」
「帰省の予定はないので年越しパーティーしましょう」
佐賀さんがニコッと笑う。千宜も呼ぼう、と言ってスマホを取り出した。
「げ」
「上司を毛嫌いするんじゃありません」
真剣に問題を解いていると思っていた仁穂ちゃんはあからさまに嫌がった。通常運転でも麻野さんは怖く見えてしまう。彼女はそんな上司が苦手なのだ。
「それより、こないだの動画なんですけど」
そんな空気もお構いなしに警備員は言った。
動画、それは火災の容疑者かもしれない人物が映りこんでいたコンビニの防犯カメラの映像のことだ。そこに映る子どもの口元は、佐賀さんがぶつかった白髪の少年のものとどこか似ているように感じていた。
「こいつの髪色は……」
私たちは警備員を見つめる。
「白じゃない、とは言い切れないです」
「……つまり?」
「髪色では彼を除外できません」
「……状況変わってないじゃん」
私は思わずつぶやく。防犯カメラのフードを被った少年が白い髪であれば、同一人物である可能性はかなり高まっただろう。警備員はそれをずっと調べていた。
「画質がネックでした。力及ばずすみません」
「仕方ないさ」
佐賀さんは警備員の頭をわしゃわしゃして隣室に行く。そこには本棚まるまる一つ分の資料が広げられていた。広げたまま沖縄の依頼に向かったので数週間このままの状態だったから、紙の上には埃つもり始めていた。
沖縄から戻ってから佐賀さんはずっとこの紙とにらめっこしている。そこには佐賀さんについての捜査資料もあった。佐賀さんが放火殺人の犯人であるという前提のもと進められた捜査の資料だ。一瞬、視界に入って、私はすぐにその紙から目を逸らした。
「隣室の掃除もしますからね」
背中を向けたまま私は言った。
「それは嫌だなぁ」
「一族」の手がかりかもしれないと分かってから、佐賀さんはこんな感じになってしまった。心のこもっていない上辺だけの返事。きっと数時間後にはこのやり取りを忘れているだろう。
「ずっと追っていましたからね」
佐賀さんに聞こえないくらいの小さな声で警備員は言った。
「僕をスカウトしに来た時も、どうしても捕まえたい奴がいるから力を貸してほしいって言っていたんですよ」
「そう……」
佐賀さんも「一族」に関わっている可能性が高い。それは彼の背中の火傷の痕が証明している。
その時、事務所の電話が鳴った。
「はい、サガシヤ事務所です」
警備員は慣れた様子で電話を取ると、タイピングでメモを残す。
「分かりました」
「依頼ー?」
隣室から佐賀さんが聞く。
「麻野さんからで、お仕事についてです」
麻野さんから、ということは組織の仕事だろう。警察の捜査に犯罪者が協力する構図の組織。もう一つのサガシヤの顔であり、それは大きな危険を伴う。
「決行日は未定ですが、強盗殺人のグループを捕まえるそうです。他班と合同で。」
「他班?」
「千宜がサガシヤを管理しているのと同じで、千宜が他の班を管理していたり、他の特殊警察が管理している班もある。詳しいことは知らないけどね」
別の犯罪者グループ。そこには一体どんな人がいるんだろう。
「そんなこともするんですね……」
「
「戦闘するんですか……?」
「相手も犯罪者だからね」
あっさり佐賀さんは答える。そういえば誘拐された子どもを助けたときも恐ろしい思いをしたのだ。
「使える駒ならなんでも使う。それがあの組織だから。犯した罪の大きさで選定されていないから、他班には普通に人を殺した人がいたりするよ」
「そんな人たちが世の中に解き放たれているんですか⁉」
「多くは組織の管理する地下室の中にいるよ」
涙目の私に佐賀さんは言う。絶対に反応を見て楽しんでいる。
「普通の生活はできていないだろうけれど、少なくとも彼らの肩書きに犯罪者はない」
