君と俺の独り唄
めそ
第1節 俺と君の独り唄
突然だった。
「好きだよ。て言うか、愛してる」
「…………、」
本当に、突然だった。
脈絡なんてなかったし、付け加えるなら場の雰囲気もその言葉に合うものではなかった。
夕暮れ時というのは確かにロマンチックではあったが、場所が校舎裏ではなく赤信号に待たされる交差点ではロマンチックが風に吹かれて消えてしまう。
だけど、
彼女にとって、
今が最高のタイミングだったのだろう。
「は?」
「だから、づっちのこと愛してる」
「…………、はあ」
俺にとっては突然過ぎるタイミングだったけど。
「ね、返事聞かせて?」
その日は、
夏休みを目前にした、馬鹿みたいに蒸し暑い金曜日だった。
※ ※ ※
敢えて言葉足らずに説明すると、俺には記憶がない。
勘違いのないように説明すると、俺には小学生のころのことをあまりよく憶えていない。
……と、言うことにしている。
本当のことを言えば、俺は断片的ではあるが、小学生のころの記憶までならはっきりと遡り思い出すことが出来る。だから、先輩が俺の幼馴染であるということも承知しながら憶えていない振りをしている。
記憶喪失、と言えば大袈裟だけど、何故昔を覚えていない振りをしているのかと問われれば、
「づっち、デートしよ、デート!」
「放課後に毎日してますよ」
「そうそう、いつもみたく下校デートをしようと思ってさ……って、ちがーう! それ私達が付き合う前からしてたでしょ!」
「いや、先輩が勝手に付いてきてただけですよ」
「…………え、そういう認識だったの?」
この今にも泣きだしそうになっている川良友姫という先輩が、
この今にも叫び出しそうになっている川良友姫という幼馴染が、
実のところ嫌いだからだ。
幸せそうに笑う彼女が、
楽しそうに笑える彼女が、
心から笑えない俺の不出来さを見せつけられているようで、
先輩を好けないボクの度量の狭さを責められているようで、
そしてなにより羨ましくて、
それらを認めたくないから、
俺は嫌いなのだ。
小学生であった頃の俺は、
まだ自分をボクと呼んでいた頃の俺は、
先輩を友姫ちゃんと呼んでいた頃の俺は、
母子家庭に育てられていた。
俺が小六になる前の春休みに、その年の四月から中学生になる先輩とその家族がアパートの隣の部屋に引っ越してきたのだ。
当時の先輩も母子家庭で、今現在も一人暮らししてはいるが未だに母子家庭らしい。
ボクはよく、放課後になると友姫ちゃんに遊びに誘われた。俺のようにスレてしまっていないボクは、渋々ながらも、多少照れながらも、嫌々そうに友姫ちゃんと遊んでいた。
ボクに友達がいなかったわけではない。
友姫ちゃんに友達がいなかったわけではない。
多分、
仲間意識からだろう。
朝、起きておはようと声をかけてくれるのはメモ用紙。
夜、寝る前におやすみと声をかけてくれるのは自分の声。
思い返してみれば、
友姫ちゃんが引っ越してくるまで、
ボクの心の大半は孤独で占められていた。
余裕がなかった。
今にも息が詰まって死にそうだった。
目に映る全てに嫌悪していた。
目に映る全てを呪っていた。
そしてそれ以上に、
誰かに、
母に、
誰でも良いから、
甘えたかった。
ただそれでも、ボクはすでにどうしようもなく歪んでいた。
好意を好意と受け取れず、
親切を親切と受け取れず、
善意を善意と受け取れず、
言葉を言葉と受け取れず、
全てに悪意を感じながら、
猜疑心にまみれてボクは息をしていた。
幻の悪意に囲まれてボクは生きていた。
自分にもわからない地雷を抱えて、
自分にはわからない棘を吐きつつ、
自分にしかわからない嘘を頼って、
ボクは、
俺は、
友姫ちゃんに出逢うまで、
先輩と再び相対するまで、
世界の全てから逃げようとしていた。
友姫ちゃんは、そんなボクの全てを受け入れようとしてくれた。
先輩は、こんな俺の全てを理解しようとしてくれた。
嬉しかった。
恐ろしかった。
俺は、自分が何故生きていられているのかわからない。
いつだったか、自分の中に潜む得体の知れないモノを知覚してから、
どうして自分が生きているのかわからなくなった。
