第12話 ハクゲキソウ

「クラッキングにおいての攻撃側には、多大なアドバンテージがあるんだよ、カナメ。ほら、こんな風に」

 中学三年生の時だった。

 由香は自前のノートパソコンを用いて、近くの駅ビルについているデジタルサイネージにランサムウェアを感染させてみせた。

 巨大な液晶画面にソフトウェアのロックと身代金を要求するメッセージが表示され、道行く人たちは物珍しそうに足を止めていた。

 向かいのビルの喫茶店から、僕たちはその光景を見下ろしていた。

「電子戦において有利なのは実は攻撃側で、防衛側が圧倒的に不利なんだ。攻撃というものは開発者の意図をずらすだけで簡単に行う事ができる。それに対して防衛側は全てのスケールにおいてあらゆる事態を想定し、その対応策を実装する必要がある。その工数は、攻撃側のアセスメントを遥かに上回る事になる」

 由香は攻撃用のソフトウェアを落として遊びを中断した。

「だから、まだ義務教育中の私ですら管理の甘いサーバーに簡単に侵入できるわけだ。これは機密性の高いシステムにおいても同様だよ。防衛側の意図したスケールの外から攻撃すれば、格下の攻撃者が重要なセキュリティを突破する可能性は常にあり得るんだ」

 由香はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。

 それから眼下の国道を顎で示す。

「例えば、その辺りを無数に走る自動車。その内部装置が無線で繋がっている事は知っているかい?」

「……初耳だね」

「そうだ。まず、大多数はその事実を知らない。そして、知らない、ということはそれだけセキュリティが甘い、ということなんだ。事前調査さえあれば、この内部装置を遠隔操作してコントロール権を奪う事もできる。カナメ、できるんだよ。汎用的に用いられている社会の中枢システムを簡単に壊す事が」

 この時のボクは、コンピューターサイエンスについて正しい理解を得ていなかった。

 由香の言う事には懐疑的で、その矛盾を探していた。

「それが事実なら、何故メーカーはそんな弱点を放置しているのかな」

「既存のセキュリティ問題の多くは、ハッカー気取りのお子様によって引き起こされている遊びでしかないからだ。彼らはネットや本でソフトウェアの知識を齧ってはいるが、ハードウェアの専門的知識を有している事は珍しい。だから、世界中に存在するハード的なセキュリティホールというものは攻撃されづらい。自動車メーカーもそれを理解しているから、保守性の向上の為に無線を利用し続けている」

 それに、と由香は笑う。

「さっきのデジタルサイネージ。あれは酷いよ。あれはテロップ挿入等の操作のために常時ネットワークに繋ぎっぱなしなんだけど、ルーターすら設置されていなかった。もちろん、ウィルス対策ソフトも入っていない。ゼロディ攻撃どころじゃない。既存の攻撃方法を齧っただけの私でも攻撃し放題の状況なんだ」

「……それはつまり、大部分のシステムがそういう状況だということ?」

 ボクの問いに、由香は頷いた。

「もっと巨大なシステムもだよ、カナメ。実際に多くの重要なシステムというものは老朽化したものを無理やり稼働させているものも多い。継ぎ接ぎだらけで、運用側もその全てを理解していない場合が殆どだ。ネットワークセキュリティそのものが堅牢でも、それを管理する人間の脆弱性というのも多数存在する。スタンドアローンの重要なシステムだって、既にいくつもの攻撃事例が存在する。セキュリティというものは、工数さえかければ必ず攻略されるものなんだ。防衛側に出来る事は、突破に対する時間をいかに遅くするか、ということくらいだよ」

 その話は、当時のボクにとっては意外な事のように思えた。

「電子戦というのは、普通の戦争とは随分と様相が違うね。実際の戦争は防御側が有利じゃないか」

「それは違うよ、カナメ。互いがあるパラダイムの下に安定している時においてのみ、防衛側が優勢を確保できるだけに過ぎない。防衛側が想定しているスケールを超えた攻撃を加える事が可能なら、攻撃側が有利なのは実際の戦争でも同じだよ。少なくとも、史実ではそうなっている。パラダイムシフトが起きた時、防衛側は一気に不利な状況に陥るものなんだ」

 ボクはその話を聞きながら、彼女の瞳をじっと見つめた。

「それで?」

 彼女の瞳が、微かに揺れる。

「何故、こんな話をボクに。そして由香は何故こんな遊びをしているのか、教えてくれないかな」

「カナメ。ただ私はこう言いたいんだ」

 彼女は言い訳をするように、曖昧な笑みを浮かべて言った。

「包丁が売られているのは、それが正当な目的で使われる事を前提にされているからだ。あらゆるシステムもまた、悪意を持った技術者がいないという技術者倫理に基づいて運用される。セキュリティというものは機能とは別に多大なコストがかかるものなんだ。そして日本において、その安全性に対して対策を怠ったとしても、それを処罰する法は存在しない。なら、辿り着く答えは一つしかない。これが日本を取り巻くセキュリティ問題の現状だよ。問題は動機であって、方法ではない。私はそれを証明するために、こんな火遊びを始めたんだ」