「そんな人たちと協力なんてできませんよ……」
なんて恐ろしいんだろう。人を殺して、罪も償わず、犯罪者として報道されることもない人たち。
「まぁ、そんな危険な奴らと合同になることはないだろうから大丈夫さ」
佐賀さんはそう言って隣室に戻っていく。
「きっと今回もヤクザでしょ」
「そうだと思います」
「ヤクザ……」
仁穂ちゃんたちはなんてことないみたいな反応をしているが、私からすればヤクザも充分怖いのだが。
「今の時期警察も忙しいはずなのに、年をまたぐ事件にしたくないのかねぇ」
佐賀さんはようやく片づけを始めた。麻野さんが来るからだろうか。
「あ、メールが来ました」
「メール?」
麻野さんから仕事に関することだろうか。警察の内部情報だからメールで送ってしまうのは危険なのでは。
「集合場所と時間が書いてあります」
「げっ」
佐賀さんは顔をしかめる。仁穂ちゃんも苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「何が問題なんですか?」
「ぶっつけ本番てことだよ」
「情報の流出をできる限り防ぎたいんですよ」
情報の流出の可能性が高まるけれど、協力者に詳細を説明して入念な準備をさせるやり方と、事前の説明をせずに敵に悟られないようにするやり方があるらしい。協力者を駒として扱う人が多いこの組織では後者が圧倒的に多い。
「麻野さんは比較的事前に情報をくれるんですけどね」
「年末で忙しいからか、それとも合同の仕事だからか」
「合同だからでしょ」
サガシヤの裏の顔はまだ詳しく知らない。そのせいで私は話についていけなかった。
「他班の担当が千宜より上の立場の人だったら、あいつはその人のやり方に従うしかないってことよ」
佐賀さんは床に散らばった資料を適当にファイルに挟んで、それを適当に本棚に突っ込んだ。
私はそんな風に適当に片付ける上司に従わなくてはならない。それと同じか。
「麻野さんも大変ですね」
外したカーテンからフックを取る。どこに置いたかわからなくならないように、仁穂ちゃんが勉強しているテーブルの端っこに置かせてもらった。日光がダイレクトに事務所に入り込んでいる。
「それで、場所と時間は?」
「ええと……」
カーテンがなくなったことで画面が見にくくなってしまったらしく、警備員は顔を画面に近づけた。
「今晩の十九時に組織の駐車場ですね」
「今日かい……」
佐賀さんは大きくため息をついた。
「仁穂ちゃんたち一旦お家に帰りな。準備が必要でしょう」
そう言われて仁穂ちゃんはぱたんと教科書を閉じた。仕事が嬉しいのか、勉強をやめる口実ができたことが嬉しいのか、彼女の口元は綻んでいた。
私はやりかけの作業をしたい。せっかくカーテンを外したのだし、今日はとてもいい天気だ。
「こちらにも支度が必要だからね」
帰ることを躊躇っている私に気づいて、佐賀さんはそう付け加えた。帰ってほしい、と思っているのだ。
私が邪魔になると思っているなら、その判断に従うのが部下の務めだ。
「分かりました」
私は外したフックをもう一度取り付ける。
「車出すよ」
「いいですよ、仁穂ちゃんと一緒に電車で帰りますから」
彼だって準備に忙しいだろう。仁穂ちゃんを見ると、彼女もこくんと頷いた。
「じゃあ、気を付けてね。七時前に迎えに行くよ」
一体どんな仕事が待っているのだろう。行方不明の少年を探した時みたいに、命を狙われることがあるのだろうか。
「帰ろうか」
私はそんな不安を振り払おうと笑顔を作って仁穂ちゃんに向けた。
「待たせてすまん」
組織の地下駐車場で待つこと三十分。黒いコートに身を包んだ麻野さんがようやく現れた。彼の目の下には大きな隈がある。それが恐ろしいオーラをより一層強調していた。
「乗れ」
