第2節 俺の独り唄
※ 20 ※
幼馴染。
白く汚れた黒板に書かれたその言葉から俺が真っ先に思い浮かべるのは、
幼馴染という言葉の意味ではなく、
先輩のイタズラっぽい笑顔だった。
しかし幼馴染と言っても、俺と先輩は小学生の頃と高校の頃との二年ほどの付き合いしかない。そう考えると、
俺にとって先輩は昔近所に住んでいたひとつ年上の明るいお姉さんで、
先輩にとって俺は昔近所に住んでいたひとつ年下の暗い少年程度だろう。
だけど、俺は幼馴染と聞くと、真っ先に先輩の笑顔を思い浮かべるのだった。
別に恋心がある訳ではないし、
別に恋心があった訳でもない。
少し可愛いからと言って、
少し他の人よりも親しげに接してくれているように感じるからと言って、
それが先輩に恋心を抱く一因になるのかと問われれば、それは間違いなく「否」である。
そもそもの話、俺は先輩に好印象を抱くことが難しくなっている。
※ 12 ※
小学生の頃だった。
俺がまだ自分のことをボクと呼び、先輩をまだ先輩と呼んでいない頃だった。
まだ俺に父親がおらず、
俺が今ほど自分を嫌いでない頃だった。
「あたし、友姫。よろしくね」
「はあ、どうもです」
俺が小学六年生の頃、アパートの隣の部屋に先輩の家族が引っ越してきた。母子家庭だった先輩は、放課後になるとよく俺を部屋に招いて遊んでいた。
先輩に友達がいなかったわけではない。
俺に友達がいなかったわけではない。
単純に、親が家にいる時間が少なかったのだ。
俺も、先輩も、
二人とも。
境遇が似ていたからだろう。
そして、部屋が隣だったからだろう。
「えーと、んー、名前は?」
「……貝塚です」
「それ名字じゃない?」
「…………まあ、はい」
同情されているようで、
同情させようとしているようで、
当時の俺は、
まだ子供だったボクは、
先輩にあまり好意を持てなかった。
だから、一年後に貝塚家の引っ越しが決まった時、何故かとてもホッとした。
※ 15 ※
苦手だったのだ。
いや、
俺は、人付き合いが苦手なのだ。
物心付いたときから父親がいなかったからだろうか。
唯一の肉親である母親がいつも家を空けていたからだろうか。
親のいる他人が羨ましかったからだろうか。
親がいなくても笑顔でいる他人が羨ましかったからだろうか。
どれも違うような気もするし、
どれも正しいような気もする。
でも、一番の理由は、
「ごめん、俺そういうのわからない」
「………………え?」
「いや、うん。ごめん」
感情の起伏が乏しいことだろう。
俗に言う失感情症ではない。
花を美しいと愛でる心は持ち合わせているし、
異性を愛しいと謳う心も持ち合わせている。
ただ少し、
人に向けるべき感情がわからないだけだ。
「え、その、ごめん……て?」
「うん? ああ、ごめん。聞いてなかった」
「え、と……」
人に向ける感情がわからないということは、
人から向けられる感情がわからないということ。
嬉しいとか、楽しいとか。
寂しいとか、悲しいとか。
苛立たしいとか、腹立たしいとか。
心地好いとか、気色悪いとか。
他人を好く意味が、
人間を好く理由が、
俺に関心を持つ道理が、
ただ少し、
わからない。
※ 16 ※
意識の隙間を突かれた、と表現すれば良いのだろうか。
高校時代の俺が教室から出るのは、昼休みか、移動授業の時か、放課後だけだった。それ以外の休み時間は寝るか次の授業の予習をするかだった。
クラスメイトと積極的に関わろうとすることはなかったし、
クラスメイトが積極的に関わろうとすることもなかった。
声をかける時は、事務的なやり取りが発生する前触れだ。
「貝塚」
「…………」
「おーい、貝塚」
「……ん? あ、ごめん。なにかな」
「なんか貝塚を呼んでくれって、廊下で待ってる」
「うん、ありがとね」
薄味な会話に目を擦りながら、
機械的に身体を動かし、
廊下に出た。
「やっほー、づっち」
「……誰ですか?」
「えっ」
本当は、
一目見た瞬間から、
一声聞いた瞬間から、
先輩であることは理解出来ていた。
懐かしさはなかった。
あるのは、息苦しさだけ。
既に劣等感の塊を胸に押し込めながら息していた俺は、
常に罪悪感の塊を背に負いながら生きていた俺は、
ボクが持っていないものを持っていた先輩を直視することが出来なかった。
だから、
「ほら、私だよ。中学生の頃……って、づっちはまだ小学生だったっけ」
「はあ……」
「アパートで隣の部屋だった、友姫」
「…………、あー」
「思い出したっ?」
「全く」
だから俺は、
ボクは、
知らない、と。
