5. Promise

 その日は一日中天気が悪くて、雨こそ降らないものの分厚い灰色の雲が空を占拠していた。


「今夜は雪になるかもしれないって」

「そうか」


 女性に差し出された鞄を受け取る。非番の予定だったが体調不良者が出てしまったせいで夕方から勤務になってしまった。


「父さん、仕事?」


 青年はリビングのドアからひょっこり顔を覗かせた。


「勉強を見る約束していたのに、ごめんな」

「こっちにおいで。お父さんをお見送りしましょ」


 分厚い参考書を持ったまま、青年は女性の隣に立った。


「お仕事頑張って」

「行ってくるよ、千宜、香子こうこ


 玄関のドアを開けると冷たい空気が体に刺さった。白い息を吐きながら急いで車に乗り込む。


「こんな日に大きな事件が起こらないといいけれど」


 キーを回してエンジンを入れる。リビングの窓からこちらを見ている息子の姿が目に入った。申し訳なさを感じながらも、車は「麻野」と書かれた家を出て行った。


「体調不良者が出たことによって俺が呼ばれるってことは、三河か。」


 三河は彼の同期であり、同じ役職の者だ。食に対してのこだわりが強いんだか、弱いんだか、しょっちゅう変なものを食べてはお腹を壊している。どうせ今回もそういう類なのだろう。


『事件発生』


 車内に取り付けられたスピーカーが急にアナウンスを始める。


『山の麓で火災発生』


 無線の向こうの慌ただしい様子が聞こえてくる。麻野は一度車を停止させた。助手席に置いてある地図を取り出して、読み上げられた山の場所を調べる。もう少し詳しい位置が分からないと何とも言えないが、火事ならば近くまで行けば分かるかもしれない。


「こちら麻野、現場に向かいます」


 そう告げて車はサイレンを鳴らしながら急発進した。


『麻野、現場は特殊警察で押さえろ』

「はっ!」


 特殊警察、それは組織に所属する警察官のことを指す。まだ発足したばかりの組織。倫理面に問題を抱えながらも、世の秩序のために動く。麻野は組織の中でも警察に限りなく近い存在だった。監視対象を持たず、犯罪者を扱うことも選定することもない。特殊警察で扱う事件を取ってくることが役目であった。

 そもそも麻野は特殊警察の存在に疑問を持っていた。それでも、協力者のおかげで早期解決した事件があることも事実だ。今の役職を否定しきれないからこそ、普通の警察と同じようなことしかしない今の役目は気が楽であった。


「あれか」


 現場の煙を確認した。まだかなり距離はあるはずなのに見つかるということは、火災は相当激しいのだろう。


「黒煙を確認しました」

『了解、五反田班も確認できました』


 五反田は麻野の上司だ。だが、彼は特殊警察ではない。

 消防車のサイレンが鳴り響く。辺りは古めかしい家屋がいくつかある。田畑に囲まれたその場所は人が誰もいなかった。家があっても、住民はいないように思えた。


「これ以上は進めないな」


 車を煤だらけにしたら香子に怒られる。麻野はそう思いながら車を降りて走り出した。

 

 熱い。


 冬だというのに。轟音をたてて燃え上がる炎は一つの怪物にさえ見える。屋敷のような広い一軒の家が燃えている。懸命な消火活動をするも、炎の勢いは変わらない。むき出しになった家の支柱が折れて、崩れる。


「警察です、詳細を!」


 指揮を執る消防官に声をかける。


「まだ何もわかっていません!」


 それどころではない、麻野は振り払われてしまった。指示を出す声さえこの炎にかき消されてしまっている。

 通報からかなり時間がたっている。郊外で起こった火災ということもあり、対応が遅れてしまったんだろう。


「……?」


 どこかから声がした気がした。


「どこだ?」


 麻野は声を探して走り出す。声は最も火災の激しい西側とは反対から聞こえてくる気がする。呟くような、小さな声だ。そんなものがこの状況で聞こえてくるのはおかしい。それでも、誰かが自分を呼んでいる気がした。