私たちは言われるがまま組織の車に乗り込む。車のエンジンがかかると温風がものすごい勢いで放出された。そのぬくもりがすっかり冷え切った体に染み込んでくる。
「事故らないでよ、千宜」
助手席に乗り込んだ佐賀さんは言った。それが心配になるくらい、麻野さんは疲れているように見える。
「善処する」
車はゆっくりと動き出す。佐賀さんはどこかの引き出しから見つけ出した茶封筒の中を見た。
「強盗殺人集団ねぇ……」
「同一グループの犯行だと思われる事件は三件起きている」
「ふぅん」
佐賀さんは読み終わったページを後部座席に座る私と仁穂ちゃんに渡して来た。今回も警備員はお留守番だ。
「今夜、大企業に侵入する可能性が高い。俺たちはそこに合わせて突っ込む」
資料にはどうやって捕らえるかの作戦が書かれていた。
敵を屋内に閉じ込めるために、彼らが侵入したのを確認してから自分たちが突入する。二手に分かれ、一方は出入口にいて逃走を防ぎ、もう一方は先に金庫に侵入し強盗を防ぐ。そうやって挟み撃ちにする作戦らしい。
「一件目は普通の民家。二件目は中企業の社長の家。三件目は大企業の会社に侵入。今のところ奴らは全勝だ」
「おおすごい」
仁穂ちゃんは資料の一角を指した。そこには被害者について書かれている。
重軽傷者二名、死者九名。
お風呂場に隠れた一件目の家の子どもと三件目の巡回中の警備員だけが生存者。私たちはそんな人たちを捕まえに行くのだ。
「おそらく四、五人の集団だろう」
「他班は?」
「篠木さんとこの朱雀組だ」
麻野さんが敬称で呼ぶということは、やはり彼よりも上の立場の人間だろうか。ところが、この紙に書かれている責任者は麻野さんの名前になっている。
「篠木さんが総指揮じゃないんだ」
「組織で別のトラブルが起きていてな。その対処に向かわれた」
麻野さんの疲れ切った様子はそのトラブルが原因なのだろうか。
しかし、私はそれどころではない。あっさりスルーしそうになっていたが、朱雀組とはなんだ。
「朱雀組とは何回か一緒に仕事したことあるし、頭領もいい人だから心配いらないよ」
それを察してか、私の隣の仁穂ちゃんが優しく教えてくれた。仁穂ちゃんが言うなら信用できる。
その言葉一つで不安が小さくなった。なんて頼りになる先輩だろう。
「なんとか事故らずに着いたぞ」
麻野さんはそう言って私たちを車から降ろした。東京の高いビルに囲まれる細道を進んでいくと、少し開けた所に出た。そこにはゴミが散乱していて、違法に捨てられた家電の山があった。
「おい」
麻野さんが闇に向かって声を上げる。すると、誰もいないように見えた周囲から続々と人が現れた。
「ヒッ」
その登場がゾンビのようで、私は思わず仁穂ちゃんに抱き着いた。
「遅かったじゃねえか、代理人」
家電の山の上に一つの影があった。間違いない、この人が頭領だ。
「篠木さんは急ぎの用事で来られない。だから俺の指示に従うように」
山から下りてきた男の姿が見える。身長はかなり高い。佐賀さんと同じくらいか、それ以上か。尖った金色の髪がさらに高身長に見せている。
頭領は麻野さんの目の前まで来ると鋭い瞳で見下ろした。
「あいつのお気に入りのエリートくんの指示なら聞いてもいい」
「頼むぞ」
「いいな、お前ら」
頭領が周囲の男たちに問うと、雄叫びのような返事が返ってきた。
「じゃあ俺は最後の打ち合わせをしてくる。しばらく待っていろ」
麻野さんはポケットからスマホから取り出して足早に立ち去った。
「やぁ、久しぶり。頭領さん」
「久しぶりだな、情報屋」
「情報屋?」
「うちの主戦力は引きニートだから」
仁穂ちゃんはそう言った。主戦力だと言うならその呼び方をやめてあげればいいのに。
「見ない顔がいるなぁ」
「は、初めまして!」
