4. 消えた少年
「サガシヤを辞めていただきたい」
鋭く尖った言葉が理解の追いつかない私に突き刺さった。
「……にいさん、それじゃあ何も伝わんないですよ」
ひどく重い空気を変えたのは一階の従業員の女性だった。いつも無気力なイラッシャイマセで出迎えてくれる彼女だ。
「にいさん……?」
「この人は佐賀さんのおにいさんです」
佐賀さんに兄がいたなんて。それも警察官で、弟の仕事場に来るような。
「失礼」
スーツを着こなした麻野さんはひとつ咳払いをした。
「貴女はここにいるべき人間じゃない」
彼は先ほどと同じ表情で言った。サガシヤに私が相応しくないのではなく、私にサガシヤが相応しくないとでも言うのだろうか。
「どういう意味ですか……?」
「サガシヤはとある組織に属している。俺も組織の一人です」
二足草鞋ということか。
「その組織に私が相応しくないということですか……?」
「簡潔に言うとそうですね」
従業員の女性は冷ややかな視線で麻野さんを見ている。この二人はまるで昔から知り合っているみたい。もしかしたら彼女は一階にいてもサガシヤの従業員の一人なのかもしれない。
ゴホン、一人で考え込む私を見かねて彼は咳払いをした。
「正確に言えば、貴女は組織に入る基準を満たしていないのです。」
「彼女を組織に入れるつもりはないよ」
階段の上から声がした。佐賀さんがいつもみたいに穏やかな顔をしてこちらを見ている。
「お前……」
「それでいうなら千宜も基準は満たしていないね」
麻野さんの顔が一瞬曇った。
「そう怖い顔しないでさ、もう少し仲良くやろうよ。警察官はみんなのヒーローでしょうに」
ニコッと笑う佐賀さんに負けを認めたのか、彼はため息をついた。
「お前、終わったのか?」
「あと少しだから、ネスティーの淹れたお茶でも飲んでてよ」
終わっていないのに戻ってきてくれたのか。正直、この人と話すのは怖かったから、来てくれて助かった。
「また来る」
立ち寄ると思っていた麻野さんはそう言ってすぐに出て行ってしまった。
「忙しいのかね」
「にいさん結構待ってたよ」
「悪いことしたなぁ。来る前に連絡くれればいいのに」
何事もなかったかのように、彼女は業務に戻っていく。
「あすみさんもおいで」
この穏やかそうな人と、あの怖そうな人が兄弟だなんて。二人は外見も少しも似ていない。本当に同じ家庭で育ったのだろうか。あの人は佐賀さんを「サガラ」と呼んだ。
「佐賀さんの名前は何ですか?」
麻野さんと兄弟、仕事では佐賀と名乗る。あなたは誰?
「名前なんて何でもいいよ」
そう言って佐賀さんは事務所に入ってしまった。
仕事に名前が必要か、かつて事務所警備員に言われたことが頭をよぎった。ああ、だからこの二人は一緒に仕事をするのか。同じ価値観を持つ者として。
「帰ったの、あいつ」
「えっ、あ、うん」
大きなソファーに姿勢よく座っていた仁穂ちゃんが安心したように息を吐いた。どさっ、音をたてて彼女の体はソファーを占領した。
「また来るって言ってたよ」
「来なくていいのに」
余程あの人のことが苦手なのだろう。その気持ちはよくわかる。威圧的で、何を考えているのか表情が読めない。その点で言えば佐賀さんと似ているのかもしれない。
「引きニート、お茶」
仁穂ちゃんは社長の椅子でパソコンをいじっている人を呼んだ。呼ばれた警備員は特に何も言わず、仁穂ちゃんのコップを持って控えの部屋に行く。彼の年齢は分からないが、仁穂ちゃんより年上であることに間違いはないだろう。それに彼は佐賀さんと一緒にこの事務所を立ち上げた初期メンバーなはず。上下関係は彼が上なのではないだろうか。
「いつものことだよ、仁穂ちゃんは女王様だから」
佐賀さんが隣の部屋から戻ってきて仁穂ちゃんの向かいに座った。
「その女王の唯一の弱点がさっきの千宜なんだよね」
「女王じゃない!帰る!」
横になっていた仁穂ちゃんは勢いよく起きて立ち上がった。
「今回のお給料です。大切に使いなさいね」
「馬鹿にするな」
仁穂ちゃんは封筒を差し出す佐賀さんを睨んだ。乱暴にそれを奪ってぎゅっと握りしめる。
「しばらくは学校の後出勤してね、千宜が来るかもしれないから」
「……」
二人は視線を動かさなかった。
「出勤しなさい」
同じ表情のまま、ただ声色だけが変わった。
仁穂ちゃんは目を逸らして自分の荷物を持った。
