7. 愛情の向かう先

 真っ暗な部屋で目が覚めた。見慣れたデジタル時計には大きく「4:20」と書いてある。


「うーん……」


 毛布にくるまれた体を丸くする。この季節は何をしても寒い。長時間眠るのは好きじゃないし、そろそろ起きても問題はないのだが、息を吸うだけで鼻を刺激する寒さの前に身を差し出すのは気が進まない。

 そんな感情などお構いなしに腹の虫が鳴いた。


「おなかすいた……」


 昨夜は食事をとらずに眠ってしまったからそのせいだろう。仕方なく毛布を背負ったまま、のそのそと動き出す。台所に行くまでに床に置いてあった埃をかぶった教科書の塔を倒してしまったが、気にすることはない。

 やかんに水を入れてコンロに火をつける。ボッとついた炎は周囲を照らし、その熱に思わず両手を向けた。ほんのりと温かい空気が指先に届く。


「さむっ」


 ぶるっと体が震えた。裸足で部屋を歩いてしまったせいだろう。靴下を取りに行きたいという思いと、ここから一歩も動きたくないという思いに葛藤する。

 その間に目の前のカップ麺の準備をしよう。パッケージを破いて、半分だけその口を開ける。食事に関しては他力本願なこの生活にも慣れてきた。慣れてきた、というよりも戻ったというべきだろう。むしろ手作りの食事なんて日々が異質だったのだ。


「あつっ」


 お湯が沸いたやかんから出る湯気が指に当たった。

 火傷であれば冷やした方がいいけれど、この寒さの中流水に指をさらす覚悟などない。一瞬だったし、問題ない。無理矢理理由をつけてタイマーのスイッチを入れた。ビニール袋から割り箸を取り出して、パキッと割る。


「いなくなっちゃったなぁ」


 なんてぽつんと呟いてみる。この家には彼女がいた痕跡だけが残っている。買い物用のエコバッグ、洗面所には二つの歯ブラシ。


「今頃何してるかな」


 勝手にいなくなったことにしないで! と彼女が怒っている光景が目に浮かんで、仁穂は思わず微笑んだ。

 カップラーメンを持って椅子に座る。蓋を開けると湯気と香りが辺りに広がった。今日は辛めのスープだ。きっと身体も温まるだろう。フーフーと息をかけてから一気に麺をすする。


「あふっ、あふっ」


 ホクホクと口から白い息が出た。ヒリヒリとした刺激が口の中に広がる。体の芯に届くような感覚。

 熱さと辛さに悶えながらも、すぐに完食してしまった。カップに両手を添えてグイっと一息に飲み干す。思わず息が漏れた。

 そして、仁穂は壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。数字だけが並んでいる、シンプルなカレンダーには何も書かれてはいない。


「……お誕生日おめでとう」


 毎年、この日はとある人のことを想う。ずっと一緒にいたはずなのに会った記憶など全くない大切な人。もしかしたら、そんな人はいないのかもしれない。本当は全部妄言だったのかもしれない。


「どこにいるのかな……」


 それでも、その人が存在することを信じて思いを馳せる。遠く離れた地で、その人も同じようにしていると信じながら。






 時は遡り、私が前の職場の上司と話をした日、その後で私たちは麻野さんの元に向かった。言うまでもなく、彼は激怒した。外出禁止命令が出ていたのに破ったからだ。そもそも仁穂ちゃんがしてしまったことの重大さにも怒っていたのもある。

 それでも、仁穂ちゃんは麻野さんに面と向かって「ごめんなさい」と告げたのだった。

 カンカンに怒っていた麻野さんの表情が少しだけ変わったのが分かった。


「それを言いに来ただけだから、もう家に帰ってちゃんと謹慎するよ」


 そうやって佐賀さんは麻野さんをなだめる。麻野さんは首を垂れる仁穂ちゃんを前にして、はあー、と長い溜息をついた。


「いや、少し話がある」


 仕方がなく、というように彼は口を開いた。いつか話そうとは思っていたが色々なことがあってタイミングを逃していたらしい。


「今日の夜事務所に行くから全員で待っていてくれ」


 時間は少し遅くなるかもしれない。仁穂ちゃんのことでやらなきゃいけない仕事が増えてしまったらしい。皮肉っぽくそう言って麻野さんは仕事に戻ってしまった。


「戻ろうか」


 私は俯いたままの仁穂ちゃんに言う。


「遅くなるかもしれないなら事務所で何か食べようか」

「寿司がいい」


 間髪入れずに仁穂ちゃんの声がする。凹んでいるのかと思ったがそうではないらしい。元気がありそうでよかった。


「じゃあ買って帰ろうか」


 佐賀さんは事務所にいる警備員に電話をする。わざわざ連絡しなくてもずっと事務所にいるではないか。そう思いながら見つめていると「ご飯食べないで待っていてね」と言った。

 なるほど、そういうことか。


「あ、あすみさん」


 車に乗り込もうとしている仁穂ちゃんが私を呼んだ。


「ありがとう」


 恥ずかしいのか、彼女はこちらを向かなかった。思わず口元が緩んでふふっと笑ってしまう。


「こちらこそありがとう!」


 仁穂ちゃんのおかげで私は覚悟ができたよ。私はサガシヤで働いていくんだって、堂々と言えるようになりたいと思えた。

 そうだ、私はもう一つやらないといけないことがあったのだ。右ポケットからスマホを取り出し、連絡チャットを開く。最後に連絡をしたのは二か月ほど前。『たまには帰ってきなよ』というメッセージを既読無視している。