「あれは……?」


 東側の屋敷の門に寄りかかるようにして男の子が座っていた。帯のほどけかけた浴衣は煤にまみれ、腕や足に少しの傷がある。それでも火の回りが遅いこちらから逃げ出せたのだろう。


「大丈夫か!?」


 そう声をかけると、彼はかろうじて目を開けた。男の子は麻野の息子よりも幼く見えた。


「麻野!」


 少し遅れて現場に到着した五反田とその部下、五名が麻野に駆け寄る。


「少年がここに倒れていました。すぐに病院に……」

「……ってた」


 抱き上げた男の子が麻野を見ながら言った。呟くような、小さな声だ。


「まってた……あなたを」


 灰を被った雪と火の粉が辺りに降っていた。






「搬送された少年は?」


 麻野は部署に戻ってコートを脱いだ。雪と灰ですっかり汚れてしまったコートを気休め程度に払う。香子に怒られるだろうな、そう思いながら自分のデスクに腰かけた。


「病院での処置は一通り終わって、今は五反田さんに調書を取られているはずです」


 近所の牛丼屋のカレーを食べながら篠木は言った。香りの強い食べ物は空腹を刺激する。


「三河さんが体調を崩しちゃったばっかりにこんな寒い中の仕事が来ちゃって残念ですね」

「本当だよ」

「それよりいいんですか?」

「あ?」

特殊警察ウチでとって来いって言われてたのに五反田さんに譲っちゃって」


 表向きには、麻野は五反田の部下。そして、その下に篠木がいる。しかし、五反田は組織には属しておらず、その存在を知らない。篠木は組織の中では監視としての役割を担っている。組織の中では麻野の役割は簡単でありリスクも低い物。立場は篠木よりも弱かった。


「……仕方ないだろ」

「手柄を立てないと上官に怒られますよ?」


 プラスチックのスプーンを咥えてパソコンに向かったまま篠木はそう告げる。


「分かっている……」

「所属しちゃった以上、左遷になったら結構遠くまで飛ばされちゃうと思いますよ?」


 篠木は優秀だ。協力者をうまく使って解決した業績は組織の中で上位に入るだろう。


「分かってる!」

「ならいいですけど」


 郷に入っては郷に従え。使えない駒は切られる。今までどれほど警察として貢献してきたかは関係ない。新設の組織ではあるが、規律違反で左遷された者は数名いる。

 不意に電話が鳴った。


「はい、篠木です」


 右手でキーボードを打ち、左手で受話器とスプーンを持ちながら篠木は相槌を打っている。


「分かりました。伝えときます」


 電話の相手はおそらく聞き取り調査をしている五反田だろう。


「五反田さんが担当を降りました。後任に麻野さんをご指名です。よかったですね」


 薄っすらと笑みを浮かべる篠木。なぜ五反田が担当を降りたのか。そこに組織の介入があったのではないか、麻野はそんな思考を巡らせた。


「少年は病院から組織のビルに移送されたそうですよ」


 今度はパソコンの画面を見せてくる。関係者しか入ることのできないサイトだ。


「随分早いな」


 少年は負傷していたはず。それなのに医療班のない組織に急ぎ移す必要があった。


「行ってらっしゃい、麻野さん。僕はここで上官からの指令を待ちます」


 体育座りをしてくるくると椅子を回す。主導権が移ったことによって篠木は麻野の部下ではなくなった。命令もなく手伝うつもりはない、そういう意思表示だ。


「ああ、行ってくる」


 濡れたコートを再び手に取り麻野は部屋を後にした。


 少年を初めに見つけたのは麻野であったにも関わらず、主導権を五反田に譲ったのは、あの不自然な少年に漠然とした恐怖を感じたからだった。


「……急ごう」


 麻野は落ち着いてシートベルトをして車を発進させた。組織のビルまではそう遠くない。


 名前の印字されたカードキーをかざして、入場を許可された駐車場に車を止める。入口でもう一度カードキーをかざし、さらにパスワードを入力する。そうして開かれた扉の中に入った。通路は全体的に薄暗い。麻野は速足で五階の上官室を訪れた。


