3. 鍵を失くしたカラクリ箱
先日の猫探し、正確には義母探しの依頼はいくつかの謎を抱えたまま幕を閉じた。
あの火事の原因は何なのか。警察の調べによると、放火の可能性を否定できず、かといって証拠もないために断定することもできないらしい。一時は元妻の犯行が疑われたが、彼女はホストで散財している最中でアリバイがあった。メディアによる追跡も、被害者が国外に行ってしまったこともあって、すぐに落ち着いてしまった。親戚でもない私たちに進展情報が流れてくるわけもなく、きっとこのまま終わってしまうのだろう。
あとは、佐賀さんの様子が最近おかしい。違和感に気づいたのは花島さんに突撃しに行った時だ。その帰り道、心ここにあらずというように、どこかぼーっとしていた。事務所で他の作業をしているときも集中できないようで、やっぱり何かを考えているようだった。
「佐賀さん」
「うん?」
呼べば一応反応はするようだ。
「手、止まってますよ」
「ああ、ごめん」
「警察に出す書類の締め切りは今日なんでしょう? 早く書いて出しに行かないと」
私はため息をつく。これでは清掃員というより秘書じゃないか。
「いいんだ、これは後で取りに来てもらうから」
「そうなんですか?」
その書類は警察に出すもの、ということしか知らなかった。書類の内容が先日の件なのかは把握していないが、あまり得意そうではないパソコンに向かい合っている。あまりに時間をかけるものだから、隣の部屋から
「早く終わらせてあげてくださいよ……」
じゃないと呪われそうです。私は佐賀さんに耳打ちする。
「うーん、でもなぁ……」
やはりあまり身が入らないらしい。仕方なく思いながら控えの部屋を覗いてみる。
「パソコンなんてなくても生きていける。パソコンなんてなくても生きていける。パソ」
そっとドアを閉じる。
「お願いです、早く終わらせてください!」
私は社長のデスクに思いきり両手をついた。その瞬間、パソコンの隣に置かれた固定電話が鳴った。
「はい、サガシヤ事務所です」
佐賀さんは逃げる口実ができたと思ったのか、ものすごい瞬発力だった。だが、それ以上に瞬発力を見せたのは警備員だった。電話が鳴って、それに出たのが佐賀さんだと分かった瞬間に部屋を飛び出してパソコンを奪いに来た。この人はこんなに俊敏に動けたのか。
「はい、ご依頼ですね」
仕方なく佐賀さんは椅子から立ち上がり、その場を譲った。
「パソコン……」
警備員は目を輝かせてSNSをチェックする。するとその動きが止まって、餌を前にした動物のような表情から真面目な表情になった。
「ええ、分かりました」
「社長」
警備員は小声で佐賀さんを呼び、袖を引いて画面を見るように促した。思わず私もぐるりとデスクを回って画面を見た。そこには一件の依頼が入っていた。隣の県の田舎で失くした鍵を探してほしいという依頼。
「二件も同時に?」
佐賀さんは一人しかいないのに一体どうするのだろう。
「もしかしてネットからも連絡をくださった方ですかね?」
まさか、同一人物。依頼に少し嬉しくなってしまったのが恥ずかしいじゃないか。
「わかりました、今から向かってもよろしいですかね?」
画面上の住所を警備員はいち早く検索して、そこまでの最短ルートと所要時間を割り出していた。車で三時間強。私は免許を持っていないので必然的に佐賀さんが運転することになる。最近集中しきれない佐賀さんの運転で大丈夫だろうか。
「では昼過ぎにそちらに着きますので。はい、失礼します」
今からか。あなたはやらなきゃいけない書類がまだ終わっていないというのに。
「さあ行こうか、あすみさん」
いつもの三割増しの笑顔がこちらを向いた。なんて駄目な大人。
じゃあ今日の提出は無理になったからって伝えといてね。なんて言い残して事務所を後にした。佐賀さんがいなくなる(と言うよりパソコンを取り戻せる)ことに喜んでいた警備員はそれを聞いて一瞬にして青ざめていた。提出できないのはこの人のせいなのに、かわいそうに。
「結構遠いところまで行くんですね」
高速道路を通る車の数が少しずつ減ってきていた。いつの間にか大きい建物も遥か後方にある。
「サガシヤは依頼があれば世界にだって行くよ」
「えっ、行ったことあるんですか?」
「まあ、無いんだけどね」
ですよね。こんな胡散臭い事務所を信じる日本人がいるのですら驚きなんだから。
『なんでも探す』ことを生業としているサガシヤ。私もあの求人の紙と出会うまで全く知らなかった。SNSで宣伝しているとは言え、フォロワーはギリギリ三桁に届くか届かないかというところ。アカウントを管理しているのが事務所警備員ということもあって、関係ないゲームの呟きまでしていたりする。そのおかげで僅かなフォロワーのほとんどはゲーム関係だ。
「でも皐月くんは元々北海道に住んでいたんだよ」
「へぇ……」
東京から北海道なんてかなり遠い。そんなところから皐月くんは来たのか。
「……皐月くんって誰ですか?」
「あれ?まだ知らなかったのか。ネスティーだよ」
ネスティー、それは事務所警備員のネット上での名前だ。
「皐月くんっていうんですね」
なぜかずっと隠されていた彼の名前がようやくわかった。だけどこんなにあっさり聞いてしまっていいのだろうか。
「でも、皐月くんのこと名前で呼ばないであげてね」