どうして自分が活きているのかわからなくなった。
自分について知らないことが多いまま、
自分について知らないことを残したまま、
諦めたように、
疲れたように、
逃げるように、
みっともなく生き続けられる自分が理解出来なかった。
恥ずかしげもなく生き続けようとする自分が恐ろしかった。
理解出来ないことに人間は恐怖すると言うが、
そういう意味では、
ボクはボクに恐怖した。
俺は俺に恐怖している。
そしてそれ以上に、
こんな意味不明な人間を受け入れようとする、理解しようとする、愛そうとする、好意を向ける対象にしようとする、壊そうとする、自分のモノにしようとする、
全てを見透すような目の少女に恐怖している。
同じ母子家庭という環境に育てられながら、
同じ親とのコミュニケーションに欠けた環境にありながら、
笑顔であり続ける少女を嫌悪していた。
笑顔でいられない自分に嫌悪していた。
つまるところ、
俺は俺が大嫌いだから、
俺は俺が大好きだから、
自己保身のためだけに、
俺とまるで違う先輩のことが嫌いなのだ。
俺とまるで違う先輩のことが好きなのだ。
多分、
「でも、俺は電車通学で、先輩は徒歩通学で、デートするにしてもあまり時間は取れないと思いますよ」
「づっちが私の部屋に泊まれば良いじゃん。夏休み中全然遊べなかったし」
「……………………いや、着替えとか、下着とか、明日も学校ありますし、ほら、色々用意するの面倒ですし、それにそんな、一つ屋根の下に、年頃の男女が、ですね、」
「あは、かわいっ」
「――――っ」
「ね、明日のことなんて考えないでさ、今からどこか遊びに行かない?」
「……いや、無理です」
「んー、そっか。真面目だね」
「そんなんじゃないですよ」
共依存。
自分のことは大嫌いだけど、
他人のことも大嫌いだけど、
自分のことを好いていて欲しい。
自分のことは嫌わずにいて欲しい
これは、
そんな二人の、
破滅劇。
※ ※ ※
破滅劇、なんてカッコいいことをテキトーに言ってみたけど、多分俺が先輩を無視するようになって幕を閉じるだけだと思う。
俺はとても飽きっぽい性格なのだ。
先輩はとても粘着する性格だけど。
うーむ、そう考えると、この閉じられた幕は場面転換を示す幕で、第二部のために再び開かれそうだ。何故だろう、先輩がストーカーと化していそうな気がしてならないが。
…………、
「俺、先輩のこと嫌いです」
高校生活最初の春休みを前にして、俺は先輩にそう告げた。
「嫌いだけど、好きです」
頭の中がシンと澄んでいて、
胸の内がぐちゃぐちゃに荒れていた。
風邪気味なのかもしれない。
「私も、づっちのこと嫌いだけど好きだよ。て言うか愛してる。舐めて良い?」
「……なんです、その、頭の悪そうな発言?」
「自分で言う?」
「いや、最後のひとことですよ」
「これしか愛情表現知らないの」
べろり、と。
首筋を舐められた。
ざらりとした舌の触感に、
ぬらりとした唾液の触感に、
「っ」
思わず身震いする。
干渉されたくない。
触れ合いたい。
矛盾する想いを振り払うように、
身震いする。
「あの、路上でそういうのはやめてくれません?」
「いいでしょ、別に。こういうの他人に見られてると興奮しない?」
「しないです。気持ち悪いです」
嘘だ。凄い興奮する。多分、背徳感を快感と取り違えているだけなのだろうけど。
先輩をそっと押し返し、いつもの交差点で立ち止まる。
いつもここで別れを告げる。
じゃあね、また明日。帰ったら電話してね。
では、また明日。覚えてたら電話しますよ。
「づっち、お昼食べてこ」
今日のところは、まだ別れるには少し早いらしかった。
「……どこでですか?」
「パスタ屋さん」
「はあ」
先輩は時々、物を指してさんと付けて呼んでいるがなにか深い意味があったりするのだろうか。
なんて、くだらないことを考えて気を紛らわせてみたり。
「駅前のショッピングモールですかね」
「なんて名前だっけ?」
「さあ、興味ないんで覚えてないですけど」
「あはっ、私も」
私も。
俺も。
ぼくも。
彼も。
彼女も。
あなたも。
皆も。
そういう言葉が、俺は大嫌いだ。
同族意識というか、同調圧力というか、
