6. 待ちぼうけの胸の内

 私はあの後、病院の手続きをして家に帰った。麻野さんから聞いた佐賀さんの話は衝撃的だった。


『あいつは組織に協力することで自分を捕らえていた人を探そうとしている』


 視える力を使わずに、佐賀さんは探している。誘拐された海琉君を探すために使ったくらいなら代償は一時的な不調で済むようで、佐賀さんは麻野さんの家に連れていかれたらしい。


「死との出会い……」


 麻野さんや、その両親が死ぬ光景を視る。大切な人がどうやって死んでしまうかが触れた瞬間に視えてしまうなんて、どれほど恐ろしいだろう。


「どうしようかな」


 この話も全部聞いて、それでもサガシヤで働くというならもう止めない。麻野さんは別れ際にそう言った。麻野さんの最優先は佐賀さんの無事だ。私みたいな足手まといを守れるかは分からない。

 それでも私は変わらずサガシヤに居たい。


『あなたに頼みがある』


 とても真剣な眼差しだった。


『相良を犯罪者にしないでくれ』


 何度思い返しても、私に頼む必要があるのか分からない。私に言わなくても本人に言えばいい。


「どうしようかなぁ」


 もう一つ、私の頭を悩ませているのはこの一枚の紙切れだ。ポストに投函されていたこの紙には、契約更新についてと書いてある。借りているこの部屋の更新の時期が来てしまったのだ。このままここに住み続けてもいいような気もするが、やはり前の会社に近いことも気になる。引っ越すとなるとまた別の問題が発生してくる。


 ピロン


 スマホが新着メッセージを通知した。電源のついた画面には「元気?」と書いてある。母からだ。

 そう、両親に会社を辞めたことをまだ話していない。引っ越したら会社を辞めたことを言わなくてはならないだろう。いや、言わなくても引っ越せるかもしれないが、引っ越しの理由で嘘をつくのは忍びない気がする。遅かれ早かれ言うことにはなると思うが。


「元気ですよー」


 スマホに向かって言ってみる。今日はもう疲れた。返信は明日でいいや。






「ん……?」


 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。私はテーブルに頭をのせたままだった。よく見るとカーテンから明るい光が射している。朝が来たらしい。


「朝⁉」


 私は急いでスマホの電源ボタンを押す。しかし画面は暗いまま。どうやら充電が切れてしまったようだ。


「なんでこんな時に!」


 棚の上に置いてある腕時計を見て私は声にならない叫び声をあげた。


「電話しないと!」


 ああ、駄目だ。スマホが動かないんだ。公衆電話から事務所にかけよう。滅多にない依頼の電話と勘違いさせるのは可哀そうだけれど。遅刻の連絡をしないわけにはいかない。


「電話番号わからないや……」


 詰んだ。スマホがないと何もできない典型的な現代人だ。モバイルバッテリーとスマホを繋いでとりあえず充電を優先する。その間に急いで身支度を整える。乱暴にハンガーからシャツを奪い取る。朝食は向こうで食べればいい。


「ああ最悪だ……」


 会社に勤めていた頃でさえ寝坊で遅刻なんてしたことなかったのに。

 私はモバイルバッテリーとスマホを鞄に入れて家を出る。支度をしている数分の間に電源が入るくらいには回復しているだろう。電源ボタンを長押しするとパッと画面が光った。よかった、電源はつきそうだ。


「どっちにしろ連絡帳に登録してないけど検索すれば出でくるよね?」


 ちゃんと登録しよう。そう思いながらサガシヤで検索する。残念ながら、どれほどスクロールしてもそれらしい事務所は出てこない。


「なんて無名なの!」


 こうなったら手法を変えるしかない。今度は地図アプリを起動する。地図から調べればサガシヤの電話番号が載っているかもしれない。


「ないじゃん……」


 こちらには一階の洋服屋は載っていてもサガシヤは載っていなかった。もういいや、一階の従業員の涼さんから伝えてもらおう。


「電話……」


 古いスマホということもあって充電が遅い。通話の途中で切れてしまうかもしれない。確実なのはやはり公衆電話だ。


「あるかな……」


 幻となりつつある公衆電話を見つけることができるだろうか。私が子どもの頃は学校や駅や公園に必ず置いてあったのに。


「もういいや、スマホでかけよう」


 切れたらその時はその時だ。


「もしもし、涼さん」

『清掃員ちゃん?今日遅いね』


 片言のイラッシャイマセからここまで会話をしてもらえるようになっていてよかった。


「寝坊しました……。佐賀さんに伝えてもらってもいいですか?」

『いいけど、あの人は気にしないと思うよ』


 それじゃ、と言って涼さんは電話を切ってしまった。どうにか伝えられてよかった。


「急ごう」


 私は駅まで走って電車に乗った。ホームにはちょうど電車が入ってきたところだ。反対方面の電車も入ってきて、二つの電車は隣り合った。会社に行っていたころは反対側の電車に乗っていた。