『転職しました』


 ピロン、送信完了の音が鳴る。端折りすぎたかと思ったが、母ならきっと色々察してくれるだろう。


「あすみさん、置いていくよ?」


 いつの間にか運転席に乗り込んでいる佐賀さんが言った。


「乗ります!」


 まずはお寿司屋さんだね。近所の寿司屋を検索して、車は動き出した。


 私たちは少し高めのお寿司屋さんに寄り道して、五人分のお寿司を握ってもらった。サガシヤだけの収入で成り立っているのが不思議だったが、警察の後ろ盾があるのなら納得がいく。

 いつか潰れてしまいそうな個人事務所という顔はあくまでも表向きなもので、実際には警察に協力する事務所だ。警察が潰れない限り、サガシヤがなくなることはないだろう。

 正確にはごく一部の警察が作った組織だが。そもそもその組織がどうして設立されたのか、組織に関しては私の知らないことがたくさんある。


「遅いですね」


 先に食べ始めたお寿司はもう私たちの胃袋を満たし、それぞれが気の向くままにリラックスした時間を過ごしていた。残された一人分のお寿司は蓋をして冷蔵庫に入れてある。

 時刻は九時を通り過ぎて、間もなく長い針は折り返し地点に到達する。

 すると、廊下から足音が聞こえてきた。


「来たかもー」


 ドアの一番近くに座って新聞を読んでいた佐賀さんがそう言うと仁穂ちゃんと警備員は姿勢を正した。あまりにも素早い動き。


「遅くなった」


 ドアが開いて麻野さんが姿を見せる。数時間前に会った時には薄暗くて気が付かなかったが、目の下には隈ができていて、どことなく顔は青白い。いつもより覇気は無いかもしれないが、やはり怖いオーラを感じる。


「話って?」


 警備員は隣室の冷蔵庫からお寿司を運んできて、ソファーに座った麻野さんの前に置く。ありがとう、そう言って蓋を開けた。おいしそうなお寿司に手を合わせる。


「あの時の火事だけど」


 麻野さんはイカを醤油につけてぱくんと一口で食べた。

 あの時の火事。それは秋真っただ中、猫探しの依頼から始まったとある親子の話だ。子ども二人が暮らしていた家が火事になった。二人は何とか無事だったものの、少しでも何かがずれていれば命が失われていたかもしれない。


「相良が俺に引き継がせたのもあってずっと調べていたんだけど」


 そういえばあの現場で、佐賀さんは「特殊警察の麻野」に連絡するように言っていた。火事に反応した佐賀さんと調べていた麻野さん。私は麻野さんから聞いた佐賀さんの昔話を思い出した。佐賀さんが見つかったのはとある火事現場だった、と。


「聞き込みしても怪しい人影も出てこないし、母親はシロだったし、難航していたわけですが」

「もったいぶるなよ」


 しびれを切らして佐賀さんは急かした。

 子ども二人を放り捨てた母親。今は窃盗の容疑も含めて捕まっていることだろう。


「コンビニの防犯カメラに怪しげな人物を見つけた」


 佐賀さんが身を乗り出す。


「ただ、時間がぴったりっていうだけでおかしな行動をしているわけじゃない。これだけで疑うのはどうか、という意見が強い」


 見た方が分かりやすいだろう、と麻野さんはUSBメモリーを取り出した。それを警備員に渡すと私は揃ってパソコンの画面が見えるように移動した。麻野さんは黙々と食事を続ける。


「再生します」


 三角を押すと動画が再生される。映像はカクカクと動いている。そこにはフードを深くかぶった男の子がいる。画面の端っこを歩いて、画面の外に出るギリギリでこちらを見た。彼は完全にカメラを見ていた。


「服装的に男。年齢は仁穂ちゃんより少し若いくらいか?」


 粗い映像から読み取れる情報には限りがある。佐賀さんは顎に手を当てて画面を見ていた。


「もう少し解析します」


 そう言って警備員はよくわからない画面を起動させた。


「怪しい根拠は?」

「フードと最後の視線」


 フードを被っているのは確かに不審者っぽいかもしれない。防犯カメラをまっすぐに見るのも不自然ではある。


「それだけ?」


 疑うには少し弱い、佐賀さんも同じ意見のようだった。


「他に映っていないんだ」


 お寿司を食べ切った麻野さんが手を合わせる。


「火災現場やコンビニ近隣の他の防犯カメラにも映っていない。そもそも、その映像では現場に背を向けて歩いているが、逆が無いんだ」

「帰りの映像しかない、と」


 この防犯カメラは道路も広く映るようになっている。同じ道を通っているのであれば、行きにも映っているはずだ。


「それと、その防犯カメラの時間」


 そう言われてもう一度パソコンを覗き込む。しかし、警備員の作業中でどこを見たらいいのか分からなかった。


「火事が起きてから少し経っている。現場付近は気づいた野次馬が集まってくる頃だ」

「なるほど」

「でもフードを被った少年の歩く姿を誰一人目撃していない」


 それはまるで、そんな子どもは元よりいなかったような。


「だからこそより一層不自然というわけか」


 佐賀さんの言葉に麻野さんは頷く。人の目に映らないように工夫をしたのだとしたら、まるで気づかせるようなこの動きの意味が分からない。少年はどうして防犯カメラを見たのだろう。


「解析終わりました」


 その声に引き寄せられるように私たちは画面を覗き込む。今度は麻野さんも加わった。

 動画はさっきと同じようにカクカクとしているけれど、鮮明であった。少し離れたコンビニの看板がはっきりと映っている。

 その動画に少年の姿が映る。ポケットに手を入れて歩いている。上は黒、下は青い。ジーパンだろうか。その少年が振り返ってカメラを見る。先ほどよりもはっきりとこちらを見ているのが分かる。