「送っていくよ」
「いい」
そのままバタンと音をたてて彼女は帰ってしまった。湯気が出ている仁穂ちゃんのコップを持った警備員が立っていた。
「反抗期だねぇ」
「鍵師はいつもあの調子じゃないですか」
警備員は佐賀さんの隣に腰を下ろして持っていたコップを私の方に置いた。
「あ、ありがとう」
いつも反抗期……。あんな風に生きていて疲れないのだろうか。周りのもの全部突っぱねて、友達はいるのだろうか。一緒に暮らす親御さんは大変だな。
「仁穂ちゃんにお給料手渡しするんですね。てっきり親御さんに管理してもらっているのかと思ってました」
私は仁穂ちゃん用に淹れてもらったお茶を飲む。
「仁穂ちゃんにとってはあのお金が生活費だからね」
「え?」
佐賀さんは彼女が出て行ったドアを見つめていた。
「仁穂ちゃんのご両親はいない。彼女は誰も待っていない家に帰るんだよ」
事務所の外で鳴くカラスの声が響いた。
「……他に親戚とかは」
「わからないんだ」
「わからない?」
「仁穂ちゃんは自分の親のことをほとんど知らない。覚えているのは父親と暮らした短い思い出だけ。あの子に別れを告げていなくなってしまったんだ」
佐賀さんの口調はとても優しかった。
「探している、あの子の父親のことも」
私は気が付くと泣いていた。
出会いが視えるなら、見てあげて欲しい。仁穂ちゃんがサガシヤにいる理由がお父さんを探すためなら、早く会わせてあげたい。
「仁穂ちゃんのお父さんは……どうしていなくなってしまったのですか?」
「あの子はあまり多くのことを話したがらない。よくわからないんだ」
そうだ、何かを思い出したかのように立ち上がって、佐賀さんは社長のデスクの引き出しを開けた。
「遅くなってごめんね。入社してからの分のお給料です」
かなり膨らんだ茶封筒を渡される。こんなに貰えるほどサガシヤが儲かっているとは知らなかった。
「ありがとうございます」
両手でしっかりと受け取って恐る恐る中を覗いた。
そこには大量の野口さんが納められていた。
「全部千円札じゃないですか!」
「あ、もうばれた。枚数多い方がいいかと思って」
呆れた顔で警備員がこちらを見ている。
何を考えているんだこの人は。私は思わず突き返したくなったが、せっかくの初給料なのでこのまま受け取ることにした。
「おはようあすみさん」
給料日から数日、いつも通り出勤すると既に着替えを済ませた佐賀さんがいた。普段ならまだいびきをかいている時間だ。
「何かあったんですか?」
「千宜がもうすぐ来るから」
麻野千宜、警察官にして佐賀さんの兄。笑った顔など想像できないような怖い人。
「何をしに……?」
「急ぎってことはたぶんお仕事かな」
サガシヤの依頼ということなのか、警察の仕事でここに来るということか。どちらにせよまたあの人と対面しなくてはいけないのは気が重い。
そんなことを考えている間に誰かが階段を上る足音が聞こえてきた。かなりの速足でその人は近づいてくる。
「相良」
「やあ」
いらっしゃい、そういった出迎えるような言葉を佐賀さんは言わなかった。
「お疲れ様です、麻野さん」
「ああ、元気か」
「はい」
麻野さんは警備員と少し会話をしてこちらを見た。
「部外者には出て行ってもらいたい」
部外者。急に向けられた矛先に私は一歩下がってしまった。
「その必要はない。彼女はサガシヤに必要な存在だ」
佐賀さんが社長の椅子から立ち上がった。
「誰が決めた」
「千宜はサガシヤの従業員じゃない。だから口出す権利はない」
「誰のおかげでサガシヤが続けられていると思っているんだ」
「同じ言葉を返そうか?」
白熱する兄弟喧嘩。この兄に一歩も引かない佐賀さんが頼もしい。
少しの睨み合いの後で先に目を逸らしたのは麻野さんだった。
「……まあいい、それより時間がない」
どうやら佐賀さんの勝利らしい。麻野さんは持ってきた封筒から何枚もの書類を取り出した。
「政治家の孫が誘拐された。身代金の要求はない、目撃情報も多くない」
佐賀さんの目の前に一枚ずつ紙が広げられていく。
「名前は新井
幼稚園か保育園か、その制服を身にまとった男の子が笑顔で写っている。名前も家族構成も、行方が分からなくなった日の行動が事細かに書かれて入る。
その紙は明らかに捜査資料だった。こういう物は持ち出し厳禁なはず。