「失礼します」

「入りなさい」


 上官室にはなぜかあの少年がいた。


「麻野祐正ひろまさ、お前に監視を任せたい」

「は……?」


 そう言って上官は乱暴に少年の服を脱がせた。少年は一切抵抗することなく、少しも反応を見せなかった。


「体中にたくさんの痣と切り傷がある。そして」


 上官は少年の腕を掴み、無理矢理立たせ麻野に背中を見せた。その姿に麻野は絶句した。幾つもの同じ大きさの円が残っている。肩から腰まで隙間がないくらいに、その痕は残っていた。誰かが意図的にこの子につけたであろう、火傷の痕。


「こいつは口がきけないらしい」


 上官が腕を離すと少年はその場に膝から崩れ落ちた。


「ところで、今回の現場から一人分の遺体が見つかった」


 その遺体は最も火が盛んだった場所にあり、家具や柱の下敷きになってしまい身元の確認は時間がかかりそうだった。そして、あの建物の所有者は不明だった。

 怪しい建物の火災、その生存者は背中に日常的に暴力を受けていたような痕跡があり、火の手が激しいところから見つかった遺体。


「我々はこの少年が放火殺人事件の容疑者だと考えている」


 自分が生き延びるために火災を起こした、と。


「ほ、本当にこの子がそれを行うでしょうか……」


 先ほどから自分では全く動こうとしない。糸の切れた操り人形のようだった。


「その証拠を掴むためにお前に監視をさせたい。連れ帰り調べろ。やり方は何でもいい。とにかく火災のことを聞き出せ」

「しかし、自分は、監視は担当外……」

「この少年が、唯一何かを言ったそうじゃないか。お前に」


『まってた……あなたを』


 上官は知っている。この少年が麻野を待っていると言ったことを。


「承知しました……」


 少年は再び腕を掴まれて麻野に向かって投げ飛ばされた。その無気力な体を麻野は受け止める。


「今日はもう帰るといい」

「……失礼します」


 麻野は少年の手を握り歩こうとした。細い少年の脚は簡単にもつれてしまって上手に歩けなかった。あの時は炎で気づかなかったが、顔に血色がない。


「失礼」


 麻野は少年の耳元でそう囁いてゆっくりと抱き上げた。上官室を出て、エレベーターを待つ。その間もずっと少年は無抵抗だった。


「名前は?」


 細く、小さい体。年齢は小学校高学年くらいだろうか。どうしても息子の千宜と比べてしまう。千宜がこの子と同じくらいの年齢の時、これほど軽々と抱き上げることができていただろうか。この小さい体で、どんな苦労をしてきたのだろう。熱かっただろう、痛かっただろう。されるがままの少年は何も答えなかった。


「よいしょ」


 麻野は少年を下ろして自分の目の前に立たせた。ぼんやりとした瞳にはかろうじて自分が映っていた。


「私は麻野祐正。君の名前は?」


 少年は視線を少し落として、麻野が触れている自分の腕を見た。


「サガラ……」

「そうか、よろしくなサガラ」


 そのタイミングでエレベーターが到着した。再び麻野はサガラを抱きかかえて乗り込み、駐車場を目指した。その間二人は何も話さなかった。車に着いた麻野は後部座席のドアを開けてそこにサガラを座らせた。