私は急いで頭を下げる。ポケットに手を入れたままの頭領が自分を見ているのが分かった。体がぶるりと震える。
「おう、よろしくな」
頭領は私の頭を乱暴に撫で繰り回して再び佐賀さんと向かい合った。
「このお嬢ちゃんも侵入側か?」
「どっちがいい?」
突然よくわからない質問をされて、私は困惑する。全員で侵入すると思っていたから。
「僕は外から退路を塞ぐ方で参戦するし、仁穂ちゃんは先行して金品を守る方で、皐月くんは遠方から両者のサポートで参加。あすみさんはどっちかのサポートをしてもらう事になるけれど」
いつもそうだから、みたいにあっさり言っているけれど、私は衝撃が隠せなかった。仁穂ちゃんは危険なところに行くのにこの人は外から見守っているだけなんて。そういえば少年を助けに行ったときも、佐賀さんは危険なところに行っていないのだ。
「仁穂ちゃんを一人で行かせることなんてできません!」
「じゃあ先行部隊だな。イチ」
頭領が人だかりに声をかけるとその中から一人が近づいてきた。
「なんスカ?」
イチと呼ばれた黒髪の男は随分チャラい話し方をする。
「お前はこの二人を守って先を行け」
「分かりやした」
敬礼のポーズをして彼は答える。左右の耳にたくさんつているピアスが音をたてて揺れた。
「頭領」
佐賀さんは小声で呼んで、肩がぶつかりそうなくらい近づいた。袖から取り出した白い小さな紙切れを渡すのが見えた。
「頼んだ」
「任せときな」
頭領はその紙をくしゃりと握ってポケットにしまい込んだ。佐賀さんは何を渡したんだろう。それを聞こうとすると、人差し指を唇に当てて彼がこちらを見ていた。私は出かかった言葉を呑みこむ。
「お嬢ちゃんらに怪我一つさせるんじゃねえぞ」
「へい」
さっきも気になったが、自分とそれほど年が変わらないように見えるのに「お嬢ちゃん」と呼ばれるのがむず痒い。
「近づいた奴は全員殺せ」
「えっ」
頭領の口から飛び出したワードに私は思わず反応してしまう。頭領の目が私の方に向いた。
「あ、いや、そこまでする必要はないんじゃ……」
もしかして、この人たちは人殺しをしたことがあるのだろうか。そういう人は組織の地下で生活していると佐賀さんは言っていたのに。
「ぬるいなお嬢ちゃん」
頭領の顔を見上げる。そこで初めて気づいた。彼のおでこに刃物で切られたかのような傷跡がある。
「相手が人殺しならこちらにも覚悟が必要だ。殺す覚悟と死ぬ覚悟がな」
その言葉に妙な説得力を感じてしまった。あの時もそうだった。あの子が大男を殺していなかったら、殺されていたのは自分だ。
「安心しな、俺らが生きている限りはお嬢ちゃんたちを死なせはしないさ」
怯える私に頭領は言う。
「俺は約束を違えたりしない」
仁穂ちゃんが頭領のことをいい人だと言った理由がわかる気がする。
「おい、行くぞ」
いつの間にか戻ってきた麻野さんは十数人の部下を連れていた。
私たちは真っ黒な車に乗せられた。先行部隊は仁穂ちゃんと私とイチと呼ばれていた男の三人だけだ。
三人は普通の車の後部座席に座らせられた。その車の運転席と後部座席はプラスチックの板で仕切られている。運転している警察官は麻野さんではない。助手席にいる人は時々こちらを見ながら、ずっと拳銃を握っていた。まるで協力者を警戒しているみたい。その姿を見れば、麻野さんがどれほどサガシヤを大切に扱っているのかがわかる。
私たちは車の中で一言も発さなかった。時折入る無線から全ての車が目的地に到着したことを知った。
私はポケットから無線を取り出す。この車に乗る直前に麻野さんから渡されたものだった。私はそれを耳に取り付ける。電源ボタンを押すとガサゴソと雑音が入ってきた。
『あ、ついた』
聞きなれた声。警備員の声が、いつものタイピングと一緒に聞こえてくる。