「止めて」


 佐賀さんの声に合わせて、映像が止まる。こちらを向く少年を佐賀さんが凝視する。


「もう少し明るくなる?」

「はい」


 警備員はパソコンの設定を変えて、画面を最大限明るくする。

 ふと、私は少年を見たことがあると思った。一体、いつ見たのだろうか。


「この子、少し笑ってないか?」


 私は少年の口元を見る。


「あ」


 思わず出た声に視線が集まった。


「どうしたの?」

「え、いえ、確信が持てないので……」

「いいよ、何でもいい」


 佐賀さんの視線に負けて、私はゆっくり口を開く。


「ま、間違いかもしれないんですけど」


 右手の人差し指を少年の口元に当てる。


「見覚えがあるような気がして……。母親の元にゆいちゃんと三人で行ったとき、あの部屋から出てきた少年がいたじゃないですか……」


 佐賀さんにぶつかって、それを詫びたときに見た口と似ている気がする。あの時の白髪の少年に。


「彼、髪の色が目立っていたから、それならフードを被っていた方が目立たないですし……」


 佐賀さんは画面を見たままフリーズしている。髪色が見えるならまだしも、口の形だけで判断してしまったのはよくなかっただろうか。


「……ぶつかった子が、確かにいたね」

「ぶつかられたとき、佐賀さん不思議そうな顔していましたよね」

「うん……」


 はっとして佐賀さんは私を見た。


「そうだ、その子がいた。どう考えたってあのタイミングで人がいるのは不自然だ!」

「それは誰だ?」

「いただろう! 千宜が現れたタイミングを考えたらあの子とすれ違っているはずだ!」


 白髪の子ども。見かければ誰だって記憶に残るような目立つ子どもだった。


「俺が到着したときそんな子どもはいなかったが」


 そう言って千宜さんは首をかしげる。


「相良だってそのことを報告書に書いていなかっただろう?」

「それは」


 報告書、それはいつの日か佐賀さんが書くことを面倒くさがっていたあれだろうか。


「それは、忘れていたから……」


 目立つ少年を? 佐賀さんも?


「あの少年、ぶつかったときに変な感じがしたんだ。そうだ、思い出した」

「なんで忘れちゃったんですか? あんなに特徴的な子だったのに」


 それでも彼があの部屋から出てきたおかげでドアを開けることができて、追い返されることもなく話すことに成功したわけだが。そう考えるとあの少年は私たちのためにあのタイミングでドアを開けたみたいだ。


「仮に、その二人が実在して、同一人物だとすると……」


 麻野さんはそう言ってパソコンに映る、こちらを向いてうっすらと微笑んでいる少年を見る。


「動き出した……」


 ぽつりと佐賀さんは呟く。待っていた、そんな表情で彼は笑う。その姿はいつもと違って少し怖かった。


「記憶を消せるんだ、こいつは」

「待て、それは短絡的すぎる。お前の記憶がなくなったのは事故の可能性もあるし、その頃こいつはまだ幼稚園児くらいだろう」

「事故じゃない。事故で都合よく名前だけが残るものか」


 遥か昔に火事の現場で佐賀さんが見つかったとき、彼は自分の名前だけを憶えていた。


「これは絶対に奴らが動き出した」


 嬉しそうにしているのは佐賀さんだけだった。


「奴らって誰なんですか?」

「それは……相良の過去を知る者たちだ」


 諦めたように麻野さんが語りだす。それは麻野さんのお父さんが現役だった頃まで遡る。

 組織の発足に至った一つの事件。頭の無いバラバラにされた一人分の遺体が見つかった。ところが鑑定を進めている間に、バラバラのパーツそれぞれが違う人間のものであることが分かったのだ。一つの遺体から十一人分の細胞が検出された。それと合わせて、国内では扱っていない薬品、世界に存在しないはずの化学物質が検出された。その未知で奇妙な事件の捜査は困難を極め、迷宮入りすることとなる。

 それでも、その遺体にはいくつかの共通点があった。十一人は完全な他人ではなく血の繋がった家族、親族である可能性が高いこと。いくつかのパーツには円状の何かを押し付けたような火傷の痕があったこと。


