意味のない歌詞と言ってすぐに思い浮かぶのはやっぱり『恋しさと せつなさと 心強さと』ですかねぇ。あの歌は歌詞を楽器として使っているからああなったのだろうなと言う気がします。さすがは小室哲哉氏だぜ。
私は歌詞重視なので、あんまり意味のないのは興味がわかないのですけど(汗)。
ただ、曲に合わせる歌詞のテクニックって中々に奥が深そうですね。そう言う制約を守りながら意味のある歌詞を書ける人は流石だと思います。書けるだけじゃなくて笑える歌詞を書ける人は更に尊敬します。才能ないと書けませんよね。
作者からの返信
お、ありがとうございます!
意味のない歌詞ですか、ありますね。ダンスミュージックは特に。
ご指摘のその曲、メロディーの頭がほとんどアとイの母音の言葉で始まるように綿密に設計されていますよね。
恐らくサウンド重視で意味はあまり求めない造りなんでしょうね。
笑える歌詞ですか? 嘉門達夫的なのですかね?
長崎かーらーふーねに乗ってー神戸で吐ーいたー♪
みたいなのでしょうか笑笑。
でも意味がないか。
「愛しさと 切なさと 糸井重里」
にしたら意味はないけどもっと笑えましたね〜。
小室哲哉といえば、あの人のダンスミュージックって三三七拍子が多くて、さすが日本人受けするはずだなぁと思います。
こんばんは!
読んでいてすごく面白かったです!
イントネーションのところが特に。『赤とんぼ』、確かにそうですよね!
私は聴くの専門で作ったことないし、楽器を演奏したこともないんですが、
こういうお話が大好きだったりします。
大好きな歌手の方が「今回初めて作詞しました!」って言ってたら、ちゃんと歌詞に注目してあげないと。。。な~んて思いました^^
また次の更新も楽しみにしていますね。
作者からの返信
どうもありがとうございます!
楽しんでいただけて良かったです。
何しろちらしの裏なので、それ見せるって言われても……というような話ばかりだと思うので(汗)。
言葉で表現できることなら小説や詩を書けば済むのですけど、歌で表現するっていうのはまた言葉だけで表現するのとは違った縛りがあるんですね。
しかし表現ってその縛りがある不自由さから生み出される豊かさなんですよね。
わたしたちが自由に動けるのが、奇しくも重力という制限を受けているからこそだということと何か通じるような気がします。
表現は自由。
その通りだと思いますが、適切な制限があるからこその自由ということに意外と人は気づいてなかったりしますね。
そういうわたし、実は音楽を聴いていてもほとんど歌詞が入って来ない体質でして(汗)。
でも大事なんです、歌詞って。
濃い内容の作詞論、興味深く拝読しました。いつもの感想ですが、タダ読みできる文章でこれだけ語ってしまってええもんだろうかと思いました。多分、この内容をそこそこ水増しするだけで、定価数千円の「作詞の極意」みたいな本とか、参加料ン万円の「作詞講習会」などに化けそうな気がします 笑。
「赤とんぼ」の話は、かつて講義とか書物なんかで聞いたことがありますけれど、これの話のややこしいところは、「関西弁だとイントネーションがひっくり返る」ことなんですよね。実際、関西ネイティブの私には、この話が今ひとつ説得力を持って迫ってきません。困ったもんだ。まあ、関西人が納得できるメロディーラインは、フォークソングあたりで探せばいくらでも出てくるのでしょうが。
逆に言うと、関西人の耳には、文部省唱歌や童謡などは、イントネーションが人工的な分、どこか斬新でスタイリッシュに感じられたりもしたんではないかと思います。これも実証しようがないことなんですけれども。
ところで昔から不思議なんですけれど、日本語の歌詞にヨーロッパ言語のような韻がないのはなんでなんでしょうね。「詩」では結構基礎的なこととして韻が入りますけれど、「詞」になったとたん、適当と言うか何と言うか、ほったらかしですよね。こちらの文中で語られていたような、言葉の音としてのサウンドを重視するあまりに、韻は脇へ避けてしまったということでしょうか。であればそれはそれで、歌と言語の関係のあり方として、世界的にも独自色打ち立ててるよね、と偉そうに語ってもいんではないかと思うんですが。
作者からの返信
どうもありがとうざいます。
まぁ、作詞のプロでもない素人がちらしの裏に書いた戯言ですから笑。わたしはそんな講義とか書物とかで学んだことすらないですし汗。