仲間意識というか、強要圧力というか、
ぼくは、
俺は、
他人と一緒にされることが大嫌いだ。
死ぬほどではないけど、
死にたくなるほどではないけど、
まあ、思わず顔をしかめてしまう程度には、
嫌いだ。
「じゃ、行こっか」
先輩はくるりと踵を返し、
ふわりと足を踏み替えて、
普段なら渡るはずの横断歩道から、
普段から渡ることのない横断歩道に顔を向ける。
「ん、」
先輩はふと思い出したように、なにげない仕草で俺の右手を取った。
「っ」
ゾッと、
虫酸が走る。
これは単に、俺が他人と肌を触れあわせるのが苦手なだけなのだが。
それでも、
やはり他の誰でもなく先輩と手を繋ぐという行為は、
吐き気がする。
自分が嫌になる。
他人が嫌いなくせに、他人と触れ合うことに安堵している俺が、
心底嫌になる。
その嫌悪感を先輩に向けてしまうのだから、性格が悪い。
「恥ずかしいからやめてください」
なんて言いながら手をつっ離し、
俺は不機嫌な表情を作って先輩の左隣を歩く。
「あはっ」
先輩は身体を揺らして俺に体当たりしてくる。転ばないように踏み込みながら先輩から離れると、ひょいと腕を掴まれた。
掴まれたと言うより、捕まえられた。
「もう、可愛いんだから」
「いや、あの……」
熱いくらい温かくて、溶けてしまうのではないかと思うくらい柔らかい。
皮膚の下にある脂肪が筋肉よりも多いだけなのだが、
たったそれだけのことで、
先輩を異性と意識してしまう。
先輩を愛しく思えてしまう。
ああ、
嫌悪感。
※ ※ ※
先輩は俺の扱い方を心得ている。
無愛想に相手を突き放すが、本当は構って欲しいことを理解している。
先輩は俺の愛し方を心得ている。
裏切られるのが怖くて堪らないから、本当は好かれたいのに自分から嫌われようとしていることを理解している。
あの俺の全てを見透かしたかのような瞳は、俺にとって必要な物なのかもしれないが、
ただただ、気味が悪い。
「それ美味しい?」
イカスミで唇をほの黒く染めながら、先輩は紙ナプキンで俺の唇に付いたバジルソースを拭った。
恥ずかしいし気色悪いからやめて欲しい。多分、先輩にも同じことをしろということなのだろうけど。
「……俺って、好き嫌いははっきりするほうなんですよね」
先輩の唇に付いたイカスミを紙ナプキンで拭ってやりながら、ぽつりと呟いてみる。
「どしたの、突然」
「ほら、さっきも先輩のこと嫌いって言ったじゃないですか」
「うん、死のうと思った」
鼻で笑おうとしたが、目が本気だった。
が、とりあえず鼻で笑う。
「そういうものでしょう、人間って。長年連れ添った夫婦にしたって、互いに相手の好きなところも嫌いなところも全部飲み込んで一緒にいるんですし。……偏見ですけど」
「私はづっちのどこも嫌いじゃないよ。全部好き。愛してる」
「俺もですよ」
さっきと言っていることが少し違う気がするが、気にせず頷く。
邪気しかないところとか、隙あらばくびり殺そうとする笑顔とか、俺の力では抜けられそうにない底無し沼を心に抱えているところとか、人前でも平気で俺のことを愛してると言えるところとか、
もう気が狂うほど愛してる。
まあ、嘘だけど。
「それで、結局それは美味しいの?」
「俺は嫌いです。油っこくて胸焼けがしますね。古い植物油使ってる味です」
先輩と相席しているということもあって、気を抜くと胃の中に押し込んだパスタが逆流してしまいそうだ。
「一口貰って良いかな?」
先輩は半分ほど食べたイカスミパスタを俺の方に押しやりながら、ひょいと俺のバジルソースのパスタを奪い取った。
「全部食べていいですよ」
「ん」
つるつるとパスタを啜るように食べる様は正直寒気がするし、バジルソースを「美味しいじゃん」と言える神経には殺意すら覚えるのだが、塩味の他に味気がないこのイカスミパスタも美味しい美味しいと食べていたので、もしかしたら先輩はなんでも美味しいと言う人間なのではないだろうか。
羨ましい。
きっと、楽しい人生なんだろうな。
「はい、ご馳走様」
先輩は一口食べただけのバジルソースのパスタを返し、俺の手元からイカスミパスタを奪っていく。