「ところがで遺体は火葬、埋葬されてしまった」


 警察のミスになってしまったこの事件は必然的に隠されるようになる。こうして謎を多く残したまま幕が下ろされることになった事件。


「警察内部に共犯者がいることを疑ったことから、特殊警察に引き入れられる人間は今も一部の人間に限られている」


 麻野さんのいる組織はそういった経緯があったのか。


「敵はこの一族に関わるものだと思っている」

「それがどうして佐賀さんの過去に繋がってくるんですか?」


 そう聞くと、佐賀さんが突然服を脱ぎ始めた。そして、私にその背中を見せる。一面に、時には折り重なるようにして、丸い火傷の痕が残っている。その光景に私は言葉を失う。


「同じ、火傷の痕だよ」

「だから相良も『一族』に関わっている可能性が高い」


 佐賀さんは寒いと言いながら急いで服を着なおす。

 麻野さんたちが追っているものと、佐賀さんが追っているものは同じなんだ。


「奴らはずっと尻尾を見せなかった。それが今回はこんなに堂々と」


 佐賀さんは目を伏せて言う。


「お手柄だね、あすみさん」

「いえ、そんな……」


 この話は既に仁穂ちゃんや警備員は知っているようで、二人はずっと黙っていた。


「他に何か思い出すことはないか、不自然なことでも……」


 言いかけて、麻野さんは止めた。何かを思い出したらしい。


「そういえば、誘拐された少年を捕らえていた体格のいい男は君が殺したのか?」

「殺してないです! むしろ殺されるところでした。ナイフも奪われてしまって、そのタイミングで、女の子が……」


 私と麻野さんの目が合う。あの後で、気絶してしまったり、佐賀さんの昔話を聞いたり、それで都合よくあの怖かった記憶を思い返さないようにしていたんだ。

 なんでもっと早く言わないんだ、と言いたげな表情をしながらも、麻野さんは言うのをこらえてくれた。


「まだ小学生くらいの女の子だったんですけど、『お兄ちゃんの頼み』で私を助けに来てくれたって言っていました」


 女の子の顔を思い出そうとすると、襲い掛かってくる男と、死んでいく男の姿が見える。思わず、ぎゅっと自分の腕を抱きしめた。


「もし、他に思い出せそうなことがあったらいつでもいいから教えてくれ」


 さすがにそれ以上聞くのは可哀そうだと思われたのか、麻野さんはあっさりと引いた。


「その少女も関わっているのであれば、これからも『一族』はあすみさんに接触してくることが増えるかもしれない」


 佐賀さんは怯える私を見る。


「奴らが動き出した可能性があるから、これからはなるべく一人にならないようにしよう」


 そして、これからも私は仁穂ちゃんの家で暮らすことが決まった。心配してくれた仁穂ちゃんはそれを快諾してくれて、正式に引っ越すことになった。

 日中はサガシヤに、夜は仁穂ちゃんの家に。

 家まで車で送ってくれるという麻野さんの好意に甘えることになった私たちは帰る支度をする。


「少し遠いところに車を置いてきたから少し待っていてくれ」


 麻野さんはそう言って事務所から出ていく。その後ろを佐賀さんが追いかけていくのが見えた。


「千宜」


 階段を降りようとした麻野さんが振り返る。


「取り柄もない彼女をサガシヤに引き入れたことはずっと疑問だった。でも、その訳がようやく分かった」

「分からなかったんだ」


 皐月くんは機械に強い。仁穂ちゃんには鍵師としての力がある。サガシヤの中で平凡な私だけが異質だった。佐賀さんは、私との出会いが自分の過去を知ることに繋がるかもしれないことも視えたのかもしれない。そんな麻野さんの推察を彼はきっぱりと否定した。


「出会いだけがなぜか視えた」


 こんなことになるなんて微塵も思っていなかった。


「それでも、この機会を逃すつもりはない」


 ようやく『一族』に繋がりそうなものが見えてきたのだ。真剣な眼差しで互いを見ていた。


「たとえどんな犠牲を払うことになったとしても」

「……お前ならそう言うと思っていたさ」


 背中を向けて麻野さんは階段を下りて行く。

 事務所に戻ってきた佐賀さんは少し暗い顔をしていたが誰も気にしなかった。そんな二人のやり取りは私の耳にも届いてはいなかった。






「行ってらっしゃい」


 手作りのお弁当を手渡して仁穂ちゃんを見送る。週末の引っ越し作業で疲れた体を伸ばした。

 もうすぐ佐賀さんが家に来る。通勤の時間も何が起こるかわからないから、と佐賀さんは私の送迎を申し出てくれた。朝が苦手な佐賀さんが本当に時間通りに来るのかは半信半疑だったが、彼はちゃんと予定通りに現れた。


「おはよう、あすみさん」

「おはようございます」


 いつも通りの笑顔がこちらを見ている。


「早く起きられるならいつもそうしてくれればいいのに」

「あすみさんを心配しているんだよ」


 そう言われて私は昨夜送られてきたメッセージを思い出す。ようやく転職を知らせた返事が母から送られてきたのだ。

 その内容は、端的に言えば、『一度帰って来い』というものだった。なんで辞めたのかとか、新しい職場はどんな感じなのかとか、聞きたいことが多すぎて文字で打ち込むのは面倒なのだろう。

 サガシヤは暇も多いから、帰省自体はいつしてもよかった。ところが、そういう訳にはいかない状況が訪れてしまったのだ。


「昨日の映像、どうなりました?」


 もう少し解析してみる、帰り際に警備員が言ったのが聞こえた。


「宣言通り解析しているよ。あの子の髪色が分かれば一発だしね」

「そうですか……」


 フードに隠された髪をどうにか見ることができないかと奮闘しているらしい。


「『一族』はあすみさんとも関りがあるのかもしれない」

「どうしてですか?」


 ハンドルを握る佐賀さんは唐突にそう言った。私には佐賀さんのような火傷の痕はない。どうして私に接触してきたのか、全く心当たりがない。


「ずっと、何も進展していなかったんだ。同じ火傷の痕を持つ者も現れないし、不自然なバラバラ殺人も起きていない。」

「だとしても、私は平凡な人間です……」


 そんな恐ろしいことに巻き込まれなくてはならない心当たりがない。あの求人広告を見つけなければ、佐賀さんが私を見つけなければ間違いなくこんなことにはなっていない。


「『一族』が消滅していない可能性が高まったのは変わりないさ」

「『一族』って、バラバラで見つかった人たちのことを指すんですよね?」

「いや」


 血縁関係が見られたバラバラの遺体。ところが、その遺体は幼い子どものものだった。子どもを大量に作り、バラバラにして遺棄した何者かが存在する。子どもたちの親がそれに無関係だと考えることはできない。佐賀さんは敵を「一族」と呼ぶ理由を教えてくれた。