「……じゃあ、出発するぞ」


 何も言わずにどこかに連れて行くのは可哀そうだと思い、麻野は自分の家のことをぽつぽつと話し始めた。


「私の家には妻と息子がいるんだ。息子の年は君より五つほど年が上だ」


 ミラー越しにサガラを見ると、自分の手のひらを眺めていた。


「妻は香子、息子は千宜という」


 車は夜の街を抜けて行く。交通量の少ないおかげでいつもよりも早く着きそうだ。


「ここが私の家だよ」


 麻野は車庫に駐車してサガラを抱きかかえた。腕時計を見ると深夜十時を超えていた。千宜はもう自室に籠っているだろう。サガラだって疲れて眠たいのではないだろうか。


「ただいま」


 少し小さい声で麻野は帰宅を告げる。ドアの開いた音に驚いた香子がパタパタと足音を鳴らして来た。


「今日は随分……」


 早い、そう言いかけて彼女は言葉を止めた。麻野が腕に抱く少年を見たまま。


「どうしたの、その子」

「色々あって……」


 苦笑いをしてサガラを下ろす。サガラは不思議そうに香子を見て、まるで抱っこを求めるように腕を伸ばした。


「まあ」


 香子は仕方なくサガラの元まで歩き、優しく抱きかかえた。


「随分軽いのね……」

「しばらくうちで面倒を見ることになった。その、勝手に申し訳ない……」

「別にいいわよ、そちらさんの自分勝手なところは熟知してますから」


 さすが警官の娘だ。少し怒っているように感じられるが、それでも香子はサガラを拒絶することなく受け入れてくれた。香子はサガラを抱いたままリビングに戻っていく。


「あなたは先にお風呂に入ってきてください」

「はい……」


 煤と雪で汚くなってしまったコートに向けられた視線が痛かった。

 麻野は急いで体を洗い、事情を説明すべくリビングに行った。


「香子」


 彼女はソファーに座っていて、その膝を枕にしてサガラが眠っていた。優しい手が少年の頭を撫でている。


「香子」


 麻野は足音を立てないように二人に近づき、膝をついて香子を見上げた。


「この子、何も言わないのね……」


 突然新しいところに連れてこられても何も言わず、何も聞かず。ただおとなしくされるがままに。


「名前はサガラだと言っていた」


 麻野はゆっくりと今日の火事のことを話し始めた。そしてこの子のこと。放火殺人の容疑者として監視をしながら話を聞き出さなければならないこと。

 香子は最後まで黙って聞いていた。


「じゃあ千宜に弟ができるんだね」

「……そうだな」

「漢字、決めてあげないと」


 香子はそう言って微笑んだ。こうしてサガラは相良となり、麻野家の一員として育っていくことになった。






 その後のいくつかの検査の中で相良は栄養失調の状態であり、実年齢は外見よりも高いことが分かった。普通の人と同じような生活ができるように、二年後に高校進学を目指して生活することとなった。


 麻野の家族は暖かく相良を受け入れた。千宜は実の弟のようにかわいがり、言葉もよく知らない相良に熱心な指導をした。

 香子は相良にたくさん話しかけ、ご飯を作り、新しいことができるようになれば一番喜び、褒めた。

 祐正は相良をあちこちに連れて行き、世界を教えた。春には近所に花見に出かけ、夏にはキャンプ場へ赴き虫取りや魚釣りをした。秋には栗を拾い、一緒に料理を作った。相良と出会った日を誕生日として、家族全員でケーキを食べた。次の春には植物園に行き、花の名前を覚えた。一緒に過ごした時間、触れたぬくもりは少しずつ相良に変化をもたらした。


「相良、お父さんにお弁当持って行って!」

「うん」


 玄関で靴ひもを結ぶ祐正の元に少年は包まれたお弁当を運んだ。


「ありがとう、相良」

「行ってらっしゃい」


 少年は相変わらず表情を変えないが、自分で考えて言葉を発するようになった。


「行ってくるね」


 祐正は相良の頭を撫でて家を出た。初めて会った時から身長も伸びて、声も低くなり、少年から青年になろうとしていた。


「母さん、練習着どこ?」


 エアコンの効いた涼しいリビングには大きなスーツケースが広げられていて、千宜の荷物が散らかっている。午後から千宜は剣道部の合宿に行くため、その準備をしていた。


「二階に干してあると思う」

「分かった」


 そう言って千宜は階段を上っていく。


「千宜の準備手伝ってあげてくれる?」

「うん」


 相良も後を追って階段を上る。

 