ただ、明らかにその辺りの最低限の知識すらないのにプロの作品として堂々と世に出ているのがちょっと気にかかったりはしているので、老婆心ながら作詞しようと思う人向けに知っておいてほしいと思って書いた次第です。
もちろん、イントネーションやアクセントのことは、必ずしもこうであるべきというわけではないのですが、どうしても聴いていて耳に心地よくない場合があるんですよね。自分でも以前作った曲で、2番の歌詞のここの部分だけメロディと歌詞のイントネーションに違和感あるなってケースがあったりしまして。
結局後からピッチ補正でその部分だけメロディを強引に変更しましたね、気になってしょうがなくて笑。
さて、本文中赤とんぼを例に出しましたが、実はあの歌も「赤とんぼ」のところのイントネーションは違和感を感じます。もしかして昔はイントネーションが今と違ってた可能性もありますけど。
例えば「紅茶」のアクセント、NHKのアクセント辞典によると、昔の版では⤵というイントネーションだったそうです。今の版では→と平坦なものになってます。
関西弁とフォークソングのお話が出てきましたね。個人的な印象として、関西は昔からブルース系のミュージシャンも多いイメージですけど、メロディも関西弁(大阪弁?)に合わせているケースが結構ある気がします。やっぱ好ーきやねん♪ とか。無理やり標準語に合わせなくてもそういうのもいいんじゃないですかね。要は聴く人にとってどうかなので。
日本語の歌詞の韻についてですが、そこら辺を分かっているミュージシャン(作詞家)の場合はよく考えられていると思いますよ。
特にラップでは韻(ライムと言われますね)がとても重要なので、Jラップ以降の音楽ではその傾向が顕著な気がします。
Jラップの走りかと思いますが、IKUZO名義でYouTubeなんかで動画が沢山出てくる吉幾三さんの『俺ら東京さ行ぐだ』なんかは「無ぇ」という語尾を繰り返して韻を踏んでいました。
今どきのJポップはその頃よりは随分と進んだと思います。
今更わたしが偉そうに湾多さん(切り方ここであってますか?)に講釈を垂れるまでもないでしょうが、一応韻の基本は頭韻、脚韻、完韻と言われてますね。
脚韻の場合だと例えばアナ雪の『Let it go』のサビ。
あり(の)まま(の) 姿見せるの(よ)
あり(の)まま(の) 自分になる(の)
という具合に語尾の母音が全部(o)で統一されていますね。これ、英語のオリジナル版と同じ韻の踏み方であるところにすごい技術を感じました。
ネットで例を探していたら上記の例と共に出てきたのがミスチルの『しるし』という曲。これは頭韻と脚韻の組み合わせになってました。
ダーリン ダーリン
半信半疑
泣いたり
カレンダーに
という歌詞の部分です。
母音を見ていくと上記の最初の行は(a)(i)(n)(a)(i)(n)
次の行も2番めの(i)を抜かせばほぼ同じ母音ですね。そして3行目は(a)(i)(a)(i)となっていて(n)だけ抜かした形で韻を踏んでます。
4行目は頭韻(a)「カ」と脚韻(n)(a)(i)「ンダーに」と頭韻と脚韻のあわせ技になっていて、しかもそれがダーリンの頭韻とカレンダーの脚韻、泣いたりの「たり」とカレンダーにの「ダーに」で韻を踏んでいるという巧みさ。
完韻の例だと最近の曲でセカオワの『Habit』が挙げられます。サビの歌詞はこうなってます。
俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう? 普通
腹の底からこうふつふつと
1行目の「動物」、2行目の「好物」、3行目の「どう? 普通」、4行目は変則的ですが「こうふつ」、いずれも母音を取り出すと(o)(u)(u)(u)となっていて、完韻つまり完全に母音の響きが一致しますね。まあこのメロはラップに近くて、メロディ全体としては言葉の持つイントネーションと正確に符合しませんが、テンポで聴かせる曲なのでさほど違和感を感じるわけでもありません。
ま、こんな具合に気を遣っている作家もいればちっとも考えてない作家もいるのだと思います。
聞き手もそういうことが気になる聞き手が少ないのかもしれませんね。その辺は耳の教育と関係するので難しいところです。
難しいところというのは、教育されるというのは縛られているということにもなりかねないので。
日本語を洋楽のサウンドに乗せるというのは難しいだけに奥深い永遠の課題なのかもしれません。そこにずばり足を踏み入れたはっぴぃえんどと松本隆さんの功績は偉大だと思います。