「佐賀さんは子どもの時に保護されたんですよね?」

「うん」


 佐賀さんが見つかった火事は、殺された子どもたちに関わるかもしれない。もしかしたら、火事は佐賀さんを殺すために起きたのかも。


「はい、到着」


 気が付いたら見慣れた駐車場だった。


「佐賀さんは、どうしたいんですか?」

「何が?」

「もしも、『一族』が見つかったら」


 『相良を犯罪者にしないでくれ』そう言った麻野さんが頭を過る。彼は、自分の記憶を奪い、苦しめた犯人をどうしたいのだろう。殴る? 蹴る? 命を奪うなんてことはさすがにしないだろうけれど。

 佐賀さんは車を降りて歩き出した。


「見つける、より先のことは考えていないよ」


 自分はサガシヤだからね、と彼は付け加えた。


「おかえりなさい」


 事務所には一人でお茶を飲みながらパソコンと向かい合っている警備員がいた。


「おはようございます」

「ただいま」


 いつも通り部屋は散らかっている。肩を落としながら隣室のドアを開けると床一面に紙が広げられていた。どの紙にもびっしりと文字が書いてある。想定外の惨状に思わず意識を失いそうになる。


「ああ、ごめん」

「ごめんじゃないですよ! 誰が片付けると思っているんですか!」


 私よりも背の高い本棚の一つが丸ごと空っぽになっているのが見える。


「悪いんだけど、片付けないでくれるかな」

「はい?」


 自分で片付けます、ではなく。清掃員に片付けるな、と。


「このままにしておくんですか⁉」


 足の踏み場など無いに等しい。佐賀さんが何をしているのか、今の私には何となく想像できた。きっとこれは全て「一族」に関わる資料で、佐賀さんはそれから何かを視ようとしているんだ。どんな些細なことでも、きっかけになるかもしれないから。


「そういえば依頼が入りましたよ」


 警備員に呼ばれて佐賀さんは離れていく。


「どんな依頼?」

「えーっと、旦那さんの浮気の証拠探しですね」

「「ゲッ」」


 私と佐賀さんは同時に声を上げた。泥沼間違いなしじゃないか。


「でもかなりいい金額で依頼してくれるみたいです」


 どれどれと言いながら画面を覗き込む。そこに何が書かれていたのか、佐賀さんは一瞬で手のひらを返した。


「いいね、受けよう」


 やはりお金持ちほどこういう胡散臭い事務所を信じてしまうのかもしれない。


「アポ取って。今すぐ来てもらえるか、それともこちらから行くか」

「分かりました」


 警備員は手早くメールを送る。すると、一分もしないでその返事が送られてきた。


「交通費は全部出すから来てほしいとのことです」

「了解。あすみさん支度して——」

「沖縄に」


 一瞬、全員の動きが止まった。


「……なんて?」

「ご依頼主は沖縄在住みたいです」


 コートを手に持ってしまった私は佐賀さんを見た。


「支度には時間がかかります……」

「想定外だよ」


 いつの日か、サガシヤは依頼さえあれば世界にだって行くと言っていた。


「……飛行機の便調べてもらえる?」

「最短だと今日の夕方に空きがありますね」


 佐賀さんが申し訳ない顔をしながら私に視線を向ける。


「一時間で支度できる?」


 浮気の証拠が見つかるまでにどのくらいの時間がかかるかは分からない。簡単に帰れる距離ではないから、忘れものをしたら苦労することになる。女の支度の大変さをなめてもらっては困る。


「じゃあ一つ、お願いを聞いてもらえますか?」


 こうして、私は条件付きで急ぎ沖縄に向かうことになった。






 仁穂ちゃんにお別れを言う暇もないまま出発し、夕焼けに見送られながら機体は空に旅立った。久々に乗る飛行機は大きな問題もなく、予定通り那覇空港に着陸。

 空港を出ると半ば拉致されるように車に乗せられ、依頼主と対面した。彼女は高級ホテルを用意して、手厚くもてなしてくれる。そんな期待に応えるべく私たちは奮闘する。

 しかし、手柄も用意できないまま、沖縄に来てから三週間が経ってしまった。


「ねえ、まだ見つからないの?」

「申し訳ないです……」


 広々としたリビングの高級ソファーに腰かける依頼人は、中身はぶどうジュースのワイングラスを片手に床に正座する私たちを見下ろした。


「早くしてよ」


 キャラメルのような色の髪を指先でくるんくるんとしている。


「浮気を許すような女って思われたくないの」


 彼女は仕事に行け、とでも言うように手を振った。


「行ってきます……」


 本物の警備員がたくさんいる道を通って、彼女の手配した本日の黄色いレンタカーに乗り込んだ。同じ車だとばれてしまうから毎日変えるようにという命令だ。


「本当に浮気しているんですかね……」

「それは言っちゃだめだよ……」


 車内の空気は重かった。この依頼が終わる兆しが見えなかったからだ。佐賀さんの視る力を使えればよかったのだが、対象の旦那さんとは接触禁止。触れないと視えない佐賀さんにとってそれは致命傷になってしまった。

 依頼主の神崎心はまだ一九歳だ。来月、初めての結婚記念日を迎える。そんな時期に発覚した浮気疑惑。旦那さんは神崎勤、二七歳。この年齢差こそ、彼女が浮気を疑う大きな要因だと思っている。