「名前にコンプレックスがあるんですか?」
カーナビが間もなく高速道路を出ることを知らせた。
「ありきたりないじめだよ」
「いじめ……」
ちくん、と胸が痛んだ。
「同じ名前のかわいい女の子がクラスにいたみたいで、気持ち悪いって」
殴られ、蹴られ、金を巻き上げられて。便器の中に顔をつけさせられたり、吐かされたり。
「そしていつの日か引きこもりになった。自殺じゃないだけ幾分マシだね」
「マシってそんな言い方……」
「でも皐月くんには家にも居場所がなかった」
学校に通えない普通じゃない子供の親として、両親は彼を拒絶して何もしようとしなかった。一家の恥だと、むしろ隠すように振舞った。
「そのあと紆余曲折あって僕とこの事務所を東京に作ったわけですよ」
「じゃあ彼は最初からいる社員なんですね」
「僕と出会ったとき、彼はもうネスティーだったけどね」
そんな苦労をしてきたなんて。名前を口にされるのが怖いのも、コミュニケーションが苦手なのも全部そのせいか。それでも警備員は積極的にお茶くみをするし、話しかければだいたい返事をしてくれる。初対面のときに抱いてしまった印象を申し訳なく思う。
彼は戦っている。
「ネスティーは君とうまくやれているかな?」
「はい……」
彼は私のこと苦手に思っているかもしれないけれど、私は慣れてきた。少なくともこの駄目な大人よりもよほどいい人だと思っている。
間もなく目的地周辺です。カーナビはタイミングよく沈黙を破った。
「今回の依頼は鍵探し。小さいと探すのが大変だけど頑張ろうね」
「……そうですね」
着いたのは広いお庭がついている昔ながらの一戸建てだった。その庭には池があって、二匹の小さな亀が日光浴をしている。
「お、お金持ちなんですね……」
「いいねぇ、お金持ち」
「お金持ちほどこういう胡散臭い業者を信じちゃうんですかね」
「うん?」
依頼の多くないサガシヤにとっては程遠い存在。そんなことを思いながら私は呼び鈴を鳴らした。
「こんにちは。ご依頼いただきました、サガシヤです」
「まあ、遠くからありがとうねぇ」
その人は玄関ではなく広い縁側からひょっこり顔を覗かせた。長い白髪をお上品に束ねた背の低いおばあさんだった。
「ご依頼ありがとうございます」
「あら、お兄さん随分落ち着いた話し方をすると思ったけれど、外見もいけめんで素敵ねぇ」
特にその和服、とっても似合っているわ、そう言っておばあさんは佐賀さんをベタ褒めした。女はいくつになってもイケメンに弱いらしい。勘違いしては駄目だ、この人の場合、顔だけだから。
「ありがとうございます」
いつもみたいなヘラヘラとした笑顔だ。
「おばあちゃん!」
声とともに戸が開いて、若い男性がおばあさんを追いかけて縁側に出てきた。襟のついた服を着て眼鏡をかけた真面目そうな人だ。
「こんにちは、ご依頼いただきましたサガシヤです」
「えっ? ああ、こんにちは……」
戸惑ったようにして、その人はおばあさんに耳打ちして何かを聞いた。
「お願いしたでしょう、この人が鍵を見つけてくれるのよ」
おばあさんの声が大きくて何を聞いたのかわかってしまったけれど。
「すみません、わざわざ。今、玄関開けますね」
「ありがとうございます、藤堂さん」
佐賀さんは急いで玄関に向かおうとする男性に言った。おばあさんもそれを見て部屋の中に入っていく。外は天気がいいとはいえ、風が冷たく感じる季節を迎えていた。
「ご依頼主は藤堂さんというのですね」
「メールでも電話でもそう名乗っていたからね。お客様のことを知っておくのは当然のことだよ、あすみさん」
確かに車の中で時間があったにも関わらず事前に調べていなかったのは私の落ち度だ。だけどなぜだろう、この人にドヤ顔をされると腹がたつ。
「すみません、お待たせしました」
玄関が開いて若い藤堂さんが顔を覗かせた。
私たちは中に上がる。玄関だけで私の部屋の半分くらいありそうだ。飾ってある掛け軸もとても高価なものに見える。
「こちらです」
促されるままに廊下を進み、これまた広い和室に通された。壁の上部には先祖か誰かのモノクロ写真が飾られていた。
「どうぞ」
お盆に四人分のお茶を入れてきてくれたおばあさんはにこにこしながらそれを配った。
「私が担当させていただきます佐賀で、こちらが補佐の笠桐です」
この人は誰かに紹介するときに必ずセクハラをしてくるのだろうか。私はそっと腰に添えられた手を思いきりつねった。
「よろしくお願いします」
「藤堂トヨです」
「隼人です」
「早速ですが、ご依頼の方を進めさせていただければと思います。その鍵は何の鍵で、どんなものですかね?」
佐賀さんはそう言って二人を交互に見た。隼人さんもトヨさんを見ていた。
「私の夫が作ったものなんです」
トヨさんは湯飲みに両手を添えて懐かしそうに目を細めた。
「主人は手先が器用で、変わったものを作るのが趣味だったんです」
お茶を一口飲んで、トヨさんは立ち上がった。
「ついてきて来ていただけますか?」
私たちも立ち上がり和室を出る。そのままどんどん奥へ進み、この家に似つかわしくないステンドグラスのようなドアを開けた。
「わぁ!」