 あれからしばらく経った。会社の人たちはどうしているだろうか。邪魔な私を追い出せたことに祝杯でも挙げたのだろうか。


「佐賀さん怒ってないといいけど……」






「イラッ、おはよう」


 イラッシャイマセ、そう言いそうになったところで入ってきたのが私だと気づいた。


「おはようございます、涼さん」

「伝えたけど、全然気にしてなさそうだよ」

「ありがとうございます」


 そんな気はしていた。いつも私が出勤してから彼らは起床する。むしろまだ眠っているんじゃないだろうか。

 階段を上って事務所のドアを開ける。


「すみません、遅くなりました」


 そこには普段着に着替えて真面目そうに仕事をする佐賀さんと警備員の姿があった。よく見るとテーブルには湯飲みが二つ、向かい合うように置いてある。


「お早いですね……」

「まあ今日は千宜の家から来たからね」


 そう言えば、昨日麻野さんが言っていた。


「それに今日は朝から一組お客さんが来ることになっていたし」

「えっ」


 隣の部屋から警備員がお盆を持って現れた。


「下に電話をかけた理由は何となく想像つきますけど、そんなことしなくても呟いてくれたら十分ですよ」

「確かに」


 それなら電車に乗ってからでも大丈夫だし、一番確実に伝えられる気がする。ネット中毒者の彼であればすぐに見つけてくれただろう。


「兎にも角にも、遅刻は誰も気にしてないよ。それより怪我は大丈夫?」

「それは問題ないです。全体的にかすり傷ですよ」


 佐賀さんこそ大丈夫なんですか、そう聞こうとして止めた。本人のいないところであの話を知ってしまったことを少し後ろめたく思っているのかもしれない。


「……それより、お客様のご依頼は?」

「ああ、それね」


 社長用のデスクの引き出しを開けて、佐賀さんはホチキスで束ねられた数枚の紙を取り出した。


「人探しなんだよね」

「難しいんですか?」


 その表情は晴れやかではなかった。少し前の猫探しの時にはすぐに情報を集めて簡単そうに解決していたが、今回はそんなことないのだろうか。


「とある女性を探しているらしいんだ。依頼人はその女性の上司」

「なるほど」

「依頼人が出張から戻ったら急に会社を辞めると言い出してしまって、それから行方が分からないらしい」

「なるほど……?」

「女性の名前は笠桐あすみさんというんだけど心当たりあるかな?」

「どう考えても私ですね」


 だよね、という顔をして佐賀さんは私を見る。


「はあー……」


 どうして今更、私を探そうだなんて。今日ばかりは遅刻してよかったかもしれない。絶対に会いたくない。どんな顔をして会えばいいのだろう。

 会社にたくさんのファンがいた上司。仕事もできる、指導もうまい。心から尊敬していた。こんな風に仕事ができるようになりたいと努力すればするほど周りの人たちに疎まれて。色んな嫌がらせをされて、そして私は倒れた。もう無理だ、体はわたしにそう訴えた。


「住所変わってないんですけど……」

「同僚が間違ってデータを削除しちゃったらしいよ。だから今本社に掛け合ってるって。まあ、しばらくかかるみたいだけど」


 私は自分の腕をぎゅっと掴む。私を嫌がる誰かがわざとやったんだ。もう辞めたのに、どうしてまだ私のことを渦中に引き留めるんだろう。


「どうする?」


 佐賀さんは持っていた紙をひらひらさせた。ご丁寧にそこには私の写真まで貼られていた。全部視ていて、私に委ねているのだろう。


「とりあえず、私の写真をあなたが持っているのはキモいので没収します」

「あっ」


 私は佐賀さんの手から書類を奪い取る。


「……依頼を受けたならやらない以外の選択肢なんてないんじゃないですか」


 私の胸元で紙がくしゃりと音をたてる。


「いや、受けてないよ?」

「え?」


 佐賀さんは立ち上がって私に近づいてくる。


「勝手に受けたりしないよ。あすみさんはうちの大事な従業員だ」


 真面目な顔をして言ってくるので少し恥ずかしくなった。


「どうするんですか……?」

「君が嫌ならその依頼は受けない。何なら彼を出禁にしてもいい」


 それはサガシヤの信頼を損なうのでは。どうしたらいいのか、私は強く握った紙を眺めた。


「少し、時間を下さい」


 私はそう言って隣室に入ってドアを閉めた。ドアに背中を付けてその場にしゃがみこむ。唇を軽く噛んでスマホを取り出した。あの日からずっと見ないようにしていた、会社で使っていたメールアドレスの受信履歴を見る。何通も何通もメールは来ていた。どれも未読のしるしがついたままだ。

 その中で一番古いメールをタップする。パッと画面が切り替わってたくさん並んだ小さな文字が表示された。


【君が急に辞めると言い出すなんて】


【体調は大丈夫ですか?】


【私の配慮が足りていなかった】


【今はどこに】


【誰も君を責めていない】


【気にしなくていい】


【戻ってきていいんだよ】


 私の眼は文字を追う。何回もスクロールしてようやく最後に辿り着いた。


「ははっ」


 思わず笑ってしまう。誰に何を言われたのか知らないが何となく想像はできた。私が何度も失敗して、それで気が滅入って辞めると言い出した。そういうことになっているらしい。私は辞める理由をあの人に伝えたわけではない。その後のことなんてどうでもよかったから。


【一緒に謝ろう】


 もう吐き気がした。迷惑をかけた取引先にも、会社の同僚にも一緒に謝ろう? しっかり仕事ができるようになるまで面倒を見るから? 