「勤さんも心さんも、お互いのこと大好きだと思うんですけど……」


 お見合い結婚で婿養子になった勤さん。彼はとても穏やかで紳士的な人だ。道に迷った観光客を案内したり、仕事でトラブルが起きても誠心誠意対応して丸く収めている。週に二、三回は花屋に寄って心さんに渡すかどうか悩み、結局は買わないことが多い。高級なお菓子をお土産に買って帰ることもしばしば。


「そうだねぇ……」


 心さんは決して口にはしないが、おそらく彼女も勤さんを大切に思っている。

 浮気をしているというよりも、自分の幼さで彼が浮気してしまうのでは、と不安で仕方ないのだろう。


「どうしたものか」


 浮気をしていないという証拠を提出すればいいのか。それを信用してくれるのか。どうしたらこの依頼に幕を下ろすことができるか、私たちは悩んでいた。


「どうにかして視れないんですか?」

「視ようとすれば間接的に視ることは可能なんだけど、浮気をしていなければどうしようもないよ……」


 旦那さんは浮気をしていないですよ、と言って引き下がるような人じゃないのは明らかだ。


「とりあえず、行こうか」


 スマホで彼の位置情報を確認する。彼の持ち物にそれを忍び込ませたのは心さんだ。位置情報が分かるならそれで満足すればいいのに。

 それはさておき、今日はまだ会社にいるらしい。


「本日は少し早く仕事が終わる日ですね」


 毎週火曜日は比較的仕事が終わるのが早い。その後は上司や取引先、義父との飲み会に付き合っている。女性と二人きりなんて日はなかった。


「あすみさんのお願いも聞いてあげられないままで申し訳ない……」


 車は広い門を通過して一般道に入る。


「別にそれは気にしなくていいですよ」


 私の提示した条件は実家に寄ることだった。今は沖縄に住んでいる両親に仕事の話をするために。


「今沖縄にいるって伝えていませんし」

「どうして言わないの?」

「行く直前に連絡入れれば十分ですよ」

「そういうもの?」


 窓の外を見つめている私に佐賀さんは言った。両親がいない佐賀さんにとっては考えたこともないのかもしれない。


「うちの親は機械が苦手なんです」


 スマホに変えてから一年以上経ったというのに未だ使いこなせていない。電話の方が楽だと言っている。電話をしても私は出ないから、仕方なくメッセージを送っているが。


「ジェネレーションギャップだねぇ」


 何だか急に同じ空気を吸っているのが嫌になって窓を開けた。ビュウ、と風の音とともに冷気が入り込んでくる。本州ほどじゃないが、さすがに寒い。私はすぐに窓を閉めた。


「あ」


 スマホの画面が光った。勤さんの位置情報が変化している。


「動きました」


 時々止まったりしながら、彼はどんどん移動していく。少しずつ私たちの車に近づいていた。


「車ですかね」

「いつ来ても追いかけられるよ」


 一度空き地に車を停車させて佐賀さんは様子を見る。


「来たね」


 位置情報の矢印がこことぴったり重なったところで車は動き出した。何日も追いかけている黒い車。間違いなく勤さんの車だ。


「助手席にも誰もいませんでしたね」

「浮気相手の車とかだったら一発だったのに」

「やっぱり浮気していないんですよ」


 車は今まで通ったことのない道を行く。大通りから少し離れて。少しずつ狭くなっていく道には木が茂る。


「この道……」

「なに、知っているの?」


 嫌な予感がする。


「引き返してください!」

「引き返すって、もう少し広いところに出ないと向きを変えられないよ」

「ああ、でも、それ以上行くと……」


 車は少し開けた駐車場に着いた。行き止まりになっている目の前には見覚えのある一軒のお店。木々に囲まれた異世界みたいな、とあるアニメ映画の影響を受けすぎた建物。当人曰く、今後出てきそうな建物をイメージしたのだそう。