そこにはたくさんの小物が置かれていた。外国の彫り物や置物。見たことのない模様の布、絵画。物の数は多くても、これらは丁寧に管理されているようで埃一つかぶっていないし、見やすいように並べられていた。いくつかある箪笥の中にもこのようなものはたくさん入っているのだろう。
「ここは主人のこれくしょんるうむです。あの人が海外で集めたものとあの人が作ったもの」
トヨさんは中に入って手のひらサイズの立方体の木を渡してきた。それをそっと手にのせて眺めてみてもただの木片にしか見えない。
「からくりのあるオルゴールなんですって」
トヨさんは私の手から木片を取ってそれをくるくると回転させた。色んな方向に回しているのでまるで適当にやっているように見える。何をしているのか、佐賀さんと目を合わせたとき、そのオルゴールは鳴った。聴いたことのある、どこかの有名な曲だった。
「すごい……」
「こんな物を作るのが好きだったのよ」
うふふ、彼女は少し得意そうに笑った。
「そんなあの人が最後に遺した物がこれなの」
それはドアの真向かいにある箪笥の上の大きな木の箱だった。側面には蝶や草花が彫ってある。箱の上には鍵穴があった。
「この鍵を探してほしいの。あの人、うっかりしていたのか鍵を渡してくれなかったのよ」
それはかなりのうっかりさんだ。せっかく奥さんに遺した物なのに。
「それに、この箱留められていて箪笥から離せないみたいなの」
どこかに持っていきたくても持っていけないということか。だから業者に来てもらうしかないと。
「ふむ」
佐賀さんはそう言って顎に手を当てた。何かを考えているようだ。鍵穴の大きさを見る限り鍵もそれほど大きなものじゃないだろう。受け取っていないということはもしかしたら鍵は存在しないかもしれない。となると、探すのは厳しいだろうか。
「……トヨさんはこの箱を開けたいということですか?」
「ええ、あの人はこれを私に遺すと言って死んでいったのでねぇ」
「だとしたら……」
佐賀さんは箪笥に近づいてそれをまじまじと見つめた。
「依頼の真意はこの箱を開けるということでよろしいですか?」
この人は何が言いたいのだろうか。だから開けるために鍵探しの依頼をしてきたんじゃあないですか。
「正直にお話しすると、トヨさんが鍵を見たことがないというのであれば鍵探しは難航するかもしれません。ですので、同時に別の方向からアプローチをするのはどうでしょうか?」
「と言いますと?」
部屋の入り口にいた隼人さんが佐賀さんに聞いた。
「うちの優秀な鍵師を使いませんか?」
にっこりと告げる佐賀さんに私は思いきり叫びたくなった。他にも社員がいるなんて聞いてない。
「鍵師……?」
トヨさんは少し不審そうに顔をしかめた。
「ええ、どんな鍵でも開けられます。高い技術を持っているので鍵穴を傷つけることはありません。鍵探しと鍵破りを同時進行させてもらえたらと思います」
「そんな人がいるなんて、すごいですね! ぜひ!」
トヨさんは少々渋い顔をしていたが、隼人さんの後押しにより承諾してくれた。
サガシヤの鍵師。サガシヤに来て数週間の私が会うことのなかった存在。事務所警備員とは違ってレアなキャラクターなのだろう。
「では、明日の土曜日にもう一度訪問させていただきます」
時間も時間なので私たちはこれでお暇することにした。明日は早朝に向こうを出発することになるのだろう。
「あすみさん、ネスティーに連絡入れといて。明日の六時に事務所に鍵師が来るようにしといてって」
「わかりました」
私は佐賀さんのスマホを開いてナ行からアドレスを探す。
「どんな方なんですか、鍵師さん。そんな人がいるなんて知りませんでした」
これで良し、打ち込んだ文章を確認して送信ボタンを押す。
「うちの看板娘のJCだよ」
「女子中学生⁉」
私の驚きの声とともにバイブが鳴った。
『すごく嫌ですが分かりました……』
ネスティーのどうせ社長の命令ですよね、という諦めの声まで聞こえてきそうだった。
「おはようございます……」
木曜日ではないもののいつもの入り口が開いているはずもなく、狭く暗い裏口を通って事務所まで通勤した。肌寒いのも相まって一階はなかなか怪しい雰囲気を醸し出していた。
「六時って言っておいて五十分まで寝てるなんて信じられない……」
私はいつも通り奥の部屋で寝ている変態を見下した。
「社長は朝弱いですから……」
私の出勤に気づいてネスティーは起きたのに、この人はよく平気で寝ていられるな。
「んー」
この期に及んで寝言まで言うつもりか。
「あともーすこーし近づいてくれたら見えるんだけどなぁ」
変態は左目だけ開けて私を見上げた。その顔とか、色んな事に腹が立って私はグーで頭を叩いた。
「時間です、早くしてください」
いつかセクハラで訴えてやる。
「はいはい、じゃあ行きますかね」
変態は手早く支度をして事務所を出ていこうとした。
「ま、待って下さい! まだ鍵師の方来てないですよ」
「いいのいいの。仁穂ちゃんはいつも一階にいるから」
言われるがまま私は事務所を出て一階に下りた。薄暗い店内、カウンターの中に確かに人がいた。
「遅い」
その人はぶっきらぼうにそう言うとさっさと裏口に行ってしまった。そういえばいつの日か言われたことがあった気がする。気の強い女性が多い、と。その中にきっと彼女も含まれている。一目でそれを感じ取った。
「仁穂ちゃん、初めましてでしょ? ちゃんとご挨拶しなさい」