「ふざけんな……っ」


 スワイプして次々メールを読んでいく。どれもこれも書いてあることに大差はない。どこまでも私が悪くて、いつの日からか時間が経つほど関係の修復は難しくなるという言葉まで付け加えられるようになった。


【君を探すことにした】


 最新のメールにそう書いてあった。自分が失敗してしまったから出てきにくいのだろうと推察されている。


「意味わかんない……」


 私の目から大粒の涙がこぼれた。仕事ができる上司。優しい上司。憧れの上司。その姿がどんどん崩れていく。私はあなたの奥さんやファンたちの嫉妬によって追い込まれたのに。一方の話だけ聞いて、決めつけて。こんなのただの偽善者だ。

 苦しかったら逃げればいいなんてよく聞く。だけど、逃げたところで私の名誉は回復されない。むしろ加害者は自分たちの保身のために都合のいいことを言うのだ。

 こんなの、逃げても逃げても首が絞まるだけだ。


「悔しい……」


 そんなのは全部嘘だ。私にはそれを言う勇気がない。立ち向かうことなんてできない。


「あすみさん」


 ドアの向こうから佐賀さんの声がした。


「僕たちは知っているからね」


 優しい声色。そうだ、この人は全部視ているんだ。この人だけは真実を知ってくれているんだ。


「お昼、ピザでも買ってこようか。テイクアウトだと半額だから」

「無難にマルゲリータがいいです」


 二人は決してドアを開けようとしなかった。お昼ご飯に何を買うか、その話し声だけが聞こえてくる。私にはこの距離感が心地よかった。


「私はシーフードが食べたいです」


 そう言った声は少し震えていた。


「うん、じゃあ買ってくるね」


 佐賀さんはそう言って部屋から出ていく。


「僕は」


 突然、警備員が話を始めた。


「あなたに何が起きたのかとか、分からないですけど」


 なんて声を掛けたらいいのか、懸命に探っているような不器用な話し方。


「社長の視たものが正しいってことは知っているので」

「うん……」


 サガシヤは味方だと、そう言ってくれている。


「正しい選択をするのって、たぶん、すごく難しいです」


 私は目を擦って立ち上がった。


「僕は間違えたから……」


 その言葉に思わず振り返る。それはもしかして彼が犯罪者きょうりょくしゃとしてサガシヤに居ることと関係しているのだろうか。


「住居が心配なら鍵師の所に居候したらいいんじゃないでしょうか」


 ホテル暮らしは経費で落ちませんから、と彼は付け加えた。そう言えば仁穂ちゃんは中学三年生なのに一人暮らししていると言っていた。


「そうだね……」


 そのうちあの家に来るかもしれない。会う覚悟ができていなくても、それを待たずに相手が来てしまうかもしれない。


「聞いてみようかな」


 問題があるとすれば仁穂ちゃんが私を迎え入れてくれるかどうかだろう。彼女は結構気難しい。そういう年頃だということもあるのかもしれないが。

 ピザが来るまであと少し。私は警備員に聞いた仁穂ちゃんのメールにメッセージを送った。






「別にいいけど」


 メールを送ってから少しして仁穂ちゃんはそう言って現れた。温かいピザを抱えた佐賀さんと共に。


「仁穂ちゃん学校は?」

「うるさいな、早く、ピザ」


 ソファーに腰かけてここに置けと、仁穂ちゃんはテーブルを叩く。

 今は平日の昼。間違いなく学校はある。


「ちゃんと通わないと学校に千宜が行くことになっちゃうよ?」

「一日くらい平気だよ!」


 強面警察官の麻野さんが苦手な仁穂ちゃんはそう言いながらピザに食らいついた。その姿を見て佐賀さんは小さくため息をつく。


「とりあえず、あすみさんは仁穂ちゃんの家に避難することにしたんだね?」

「はい。お世話になります」


 私は仁穂ちゃんに頭を下げる。食べ終わったら一度家に帰って必要最低限の荷物だけを用意しなくては。


 想定外の増員のためにピザはあっという間になくなった。


「うーん、足りなかったかなぁ」


 佐賀さんはそう言って自分の腹部に手を当てる。仁穂ちゃんは相変わらず偉そうに警備員にお茶を運ばせていた。


「佐賀さん」


 私は事務所を出た佐賀さんを呼び止めた。ぎゅっと拳を握る。


「依頼のことならとりあえず気にしないで避難したらいいよ」


 緩い笑顔がこちらを向く。


「違うんです、そのことじゃなくて」


 ずっと気がかりだった。本人のいないところで色々なことを知ってしまったこと。前髪がかかっていていることが多いあなたの右眼が義眼であることも。


「昨日、麻野さんに色々聞いてしまって、佐賀さんのことを……」

「ああ、そのことか」


 深刻そうに俯く私とは対照的に佐賀さんの声は明るかった。


「千宜から聞いたよ。ここに居れることになってよかったね」

「そうじゃなくて、あなたのことを知ってしまって……」


 どう考えてもそれはあなたの抱える大きな問題なのに。


「全然知ってないよ」


 佐賀さんは近くまで来て、私の両頬を手で覆った。


「触れれば出会いが視える。そのはずなのに僕には僕の知らない過去がある」


 麻野さんが言っていた。すべての瞬間に出会いがあるから佐賀さんは過去も未来も視ることができるのだと。


「僕がサガシヤをやる理由、千宜の下で働く理由をあいつは知らない」


 頬に触れる佐賀さんの手は少しだけ冷たかった。近づいた前髪の隙間から熱を帯びない瞳が見える。


「過去を探すため……?」


 そう言うと佐賀さんは笑って私から離れていった。


「あすみさん、君は立派なサガシヤになってくれ」


 いつの日か、同じことを言われた。あれは猫探しの依頼の帰り道。

 階段を下りて行った佐賀さんの姿はすぐに見えなくなった。

 