『お疲れ様です。特に返事はしなくていいです』
前列に座る警察官たちは私が無線で話していることに気づいてはいない。彼にはそれが分かっているようだった。
『これがあれば現在地が分かりますから、ナビゲーションは任せてください』
その頼もしさに思わず表情が緩む。
「おい、なんだその顔は」
助手席に座っている警察官が振り返って言った。まだ若い男の人は少し声が震えているようだった。
「よせ、その人は違うと麻野さんから聞いただろう」
運転席の眼鏡をかけた男の人はそう言って彼の拳銃を握る手を抑えた。
私は犯罪者ではない、と麻野さんは伝えてくれていたんだろう。それでも、私に向けられる視線は両隣に向けられているものと少しも変わらないように感じた。
きっと、彼は怖いのだろう。
「お気になさらず……」
私はそう言って笑顔を作った。そもそも仕切られた後部座席に座らされた時点で覚悟はしていた。いや、最初から麻野さんはこうなることを教えていてくれたじゃないか。それでもいいからサガシヤに居たいと願ったのは私だ。
「これだから嫌なんだ」
隣に座る仁穂ちゃんが小さな声で言った。こんな接し方で気分がいい人なんて絶対いない。
その時、車内に無線が入る。
『奴らの侵入を確認。各班行動開始』
「了解」
バン、とイチくんがドアを開けた。
「行くよ」
彼の左耳から真っ黒なピアスが顔を覗かせる。
「うん!」
私たちは彼に続いて車を降りる。目標の大きなビルの裏口で手招いている警察官がいた。ここから中に侵入するんだ。
少し離れた所にはもう一台車が停まっていて、その中からガラの悪そうな人たちが出てきた。おそらく朱雀組の人たちだろう。
「中に入るよ」
『了解です。入ってすぐの非常階段で十二階まで上ってください』
「十二階⁉」
「急がないと」
よく見たら仁穂ちゃんの耳にも無線がついていた。
「十二階まで上るの?」
「そう」
真っ暗な社内。窓から入る街灯の明かりだけが頼りだ。
私たちは言われた通りに階段を上る。足下は見にくい。強盗殺人犯と同じ建物にいる。そんな状況が私の脚をもつれさせた。
「大丈夫?」
「ご、ごめん……」
上がった息、二人はまだまだ余裕そうだ。完全に足手まといになっている。
「急がないとだから担ぐわ」
「イチくん⁉」
イチくんは私を肩に担いだ。申し訳ないやら、恥ずかしいやらで私の顔は真っ赤になっていただろう。
「待って。足音がする」
先頭を行く仁穂ちゃんは十一階に着いた時そう言った。イチくんは足を止めると私を下ろす。確かにパタパタと足音が聞こえる。それに話し声も。何を言っているのかは分からないが声の主は三人くらいだ。非常階段のドアを開ければ彼らに遭遇するかもしれない。
「犯人の声を確認」
『何階だ?』
「十一階」
麻野さんの声がした。サガシヤの関係者は皆持っているのか。
「行くぞ」
そう言うイチくんに私たちは頷く。犯人よりも先に金庫室に到着する、その目的をを見失う訳にはいかない。
一階分を駆け上がって、仁穂ちゃんはドアに手をかけようとした。その手をイチくんは掴んで、後ろに下がるようにジェスチャーした。
『十二階に着いたら非常階段のドアを開けて右に向かって』
重たそうなドアをイチくんは少しだけ引く。その隙間から進行方向の安全を確認し、勢いよく身を乗り出して反対側の安全を確認した。
「大丈夫」
私たちも後に続いて通路に出る。この階からは足音は聞こえない。三人で顔を見合わせると再び仁穂ちゃん先頭で走り出した。
『社長室から入って、隣接した管理室に入って』
「了解」
私たちは社長室と書かれた部屋を発見した。侵入からここまで十分程度しか経っていない。
仁穂ちゃんはその部屋のドアノブを回す。しかし、鍵のかかったドアは押しても引いても動かなかった。それを確認すると、彼女は耳から無線を外した。