車に乗り込んだ私たちは早速目的地に向け出発した。
「呼び方やめろ。キモイ」
運転席とは対角線の後部座席に座った彼女は脚と腕を組んでいる。ショートヘアが似合う、ボーイッシュな女の子だ。
「まったく……」
佐賀さんはため息をついた。言葉遣いに問題を感じるが、佐賀さんがキモイことは間違いない気がする。
「この子は鈴鹿仁穂ちゃん、うちの看板娘で鍵師です」
「初めまして、笠桐あすみです」
隣に座る仁穂ちゃんはツンとしたままで、目すら合わない。とは言っても、集合時間を守って仕事に来るくらいには真面目な性格の持ち主なのだろう。
「今日の依頼はちゃんと分ってる?」
「……依頼者は藤堂トヨ。死んだ旦那の作ったからくり箱の鍵を開けて、その中身を見せること」
「さすが、予習は完璧だね」
誰かさんと違って。佐賀さんはわざとらしくそう言った。
「すごいですね、ちゃんとリサーチしてきて……」
私がそう言っても彼女は窓の外を見たまま微動だにしなかった。女子中学生とはいえサガシヤの正社員なのだから甘く見てはいけない。私には特別なことはできないけれど、助手としてやれることを精一杯お手伝いしよう。
「今日は朝が早かったおかげで道も空いていていいね。もうすぐ着きそうだ」
佐賀さんはそう言ってハンドルを切った。思わぬところに車を止める。ここはまだ目的地ではない。
「仁穂ちゃん、いつも通りどうぞ」
得意げに振り返って鍵師を見ると、彼女は険しい顔を向けてキモイという一言だけを放った。
「ここのコンビニで何か買うんですか?」
仁穂ちゃんはさっさと降りて店内に入ってしまった。
「仕事の時のルーティーンかな?」
降りて、佐賀さんに言われるがまま私も車を降りる。昨日とは違って少し暗い空。もしかしたら雨が降るかもしれない、そう言っていた朝のお天気お姉さんを思い出した。
「あすみさんも好きなもの選びな」
「いいんですか?」
ここで働きだしてからまともな給料を貰えていない私にとっては驚くべき発言だ。
「上限は五百円です」
当たり前のようにそう付け加えられた。先にコンビニに入っていた仁穂ちゃんのかごにはすでにたくさんの商品が入っている。チョコレート、クッキー、ビスケット、そして棒のついたキャンディーが七本。
「あのアメがなくなると彼女はお仕事してくれなくなるからね。先に思う存分買ってもらうんですよ」
ご丁寧に解説をしてくれる。私的には糖分の摂りすぎを心配したいところだ。
「会計」
仁穂ちゃんが
「……なにこれ?」
「え?」
佐賀さんは私がレジに運んだ商品を指した。さきイカ、期間限定内容量アップの商品だ。
「イカですけど……?」
その答えに隣にいた仁穂ちゃんが吹き出した。思わぬ形で見えた中学生らしい笑顔につられて私も笑顔になる。看板娘、佐賀さんがそう言う理由がわかる気がする。
「まあいいや」
会計を済ませて車に戻り、私たちを乗せた車は再び目的地に向けて走り出す。車内には仁穂ちゃんの買ったお菓子の甘い香りと、私の買ったイカの香ばしい匂いが混ざり合っていた。
「ごめんください」
大きな玄関でそう声を上げる。陽が出ていなくても日向ぼっこをしようとする亀たちに仁穂ちゃんは興味を持ったようで間近で眺めていた。
「おかしいね」
昨日はすぐになにかの反応があったのに。今日は全く登場の気配を感じない。
「あら、どうしたの?」
背後から声がした。そこにはまだ幼そうな柴犬を連れた中年の女性がいた。赤い首輪のかわいらしい柴犬はここぞとばかりに大声で鳴き始める。
「あ、怪しい者じゃありません!」
私はとっさに説明しようとすると女性はふふふと笑った。どうやら説明しなくてもわかっているらしい。
「藤堂さんならさっき神社にいたからもうすぐ戻ってくると思うわよ」
「ありがとうございます」
「お兄さんハンサムね。さすが都会の人だわ」
ここの人たちはみんな佐賀さんがかっこよく見える魔法にでもかかっているのだろう。その証拠に仁穂ちゃんが恐ろしく冷たい視線を送っている。
「早く連れてきて」
「もう少し待てば来るよ。そんなにせっかちに生きるんじゃありません」
「あんたに口出しされるような人生なんて御免だ」
佐賀さんがキモイのもあるだろうけど、この二人かなり仲が悪い。この空気に巻き込まれるのは疲れそうだ。
「すみません! お待たせしました!」
私が対応を考えている間にどこかから隼人さんが現れた。
「蔵の整理をしていて気づかなくて。どうぞ」
かなり大変な整理をしていたようだ。隼人さんの額には汗がにじんでいて、体中に埃や煤がついている。
「サガシヤさんが来るってわかっているのにどこに行っちゃったんだろう」
「トヨさんはもう少ししたら神社から戻ってくるんじゃないかって近所の方が教えてくれましたよ」
「ああ、あそこですか」
「先に紹介しますね、彼女がうちの鍵師の鈴鹿です」
「子供ですか……」
仁穂ちゃんは少しだけ頭を下げた。
「子供でも、優秀な従業員ですから」
「はぁ」
不信感をちらつかせながらも私たちは昨日と同じ客間に通された。確かに仁穂ちゃんはまだ中学生だ。私もその実力は見たことがないけれど、そんな顔をわざわざ向けなくてもいいじゃないか。
「気にしなくていい、いつもだから」
私も顔に出ていたらしい。
「やる仕事は変わらないから」