「佐賀さんは私に何をさせたいんだろう?」


 ヒントを与えて、この人は私に何かを探させようとしている。


「ねぇ」


 声がして振り向くとそこには仁穂ちゃんが立っていた。


「手伝ってほしいなら今ならやってあげるけど」

「あ、うん! お願いします!」






 私は急いで仁穂ちゃんの家に引っ越す支度をした。とは言っても、短い間の居候だ。少し大きめのバッグ二つに荷物を詰めて家を出た。

 仁穂ちゃんの家はサガシヤの事務所から電車で二駅の所にあった。古びたアパートの一階。郵便受けにはたくさんの紙が入ったままの部屋がある。夜、暗くなったらこの辺りは危ないんじゃないかと思うくらい、街灯も少なそうな閑静な場所だった。

 パーカーのポケットから鍵を取り出して仁穂ちゃんはドアを開けた。


「入れば」

「ありがとう」


 私はゆっくり中に入る。屋内はより一層暗く感じる。靴を脱いで床を踏むとギィと軋む音がした。


「こっち」


 あまり広くないように感じたアパートだがダイニングの反対に部屋があった。


「この部屋使って」

「いいの?」


 そう聞くと仁穂ちゃんはこくんと頷いた。


「元々この部屋はただの荷物置き場だし」


 いくつかある棚には学校の教科書が雑に置かれている。その隣には見たことのない工具がある。彼女の仕事道具だろうか。


「ありがとう」


 私は荷物を下ろす。


「台所は好きに使って。私の物には勝手に触らないで」

「うん」


 仁穂ちゃんはそう言い残して部屋を出る。少し分厚いコートを着て、どこかに出掛ける支度を始めた。


「どこか行くの?」


 もうすぐ日が暮れる。オレンジ色の光が窓から微かに射していた。


「どこに行こうとあんたに関係ないから」


 突き放すようにそう言われて、私は一瞬固まった。その隙に仁穂ちゃんは足早に行ってしまう


「い、行ってらっしゃい……」


 遠ざかる背中にそう呟いた。いきなり同居なんて迷惑だったに違いない。私と仁穂ちゃんはまだそこまで仲良くなれていないのに。年齢的にも色々複雑な時期だろう。


「無神経だったかな……」


 私は床を鳴らしながらダイニングに歩いた。

 コンロの周りは綺麗だった。シンクにはカップ麺のゴミがたくさん積み重ねられている。冷蔵庫を開けてもほとんど何も入っていない。とっくに賞味期限を迎えた調味料がいくつか並んでいる。


「食生活が心配だよ」


 そう言って苦笑いをした。親がいない、前に佐賀さんから聞いた。ある日を境に帰ってこなくなったのだと。仁穂ちゃんにとって誰かと暮らすということは不慣れなことなのかもしれない。


 私は近所のスーパーに買い物に行き、急いでハンバーグを作った。玉ねぎと人参をたっぷり入れて。これが食生活の改善に繋がるといいのだけれど。

 時計を見ると時刻は八時を超えていた。少しずつハンバーグは冷たくなっていく。自分の分を食べて、もう一つのお皿にはラップをかけた。シャワーを浴びて、寝巻に着替えて。そして、日付が変わった。仁穂ちゃんはそれでも帰ってこなかった。


「どこ行っちゃったんだろう……」


 まだ中学生なのに。出歩いていいはずがない。けれど私は彼女が行きそうな場所など知らない。探しに行きたくてもどこに行けばいいのか分からない。ここで待っていることしかできない。


 待つことしかできないのはもどかしい。


 私はそんなことを考えながらテーブルに頭を伏せた。


「ん……?」


 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。どのくらい時間が経ったのだろう。体を起こそうとしたとき、ギィと音が聞こえた。