いやしかし、先輩は本当に美味しそうにものを食べる。口に含むごとに笑顔をこぼすものだから、実は俺の味覚がおかしいのではないかと本気で疑ってしまう。
だからつい、先輩につられるようにして俺もパスタを口に含み、
「…………」
酷く後悔した。
このパスタ屋はもう二度と来たくない。
というかこれ以上このパスタを食べたくない。
「あの、先輩」
「んー?」
先輩はまた唇を黒くそめ染めながらこちらを向く。いやなんとも色気のない化粧だな、イカスミは。気味が悪すぎて俺の口からなにか出てきそうだ。
「俺のかわりにこれ、食べてくれません?」
「いいけど、貸しだよ?」
「自分で食べます」
俺はしぶしぶ、緑色の油臭いパスタで腹を満たした。吐きそう。
俺が胃の中でぐるぐると暴れ回る不快感に苦しめられていると、先輩が水の入ったコップを差し出してきた。それで良くなるとは思えないが、受け取って飲み干す。
「づっちって、付き合い初めてからガード固くなったよね」
「先輩の遠慮がなくなってきたからです」
俺が線引きしておかないと、底無し沼に頭から突っ込みそうで恐ろしい。
「間接キスは良いんだ?」
「不自然じゃなければ、ですけど」
「あは、変なの」
そうは言うけど、小学生の頃が異常過ぎた。
ことあるごとに、
なにもなくても、
友姫ちゃんはボクにキスをしてきていた。
多分それしか愛情表現を知らなかったのだろうけど、
それなら小学生男子のように悪戯してくれた方が随分と良かった。
その方が、
ボクは友姫ちゃんをもっと嫌いになれたのに。
俺が先輩を好きになることなんてなかったのに。
※ ※ ※
先輩のアパートの借り部屋には泊まらない、みたいな会話をいつかした気がする。
だけどそれは泊まらないという話であって、お邪魔しないという話ではない。
そんな言い訳を用意され、具合の悪さで判断力が鈍らされ、
頭の片隅で危機感を覚えながらも、俺は先輩の部屋で寝かされていた。
「吐き気止め買ってこようか?」
「お願いします……」
自分の声が驚くほど弱々しい。
思えば、さっきのパスタは人生初の外食だった気がする。
パスタの味を思い出すだけで吐き気が強くなった。
「五分で戻るから我慢しててね」
靴を履きながらそう告げる先輩の後ろ姿が、
「それじゃあ、大人しく寝てるんだよ」
幼い頃に見た母の後ろ姿と重なった。
「……あの、先輩」
「ん?」
俺が呼び掛けると、先輩は開きかけたドアを閉じてこちらを振り返る。
重なる。
どうしようもなく、恐ろしくなる。
だけど、俺の口は俺の意思とは関係なしに言葉を紡ぎ出す。
「やっぱり、具合が良くなるまで一緒にいてくれませんか?」
「…………」
大きく目を見開いて、驚いた表情。
この時ばかりは、先輩が普段から身に纏っている虚飾は全て剥がれ落ちているようだった。
先輩は表情を驚いたものから好奇心混じりのものへと変化させ、
相変わらず虚飾が剥がれ落ちたまま、
「ね、ギュッてするね」
「嫌です」
「ヤダ、する」
靴を脱ぎ捨てる勢いで、仰向けに寝転がる俺に抱き付いてきた。
抱き付いてきたというより、圧し掛かってきた。
「おえ」
「やだもう可愛い。ね、今日泊まってかない?」
「いやだから、そういうのはもっと良識を身に付けてからで……」
「良識が身に付かないまま年だけ重ねる人だっているんだからさ、大丈夫だよ」
「なにも大丈夫じゃないですよ」
駄目な例を言い訳にしていたら、いつしかその駄目な例になってしまう。
だからと言って駄目な例を反面教師にしようとしても、それしか見てないから他のものになりようがなくなってしまう。
結局、俺は先輩の言うままに一泊してしまった。
なんて主体性のない、不甲斐ない人間なのだろうか。
我ながら、あまりにも滑稽で嗤えてくる。
※ ※ ※
先輩は、昔と変わらず人の話を聞かない人だった。
話を聞かず、
話しもせず、
一人で勝手に答えを出して、
一人で勝手に納得して、
一人で勝手になにかをする人だった。
幼い頃から。
再会してからも。
昨日だって。
そして多分、
今回も。
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