「ここは?」


 駐車場には既に三台の車が停まっていた。このお店の車、勤さんの車。もう一台はナンバーからレンタカーだと分かる。


「私の実家です……」

「ここが?」


 勤さんがどうしてこんなところに来たのか。気になるが今はそれどころではない。


「とにかく早くここから離れないと……」


 そう言うと、誰かが助手席の窓ガラスをノックした。ドキン、と心臓が跳ねる。私は佐賀さんの方を向いたまま振り返ることができなかった。

 仕方なく、佐賀さんは窓を開けた。


「お客さん! 今なら焼き立てのパンがあるわよ!」

「すみません、僕ら道に迷ってしまって……」

「あら大変、近くまで旦那に案内させるわ。少し待ってて」

「あー、いや、それは……」


 佐賀さんの困った顔がこちらを向く。


「それは大丈夫です……」


 私は諦めて彼女の顔を見た。久々に見る母の顔。しわは増えたけれど元気そうだ。


「あんた……!」

「お久しぶりです……」


 母は口に手を当てたまま走りだした。


「待って!」


 今、お店に戻って父に私が来たことを伝えたら、お店にいる全員に私のことがばれてしまう。店内にいるであろう勤さんにも。

 そんな私の制止もお構いなしに、彼女はお店に戻ってしまった。


「お父さん、あすみが帰って来たわ!」

「なに?」


 お店のドアを開ける。一歩遅かった。二人の視線が私を向く。その時、お店の奥から暖簾をくぐって勤さんが姿を現した。紺色のエプロンを付けて。


「勤さん、この子うちの娘なの!」


 最悪だ。


「コンニチハ……」


 愛想笑いをして会釈をする。まだだ。ただの帰省した娘であれば問題ないはず。


「この子ったらかっこいい彼氏まで連れてきたのよ」

「彼氏じゃないです……」

「ああ!」


 何かを思いついたかのように勤さんは手を合わせた。


「心さんに雇われた方ですよね?」


 私は固まった。


「な、何のことでしょう?」


 冷汗が出てきそうだ。ああ、佐賀さん。私はどうしたらいいでしょう。


「心配しないでください。最初から全部気づいていましたから」


 優しい顔で勤さんは笑った。


「むしろご迷惑をおかけしてすみません」


 なんなら依頼の内容までわかっていそうな雰囲気だ。どうぞもう一人の方も連れてきてください、と言われたので私は諦めて佐賀さんを呼んだ。


 併設されたカフェスペースにいた観光客が帰っていくのを見届けて、私たちはそこで話すことにした。

 店内はクリスマスムードに包まれていて、大きなツリーには松ぼっくりや鈴がついていた。クリスマスをイメージしたパンは、今日の分はもう売り切れてしまったらしい。ポップの後ろの籠にはバンのかけらが落ちているだけだった。


「巻き込んでしまってすみません」


 勤さんは頭を下げる。


「彼女は嘘とか、隠し事とか苦手な人なんですよ」


 彼女がうまく仕掛けたと思っていた位置情報を発信する機械もすぐに気づいた。その日の様子がおかしかったから。鞄から離れるように仕向けたり、チラチラ鞄を見たりしていたそうだ。

 私たちが来てからは毎朝敷地内に違うレンタカーが停まっているのを目撃していたそうだ。車が分かっていたからこそ私たちの顔もすぐにわかってしまったという。


「やましいことはないので、心さんの気が済むまで放っておこうと思ったんですけれど……」

「私たちもそう思っているんですけれど……」


 なかなか満足してくれないお嫁さんと依頼主に疲弊した両者。


「あの……勤さんはどうしてここに?」


 私の実家はパンとケーキを作って販売している。お客さんとして来たならまだわかるが、彼はエプロンを着ているのだ。


「もうすぐ結婚記念日なんですよ……」


 そう言って彼は顔を赤らめる。


「どんな風にお祝いをしたら喜んでくれるか考えたのですが、彼女はお嬢様なのでお金をかけてお祝いしても特別感は無いんです」


 確かに、彼女にとって贅沢は日常なのだろう。


「それなら自分の手で、おいしいケーキを作ってあげたいと思いまして」

「時々うちに練習に来てくれるのよ」


 私たちにコーヒーを運んできた母が言った。


「そうでしたか」

「サプライズにしたかったんですけれどね」


 ばれちゃいました、と彼は笑う。位置情報がばれていると分かっていながらここに来たのだ。ずっと拘束されていた私たちのことも考えていたのかもしれない。


「ここは甘い香りがしますから、それを心さんが勘違いした可能性はありますね」


 ケーキを作る練習をするなら数時間はこの甘い香りの中にいることになるだろう。それが誤解のきっかけになってしまった可能性を指摘した。


「ですが、この話をしてしまったらサプライズができない、と」

「はい……」


 佐賀さんと勤さんはどうしたらいいか考えている。私はコーヒーを一口飲んだ。


「勤さんは心さんが大事なんですよね?」

「当たり前です!」


 間髪入れずに勤さんは答える。


「だとしたら何を悩むことがあるんですか? モヤモヤしたまま迎える結婚記念日なんて幸せだと思いますか?」


 男二人は驚いた顔をしていた。


「……思いません」

「二人の結婚記念日なんですから、二人で作ればいいんですよ」


 私は残りのコーヒーを飲み干してスマホを手に取る。

 勤さんは目を点にしていた。


「心さんを不安にさせないであげてください」

「はい」


 二人には年齢の差もあるのだから。心さんはこんな些細な香りに気づいてしまって、一人でずっと不安を抱えていたのだ。本人を問いただす勇気もないまま。


「ここに心さんを呼んでもいいですか?」


 勤さんは頷いた。

 スマホから電話をかけて居場所を伝えると彼女はすぐに駆け付けた。私たちと勤さんが一緒にいることに驚きながらも事情を話すと受け入れてはくれた。胸に痞えていたものが少しはなくなったのではないだろうか。