 音のする方を見ると驚いた顔をしている仁穂ちゃんがいた。


「あ、おかえりなさい」


 寝ちゃった、私はそう言って頭を掻く。


「そうだ、夜ご飯は食べた?」

「え、うん……」

「そっか、じゃあ明日にでもこれ食べてよ」


 ラップをかけてあるハンバーグの乗ったお皿を冷蔵庫へ入れる。


「それじゃあおやすみ」


 帰ってきてくれてよかった。私は仁穂ちゃんが貸してくれた部屋に行き持参した寝袋に潜った。


「なんで、起きてんの……」


 そんな仁穂ちゃんの呟きが聞こえたような気がした。


 しばらくして再び目が覚めた。隣室からパタパタと音が聞こえる。ダイニングと廊下は床の音が違うのか。そんなことを考えながらうっすらと目を開けた。

 外はもう明るいようで、私の荷物が入ったバッグがくっきりと見えた。

 カラカラと窓が開けられる音がする。


「仁穂ちゃん、もう起きたんだ……」


 帰ってきてからまだあまり時間が経っていないのではないか。手探りでスマホを探して電源ボタンを押した。


「充電……」


 残量が残り数パーセントを告げる通知が来てしまっていたが、幸いにも電源は切れていなかった。時刻は七時過ぎ。


「おはよう」


 寝袋を抜けてダイニングに顔を出す。洗濯物を干し終えた彼女はカラカラと窓を閉めた。


「早く起きて偉いね。いつもこんなに早く起きてるの?」


 夜遅くまで出歩いていたし、昨日の様子からも学校に熱心に通っているわけではなさそうだから、遅刻ギリギリまで寝ているかと思った。


「別に」


 ああ、でも、よく考えれば初めて一緒に仕事をした日、彼女は遅刻することなく早朝の集合に間に合っていた。

 仁穂ちゃんは私の横を通り抜けて玄関に座り込む。玄関には既に通学用のリュックが置かれていた。


「もう行くの? 気を付けてね」


 バタン。

 なんだか昨日も同じことがあった気がする。何も言わずに家を出てしまった。違うのは、行き先が分かっていることと、外が明るいことくらいだろうか。

 私は口を大きく開けて欠伸をした。事務所に元上司が来るかもしれないから無理に出勤しなくていいと佐賀さんに言われた。この有り余った時間をどう使ったいいのだろうか。


「あっ」


 シンクに置かれたお皿に目が留まる。それは昨日私がハンバーグをのせていたお皿だった。


「食べてくれたんだ」


 何だかとてもほっこりした。仁穂ちゃんは口数が多いわけじゃないし、表情が豊かなわけでもない。でも、綺麗に食べられたお皿を見て、本当の仁穂ちゃんの姿が見えたような気がした。


 それから、私と仁穂ちゃんの共同生活が始まった。その中で幾つか気づいたことがある。


 仁穂ちゃんは毎日ちゃんと学校へ行っている。学校は麻野さんに言われて通っている。仁穂ちゃんは麻野さんが苦手だから、嫌々通っているのかと思ったがそうとも言い切れない。ちゃんと宿題はするし、配布された保護者向けのプリントなんかもしっかり読んでいた。私に学校の話はしないから、どんな風に過ごしているのかは分からないけれど。


 ご飯は用意しておけば全部食べてくれる。好き嫌いは特にないみたいで、今のところは完食してくれている。迷惑かと思ったが、お弁当を作ってみたらちゃんと持って行って食べてくれた。夕食は一緒に食べてくれることもあった。

 

 そして、夜が更けてから仁穂ちゃんはよく出かけた。どこに行っているのかは分からないがいつも帰ってくるのは丑三つ時だ。何をしているのか気になったけれど居候させてもらっている身で口出しをするのは何だか気が引けて、私はいつも黙って帰りを待っていた。


 彼女は毎日六時過ぎに起きる。遅く寝て早く起きる生活は大変そうだが、彼女が眠そうにしているところは見たことがない。あまり眠らなくても平気な体なのだろう。


 いつまでもこうしているわけにはいかないと思いながらも、どうしたらいいのか分からず、頭を悩ませる。会いたくないのだ。会って、何かを言われるのが怖い。そうして逃げて、もうすぐ一週間がたとうとしていた。






 家に帰ると誰かがいる。その人は食事を作ってくれて、生まれて初めてお弁当を食べた。温かくもないご飯がおいしく感じたのも初めてのことだった。

 どれほど冷たく接してもその人はずっと家で待っていた。家に帰ってきたことに気が付くと笑顔を向けて「おかえり」と言ってくる。


 それがあの頃の自分に重なって、どうしようもなく苦しかった。


 白い息を吐きながら公園のブランコに乗ってコーヒーを飲む。もうすっかり冬だ。頬に刺さる冷たい風が心地良い。


「どうしようかな……」


 仁穂はそう言いながらスマホを取り出す。特に依頼もない、やることがない夜は好きじゃない。長い夜は嫌いだ。

 発信履歴を表示して一番上の番号に電話をかけた。


『……もしもし』


 電話の相手は眠そうな声だった。


「引きニートのくせに何寝てんの? 早く調べて欲しいんだけど」

『僕にも眠る権利くらい……』

「いいから早くして」


 サガシヤのちっぽけな仕事では仁穂は満足できなかった。麻野に見つからないように密かに泥棒の真似事をする。個人経営の小さな事務所とかがいい。例えばサガシヤみたいな。


「早くしてよ」


 急がないと電車が止まってしまう。面倒だから往路は歩きたくない。


『こことかいいんじゃないですか、駅から少し遠いですけど』


 そう言って警備員はターゲットの情報を読み上げる。


『僕が関わってるって絶対にばらさないで下さいよ?』

「はいはい」


 こういうことをしたら怒られるのは目に見える。下手したら隠蔽された諸々の犯行も引っ張り出されて刑務所行きなんてことになりかねない。


『最近は減っていると思ってたんですけど、ここ数日は毎日じゃないですか。そんなにあの人と暮らすの嫌なんですか?』


 警備員のくせに電話越しだとよく話す。仁穂は奥歯を噛んだ。


「誰だって嫌でしょ。あの人は汚れてないんだから」

『……まぁ、そうですね』


 仁穂は俯いた。あの人と自分は同じだけど、決定的に違う。


『それじゃあ、切ります』


 電話が切れても仁穂はしばらくスマホを耳に当てていた。


「……行くか」


 いけないと分かっていても続けるのは、ぬるま湯みたいなところにいたら腕がなまるから。自分にはこれしかないと痛感しているから。この技術だけが、唯一手の中に残ったものだから。






「お前はしばらく自宅謹慎だ‼」


 共同生活を始めて八日目の朝、初めて夜のうちに戻ってこなかった仁穂ちゃんは麻野さんに連れられて帰ってきた。般若のような形相をしている麻野さんは仁穂ちゃんの首根っこを掴んで家に投げ入れた。