「もう死んでいるかもしれない」
佐賀さんは近くにあったボールペンを持って、資料の一部を指した。
「一昨日ってかなり前だね」
その指摘に麻野さんの表情が歪んだ。
「もっと早く持ってきていたらって後悔しないようにね、刑事さん」
「悪い、よろしく頼む……」
怖い顔をしたその人は佐賀さんに深く頭を下げた。
「行こうかあすみさん。今回は警察のコネ使い放題だ」
少しも動じることなく佐賀さんは微笑んだ。
もう死んでいるかもしれない。その言葉は私の中でループしていた。
「遅くなりました、麻野です」
サガシヤを出た私たちは麻野さんの運転する黒い車に乗ってとある住宅街に着いていた。似たような家が並ぶ、普通の住宅街。小さな公園には誰もおらず、閑散としていた。
麻野さんはそのうちの一軒の前で足を止めて、インターフォンを押した。
『……入ってください』
か細い男の人の声だった。麻野さんは分かりました、と言って門を開ける。玄関の前にはおもちゃがあって、砂場で遊ぶためのスコップやプリンの容器が赤いバケツの中に納められていた。その子が集めていたであろうどんぐりがあちこちに散らばっている。
「あすみさん?」
佐賀さんは足を止めた私を呼んだ。
「大丈夫です……」
ここには本当に子どもがいて、そして、いないのだ。助けたい、でも出来なかったら。手遅れだったら。
「あすみさんは何も背負わなくていい」
佐賀さんは優しく私の背中を叩いた。そしてそのまま家の中に入っていく。
「あなたは入らないのですか?」
入らないなら帰ってくれていいけど、麻野さんはそう言いたげな目を向ける。
「最後までやります」
ぎゅっと拳を握って私も中に入る。
「こんにちは、新井さん」
リビングには魂が抜けたように座っている奥さんと、お茶の用意をしている旦那さんの姿があった。佐賀さんはキッチンにいる旦那さんに頭を下げて、テーブルに向き合っている奥さんの隣に立って挨拶をしていた。
「警察に協力している佐賀と言います。よろしくお願いします」
「誰でもいい……」
「お前、そんなこと言うなよ……」
「誰でもいいですから、あの子を助けてください!海琉を返して!」
ボロボロと涙をこぼして奥さんは佐賀さんの腕をつかむ。
「新井さん、そのために彼に協力してください」
「もちろんです」
駆け寄ってきた旦那さんは奥さんの肩を支えた。
「早速始めましょう」
佐賀さんは乱雑に封筒から紙を出した。それは先ほどの捜査資料だった。
「ここに書かれていることに間違いがないか、確認してください」
その日のことを鮮明に思い出させる資料たち。夫婦は顔が真っ青になっていた。
「あと、海琉君の荷物はどこにありますか?」
「か、海琉の部屋は階段を上った突き当りの部屋です」
「わかりました。では、資料のチェックが終わったら呼んでください」
佐賀さんは私に行くよ、と言ってリビングを出て行った。麻野さんを見ると彼も渋い顔をしていた。佐賀さんのやり方が気に食わないような。それでもこの人は何も言わなかった。
「無理よ! こんなのすぐに見れる訳ないわ!」
「お願いします」
麻野さんは頭を下げた。
「私たちにとってどれだけ苦しいことか、分からないの⁉」
「お願いします」
「警察には一度全てを話しているはずだ!」
「お願いします」
その人はずっと頭を下げていた。
「紙を手に取って、出来るだけ詳しく思い出してください。必要なことなんです」
私は麻野さんの隣に立った。
「お願いします!」
同じように深く、頭を下げて。これが必要なことなのか、私にはわからない。だけど、この人は私より佐賀さんを知っている。部下(わたし)が頭を下げる理由なんてそれで十分だ。
「……本当に見つかりますか?」
「全力で探します」
私にできることなんてないに等しい。頭の回転が速いわけでもない。機械は得意じゃないし、鍵を開けることもできない。警察のような力も人脈もない。今までだってそうだ。私は何もできなかった。それでも清掃員として、補佐としてできることがあるなら全力でサポートをする。そこは絶対に曲げない。
「よろしくお願いします」
夫婦は視線を合わせてから少しだけ頷いてくれた。
「早く行け」
私にそう言ったのは麻野さんだった。相良に呼ばれていただろう、彼はそう続けた。
「お二人をお願いします」
リビングを出て階段を上る。壁には家族の写真や子供が描いたような絵が飾られていた。