隣に座る凛とした姿をかっこいいと思った。私は同じ年齢の頃、こんなことを言えただろうか。今でさえ、言える気はしない。
「できることがあったら何でも言ってください」
私は私の仕事を。補佐としてできる限りを。
「あら、そうだったわ」
隣室からそんな声がした。あの女性が言った通り、トヨさんはすぐに戻ってきた。
「ごめんなさい。私ったら、最近物忘れがひどくてねぇ」
トヨさんはそう言いながら客間に入ってきた。その姿に何だか既視感を覚えた。彼女が着ているのは昨日と同じ服だった。
「いえいえ。こちら鍵師の鈴鹿です。早速始めさせていただいても?」
「ええ、お願いします」
トヨさんは私たち三人に向かって深々とお辞儀をした。
「じゃああすみさんは仁穂ちゃんを連れて行ってあげて」
「はい」
私たちは客間を後にして、昨日のコレクションルームに向かった。薄暗い部屋の電気をつけるとずらりと並んだ品々が姿を見せた。
「すごいね」
「開けてほしいのがこの箱です」
ドアの向かいの箪笥の上。その箱は仁穂ちゃんが少し揺らしてみても全く動かなかった。
「これ、鍵だけ開けても開かないね」
箱の背面は壁にぴったりとくっついてしまっている。鍵を開けられたとしても、蓋を開けるためには後ろに少しの空間が必要になる。蓋の高さは十センチくらいだが箱の後ろには隙間がない。開けるためには箱を箪笥から動かすか、箪笥を壁から動かすかの二択だ。
「からくりが好きだったなら、この接着もからくりかも」
仁穂ちゃんはそう言って箱の下の箪笥を開けた。ずらりと並んだ宝石のような石が現れる。
「ちょ、勝手に開けちゃだめだよ」
制止も聞かずに彼女は手を突っ込む。内側から箪笥の上部の板を触っているようだ。
「この段外して」
私は仕方なく、言われた通りに一番上の段を外した。それは思いのほかあっさりと外すことができた。まるでそうすることを考えられて作られたみたいに。
「見つけた」
仁穂ちゃんは天板をじっと見つめて、そしてゆっくり触った。何かを把握して、持ってきたビニール袋の中の佐賀さんが買ったキャンディーを口に入れた。
「もう戻っていいよ」
「え?」
ここで彼女を手伝う気だった私はあっけなく退場を告げられた。あの場で私がいても邪魔になるだけだ。佐賀さんと同じ扱いなわけではない。そう自分に言い聞かせて、再び客間に帰ってきた。
「おかえり、仁穂ちゃんアメ舐めた?」
「はい。まずは箪笥から箱を外すことにしたみたいです」
「なら大丈夫だね」
そう言いながら彼は客間のあちこちを漁っている。
「何しているんですか?」
「何って依頼だよ。鍵探し。もしかしたら本当にどこかに失くしちゃったのかもしれないしね」
それもそうだ。私が今すべきことは絶対にこちらだ。
「あすみさんはトヨさんと一緒に探してもらっていい?」
佐賀さんは私の心中を読んだかのように言った。
「隼人さんは?」
「彼は蔵の整理に」
あの様子じゃ蔵の方もかなり大変だろう。サガシヤさん、どこかの部屋からそう呼ぶトヨさんの声がした。
「はーい! すぐ行きます!」
「お願いね」
私は佐賀さんを見て頷いた。
あちらこちらを捜索、に似た大掃除をしていたらあっという間に正午を過ぎていた。腹時計に従ってか、自然と私たちは再び客間に集結した。
「そろそろお昼にしましょうか」
トヨさんが捜索の間に作っていた豪華な昼食が運ばれた。秋野菜をふんだんに使った料理が何種類もある。日頃自分で作ったものしか食べない私も、カップ麺に頼っている佐賀さんも目を輝かせた。久しぶりの客人に張り切っちゃった、とにっこり笑ったトヨさんがかわいらしい。
「あの箱のからくりすごいね。売ったら結構な値段になりそう」
地元の野菜のサラダを頬張りながら仁穂ちゃんは切り出した。仮にも遺産なのになんてことを言うんだこの子は。
「どこまで進んだの?」
「箪笥からは外した」
ぴったり箪笥と接着していたのに、こんなに早く外せてしまうなんて。佐賀さんが仁穂ちゃんを優秀だと言う理由がわかる。
「鍵の方はすぐに開く。でもアメがない」
「じゃあ食後に買いに行こうか」
一番近いコンビニはここから車で二十分くらいの所なはずだ。最後にもう少し頑張ってもらわなくては。
「食べ終わったら少し休憩にしましょうか」
朝からバタバタとさせてしまって、トヨさんは少々疲れてしまったようだ。
「じゃあ私はお留守番していますね」
合わせて洗い物もして、トヨさんには休んでいただこう。食後の予定の会話に加わることなく、隼人さんは早々とご飯を食べ終えて蔵の作業に戻ってしまった。陽が暮れるまで終えてしまいたいから急いでいるそうだ。そんなに大変な作業量なのに一人で大丈夫だろうか。
「ごちそうさまでした。こんなに美味しいお料理は初めてですよ」
「うふふ、嬉しいこと言ってくれるのね」
「私も、おいしかったです」
仁穂ちゃんは恥ずかしいのか目を伏せたまま言った。
「ありがとう」
懐かしい味のするたくさんの料理。私もお母さんやおばあちゃんのことを思い出してしまった。仁穂ちゃんも同じように大切な人の手作りを懐かしんでいるのだろうか。
「行こうか」
佐賀さんは仁穂ちゃんの頭を撫でた。言うまでもなく、その手は秒で払われた。
「片付けはやらせてください」
「お客様に申し訳ないわ」
「これでも私、サガシヤの清掃員なんです」