「しゃ、社長室のドアに鍵がかかっていて……」
『想定内です。無線は彼女の邪魔になるので外しても動揺しないでください。そのためのあなたですから』
仁穂ちゃんが集中して作業するために、私が伝達係になる。警備員の言葉に私は落ち着きを取り戻す。
「はい」
仁穂ちゃんならきっと、すぐに開けてくれる。背後ではイチくんが左右を見ながら敵が来ないか警戒していた。
「開いた」
かちゃん、という音と共に仁穂ちゃんは告げた。
開いたことを報告しようと口を開いた時、その口をイチくんに押さえられた。
「⁉」
「近くまで奴らが来ている。中に入ったらこのドアの鍵を閉めて、重いもので塞げ」
イチくんは社長室のドアを開けて、その中に私たちを入れてドアを閉めてしまった。その足音がどんどん離れていく。
「イチくん!」
「言う通りにしよう」
仁穂ちゃんは躊躇いなく鍵を閉めた。私も覚悟を決める。
「社長室に入りました。近くに敵が来ているのでイチくんが一人で囮になってくれています。私たちは社長室の鍵を閉めて籠城します」
『了解。こちらも突入させる』
麻野さんは他の警察官に指示を飛ばす。
『隣の管理室に入ってください』
仁穂ちゃんは再びポケットから仕事道具を取り出して、鍵穴に突っ込む。
私は部屋を見回す。真っ白な壁に囲まれた部屋には四隅に観賞用の植物が置いてあった。社長デスクは重すぎて動かせそうもない。低いテーブルと三人掛けのソファーなら引きずって動かせるかもしれない。
ドアに近いソファーから先に私は引っ張った。『突入!』という麻野さんの声が聞こえた気がする。
「これで良し」
ソファーとテーブルも配置した。これで多少は開けにくくなっただろう。
「あすみさん!」
ドアと格闘していた仁穂ちゃんが私を呼ぶ。
「このドア、カードキーも必要だ」
よく見ると、カードを読み取るための機械も設置されている。
それでも、私たちは冷静だった。なぜなら、私たちはこういうことが得意な人物を知っているから。
「皐月くん」
『任せてください』
私は皐月くんに言われた通り、この機械の側面に印刷されていた番号を読み上げる。
仁穂ちゃんはいつでも鍵を開けられるように鍵穴に入れた工具に触れたまま待っていた。
ピピッ。
不意に機械に番号を入力する画面が表示された。私たちが操作をしなくても、そこには勝手に数字が入力されていく。
機械が番号を認識すると仁穂ちゃんの工具が回った。
「開いた」
私たちは中に入る。
そこは管理室のようになっていて、防犯カメラの映像が映し出されていたり、大きなコンピューターがあった。その向かいには硬そうな金庫が置いてある。それは大人くらいの高さがあった。
「見つけた。金庫は無事」
『よかったです』
いつの間にか仁穂ちゃんは無線を付け直していた。
『そこに僕が侵入するので協力してください』
「わっ」
一番大きな画面に次々に数字とアルファベットの文章が打ち込まれていく。私には何が起きているのかさっぱりわからない。仁穂ちゃんはじっと画面を見つめたまま警備員の合図を待っていた。
『数字を入力してください』
警備員の言った十桁の数字を仁穂ちゃんは入力する。すると、正面の画面が真っ暗になって、もう一度ついた。そこには防犯カメラの映像が写っていた。
「これで私たちの仕事は終わりだよ」
そう言って彼女は大きく伸びをした。無線の向こうでは、防犯カメラの映像と位置を照らし合わせた皐月くんが麻野さんとやり取りをしている。どのカメラの映像が何階のものなのかはわからないけれど、朱雀組の人が走っている様子や、犯人が捕まっている様子が見えた。
「私、足手まといだったね」
「そんなこと……」
ガタン——。
まるで何か大きなものが動かされたような音。それは隣の社長室の方から聞こえた。