「遅いよ」
佐賀さんは腕を組んで立っていた。
「ごめんなさい」
部屋は綺麗に片付けられていた。ベッドの上には大きな怪獣のぬいぐるみが置いてある。
「この部屋の物を片付ける。あすみさんは渡されたものを指示通りに置いて」
「は、はい」
どういう意味か私にはよくわからなかった。彼は初めに怪獣のぬいぐるみを手に取った。
「……違う」
佐賀さんはそれだけ言って怪獣を渡してきた。
「えっ、どう置くんですか?」
「あぁ……アルファベットを振るから同じものをまとめて置いて。それはB」
次に毛布を手に取った。布団、時計、枕。佐賀さんは次々に振り分けていく。何の規則性があるのか、私にはわからなかったが言われるがままに置いていった。片付けられた部屋にあった物たちはバラバラと床に集められていく。
「一回休憩しようか」
佐賀さんが手を止めたのは二時間ほど経過した頃だった。
「こんなにぐちゃぐちゃにしてしまって大丈夫なんですか?」
「仕方ないよ、時間がないから」
佐賀さんは額の汗をぬぐった。
「相良」
階段を上る足音がして、麻野さんがやってきた。
「終わった?」
「ああ、一通り見てもらった」
麻野さんは封筒を渡す。
「海琉君がいなくなった時の持ち物とかないよねぇ?」
「ないな」
だよねー、佐賀さんは暢気にそんなことを言う。
「あすみさんは千宜と一階で待っていて。終わったら行くから」
「何を……」
何をするのか、聞こうとしたのを麻野さんに遮られた。無理矢理腕を引っ張られて一階に連行される。
「さぁ、教えておくれ」
封筒の中にしまわれた色のついた資料に手をかざした。
「そんなに力任せに動かさないで下さいよ」
階段を下りてようやく解放された腕を私はさすった。
「佐賀さんの邪魔をさせたくないのは分かりますけど……」
「違う」
麻野さんは大きくため息をついた。
「あそこにいたら巻き込まれるかもしれないから動かしたんです。すみませんでした」
「巻き込まれる?」
彼は佐賀さんを心配しているかのように階段を見た。
「この世の全ての瞬間に出会いがある」
麻野さんは階段に腰を下ろした。
「あいつは今、あの紙と新井家の記憶との出会いを視ているんです」
紙を手に取って、思い出して。麻野さんがあの夫婦に言っていたことを思い出した。
「……佐賀さんは本当に出会いが視えるんですか?」
「嘘だと思うよな、普通は」
私もその隣に座った。
「ありえないって思うんですけど、私は佐賀さんに見つけてもらったんです」
あの日、普通の人だったら気づかないような位置にあった張り紙。私のことを知っていた佐賀さん。
「佐賀さんが視えるのは本当かなって思っちゃいます」
私は微笑んだ。麻野さんはとても悲しそうな顔をしていた。
「あいつと一緒にいるの怖くないですか?」
「普段はそんな風に見えないですからね」
この人は佐賀さんが怖いと思ったことがあるのだろうか。私は体を麻野さんの方に向ける。
「麻野さん、やっぱり私はサガシヤで働きたいです。佐賀さんに要らないって言われるまで、ずっと続けたいです」
あんな風に適当な人だけれど、彼の下でサガシヤにいたいという気持ちは揺れない。
「私にサガシヤにいる資格がないのって、警察の組織に加入していないからなんですよね?」
リビングから夫婦の話声が聞こえてきた。内容までは分からないが、佐賀さんの無茶なお願いに怒っていそうな声ではなかった。
「どうすれば加入できますか?」
麻野さんは指を組んで首を垂れた。
「……あなたの気持ちは分かりました。それでも、組織への加入は難しいでしょう」
重たい口は開かれて彼はその組織の説明を始める。
「この組織は警察の人間のごく一部の者と、その特別な協力者で構成されています」
特別な協力者、それが佐賀さんや警備員、仁穂ちゃんのことを指すのだろう。
「協力者は全てサガシヤのように管理されています」
協力者の何人かのまとまりを警察の人間が監視、管理する仕組み。
「協力者はどうして管理されなくてはならないのですか?」
「それは彼らが犯罪者だからです。組織への協力と引き換えに一定の自由が保障されている」
犯罪者。
「どういうことですか……?」
私には麻野さんの言った言葉の意味が分からなかった。犯罪者は警察に捕まって、裁判をして、罰を受けるものだろう。