「お前も大人なら夜に出歩く中学生を注意しろ!」


 その怒りの火の粉は私にまで飛んできた。一体何があったのだろう。


「お前が普通に生活できる理由をよく考えろ! 一歩も家から出るなよ!」


 麻野さんはそう言い残して力いっぱいドアを閉めた。私は倒れたままの仁穂ちゃんに駆け寄った。


「どうしたの?」


 麻野さんは夜に出歩いたことをそんなに怒っているのだろうか。仁穂ちゃんの顔には殴られたような痕があった。


「何でもない……」


 仁穂ちゃんは腹部を抑えて立ち上がる。痛そうに見える顔よりも、服に隠れたお腹の方が殴られたのだろうか。

 それでも、女の子を殴るなんてひどいじゃないか。

 腕にはどこかにぶつけて切れたような出血があった。


「消毒しよう?」

「いい、ほっといて」


 バタンとドアを閉めて、仁穂ちゃんは私に貸してくれた部屋に閉じこもってしまった。

 不意にポケットのスマホが鳴る。着信、登録して間もない事務所の電話からだった。


「もしもし?」

『お疲れ様ー』


 久しぶりの佐賀さんの声。その奥からキーボードをタイピングしている音が聞こえてくる。


「お疲れ様です」

『千宜が仁穂ちゃんを連れて帰ったと思うけどしばらく家から出ないように監視しておいて』

「何があったんですか?」


 そう聞くと、彼は少し困ったような声で事の経緯を語り始めた。

 昨夜、個人経営の小さな会社に不法侵入したということだった。偶然、室内で居眠りをしていたオーナーに見つかり、殴る蹴るなどされたらしい。同様の事件はここ数日で何件か起きており、どれも特に盗まれた物は無いと見られている。


「その犯人が仁穂ちゃん……」

『僕たちは自由にさせてもらっている身だからこういうことはあってはならないんだけどね』


 させてもらっている。その言葉が刺さる。


『……まだ仁穂ちゃんは子どもだし、千宜が何とかしてくれると思うんだけど』

「だからあんなに怒っていたんですね」

『そりゃそうだ。部下の失敗の責任をとるのは上司の務めさ』


 初めて会ったとき、なんて怖い人なんだろうと思った。でも、その印象は知れば知るほど薄れていく。麻野さんはただ、佐賀さんを、サガシヤを守りたいんだ。そのためには権力が必要で。


『彼女のこと任せるね』

「はい」


 これ以上仁穂ちゃんが問題を起こさないように。

 電話が切れた。私はポケットにスマホを戻してキッチンに向かった。

 嬉しくても悲しくても不機嫌だとしても、お腹は空く。


 話をしよう、仁穂ちゃん。


 言葉じゃなくてもいい。私の想いが料理を通じて届けばいい。

 家族がいないとしても。仁穂ちゃんが犯罪者だったとしても。絶対一人になんかしない。


「ご飯、できたよ」


 私はドアをノックした。温かいポタージュスープと、ナスとトマトのドリア。机の上にはスプーンの用意もできていた。


「仁穂ちゃん」


 今までもこうやって声をかけても一緒にご飯を食べてくれないこともあった。けれどもう、そういう訳にはいかない。


「開けるよ」


 そう言って問答無用でドアを開けた。私は仁穂ちゃんを監視しないといけないし、佐賀さんに任された。それに、悪いことをしたのは変わらないわけで、そこはしっかり反省してもらわないといけない。


「なに……」


 仁穂ちゃんは窓際に座って外を眺めていた。


「ご飯だから、早く来なさい」


 彼女は少し悩んで、仕方なく立ち上がった。ゆっくりと歩いておとなしく席についた。

 並んだご飯をしばらく見つめてから、スプーンを握る。


「いただきます」


 食べ始めようとする彼女に私はわざとらしく大きな声で言った。


「……いただきます」


 その姿を見て、私は少し安心した。


 成長期の仁穂ちゃんはあっという間に食べ終わった。そしてまた部屋に籠ってしまった。


「買い物に行かないと」


 私は冷蔵庫を開ける。私が来てから随分と食材が増えた。この冷蔵庫がこんなに使われるのは初めてなのでは。

 スマホのメモを開き、買うものをまとめる。書き出してから行かないと何時間も買い物してしまうタイプの人間なので、この作業は必須だ。


「こんなもんかな」


 買い物に行くことをわざわざ伝えるのもなぁ、と思って、私は何も告げずに家を出た。


 大きなマイバッグいっぱいに食材を買ってしまった。安売りに負けて予定外の物を買ってしまったせいだ。

 重たい荷物に悲鳴を上げながら、何とか玄関のドアを開けた。


「ただいまー」


 バタン。

 大きな音がして顔を上げる。そこには、籠っていた部屋から出てきた仁穂ちゃんがいて、今にも泣きだしそうな目でこちらを見ていた。


「どうしたの?」


 私は荷物を適当に置いて、靴も揃えずに仁穂ちゃんに駆け寄った。ぎゅっと抱きしめると彼女の瞳からぽろりと涙が落ちた。


「どうしたの?」


 いつもは気が強い仁穂ちゃんの初めて見る姿に戸惑いを隠せなかった。


「……かないで」


 仁穂ちゃんの目はまっすぐ私を見ているようで、私じゃない誰かを見ているようにも感じた。


「置いていかないで……」


 それが誰に向けられた言葉なのか。私にはわからない。


「置いていかないよ。ずっと一緒にいるよ」


 この子は今までもこうやって、大切な人を失ってきたのかもしれない。

 少し落ち着いたのか、仁穂ちゃんは私から離れた。


「お茶にしようか? おいしそうなお団子買ってきたの」


 お湯を沸かしてくれる? と聞くと、彼女は素直にやかんに水を入れて火にかけた。私はバッグの中からお団子を取り出す。出張販売に来ていた和菓子屋さんがあまりにもおいしそうで買ってしまったのだ。