 相良が話すようになって、あの火事の捜査は解決に向かうと誰もがそう思っていた。しかし、相良はほとんど何も覚えていなかった。見つかった焼死体も、所有者不明の屋敷のことも。

 ただ二つ、彼が覚えていることがあった。一つは自分の名前。もう一つは自分が何かに捕らわれていたということ。具体的な、細かいことは何度聞きだしてもわからなかった。


「千宜、手伝う」


 練習着やタオルを畳もうとしていた千宜は嬉しそうな顔をした。


「じゃあこれ畳んでくれ」


 料理や掃除といった家事全般が壊滅的な千宜にはありがたい助っ人だった。


「お前、俺がいなくても勉強さぼるなよー」

「さぼらないよ」


 相良はあっという間に小学生の勉強は終わらせて年相応の勉強ができるようになっていた。


「はい、千宜」

「さんきゅ」


 相良が畳み終わったものを渡すとき、手が千宜と触れた。


「俺にとって高校最後の合宿で、それが終わったらすぐ引退試合だから頑張ってくるよ」


 千宜はそう言って笑った。


「千宜、急がないと時間なくなるわよ」


 階段の下から香子が声を上げた。千宜は時間を確認して大慌てで階段を下りて行った。


「早く詰め込みなさい」


 慌てる千宜とそれを見つめる香子。二階から下りてきた相良は自らの手の平を見ていた。


「千宜」

「何?」


 千宜は相良の方を向かずに返事をした。


「行っちゃだめだ」


 突然の発言に二人は相良を見た。相良は冗談を言っているような雰囲気はなく、真面目な顔をしていた。


「何言ってんだよ、俺は行くよ?」

「合宿に行くのがさみしいの?」

「違う」


 相良はそれ以上何も言わず竹刀の入った袋ごと抱きしめた。


「よし、支度できた」


 千宜はスーツケースのチャックを閉めて玄関に運ぶ。


「少し早いけどもう行くよ」

「頑張ってね」


 玄関に向かおうとする二人。千宜は振り返り相良を見た。


「それ、頂戴」


 相良は黙って首を横に振った。


「だめよ、相良」


 香子は少し強引に竹刀を取り上げて千宜に渡した。


「だめっ!」


 今まで聞いた中で一番大きな声だった。普段と違う相良。少し潤んでいるようにも見える瞳は必死だった。


「すぐ帰ってくるから、な?」


 千宜は相良の頭を撫でて玄関に戻って行った。


「行ってきます」






『え?』

「だから、千宜に行かないでって何回も言った後に家を出てどこかに行っちゃったの」


 携帯電話を耳に当てながら香子は辺り見回した。


『追いかけちゃったのか?』

「分からない。一応千宜にも聞いてみたけどもうバスに乗ってて分からないって」

『困ったね』

「あの子に家の鍵持たせてないから外に探しに行くわけにもいかないし……」

『こっちで人員確保して探してみるよ』

「お願い」


 監視対象であるあの子がいなくなってしまったのは問題だ。勝手に何かをするような子ではなかった。自分で判断して行動することは今までなかったのに。


「私のせいだ……」


 相良の言いたいことをちゃんと聞いてあげるべきだった。だからと言って合宿に行かないという選択はできないけれど。

 もうすぐ陽が落ちる。日中のお使いを頼んだことは何回かあったが、真っ暗の外を一人で歩いたことはない。香子は相良が心配でたまらなかった。


「ご飯を作ろう……」


 あの子の好きなものを。好きだと言ってくれたことはないけれど、てんぷらの日はいつもより少したくさん食べるのを知っている。肉より魚が好き。玉ねぎは少し苦手。一緒に作った料理はいつもより味わって食べている。ご飯の時間は相良のことをたくさん教えてくれた。