それに、その言い方だとサガシヤの従業員が犯罪者だということになる。犯罪者でない私は組織に加入することはできないと。
「佐賀さんたちが犯罪者……?」
「そう。それを監視するのが俺の役目です」
信じられなかった。驚愕する私を置いて麻野さんは話を続ける。
「サガシヤとして組織に尽くし働くことが、あいつらが普通に生活するための条件」
「佐賀さんたちはどんな犯罪を……」
麻野さんと目が合う。私の怯える顔を見て、彼は再び俯いた。
「相良は……」
「千宜」
私たちの重い空気を吹き飛ばすように、佐賀さんの声が響いた。
「場所の見当がついた。行こう」
その続きを聞きたい気持ちはあるが、今は海琉君が最優先だ。私たちは居間にいるご両親に声をかけてすぐに家を出た。深々と頭を下げる二人の様子が目に焼き付いている。ひどい隈、瞳いっぱいに涙を溜めて。どうか、どうか助けてくださいと滲み出る姿。
「少年はどこにいる?」
「居ると思われる場所は調べてもらっている。どちらにせよ、突入は待った方がいい」
麻野さんの、ハンドルを握る力が強まったように見えた。
「子ども一人分の命だぞ。ふざけてんのか」
「最初に言った通り、生きている確証は無い。もしかしたら他にも捕らわれている子供がいるかもしれないし、麻薬の密売とか他の犯罪が絡んでいるかもしれない。確実に捕らえること、これを優先すべきだ」
「ふざけるな。いいから場所を言え」
車に乗り込んだ時、佐賀さんはざっくりとした方角のみを麻野さんに伝えていた。今この場で目的地を知っている者は一人しかいない。
犯人を逃がさないという佐賀さんの言い分も理解できる。しかし、それは助けを待っている人のことをおざなりにしてまですることなのだろうか。少なくとも警察は人の命が最優先で動くものなのでは。
「この組織は警察とは違うよ」
心を読んだかのように佐賀さんは言った。
「悪人は放っておいても過ちを犯し続ける。そういう
少し前に麻野さんに聞いた話が頭を過る。
「僕らは監視の下で法を犯す。それが世の秩序を守ると信じて」
矛盾しているね、佐賀さんはそう言って笑った。そんな姿を見て、ふつふつと感情が沸いてきた。
違う、違うでしょ。
「依頼は……」
膝の上に置いた拳を握る。
「依頼は行方不明者を見つけることです!」
私たちはサガシヤだ。依頼に応じてどんなものでも見つける。そのスペシャリストが、頭が何を馬鹿げたことを言っている。
「サガシヤの仕事はどんなものでも探すことでしょう!」
事務所からサポートをしてくれる人がいて、鍵を開ける天才がいる。私たちは役割を分担しながら依頼人のために努めるのだ。私は単純に腹が立った。依頼を放棄する佐賀さんにも、犯罪者を語る佐賀さんにも。
「佐賀さんに世界を守ってもらうことを期待なんかしていません! 自分の仕事をしてください!」
大声で怒鳴って、車内は静寂に包まれた。
やってしまった。
その後悔に襲われる。仮にも上司だ、さすがに言いすぎた。変態だし、セクハラもしてくるし、訴えてやりたい気持ちは山々だが、今は
「す、すみません。でも、やっぱり、世の中をどうこうっていうよりも、今は海琉君を助け出してご両親に会わせてあげるべきなのではないでしょうか……?」
気まずい静寂が車内を満たす。
「助けに行こう、相良」
沈黙を破ったのは麻野さんだった。外を眺める佐賀さんは覚悟を決めたのか、大きなため息をついた。
「うわっ!」
その瞬間、私のスマートホンが大きな音で鳴った。誰かからの着信だ。
「はい、もしもし?」
『もしもし、僕です』
声の主は警備員だった。今もパソコンの前で手伝ってくれているのだろう、タイピングの音が聞こえてくる。
『社長が動く気ないみたいだったのであなたにかけさせてもらいました』
「はい……」
なぜだか泣きそうになった。すぐにでも助けたいという同じ思いを持つ仲間がここにいる。
「ありがとう」
最後に彼にそう言って電話を切った。佐賀さんが視た情報を元に警備員が突き詰めた居場所。
「行きましょう、助けに」
佐賀さんはそれを止めようとはしなかった。
「ここから北西に行ったところの、三丁目の廃工場です」
そこに海琉君はいる。待っていて。必ず私たちが君をお家に連れて帰るから。