 コップにフルーツティーのパックを用意して、お湯を注ぐ。桃のいい香りが辺りに広がった。お菓子はお団子だから、煎茶やほうじ茶を飲みたいところだが無いので仕方ない。


「どうぞ」


 私は仁穂ちゃんにコップとお団子を差し出した。みたらし、餡子、ずんだ。どれもつやつやしておいしそうだ。


「待つのは怖い……」

「怖い?」


 仁穂ちゃんは手を付けずにそう切り出した。


「父親は私を置いていなくなってしまったから……」


 温かなコップに両手を添えて一口、彼女は飲んだ。そして、ゆっくりと仁穂ちゃんは自分のことを話してくれた。






「私は父と二人きりの家族だった」


 古びた畳と卓袱台がある質素な家。ご飯を食べる部屋と寝る部屋しかなかったから、おそらくどこかのアパートだったのだろう。


 贅沢な暮らしではなかったが父は仁穂をかわいがってくれた。朝も昼も夜も、おいしいご飯を作ってくれて。寝る前には絵本を読んでくれた。最初から母はいなかったし、祖父や祖母の存在も知らなかったが、父がいれば少しも寂しくはなかった。


 しかし、その父は週に二、三日連続で家を空けた。私が飢えて死なないように何日分もの食事を用意して。幼稚園や保育園には通っていなかったから、父がいない間、仁穂は一人で過ごす。冷蔵庫から取り出した冷たいご飯を食べて、真っ暗な部屋で絵本を読む声を聴かずに目を閉じる。

 あと何回日が昇ったら帰ってくるのか、仁穂にはわからない。ただひたすらにドアが開くのを待った。風の音がしたから、帰ってくるかもしれない。トイレの方で音がしたから帰ってきているかもしれない。今日は雨だから帰ってくるかもしれない。


 目を覚ました時、醤油の焦げたいい香りがして飛び起きる。台所には父がいて、久しぶりに会えた父に飛びついて抱きしめてもらう。そんな毎日を送っていた。


「私は父を待つのが嫌だった」


 自分を置いてどこかに行ってしまうのが嫌だった。だけどそれを伝えたことは一度もなかった。

 なぜなら父は仁穂の双子の姉の元に通っていたからだ。


「『今は一緒に暮らせないけれど、いつか必ず、もう一度三人で暮らそう』それが父の口癖だった」


 姉の名前は仁稀にれという。

 仁穂は仁稀に会ったことはないが、父は定期的に会いに行っていた。もう一度三人で暮らすために。それがずっと父の願いだった。それに、父は必ず仁穂のいる家に帰ってきたから、一人で待つのも我慢できた。


「だけど、あの日から父は帰ってこなくなった……」


 とても寒い日だった。いつもみたいに父は行ってくるね、と告げた。仁穂は寂しい気持ちを抑えてこくんと頷く。不意に父の腕が仁穂の体を包んだ。いつもはこんなことしないのにどうして抱きしめるのだろう? 仁穂は不思議に思った。ごめんな、耳元で父はそう呟いた。


 父が家を出てしばらく経った頃、目を覚ますと外が真っ白の雪で埋め尽くされていた。父がいたら一緒に遊びに行けるのに。そんなことを考えながら外を眺めていると玄関の鍵が開けられる音がした。父だ。帰って来たんだ。仁穂は玄関まで走って、開けられたドアを見た。

 そこには見たことのない人が立っていた。大きなマフラーを巻いたその人は、もう二度と父が帰って来ないこと、この家を捨てて自分と共に来ることを告げた。帰って来ないなんてありえない。仁穂はその人を拒絶した。


 何日かその人は家にいた。父が作ってくれた冷蔵庫のご飯がなくなって、それでも父は帰って来なかった。

 もう帰って来ない、その人は仁穂の腕を掴んで家を出た。

 嫌だ、帰ってくるから。勝手に外に出ちゃいけないから。

 力の限り拒んでも無力だった。


「その連れ出した人が鍵師の師匠」


 その人は仁穂に最低限の生きる知恵を教えた。食べられる野草の見分け方、鍵を開ける技術、ナイフの使い方、文字の書き方に簡単な計算。山の中の小屋のような家で二人で過ごした。


「師匠は誰かと暮らすのが嫌いな人で、私と暮らすのもたぶんすごく嫌だったと思う」


 ある日、また、同じように突然、師匠は帰って来なくなった。むしろ師匠がいなくなることは想像ついたというか、とうとうこの日が来たか、程度に思った。

 仁穂は師匠に教わった通り、街に出て、金がありそうな家を物色した。鍵師として初めて侵入する家を。そうして仁穂は大きな塀に囲われた家を選んで侵入を試みた。


『こんばんは。いい夜だね』


 塀を越えた先、そこには何十人もの警察と、その中央には和服を着た若い男が立っていた。

 予告をしたわけでもないのに、どうしてこんなに人がいるんだ。


「私はそうやってあの変態に捕まって、協力者としてサガシヤに身を置くことになった」






 仁穂ちゃんはずっとこの家に一人で。お父さんが帰って来なかった痛みにずっと耐えていたんだ。佐賀さんは仁穂ちゃんのお父さんも探していると言っていたけれど、仁穂ちゃんの口調からはそれを感じられなかった。まるでもう諦めているような。