ぐっと拳を握ってできることをアピールする。
「そう……じゃあお願いしようかしら」
「お任せください!」
清掃員の肩書がこの依頼で役に立つとは。トヨさんはゆっくりとした足取りで奥の寝室に入って行った。
シンクには久々に役目を果たしたたくさんの食器がある。まずはこれらを水で流す。
午前中は一応鍵探しをしていたので、清掃員として作業ができてよかった。助手なんていう曖昧な肩書じゃ自分の役目が認識しにくい。実際今回は仁穂ちゃんの鍵師としての力があればいいわけで、私も佐賀さんも必要ないけれど。
「もし仁穂ちゃんがいなかったら……」
この広い部屋を隈なく探すのか。考えただけでも恐ろしい。
スポンジに洗剤を含ませて一番大きなお皿を手に取る。
いつも、どんな依頼にも、佐賀さんは冷静で余裕があるように見える。できないことはないという自信があるのだろうか。サガシヤとしてのあの人は適当な人ではない。だとしたら、その余裕も本物なのか。あの人はどんな依頼もこなせる人なのか。
「出会いが視える人」
一番最初の依頼で出会った智里さんは、佐賀さんのことをそう言った。その真偽は今も不明瞭なままだ。仮に、それが本物だったとして、それで依頼をこなせるのか。
「佐賀さんは何者なんだろう……」
何歳で、どこの出身で、どうしてサガシヤを始めたのか。そもそも佐賀さんの下の名前を知らない。
重たい泡がボタリと手から落ちた。
あの人は私のことを何でも知っていると言ったけれど、私は何にも知らない。
「やっぱりちょっと気持ち悪い」
ストーカーみたいだ。
蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく流れた。
では、仁穂ちゃんは。あの子とは今日が初めましてだけれど、かわいらしい女の子、是非とも仲良くなりたい。お家はどこなのだろう。部活は、サガシヤで働いていることをご両親はどう思っているのだろう。どうやって鍵師としての腕を磨いたのだろう。
「すみませーん!」
不意に玄関から声が聞こえた。
「はーい!」
トヨさんを起こさないように気を付けながら返事をする。宅配か何かだろう。
「すみません、今日風呂場の水道点検の日なんですけれど、いいですかね?」
はて、そんなことを言っていただろうか。どうしたものかと一瞬ためらうと、業者の人は玄関に置かれていたカレンダーを指した。そこには水道点検と書かれている。先ほどの鍵探しの時によく見た、トヨさんの字に間違いない。
「わかりました。どうぞ」
そう言って私は業者の人を中に入れる。それでももし間違いがあったらいけないから、蔵にいる隼人さんに確認してこよう。私は小走りで隼人さんがいるであろう場所に向かった。
「隼人さん、お風呂場の水道点検の業者さんが来ているのですが、お間違いないですか?」
トヨさんは少し物忘れもありそうだから隼人さんに確認できるならその方がいいと思った。しかし、蔵の中から返事はない。物音一つもしない。それどころか、重そうな扉はぴったり閉じたまま少しも動かなかった。疲れてしまってどこかで休んでいるのだろうか。
「仕方ない、トヨさんに確認をとろう」
再び小走りで家に戻る。
「あら、サガシヤさん」
寝室に向かう途中の廊下にトヨさんがいた。
「起きられたんですね」
「ええ、業者の方が起こしてくださったわ」
「藤堂さんはこの時間いつもお休みですからね」
いつも寝室に入って起こしているんです。業者さんはそう言った。田舎の信頼感はすごい。東京だったら間違いなく即通報される。
「いつものことよ、心配しないで」
トヨさんは私を安心させるためか、もう一度言った。
「じゃあ、お片付けの続き、してきますね」
一度疑ってしまったことが恥ずかしくなる。業者さんからすれば、怪しいのは私の方だろう。私が去ったお風呂場から、トヨさんがサガシヤを紹介する声が聞こえてきた。
「サガシヤを紹介しても怪しい気がする……」
それから十五分ほどで業者さんは帰って行った。あの後、再びトヨさんは眠ってしまったようで、作業が終わった報告は台所にいた私にされた。
「ただいま戻りました」
ちょうど入れ違いに佐賀さんたちが戻ってきた。仁穂ちゃんはキャンディーがいっぱいに入った袋を持っている。
「お帰りなさい。トヨさんはまだ眠られています」
「じゃあ静かにしないとね」
口の前に立てた人差し指を当ててウインクした。
「クソキモイ」
私が思った言葉がそのまま仁穂ちゃんの口から放たれた。佐賀さんはいつもに増してキモイ気がする。もしかしてこの人は仁穂ちゃんに暴言を吐かれることに悦びを感じているのではなかろうか。
「開いたら呼ぶ」
私の横を通ってコレクションルームにまっすぐ向かっていく。仕事熱心で偉いなぁ。
「さて、続きをしようか」
「はい」
あと少しで仁穂ちゃんが開けてくれる、そう分かっているからとても気が軽い。そうだ、この機会にさっきの疑問をぶつけてみようか。
「そういえば佐賀さんって……」
言いかけている途中からドタドタと足音が聞こえてきた。その音はこちらに近づいてくる。
「ねえ!」
勢いよく現れたのは仁穂ちゃんだった。
「そんなに大きな音をたてたら起きてしまうよ」
「ないんだけど!」
「何が?」
私は聞く。仁穂ちゃんは何を焦っているのだろう。
「箱!」
一瞬、空気が凍った。