 それからしばらくたって、電話が鳴った。電話は香子の父からだった。


「もしもし、相良見つかった?」

『それどころじゃない』


 低い声はどこか震えているようだった。


『落ち着いて聞くんだ』


 香子の手から携帯電話が滑り落ちた。財布を掴んで外に出る。大きな通りまで走ってタクシーを捕まえた。


「国立病院まで、急いでください!」


 香子の手は震えていた。


『千宜の乗っていたバスが落石事故に遭って、崖下に転落した』


 もしかして相良はこの事を知っていたんじゃないだろうか。そんなわけない。どうやったらそんなことがわかるんだ。だけど、もしも、千宜を行かせていなかったら。もっとちゃんとあの子の話を聞いておくんだった。行かせなければよかった。

 他の部員の安否もまだわかっていない。ただ、かなりの高所からバスは落ちた、香子の父はそう言った。


「無事でいて……!」


 バスに乗っていた者は救助した順に病院に運ばれている。タクシーのラジオがバスの転落事故が起きたことを告げた。詳細は不明なまま。運転手が恐ろしいですね、なんて言っている。

 長い時間が経った気がする。病院に着いて、名前を言って、病室に駆け込んだ。


「母さん」


 そこにはベッドから起き上がっている息子の姿があった。頭に包帯を巻いている。左腕も骨折したように固定されていた。それでも、会話ができるほど元気な千宜がいた。

 香子は堰を切ったように泣き出した。怖かった。無事でよかった。


「泣かないで、母さん」


 少し遅れて祐正と香子の父が駆け込んできた。二人も千宜の姿を見て安堵の涙を流した。


「生きていないと思った……」


 一度病室を追い出された祐正は香子にそう言った。現場はひどい有様だったらしい。ガードレールを突き破って落ちたバスは、途中の木に引っかかった。そこで数分停止して、地面に落ちた。暑さのせいか、木に引っかかったせいか開けられた窓が多く、バスから投げ出された人もいたそうだ。


「生存者は千宜だけだそうだ……」

「そんな……」


 あのバスには同じ部活の仲間がたくさん乗っていたのに。病院の遠くの方で泣き叫ぶ声が聞こえてくる。その声が苦しくて、夫婦は俯いていた。

 その時、一つの影が前を通って千宜の病室のドアを開けた。まだ入ってきていいと医師に言われていないのに。


「誰……?」


 病室の中に入った人を連れ出そうと祐正と香子も中に入った。そこには、おぞましいものを見たような顔をしている千宜と、医師たちがいた。


「よかった……生きてた……」

「相良⁉」


 その声は間違いなく相良だった。


「探していたんだぞ、いったいどこに……!」


 祐正は相良の肩を掴んで自分の方に向ける。その姿に二人は言葉を失った。


 相良の右眼が無かった。乾いた血が髪や皮膚についていて。さらに恐ろしいことに相良の右手には抉りとったものが握られていた。






 誰もいない病室で、祐正は相良の話をちゃんと聞いた。包帯で片目を覆われた相良の前に祐正は膝をついて、その手をぎゅっと握って。

 そうして初めて知ったのだ。物や人に触れると不思議な映像が流れることがあると。そして、それは実際にこれから起こったり、あるいは本当に起こったことだった。あの火事の時も、祐正と相良が出会うことは分かっていた。