 ボクは息を止めた。

 由香の瞳孔がボクを呑み込むようにゆっくりと開く。

 平静を装っているが、彼女が興奮状態にあることがわかった。

 そしてボクもまた、すぐに言葉を返す事ができなかった。それはボクの犯したミスだった。

 由香の顔から、言い訳じみた笑みが消える。

 これ以上は危険だ、と思った。

 ボクは彼女の真意に気が付かなかった振りをして、呆れたように笑った。

「……由香、火遊びは一人でするものだ。他人に自慢するのは感心しないよ」

 これ以上、この話をするつもりはない。

 ボクの意図を汲み取った由香は、そうかもしれないね、と短く相槌を打った。 

 それ以降、由香の注意は電子空間から再び現実世界へ向けられる事になった。

 幼少期から見え隠れしていた彼女の破壊衝動は肥大化していく一方で、それは確かな知識を伴った危険な存在へと変貌しようとしていた。





『カナメ、知っていますか。戦闘というものは、攻めこむ側に多大な負担を強いるものなのですよ。動物というものは、動くことでしか食料を確保できません。動物は常に餌を探し求める必要がある。しかし、この大地において彼らの食料となりうるものは存在しない。彼らの侵攻には限界があるんです。そして、私は計算された防御陣地を以って、軍蟲を迎え撃つ事ができる。それほど心配することはありません』

 ラウネシアは軍蟲の軍勢を知覚しても、その余裕を崩そうとはしなかった。

 それはボクを安心させる為の気遣いだったのかもしれない。

 だけど、その態度にボクは幾許かの危機感を抱いた。

 ラウネシアが軍蟲に下した評価は、安定したパラダイムの下でしか成立しないものだった。

 その安定性が崩れた時のことを、彼女はまるで考えていないようにも見えた。

 原型種という種族に対し、ある懸念が浮かび上がってくる。

 高い知能を有してはいるが、多様性を持たないために巨視的な視点が欠落している。

 演繹的に答えを導き出す事はできても、その限定された視点故に飛躍した思考をすることができない。

 そして彼女は恐らく、人が紡いできたような長い歴史を知らない。

 彼女の知識量は、一個体の中で完結してしまっている。

 そして一個体しかいない故に、彼女は敗北を一度も知り得ない。それは恐らく、最も致命的な欠点だった。

 攻撃側は、有利である。そう断言した由香。

 攻撃側は、不利である。余裕を崩さなかったラウネシア。

 正しいのは恐らく――。

『攻撃を開始します。カナメ、伏せてください』

 軍蟲の軍勢との距離が、もう一キロメートルを切っていた。

 ボクが身を伏せると、ラウネシアの点在樹から凄まじい攻撃意思が立ち上った。

 それは憎悪にも似ていて、周囲の植物群もそれに応えるように攻撃意思を発した。

『攻撃を、開始せよ』

 ラウネシアの持つ柔和な雰囲気が霧散し、露わになった暴力性が森を支配する。

 感応能力が暴力的な感情を直接拾い上げ、思わず足が竦んだ。

 そして、大気が震えた。

 あまりにも巨大な音に、視界が一瞬波打った。

 暴力的な破裂音とともに、一斉に無数の黒い何かが森から撃ち出され、軍蟲の軍勢に降り注いでいく。

 その光景に、ボクは目を疑った。

 それは最早、植物の攻撃手段ではなかった。

 圧倒的な火砲だった。

 森全体が砲となって、観測もなしに敵軍に対して一斉砲撃が始まる。

 一瞬にして、軍蟲の軍勢が乱れていった。

 遠目で見たところ、軍蟲は火砲を所持していない。その主要な武器は槍や斧のようだった。

 それは戦争ではなく、虐殺だった。

 ラウネシアの指揮によって、森中の植物が一斉に近代兵器に姿を変え、迫り来る原始的生物を無残に撃ち殺していく。

 軍蟲の肉が弾け、血が赤い大地を濡らしていく。

 森中から響き渡る砲声に紛れて、軍蟲の悲鳴のような咆哮が虚しく響き渡った。

『どうですか、カナメ。心配ないと言ったでしょう』

 自信に満ちたラウネシアの声。

『軍蟲の武器は、その繁殖力です。彼らの知能自体は大した事がない。私は外殻に砲術能力を持つ植物を集中させることによって、森に入る前に殲滅を図るようにしています。現時点における脅威は数少ない航空部隊だけです』

「……そうですね、ラウネシアの火力は予想以上です。これでは軍蟲は手出しできないでしょう」

 彼女の誇らしげな声とは反対に、僕の頭の中は冷え切っていた。

 そして、思うのだ。

 やはり正しいのはラウネシアではなく、由香の方だった、と。

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