「ま、まさか。誰も立ち入ってないよ」
「じゃあなんでなくなるの」
「あんなに大きい物がなくなるかねぇ?」
「いいから見に来て!」
仁穂ちゃんを疑うつもりはないが誰も箱を動かすようなことはしていない。勝手に動いたとでもいうのだろうか。
「あらら……」
たくさんの高価そうな物があるコレクションルームの床には仁穂ちゃんの仕事道具が二つの塊に分かれて綺麗に並べられている。その二つの間にはあの箱が置かれていたのだろう。元々置いてあった箪笥の上にもそれはない。消えた、そう言いたくなるくらい他は少しも変わっていない。
「あの箱、固定していないと勝手に動いちゃうのかな?」
「そんな冗談言っている場合じゃないでしょう!」
ははは、と笑っている佐賀さんの目は笑っていない。
「これは困ったね」
この状況を見つかったら、仁穂ちゃんを筆頭にサガシヤが疑われかねない。何より、どんな鍵も開けてしまうというだけで十分怪しい。
「何かあったんですか?」
ひやりと背中を汗が流れた。このタイミングで戻ってきてしまうとは。
「どうやら悪い人がいるみたいですよ」
佐賀さんは躊躇わずに隼人さんに部屋を見せた。箪笥の上のからくりが丸見えになっている。
「箱はどこに?」
「なくなりました」
隼人さんは目をぱちりとさせて仁穂ちゃんを見た。
「お前が盗んだのか」
「そんなことしません!」
絶対、そんなことをするはずがない。今にでも掴みかかりそうな隼人さんの腕をつかんで
そう叫んだ。
「売ったら高そうって言ってたもんなぁ!」
仁穂ちゃんは落ち着いた顔で隼人さんを見つめる。
「なんとか言えよ!」
「まあまあ落ち着いて下さい。ちゃんと、全て考えてみましょう」
トヨさんを起こしてくるように佐賀さんは私に言った。三人は先に客間に戻っていく。一体どうなってしまうのだろう。まさかこんなことになってしまうなんて。
「それでは考えていきましょうか」
広い机を囲んで私たちは座った。
「まずは、最後に確認できているのは昼食前かな」
朝に仁穂ちゃんを案内してからは彼女がずっと一人で作業を続けていたはずだ。
「待て、こいつが作業していると見せかけて盗った可能性がある」
「それはあまり現実的ではありませんね。小さい物ならまだしも、両手で抱えないと持てないような大きな箱をどこに隠して、どうやって持ち帰るんでしょう?」
「お前たちは車で来ているだろう」
「鍵はずっと手元にありました。ということは、私たちの共犯を疑っているということですか?」
佐賀さんはどこからか鍵を取り出した。キーリングからいくつかの鍵がぶら下がっている。
「そうだな。一度出たときにどこかに置いてきたのだろう」
なるほど、佐賀さんは腕を組んで頷いた。
「じゃあ警察を呼べばいい」
「ちょっとお待ちなさい」
静かに話を聞いていたトヨさんはお茶をすすった。
「私には未来がありません。お若いあなた方を巻き込んで、大事にしたくはありません」
警察を呼ぶ必要はない、トヨさんはそう言った。元々あれは旦那さんの趣味の一つ。開かない箱がなくなったところで大して変化がない。
「このお話はもうおしまいにしましょう」
なかったことに。旦那さんの最期の作品ごとなかったことにしてしまう、本当にそれでいいのだろうか。
「そういうわけにはいかない事情があるんですよ。少なくともサガシヤの疑いは晴らしておかないと」
穏やかだったトヨさんの表情が曇る。
「お時間を取らせたりはしませんよ。犯人はもう分かっていますから」
ニコッと笑ってから佐賀さんと仁穂ちゃんが顔を見合わせる。まさか、二人ともわかっているのだろうか。
サガシヤは犯人ではないとして、考えられる人は三人。この家の主である藤堂トヨさん。その孫の藤堂隼人さん。そして、水道の点検をした業者さんだ。いや、もしかしたら他に侵入者がいたのかもしれない。
「隼人さん、あなたですよね?」
「は?」
彼は勢いよく立ち上がった。
「どこに証拠があるんだよ!」
「色々ありますけど、そもそもあなたお孫さんじゃあないでしょう?」
衝撃的な発言が飛び出した。赤の他人が孫を演じていたということか。
「今回の依頼はメールと電話の両方からアプローチがありました。けれど、あなたはそれを知らなかった。では一体誰がメールから依頼をしてきたのでしょう」
一通り鍵を探したからわかる。この家にはパソコンはない。そして、トヨさんが携帯電話を使っているところは見たことないし、そもそも持っているのか怪しい。
「メールは彼にお願いしたのよ。この前に電話で」
トヨさんがそう言うとみるみる隼人さんの顔が青ざめていく。
「トヨさんの物忘れがあれば切り抜けられるとでも思っていたんですかね。トヨさんが忘れてしまうのは人の顔で、出来事は覚えているんですよ」
二日連続で訪れた私たちの顔を思い出せなかったのはそういうことか。一方で水道の業者さんが毎回トヨさんを起こしてくれるから、いつも同じ人だと判断出来ている。
「自分が孫に成りすませたからって安心してしまったんだろうね」
「適当なことを言うな!」
「じゃあ君はなんであんなに長時間外にいたんだい?」
「だから、蔵の整理を……」
「ずっと? ついさっきまで?」
「そうだって言ってるだろう!」
仁穂ちゃんの肩が小刻みに震えて、そして大声で笑い始めた。