窓からの景色が目まぐるしく動く。少しずつ対向車の数は減っていく。その一方でこの車と同じ方向へ向かおうとする車の数は多かった。工場が密集しているこの地域で使っているとは思いにくい一般の自動車がほとんどだ。
その車たちは目的地が近づくにつれて少しずつ減っていった。減ったというよりもそこで止まった。
この車たちは麻野さんの仲間なのだ。
私は車が止まった時、ようやくそれを悟った。最後までついてきていた数台も同じように停車したが、麻野さんの車より前に出ることはなかった。車を降りて、初めて他の車の運転席を見る。強面の体格のよさそうな男たちがこちらを見ていた。
「気にしなくていい。組織の人間だ」
麻野さんはそう言って車から離れる。想像より広いこの工場のどこにいるのだろう。
「相良」
麻野さんに呼ばれた佐賀さんはその場に片膝をついた。指先からそっと地面に触れる。目を閉じて、佐賀さんはこの地面の記憶を見ている。
「あっちだ」
佐賀さんはそう言って大きな煙突のある棟を指した。そちらはさらに薄暗かった。
「よし、いくぞ」
麻野さんがそちらに向かって走り出す。私もなるべく足音を立てないように後に続いた。
ドサッ
突然、背後でそんな音がした。重たいものが高所から落ちたような音が。
「佐賀さん⁉」
佐賀さんはその場で倒れていた。
「構うな!行くぞ!」
「でも……っ!」
「サガシヤだろう! あなたも!」
思いきり頬を叩かれたかのような感覚だ。そうだ、今の私がやることは一つしかない。後続の車から出てきた二人組が佐賀さんを抱き起した。無気力な腕が垂れていた。
行ってきます。これでも私もサガシヤだから。必ず役に立ってきます。
「行きます!」
私たちは走り出す。心臓の音が鼓膜で響いている。
見つかったら終わり。見つけられなくても終わり。
「こっちだ」
柱の陰に身を潜めた麻野さんが手招きをした。言われた通り私は素早く横に移動する。
「あそこに血痕がある。見えるか?」
「はい」
「微かに子どもの声もする。相良の言う通りここで間違いないだろう」
麻野さんはポケットから折り畳みナイフを取り出した。
「俺が敵を連れ出すから、その間にあなたは子どもを連れ出してください。車まで行かなくても部下はあちこちに配置していますから」
助ける、絶対。
「はい!」
受け取ったナイフは熱を持っていた。
「俺が行って少ししたらそこの隙間から侵入しろ。あなたは小柄だし、きっと通れる」
麻野さんは落ち着いた様子で胸元から拳銃を取り出した。
「……はいっ」
「任せたぞ」
そう言い残して麻野さんは走り出す。その後ろ姿はすぐに見えなくなって、そして低い怒号が聞こえてきた。
怖い。足がすくむ。だって、こんなのがサガシヤの仕事だなんて思わないじゃないか。
でも、行かなくては。受け取ったナイフをぎゅっと握りしめる。
「行くよ」
私は金属のパイプやコードの間を縫うように進んでいく。さっき中の様子が見えた、閉め切られていないシャッターの前で身をかがめた。狭い。だからといって少しでも持ち上げれば音が鳴る。音が鳴れば誰かが気づいてしまうかもしれない。低く、低く。私は懸命に腕で体を運んだ。
見つけた!
中はただの広い空間だった。埃っぽいコンクリートの床に、太い柱が並んでいる。その中央付近の柱に子どもが三人繋がれている。男の子が一人と女の子が二人。三人とも年齢は同じくらいに見えるが、男の子の怪我が特にひどそうだ。
「助けに来たよっ」
私は三人に駆け寄って、繋いでいた縄をナイフで切っていく。こんなに幼い体が痛めつけられたのだ。顔にも体にも殴られたような傷はたくさんあった。
「聞いて」
女の子の一人がようやく解き放たれる。
「私が入ってきたあのシャッターをくぐったら右に曲がって、少し走ったら大きな道に出るから」
二人目の女の子が自由になる。
「その道を、この建物から逃げるように走って! そうしたら、強い人たちが助けてくれるから!」
最後に男の子の腕の縄を切る。
「走って!」
私の声に合わせて子どもたちは走り始める。怪我が目立つ男の子の背中を支えて走る。正面の入り口で銃声が鳴った。生まれて初めて聞いた音。
「麻野さん……っ」
どうか無事で、どうか。
「ガキが逃げたぞ!」
女の子がようやくシャッターをくぐり始める。私たちに気づいた一人の男はどんどん距離を詰めてくる。どうしよう、どうしたら。
サガシヤの従業員として、依頼達成のために私に何ができる?