「最初からこうしていればよかったのに」


 奥の厨房では二人が楽しそうに生クリームを泡立てている。その姿を私たちは眺めていた。


「納得してくれてよかったよ」

「そうですね……」


 浮気の証拠を見つけることはできなかったし、サガシヤとして役になったとは言いきれないけれど。


「にしてもケーキか。懐かしいな」

「ケーキに何か特別な思い入れがあるんですか?」


 佐賀さんは座ったまま並べられたケーキを見ていた。紅芋を使ったケーキが一押しなのか、商品紹介のポップにこだわりを感じる。


「初めての誕生日ケーキを思い出すよ」

「初めて?」

「麻野家で迎えた初めての誕生日」


 懐かしそうに目を細める。それを祝ってくれた人はもうこの世にはいない。


「……佐賀さんのお誕生日はいつなんですか?」

「一昨日……かな?」


 佐賀さんはスマホを開いてカレンダーを見る。自分の誕生日なのに自信が無いらしい。


「一昨日なんですか⁉」

「ああ、でも、麻野家に迎えられた日を誕生日にしているだけだから実際はいつなのかわからないよ」

「じゃあ一緒にケーキを食べましょう」


 こんな変態でもお世話になっていることに変わりはない。プレゼントを用意するのは難しくても、一緒にケーキを食べるくらいなら簡単だ。


「ありがとう。でも大丈夫」


 佐賀さんは私にスマホの画面を見せてくる。表示されているカレンダーは明日を指していた。


「クリスマスイブ?」

「この日、仁穂ちゃんの誕生日なんだ」


 彼の言いたいことが分かった。


「じゃあその日までに帰りましょう」


 そしてみんなでお祝いしよう。愛すべき看板娘が生まれた日を。






「……というわけで、今は転職してこの方の部下として働いています」


 二人が笑顔で帰宅したのを見届けて、私はようやく両親に話し始める。胸やけしそうなくらいのクリームがのったケーキを二人は持ち帰って行った。


「サガシヤさん……」

「インターネットから依頼を受けています」


 困惑しながらスマホの画面を見る母に佐賀さんは言った。


「結婚報告じゃないのか」

「そんなわけないです」


 がっかりしたように父は肩を落とす。普通、一人娘の結婚は嫌がるものでしょう。


「この子はちゃんとやっていけていますかね?」

「はい。とても助かっていますよ。彼女がいるとみんなの仕事の効率が上がります」


 仕事の効率が上がるのは、彼らが散らかした物を私が毎度元の位置に片付けているからだ。たまには食べたカップ麺のゴミもしっかり分別してもらいたい。


「そう……あすみは元気なのね?」

「元気ですよ」


 母は胸をなでおろす。


「佐賀さん、この子のことよろしくお願いします」

「こちらこそ、お願いします」


 二人は深々と頭を下げた。


「それじゃあもう帰りますから」

「泊まっていけばいいのに」

「心さんがホテルを取ってくれているので」


 それもあるが、私はこれ以上ここに居たくなかった。佐賀さんがそれを察したのか、立ち上がる。


「遅くまで失礼してすみません。コーヒー美味しかったです」

「気をつけてね……」

「二人も」


 外に出るともう真っ暗だった。街灯も少ないせいで星がよく見える。東京とは大違いだ。


「あすみさんはご両親が苦手なの?」


 車に乗り込むなり、佐賀さんはそう切り出して来た。聞きたくなる気持ちもわかる。実の親に敬語を使うなんて変な話だろう。


「得意ではないです」

「そっか」


 私は二人のことがよくわからない。たぶん、自分たちのことにしか興味がないのだ。昔からよくわからない人たちだった。

 ポケットに入れたスマホが鳴る。


「心さんからです」

「なんだって?」

「明日いつもの時間に屋敷に来るようにと」


 もう帰れると思っていたが、まだ続くのだろうか。仁穂ちゃんの誕生日まで時間がないのに。


「もう少し時間がかかりそうだね」


 車は見慣れた道に出て、いつものホテルを目指して走っていた。






「迷惑かけて悪かったわね」


 相変わらず彼女は偉そうにソファーに腰かけてワイングラスを持っている。未成年なので、中身はただのぶどうジュースだが。

 昨夜の間に勤さんとは和解できたらしい。疑われてしまうような行動は軽率だったけれど、こそこそと嗅ぎまわるような行動はしてほしくないと言われたそうだ。彼女は頬を赤く染めて教えてくれた。


「僕らはもう用済みですかね?」


 半ば惚気話みたいになってきたので、いい加減佐賀さんが口をはさんだ。


「ええ。帰りの便は用意しておくわ。あと、報酬も」

「それはいただけません」

「なぜ?」

「僕らは依頼に何一つ貢献できませんでしたので」


 心さんは立ち上がりお金が入っている封筒を佐賀さんの懐に入れた。


封筒それ、もうゴミだから捨てておいて。どうせだったら東京まで持って行ってからね」


 お疲れ様、と言い残してお嬢様は別の部屋に去って行ってしまった。なんてかっこいいんだ。


「飛行機ですが、あと一時間後に出発する便が取れました」


 黒いスーツに身を包み、スキンヘッドにサングラスまで装備している強そうな側近が親指を立ててこちらに笑顔を向けた。


「どうしてこんなに時間ないんですかね!」

「ゆっくりお土産くらい見たかったよ」


 大急ぎで屋敷を飛び出していったんホテルに戻る。スーツケースに荷物を詰め込んだ。ぐちゃぐちゃになってしまったし、忘れ物をしていないか不安だ。


「行くよ、あすみさん!」


 先ほどの黒スーツの人が車で迎えに来てくれている。このホテルで黄色いレンタカーとはお別れだ。


「飛ばしますよ!」


 焦げた肌から覗く白い歯が輝いていた。

 せっかくの沖縄をもう少し満喫したかったところではある。郷土料理や名産物も食べたかったし、少しくらい観光だってしたかった。空港以外でもお土産を見たかった。


「お二人にお幸せにとお伝えください」

「ありがとうございます。お気をつけて」

「お世話になりました」


 手短に別れの挨拶をして急いで空港の中に入る。まだまだ未熟な夫婦が幸せな記念日を迎えることを心から祈りながら、私はこの島に別れを告げた。






「ああ、早く早く。仁穂ちゃん帰ってきちゃいますよ」

「ちょっと待って下さいよ……」

「ケーキ買って来たよー」


 こつん、こつん。階段を上ってくるローファーの音がする。私は素早く二人にクラッカーを渡した。


「用事ってなに……」


 パーン。

 ドアを開けた途端鳴り響いた音。スマホを片手にびっくりしている仁穂ちゃん。そんな彼女にクラッカーから飛び出た紙テープが降り注ぐ。


「お誕生日おめでとう! 仁穂ちゃん‼」


 これからはずっと私たちが一緒にいる。

 もう、一人じゃないよ。

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