一言、大きな嘘を吐いた。
※ 17 ※
先輩と再会してから、
否、知り合ってから、およそ三ヶ月年が経った。
たった三ヶ月でなにが変わるのか、と思うが、俺は主体性のない人間だ。
影響力が人一倍強い先輩に付きまとわれては、変わらない方が難しい。
たとえ、それが面の皮一枚だったとしても。
「最近、昔と比べてよく笑うようになったよね」
「……そうなんですかね?」
「うんうん。昔はなにしてもつまらなさそうだったから、嬉しいよ」
「えーと、はい」
「あはっ、なにそれ?」
「あはは……。あんまり会話は得意じゃなくて……」
「うん、知ってる」
知ってる。
それは、とても具合の悪くなる言葉だった。
俺の知る俺を知っている。
俺が知らない俺を知っている。
俺の知るボクを知っている。
俺が知らないボクを知っている。
それは、
とても、
恐ろしいことだった。
苦しいことだった。
狂おしいことだった。
悲しいことだった。
辛いことだった。
「……ね、づっち」
「なんです」
「好きだよ」
「はあ、そうですか」
「……えっと、それだけ?」
「なにが好きかわからないんで、まあ、これだけですね」
わかっていた。
「私、づっちのこと好きだよ。て言うか、愛してる」
「は?」
「だから、づっちのこと愛してる」
「…………、はあ」
「ね、返事聞かせて?」
「……俺は、先輩のことはどちらかと言えば好きな方ですよ」
嘘を吐いた。
「友達的な意味で?」
「はい」
「私は、そういうんじゃないんだけどな」
「……あー、と。すみません。そういうの、俺にはよくわからないです」
「わかるようになりたい、とは思ったりしない?」
「しません」
耳を塞いだ。
「そう……なんか、ごめんね?」
「いや、先輩が謝るのはおかしいでしょう」
「なに? づっちが謝るって?」
「いや、それはないですけど……」
「あはっ、ずるいなー、それ」
「そう、ですかね」
「そうだぞー。……あ、信号青だから渡るね。じゃ、また明日」
「はあ」
横断歩道を渡る直前に、先輩はいたずらっぽく笑う。
思わず、目を逸らした。
見ない振りをした。
だから、
見えなかった。
見てしまった。
悲しそうに笑う、その顔を。
※ 20 ※
先輩を思い出すと、決まって気分が悪くなる。
自己嫌悪、なんて表現したら、怒られるだろうか。
怒る人は、
怒ってくれる人は、
いるのだろうか。
「貝塚くん」
「…………、あー、なに?」
「再来週の土曜日空いてる? サークルの皆で飲み会するんだけど、貝塚くんもどうかな?」
「再来週……。その日は……あー、いや、うん。参加するよ」
「ホント? 良かった。それじゃあ、お昼過ぎにいつもの教室で集合だからよろしくね」
「お昼だと、少し遅れるかもだけど、大丈夫かな?」
「そう? じゃあ、連絡先教えてくれる? お店まだ決まってないみたいだから、決まったら連絡するね」
「わかった」
「なるべく早く来てよねー」
「善処します」
他人に理解されるのが恐かった。
他人を理解するのが怖かった、
だけど、
俺を理解して欲しかった。
俺を受け入れて欲しかった。
独りは嫌だった。
誰かに守って欲しかった。
誰にも侵されたくなかった。
ボクはどうしようもなく臆病者で、
俺はどうしようもなく愚か者で、
ボクを受け入れようとしてくれた先輩は、
俺を理解しようとしてくれた先輩は、
どうしようもなく、
※ 20 ※
「久しぶりです、先輩。朝早くからすみません」
先輩は、
「先輩は朝弱いですからね、本当はお昼ぐらいに来たかったんですけど、ちょっと予定が入っちゃって。……あはは、すみません」
あの日から眠り続ける先輩は、
「お詫びに先輩が好きだったホットケーキ焼いて来たんで、どうかこれで勘弁してくださいね」
最期まで笑顔を絶やさなかった先輩は、
「…………」
どうしようもなく、
独りぼっちだった。
「羨ましいなあ、本当に……」
先輩は、俺が持っていないものを持っていた。
俺は、先輩が持っていないものを持っていた。
先輩は、俺が持っているものを持っていなかった。
俺は、先輩が持っているものを持っていなかった。
ただ少し、
なにか少し、
ボクが違っていれば、
俺はもう少しマトモだったのだろうか。
「ね、友姫ちゃんはどう思う?」
…………。
少し困った顔で、笑われた気がした。
ああ、
本当に、
本当に、
「……今更ですけど、ずっと前から先輩のことが嫌いでした。ごめんなさい」
羨ましい。
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