「あんたさ、鍵かけた蔵で何してたの?」
こんなことになるとは思っていなかったけれど、彼女はそう言ってちょっとした仕掛けを話し始めた。
隼人さんが身元を偽っていることに何となく気づいていた二人は、食後に飴を買いに出かける前、蔵に寄っていた。ある程度片付けられたそこには隼人さんの姿はなく、扉が数センチ開いている状態だった。そこで鍵師である仁穂ちゃんは悪戯と防犯の気持ちも込めて鍵をかけてから車に乗り込んだ。
だから業者さんが来たあの時、蔵の中から気配を感じることはなく、扉は動かなかったのだ。
「盗んだ箱は外のどこかに隠してあるんでしょう」
「お、お前たちが盗んだんだろ!」
苦し紛れに隼人さんは叫ぶ。
「箱だけなんて盗まない。価値があるのは箪笥も含めてだよ」
馬鹿にしたように鼻で笑う。確かにあの箪笥の上を見れば、からくりがどれだけ複雑そうなのかはよく分かった。
「箱はすぐ開くって仁穂ちゃんが言ったから簡単に開けられると思っちゃったんだろうね」
かわいそうに、佐賀さんも同じように鼻で笑った。佐賀さんは立ち上がり隼人さんの耳元で何かを囁いた。
「数日かけて盗んだ他の物もすぐに返したほうがいい。トヨさんにはばれていないかもしれないけれど僕にはわかる。君がこの家で何をしたのか、全部、知っているよ」
「ちがっ……」
「他にあと五つ、イギリスのお人形とかね」
佐賀さんが何を言ったのか私たちには聞こえなかった。
その後、私たちは屋敷から少し離れた所に停められた古びた車に連れられた。人目には付きにくい場所だった。隼人さんはおとなしく車を開けて、盗んだものを全て屋敷に戻した。
お金がなかった。
盗みの動機を彼はそう言った。一度きりの犯行のつもりが、偶然にも見つかってしまって孫になりきることにした、と。
トヨさんの判断で警察は呼ばないことになったものの、これが完全犯罪にならなくてよかった。
「ごめんなさい」
一方、取り戻した箱の鍵を開ける作業を再開できた仁穂ちゃんは、宣言通り数分で鍵を開けた。
「まあ、懐かしい」
大きな箱から出てきたのは一つの簪だった。その箱に対してかなり小さい。トヨさんはそっと手を伸ばして簪に触れた。
「私があの人と初めて会ったときに着けていたものだわ」
ずっと昔の思い出を、最期の時まで大切に、大切に持っていたのか。これが旦那さんの遺したかった物。
「ありがとう」
トヨさんは笑顔で仁穂ちゃんを見た。佐賀さん、私、と順番に視線を合わせて最後にもう一度簪を見た。
「皆さんのおかげであの人にまた会えた気がするわ」
「一件落着だね」
無事に依頼を終えて、私たちは車を走らせていた。辺りはすっかり日が暮れている。
「でも本当によかったんですか、逮捕しなくて」
「僕たちは何も見なかった、それでいい。少なくとも盗られたものは全部戻ったんだし」
トヨさんに何度確認しても警察は呼ばない、と一点張りだった。それどころか、行く当てがないのならこのままここで暮らせばいいとさえ言っていた。
「老人の一人暮らしは寂しいのでしょうよ」
だからって一緒に暮らしたいと思うだろうか。自分の旦那の遺作を盗むような人間と。私には理解できない。
「人の行動のすべてが理解できるわけじゃないからね」
「心を読まないでください」
「顔に出ているんだよ」
見慣れた街が近づいてきた。街路樹が赤茶色に色づいている。
「あ」
「どうしたんですか」
「書類まだ書き終わってないや」
書類、昨日の朝にぼやぼやと取り組んでいた警察に出すあれのことだろう。
「は?」
「ごめん仁穂ちゃん、事務所に千宜がいると思う」
一瞬で仁穂ちゃんの表情が青くなる。その人は誰なのだろう。
「はい到着、事務所に帰りましょうね」
石造の如く動かなくなってしまった仁穂ちゃんを何とか車から降ろして、私たちは洋服屋のドアを開けた。
「イラッシャ……」
片言のいらっしゃいませを言う店員さんの隣に見たことのない男の人が立っていた。佐賀さんとは違って黒いスーツを着こなしているその人は、美しい姿勢のまま立ち上がった。
見たことのない……?
「この前の警察官!」
先日の姉弟の母親を逮捕した人だ。
「どんな事情があれ提出物の締め切りは厳守だぞ、サガラ」
「ごめん、まだ終わってないからすぐ書いてきます」
スーツの人は和服の人を鋭い目で睨んだ。佐賀さんはそのままそろそろと階段を上って事務所に戻っていく。
「鈴鹿」
「……はい」
「元気か」
「……はい」
仁穂ちゃんはこの人の顔を見ようとはしない。怖がる気持ちもわかる気がする。何だかこの人からは圧を感じる。
「先に事務所で待っていなさい」
仁穂ちゃんは言われた通りに、足早に階段を上って行った。一階に残されたのはこの人と従業員さんと私。
「初めまして、いや、お会いするのは二度目ですね」
身だしなみの整ったちゃんとした人のはずなのに、その内に秘められた敵意のような物を感じる。漠然とした恐怖だった。いつの間にか指先は冷え切って、全く感覚がない。
「特殊警察の麻野千宜です」
胸ポケットから警察手帳を取り出してこちらに見せた。
「端的に言いましょう」
私は何も言えずにただ彼の冷たい瞳を見ていた。
「サガシヤを辞めていただきたい」
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