私は慌てて社長室と管理室のドアを閉める。
「誰か来たっ!」
鍵も閉めていたのに入ってくるなんて。こっちのドアは社長室の方に引くドア。何かを置いてドアを押さえることはできない。
どうしよう。近づいてくる足音と私の心臓の音しか聞こえない。
「さっきあのドアの機能を停止させたから簡単に入れちゃうと思う」
ドアの前で仁穂ちゃんは小声で言ってくる。
「じゃあどうすれば……」
カチャン。
相手は鍵を持っているんだ。あっけなく開けられてしまった。
私は仁穂ちゃんを背中に隠すように立った。作戦なんてない。それでも仁穂ちゃんを守りたい気持ちは揺らがなかった。
ドアの動きがスローモーションのように見える。前回とは違ってナイフすらない。いや、ナイフを持っていたところでどうせすぐ奪われていたか。
『相手が人殺しならこちらにも覚悟が必要だ。殺す覚悟と死ぬ覚悟がな』
出発前に頭領が言っていた言葉が頭を過った。ああ、本当にその通りだ。
「見つけたぞ……」
ひどく醜い顔をした男が狂喜の笑顔を向けてくる。身長はそれほど高くない。全身を黒い服で包んでいる。その手にはサバイバルナイフが握られていた。
「女二人だぁ」
そいつはベロンと舌を出してこちらにナイフを向けた。
「今すぐ自首してください……!」
私は必死に頭を回転させる。自力でこの状況を回避できるとは思えない。だとしたら、助けが来るまで時間を稼がなくては。私にできる戦い方を探さなければ。
「するわけないだろ何言ってんだぁ」
男の表情が険しくなる。私は覚悟決めて監視カメラの映像が見えるモニターを指した。
「もう捕まるのも時間の問題です。あなた以外の人はみんな捕まりました」
実際に今がどんな状況かなんて知らない。指先が震えてしまわないように、犯人にこの恐怖が伝わらないように私は必死に表情を作る。
「もうこのフロアを占拠し始めていますからすぐにでも捕まってしまいますよ」
犯人は俯いた。こんな言い方で大丈夫だったのか。不安も恐怖もどんどん大きくなっていく。
「……ふぁははははっ!」
男は当然笑い始めた。
「馬鹿じゃねぇの! 俺が何人殺したと思ってるんだよ! 今更、二人殺すくらいなんとも思わねぇよ!」
ああ、失敗した。
男は血走った眼を見開いてナイフを振りかざした。
「お嬢ちゃんたちに随分物騒なもん向けてんじゃねぇか」
「あ?」
男の後ろから声がした途端、男の体が宙に浮いた。
「頭領さん……!」
男はその首を強く握られて、持ち上げられていた。頭領はそのまま男を社長室のテーブルの方に投げつける。
ドン、といい音をたてて男の頭が角にぶつかる。そして男は動かなくなった。
「遅くなって悪かったな」
「ありがとうございます」
安心してしまって一気に力が抜け、私はその場に座り込んでしまった。
「あすみさん大丈夫?」
仁穂ちゃんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「うん、平気」
ぽろぽろと涙を流しながら私は笑った。
「情報屋から預かったお嬢ちゃんたちに怪我がなくてよかったよ」
頭領も安心したような優しい表情を見せた。
「あの、イチさんは?」
「イチはバカな怪我して回収された」
「大丈夫なんですか?」
一人で敵を引き付けてくれたから怪我をしてしまったのだろう。
「心配いらねぇさ」
頭領は私と仁穂ちゃんの頭をなでる。
『防犯カメラで敵を見つけられません』
皐月くんの声がもう敵がいないことを知らせる。ちょうどそのタイミングで五人の警察官が社宝室に入ってきた。その中の一人に、助手席に座っていた人がいた。
『よし、任務終了だ』
麻野さんが私たちに撤退の指示を出した。