「今朝、千宜がバスで死んじゃうのが視えて」


 行かないでと伝えても行ってしまう未来は変わらない。


「運命を変えるためにはそれ相応の代価が必要だから……」

「そのために、眼を?」


 相良は黙って頷いた。暖かい相良の手とは対照的に、祐正の手は冷たかった。


「眼だけじゃ足りなかった……千宜、怪我してた」


 祐正の頬を涙が伝った。祐正は相良に頭を下げる。


「千宜を守ってくれてありがとう」


 そのまま手を引いて祐正は相良を抱きしめた。


「でも二度とやっては駄目だ。自分を犠牲にしてまで人を助けなくていい」


 心臓の脈打つ音がする。この鼓動がなくならなくてよかった。

 喜びと、悲しみと、何もできない無力感と。様々な感情が混ざり合う。


「約束してくれ。もう二度と他人のために自分を痛めつけないと。自分を大切にしてくれ」






 それから二年がたち相良は成長した。学校に通い、視える力ともうまく付き合えるようになっていた。

 そんな家族を嘲笑うかのように悲劇は再び近づいて来るのだった。


 ガシャン——


 祐正に渡されたコップが相良の手から落ちた。それまでの無表情から、絶望を感じたかのような表情に変わり祐正を見た。


「なんか視えたのか?」


 こんな風に表情が豊かになったことを喜ばしく感じる一方で、どんなことが視えてしまったのか、祐正には何となくわかった。


「父さんと母さんが……」

「母さんも一緒なのか」


 今にも泣きそうな顔。祐正は相良を抱きしめた。


「約束は覚えているかい?」


 胸の中で相良は頷いた。他人のために自分を傷つけない。それは祐正と香子の未来を変えないという約束になる。


「約束は相良がおじいちゃんになっても続くからな。忘れないように」


 相良が震えている。泣いている。されるがままだった少年が、こんなに変わった。


「千宜と仲良くするんだぞ」

「父さん……」


 逝かないで、と伝えたいかのように背中に回された手は強く服を掴んでいた。


「ありがとう、うちの子になってくれて。幸せだったよ」






「俺たちもうすぐ死ぬみたい」


 夫婦の寝室で先に横になっていた祐正は真っ暗な天井を見ながら言った。


「何の冗談よ」


 ベッドに座ったままこちらを振り向いた。


「相良が教えてくれた」

「じゃあ信じるしかないね」


 香子は笑った。あの日、相良の眼を奪ってしまったのは信じることができなかった自分だとずっと責め続けてきた。


「あとどのくらい時間があるんだろう?」

「さぁ?」


 色々準備しないと、香子はそう言いながら指を折っていく。こういうところは本当に逞しい。


「怖くないの?」

「二人一緒なら怖い物なんてないわよ」

「ははっ、さすがだよ」


 やっぱり自分の奥さんは最強だ。祐正は起き上がって、香子を後ろから抱きしめた。


「愛してる」


 その体は小刻みに震えていた。


「知ってる!」






 二人が死んだのはそれから三日後のことだった。居眠り運転のトラックが歩道に乗り上げたことによる交通事故。他の歩行者を二人が守ったおかげで他の被害者は出なかった。正義感にあふれた実に二人らしい最期だと千宜は言った。


「相良、ありがとう」

「なんで……見殺しにしたのに……」


 死ぬことが分かっていたおかげで、二人はたくさんのことを遺してくれた。それぞれに宛てた手紙や、二人の遺体の扱いの希望。

 千宜は相良を抱き寄せた。震える肩、二人の瞳から涙が零れ落ちた。


「約束を守ってくれてありがとう」


 二人が遺した物の中で最も重要だったものがある。


「これからお前のことは俺が守るから」


 それは推薦状だ。麻野祐正の後任として、麻野千宜を推薦するという物。組織の中での立場を高めていた三河、篠木の印も押されている。麻野相良の監視には麻野千宜が適任であると。そのおかげで、後任は千宜に決まった。

 ところが、その推薦状は思わぬ弊害をもたらした。それは相良の視える力が偶然ではないことを証明してしまったのだ。


「お前を監視官にすることは認める。その代わり、相良の能力は組織で管理する。協力者として登録することを条件とする」


 協力者は犯罪者という構図からして、相良を放火殺人の犯人と認めることになる。相良の力は代償だって必要になる。


「お前がこれを拒否するのであれば、今からでもあいつを独房に入れてあの日のことを洗いざらい吐かせる」


 仮に忘れていても、過去も視えるというのなら視させればいい。組織の偉い人が言ったその言葉に千宜は震える拳を握った。


「分かりました。監視官になります」


 こうして二人は組織に加入することとなった。


 今度は千宜が相良を守るために。

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