怯えた顔をするこの子たちをどう守り抜けばいい?
「お姉さんは強いから心配いらないわ。とにかく逃げて!」
にっこりと笑ってみせる。恐怖で口角が震えている。うまく笑えているだろうか。子どもたちはこくんと頷いて急いでシャッターをくぐっていく。最後に男の子が外に出た。三人の足音が遠のいていく。それと同時に私は覚悟を決めた。近づいてきた足音はもう私のすぐ後ろ。私がシャッターをくぐる時間はないし、この男を足止めして時間を稼がないとすぐに追いつかれてしまう。
「ざけんなクソ女ああああああぁ!」
振り上げられた拳。残念ながら私は強くなどない。体の前に腕を出して防御することしか知らない。
「きゃあっ!」
左腕にぶつかった衝撃に耐えきれなくて私は数メートル吹っ飛ばされた。受け身の取り方なんて知らない。私の体はコンクリートの硬い床に強く打ち付けられた。
「なんだこれ?」
何とか上体を起こすと男は見覚えのあるナイフを持っていた。殴られた衝撃でポケットから落ちたんだ。こんな風に相手に武器が渡るなんて最悪だ。
「お前ムカつくからこれで刺してやるよ」
恐怖に足がすくむ。立たないと。逃げないと。ここで座っているだけでは勝ち目はない。そう思っていても、まるで私の体じゃないみたいに少しも動かすことができない。
「死ねよ!」
男は不気味な笑顔を浮かべてこちらに向かってくる。きらりと輝く刃先がまっすぐ私に近づく。
どうしようもない、私は強く強く目を閉じた。
「そのナイフじゃあんまり奥まで刺さらないよ?」
聞いたことのない人の声がした。その人は私よりも小柄な人だった。どこからか現れたその人は私の前に立ち男のナイフを掴んでいた。恐ろしいことにナイフは手の平から甲に貫通していて、ポタポタと鮮血が落ちていく。
「なんだお前?」
男は力ずくでナイフを抜き取った。そのせいで指先からも血が吹き出す。
「助けに来たよ、お兄ちゃんの頼みでね」
笑った横顔が見える。その人は仁穂ちゃんよりも幼い子供だった。どこかで会ったのかも記憶にない。この子の言うお兄ちゃんは誰なのだろう。
「血がっ……」
細い腕を赤い液体が伝っている。
「心配いらないよ、すぐ治るから」
その言葉通り、尋常ではない速度で傷口が閉じていった。
「気持ち悪いなお前」
男は再び彼女に切りかかる。高い位置からの攻撃。このままでは顔が切られる。
「避けて!」
決着がつくまでは一瞬だった。少女は躊躇うことなく前に出て、深く顔を切られた。そのまま少女は腕を伸ばし、男の首を掴んだ。
太く頑丈なモノが折れる音、その後で男は少女の前に崩れ落ちた。
「フタバちゃんじゃないからこのままのお別れだね」
こちらを振り返った少女の顔はまだ再生中で、鼻の骨が露出していた。
「またね、お姉ちゃん」
少女の姿は一瞬で消えた。残されたのは首の折れた男だけ。あの子の細腕がこの男を殺したのだ。私を守るために。
「ナイフ……」
よく見たら借りたナイフもない。男がどこかに飛ばしたのかもしれない。申し訳ないけれど、今は逃げることに集中しよう。あの子が誰なのか、あの子が言っていたこととか、分からないことはたくさんあるけれど今はもう、頭が回らない。最優先は何だっけ。
「外……」
そうだ、今は外に出るんだ。這いつくばってシャッターをくぐる。狭い路地を壁に寄りかかりながら進んでいく。子どもたちは無事に組織の人たちの所まで辿り着けただろうか。麻野さんは怪我していないだろうか。
「帰りたい……」
警備員がきっと待ってる。あったかいお茶を淹れてくれる。ぐうたらしている佐賀さんがいて、仏頂面の仁穂ちゃんがいる。そんないつも通りの平和な毎日に帰りたい。
「あ……」
体が傾いていく。力が入らない。
「ここまでよく耐えたな」
麻野さんの声だ。私の体は誰かに抱きかかえられた。ごめんなさい、借りたナイフ失くしてしまったんです。そう伝えられないまま、私の意識は遠のいていった。
夢を見た。どんな夢か忘れてしまったけれど、花畑で追いかけっこをしている姿が見えていた気がする。
「起きたか?」
ぼんやりする視界には真っ白な天井が写っていた。
「麻野さん……」
鼻を刺すアルコールの臭い。どうやらあの一件は片付いたらしい。私は他に誰もいない個室の病室にいた。
