第6話 ムシトリスミレ
早朝に貯められるだけの水分を確保すると、ボクはすぐに移動を開始した。
当面の水不足は解消したが、食料の問題は解決できていない。
手頃な食料としてすぐに頭に浮かんだのは、虫だ。
もちろん、積極的に食べるつもりはない。
植物には好意を抱いているけれど、虫はどちらかと言えば苦手な部類に入る。しかし、必要があれば食べるつもりでいた。
樹幹や草の間を注意深く観察しながら進むが、虫の姿はどこにも見当たらない。
そして、今まで一度も虫の姿を見ていない事に気づく。
ここに植生する植物たちは強力な抗虫成分でも持っているのだろうか。
一般的に多くの植物は虫媒に頼る。
湿潤な地帯の森林では樹木の90%が虫によって受粉されている、という統計的事実も存在する。
ここまで虫の姿が認められないのは珍しい。
虫の数が少なければ、それを捕食する鳥類、コウモリも殆ど存在しないと推測できる。
受粉は自然と風に頼る事になり、食料となるような果実を実らせる樹種はとても稀少なものだと予想できた。
虫、果実が見つからない。鳥類もいない。
ならば植物そのものを食べるしかない、ということ。
しかし、殆どの植物が虫に食べられていないと言うことは、抵抗する何らかの成分を保持している、ということでもある。
積極的に敵を排除する毒を持っていれば感応能力によってある程度の判別は可能だが、毒がないとしてもそれを食べられるかどうかを判断する事がボクにはできない。
あるいは仮に食用可能な植物を見つけたとしても、そこから蛋白質を得る事はできない。
食べられるか分からないものを食べる、というリスクを負うならば、今後の蛋白源になりうる虫や鳥類に挑戦した方がまだ建設的だ。
考えながら、道のない森林の中を進んでいく。
ボクはこの時、油断していた。
一晩過ごした事によって冷静さを取り戻し、蒸散と溢水によって最低限の水を得られる事が分かっていたため、気が緩んでいた。
故に、それに気が付かなかった。
周囲に植生する植物の種類が、徐々に変わっていた。
そして、足元に広がる雑草たちの種類も。
いつの間にか足元を支配していたその植物を踏み、次に足をあげようとした瞬間、ボクは盛大にバランスを崩して転倒した。
咄嗟に前方に手をつく。そして起き上がろうとした時、手が目の前の雑草にくっついて離れない事にようやく気づいた。足も地面から離れず、完全に四肢の動きが拘束される。
ムシトリスミレ、という植物が真っ先に頭をよぎった。
葉面に粘液を分泌し、捕まえた虫を食べる食虫植物。
そう、食べるのだ。食物連鎖における最下層であるはずの植物が、本来は捕食者であるはずの虫を。
逃亡することができないまま、周囲の雑草たちから強烈な敵対心のようなものが放出される。
獲物の捕獲を周囲に伝える為に、何らかの臭い物質が放出された、と見るべきだ。
この雑草たちと共生関係にある別の存在から追撃を受ける恐れがある。
ボクは無防備な四つん這いから、無理やり右手を引き抜こうと力を入れた。しかし、離れない。無理に引っ張れば皮膚が千切れるのではないかと思うほどの強い粘着力があった。雑草たちはボクの手に吸着して離れない。
周囲の雑草たちが怒っている。
そこには明確な攻撃意思があった。
その感情を直接ぶつけられ、一時的に身が竦む。
植物からこれほどの敵対心を感じたのは初めてだった。
咄嗟に右手を握り、そのまま手をひねる。雑草の根本が千切れ、右手が自由になる。
手のひらに雑草がくっついたままだったが、拘束を破る事には成功した。
同様に左手も手のひらに粘着した雑草をそのまま握るようにしてそのまま千切る。後は足だけだ。
安堵した時、視界の隅で何かが動くのが見えた。
咄嗟に上半身を起こし、それを避ける。
目の前を、大きな葉が横切った。
大きく切れ込みが入り、鋭利なトゲを持つ巨大な葉。
それは断頭台のように振り下ろされ、先程までボクが倒れていたところ目指して叩きつけられる。
ボクは目の前で起きた事態を呆然と見つめていた。
断頭台のように葉を振り下ろした植物は、ボクの一メートルほど先に植生し、攻撃的な感情を爆発させている。
危なかった。
あの勢いでこの鋭いトゲを持つ葉が垂直に振り下ろされれば、冗談では済まない外傷を負っていたかもしれない。
自然と息が荒くなり、ボクは油断するように周囲の植物を見つめた。
粘着性を持つ雑草に紛れるようにして至るところにこの断頭台のような植物が点在している。まるで、外敵を倒す為に寄り添っているかのような植生の仕方。
そっと、足元の雑草を握る。
手のひらにへばりついた雑草の上に更に雑草が絡みつく。ボクは右足を上げると、その根本の雑草を引きちぎった。それから慎重に後ろに右足を戻し、残りの左にひっつく雑草を千切った。
拘束が外れ、後退する。
ここに群生する植物たちは危険だ。
ボクの有する知識と常識を超える動きを見せ、積極的に獲物を狩ろうとする。
両手を見る。
ひっついたまま離れない葉。
無理に離そうとすると皮膚ごと剥離しそうだった。
この粘着性であれば、大型の四足動物をも捉える事ができるだろう。
獣害から身を守る為に、この植物たちはここまで進化を遂げたのだろうか。それならば、認識を改めなければならない。
虫も鳥類も見つからなくて当然だ。
ここの植物たちは食物連鎖における最低辺の単なる餌ではない。
虫や鳥類と対等に戦う事ができる、あるいはそれ以上の競争能力を持つ生物だった。
昨日見た豚男。
あれを一撃で仕留めた高木。
ボクをそれを見たはずなのに、今までの常識からこの森の植物たちの能力を過小評価していたのだと理解する。
あの光景をそのまま評価するならば、武器を扱う事が出来るあの豚男よりも、ここの植物たちは更なる高位の存在なのだと考えるべきだったのかもしれない。
得体のしれない感情が胸の奥で疼く。
未知のものに対する畏怖か、遙か高位の存在に対する畏敬か。あるいは、両方か。
ボク自身よくわからない感情が、胸の奥で渦巻いて収まらない。
「ねえ、カナメ。どれだけ綺麗な言葉で飾っても、世界の本質は変わらないんだよ。私達はね、より多くの人が食べられるはずだった穀物を大量に浪費して作り上げた極僅かの肉を嬉々として食べるんだ。食事の在り方には、弱者と強者が浮き彫りになる。そして誰もがそれを疑問に思わない。でも、社会的、あるいは文化的には弱肉強食を認める事をタブーとする流れがある。この差異は一体どこからやってくるかわかるかい?」
いつか、幼馴染の由香はそう言った。
「それは、支配としての形態だからだよ。弱者を弱者のままコントロールする為の詭弁だ。全ては支配の為の幻なんだよ、カナメ。実につまらないと思わないか」
由香は全てを見下すかのような冷たい瞳でそう言っていた。そして、その瞳には憎悪にも似た激しい炎が宿っていた。
彼女の言っていた人間社会の幻は消え去り、目の前には単純な力によって成り立つ原始的な世界が広がっている。
奇妙な高揚感があった。
全てがとてもクリアに見えた。
そして、気づく。
ボクは多分、この奇妙な森に惹かれていた。
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