こうして、私たちは連続強盗殺人のグループを逮捕することができた。捕まったのは全部で八人。闇サイトの掲示板で知り合ったらしい。彼らは四件の事件に関与し、公式に発表されたものには重軽傷者は警官含め七名、死者九名と書かれることになる。
「協力者の怪我人や死者はノーカンだから実際はもっと多いけどね」
新聞の記事を読みながら佐賀さんは言った。この数字の中に朱雀組の人たちは含まれていない。彼らはいないはずの存在だから。
「皆さん早く元気になってほしいですね……」
今回は死者が出ず、朱雀組の何人かが病院送りになった。その中にイチくんもいる。
助けてもらったからお礼も兼ねてお見舞いに行きたいと麻野さんに言ったが、断られてしまった。他班との余計な接触は禁止であるし、そもそも朱雀組を管理している警察官が違うから簡単に会わせることはできないという。
「彼らはヤンチャが取り柄だから心配いらないよ」
ソファーに腰かけた佐賀さんは欠伸をしながら新聞を閉じた。
一面に印刷された容疑者たちの顔写真が見える。そこにはあのサバイバルナイフの持ち主もいた。頭領に投げられた彼は幸いにも気を失っただけで、今は回復して取り調べを受けているそうだ。投げたのが頭領だからその怪我自体がなかったことにされている可能性もあるが。
「うーん」
社長椅子に座る警備員もうつったように欠伸をした。発端が闇サイトだったのもあって、彼は最近ネット上の警備員になっている。
「千宜は人使いが荒いね」
「佐賀さんも人のこと言えないと思います」
のそのそと皐月くんは動いて、自分でコーヒーを淹れに行った。
「報告書やっと書けたー」
佐賀さんの対角に座っていた仁穂ちゃんはそう言って紙を持ち上げた。年末だから書かなければならないことが多いらしい。この報告書は犯罪者が協力者として自由に暮らすために毎月提出しなくてはならないそうだ。
一般人である私は一度も書いたことはない。私の役目は事務仕事が嫌いな佐賀さんにこれを書かせることだ。
「佐賀さんもいい加減書いて下さいよ。また麻野さんに怒られますよ」
私はそう言って洗濯の終わったカーテンにフックをつけていく。
「今日千宜来られるのかねぇ」
佐賀さんはしぶしぶ紙とペンを用意する。
「今のところ来るんですよね?」
「今のところね。最近忙しそうだけど」
今日で一年が終わる。麻野さんも呼んで、一階の服屋の涼さんも呼んで、みんなでお蕎麦を食べる予定だ。
私はどこからか出てきたパイプ椅子を踏み台にしてカーテンをかけていく。
「蕎麦はもう準備できてるんだっけ?」
「お蕎麦もお節も用意してますよ」
いつの間にか警備員は社長椅子に座ったまま目を閉じていた。ずっと画面を見ているから疲れてしまったのだろう。佐賀さんよりも圧倒的に働いていると思う。
「この一年色々あったなぁ」
私は夕日を眺めながらぽつりと呟いた。まさか自分が転職するなんて思っていなかったし、今ここにいることを微塵も想像できなかっただろう。
「麻野さんからメール来ました」
通知で飛び起きた警備員は知らせる。私は振り返って画面を見た。
『行けなくなった』
そんな短いメッセージだけが送られてきていた。
ビルに囲まれた血まみれの場所。違法に捨てられた粗大ごみも全てが血に塗れていた。生臭い鉄の匂いが鼻を刺し、近くに落ちていた細切れ肉の塊を拾い上げる。何かを指すような指の形のまま硬直していた。生気のない手の、その爪の奥まで黒い血がしみ込んでいる。
どれが誰かなんてわからなかった。
「なんでっ……!」
人差し指と中指の付け根の間の黒子。その手は何度も頭を撫でてくれた、ぬくもりをくれた手。
べっとりと血が付いた己の手の平を見て、彼は叫んだ。
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