「一般人であるあなたを巻き込んですまなかった」
首を回して声のする方を見る。彼は深く頭を下げていた。
「……子どもたちは?」
「全員病院での検査をして、家族と再会した。新井海琉も無事だ」
それを聞いて肩の力が抜けた。よかった、みんな無事だった。ちゃんと家族と会えたんだ。
「あの現場で何があったんですか?」
銃声音はまだ耳に残っている。見たところ麻野さんに大きな怪我はなさそうだが、発砲があったなら大事になるだろう。
「初めから話そう」
麻野さんはそう言って、ベッド脇の椅子に腰かけた。そして順を追って、今回の事件の経緯を語り始めた。
そもそも、組織の監視する側の人間と協力者である罪人は対等ではない。協力者は利用されるもの、消耗品という認識がある。
「怪我をしたり、死んでも誰も気に留めないだろう」
そんな協力者の集まるサガシヤもまた消耗品という扱いをされる。たとえ私が罪人でなくとも、サガシヤにいるということは、監視側に使われるリスクがあるということ。
「監視同士にも色々規則があったりするから、人質がいる高リスクな状況で協力をしたがる奴なんていない。俺に使えるのはサガシヤの人間だけだ」
依頼の失敗は、協力した側にも失態として記録に残る。警察ではなく私が突入させられたのはそういうことだろう。
「あなたが子どもたちを解放し、こちら側で保護できれば任務は完了する。犯人の捕捉はあくまでもついでだ」
子どもたちの無事を確保してから他の警察官は突入を始めた。銃声はその合図だったようだ。麻野さんを含め、他の警察官にも大きな怪我は無し。佐賀さんの予想通り、麻薬が絡む事件に発展をしていて、今はその対処に追われているという。
「あなたの怪我もそこまでひどくないから今日中に病院を出るようにと」
あれほど痛みを感じたのに。実際はそうでもないらしい。麻野さんに見つけられて安心して気を失ってしまったのかもしれない。
「佐賀さんは!」
突入直前に倒れてしまった佐賀さんは、どうしているのだろうか。
「相良は力を使った反動で気を失っただけだ。問題ない」
「力って、『出会いが視える』っていうやつですか……?」
千石家から出るときに聞いた、あの嘘みたいな運命を言い当てることができる、アレ。
「この世の全ての瞬間に出会いがある。つまりあいつは未来も過去も視ることができる」
それが佐賀さんの人間離れした能力。それを使って工場にいることを突き止めたのか。
「あれはかなりリスクがあるから使わせたくはないんだがな……」
確かに、最初に事件の依頼を持ってくるのが遅いって佐賀さんが言っていた。それはなるべく視る能力を使わせたくない、という麻野さんの思いなのか。
「二人はどうして反対の立場にいるんですか?」
同じ組織にいても片方は犯罪者として。もう片方はそれを監視しながら利用する立場。
「……俺は相良を守るために組織にいる」
「守る?」
「あいつは容疑者でありながら協力者として管理されている唯一の存在だ」
協力者は皆犯罪者。最初に麻野さんはそう言っていた。だからこそ監視を付けたり、消耗品のような扱いをされる。
「犯罪者じゃないなら、なんで佐賀さんはっ……」
「放火殺人」
背筋が凍った。
「遺体の身元は未だにわかっていない。現場の状況、あいつの供述、どれも疑いを強めるものばかり。ただ、決定的な証拠がない」
佐賀さんは放火殺人の容疑者。
「この事件が俺とあいつを引き合わせた。俺たちは義兄弟だ」
二人が義兄弟になった事件。
「まあ、こんな感じでサガシヤに関わることはあなたにとってリスクしかない。それでも……」
「未来も過去も視れるなら、やっぱりこの出会いは意味があると思うんです」
麻野さんの言葉を遮って私は続けた。
「変わりません。私はサガシヤにいたいです」
はあ。麻野さんは小さなため息をついて頷いた。私がこう答えることを何となくわかっていたような様子だ。
「なら、あなたに頼みがある」
ゆっくりとその人は私に頼みたいことを告げた。なんて素敵な義兄弟だろう、なんて思った。その願いを私に話した意味を理解しきれていなかった。
そしてもう一つ。私はすっかり忘れていた、あの時助けてくれた人のことを。
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