 置いていかないで、そう言った仁穂ちゃんの姿を思い出す。いつも一人でいるのは、もう二度と大切な誰かに置いていかれたくないから。大切な人を作らないように彼女は孤独を選んでいたんだ。


「一人じゃないよ」


 私は仁穂ちゃんを抱きしめる。


「私はどこにも行かないから」


 私は絶対、仁穂ちゃんに何も言わずにいなくなったりしない。


「うん……」


 仁穂ちゃんは私の背中に腕を回した。


「あんたは綺麗なままでいてね……」

「どういう意味?」

「私らみたいにはならないで」


 私には仁穂ちゃんの言いたいことが何となくわかった気がした。


「仁穂ちゃん」

「うん?」

「一緒に謝りに行こうか」


 今も麻野さんは仁穂ちゃんを守るために頑張ってくれているはずだ。仁穂ちゃんを庇うのは鍵師としての能力のためかもしれないけれど、そのおかげで彼女は普通の女の子として生きていけるんだ。少なくとも師匠に教わったような生き方はしなくていい。


「ね?」


 悪いことをしたら謝らなくちゃいけない。仁穂ちゃんはまだ子どもで、責任を取ることなんてできないけれど、謝罪をすること、感謝をすることは誰にでもできる。


「うん」


 私は仁穂ちゃんの頭を撫でた。


「その前に少しだけ、用事を済ませてきてもいいかな?」

「どこに行くの?」


 仁穂ちゃんには少しだけ待っていてもらうことになる。


「けじめをつけてくるよ」


 私はスマホに視線を向けた。それに気づいた仁穂ちゃんは待ってる、と言った。


「仁穂ちゃんのおかげで決心がついたよ。ありがとう」

「行ってらっしゃい」


 家を出て、私はスマホを取り出す。一番新しいメールに初めて返信する。送信ボタンを押して、ドキドキしながら待っていると了解メールが送られてきた。


 元上司との待ち合わせに指定した会社の近くの大きな公園に着いたとき、私の鼓動が強まる音がした。久しぶりに見る姿。左腕の時計と右手に握ったスマホを交互に見ていた。


「……お待たせしました」


 意を決して私はあの人の前に現れる。彼は私を見て安心したような顔をした。


「元気そうだね……」


 彼が最後に見た私の姿は倒れたときだったから思ったよりも顔色がよさそうで安堵したのだろう。


「メールで送った通りだよ。戻るなら早い方がいい。同僚にも先方にも一緒に謝りに行こう。今ならまだ間に合うから……」

「勘違いしないでください」


 ぴしゃり。私は言葉を遮った。


「私があなたに連絡をしたのはそんな場所に戻りたいからじゃありません」

「え?」

「私が辞める理由は、失敗をたくさんしたからじゃありません。あんな風に他人を貶めるようなことをする人たちと一緒に働きたくないからです」


 あの時、好きだった仕事を辞めた時、私にとってこの選択は逃げだった。


「それに、今までの私の働き方を見ておきながら奥さんたちの言葉を鵜呑みにして悪者を決めつけるような上司の部下になんて戻りたくないです」


「そんなことは……」


 けれど今は自信を持って言える。


「私は新しい職場で働くことを選びます」


 佐賀さんは私を見つけてくれた。私のことを信じてくれる人の下で。


「もう二度と連絡してこないでください。今までお世話になりました」

「違うんだ、君の力が必要なんだ!」


 私は元上司に背中を向ける。


「頼む! 君に戻ってきてほしいんだ!」


 必死な声が聞こえてくる。それもそのはず、彼は仕事ができる人だ。人との関りやプレゼンは非常にうまい。けれど、彼は予定の管理や提出書類の管理が苦手なのだ。私がいた頃はそれらを全て私がサポートしていた。自分の仕事をしながら、サポートもするのは大変だったのをよく覚えている。


「君を必要としているんだ!」


 サポートをしてくれる人がいなくなってミスが目立ち始めたのだろう。彼の取り巻きはお世辞にも仕事ができるとは言えない。結局、彼は自分のために私に戻ってきて欲しかったのだ。


「絶対戻りませんから!」


 大声で言ってやる。ちょうどよく公園の前に車が止まった。私は運転席に座る人を見て思わず笑みがこぼれる。


「さようなら、先輩」


 車は私を乗せて発進した。


「このためだけに視たんですか?」

「そんなことしないよ、皐月くんに位置情報を見てもらっただけさ」


 運転席の真後ろに座る私の隣には仁穂ちゃんが座っていた。


「千宜のところに行きたいって仁穂ちゃんが連絡してきたからね、このまま行こうと思って」


 自分で連絡したのか、佐賀さんに。いつもよりも佐賀さんのテンションが少しだけ高い気がする。


「佐賀さん」

「うん?」

「これからもよろしくお願いします」


 私の気分は晴れ晴れとしていた。逃げてしまったことの罪悪感。成り行きでサガシヤに身を置かせてもらっているという感覚。そんなものはもうない。


「うん。こちらこそ」


 私は堂々とサガシヤの社員だと言ってみせる。


「千宜のところに着いたらまずはみんなで怒られようね」

「みんなで?」

「自宅謹慎の仁穂ちゃんを連れまわしているのだからあすみさんも一緒に怒られるよ?」


 心機一転して初めての大仕事は、あの恐ろしい麻野さんの説教を受けることになるなんて。


「乗り越えて見せます!」


 私はそう言って強がった。

 体の内側から暖かくなってくる。それは暖房のせいか、人のぬくもりか。冷たくなってしまった両手を絡める。外はもう日が落ちていた。

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