第2話 ヒガンバナ

「何故、要(かなめ)は花に触れないんだ?」

 幼稚園の時だっただろうか。

 庭に咲いた大きな花を見てはしゃぐ同年代の友人と、遠くからそれを見つけるボクを見て、植物学者である父が不思議そうに言った。

「触ると、花が嫌がるから」

「どうして花が嫌がると思うんだい?」

「だって、花が嫌だって言ってるんだもん。人と違って、花は撫でられても喜ばないよ」

「なるほど。要は植物の言葉がわかるのか。今度、あの花達が好きな音楽を教えてくれないか」

 父が面白そうに言う。

 それに対してボクはただ、感じたことをそのまま告げた。

「お父さん、植物は音楽を聞かないよ。だって、耳がないもの。あの子たちにボクたちの声は届かない。人と違う生き物なのに、どうして皆はそうやって人と同じように扱おうとするの?」

 父は驚いたようにボクを見下ろしたまま固まっていた。

 その頃からだ。

 植物の心がわかるのが、ボクだけの特別な力だと知ったのは。

 ボクが十分に成長して、植物に対する感応能力があることを客観的事実として認めた父はこう評した。

「もしかしたら要は植物の放出する何かを感情として理解する能力があるのかもしれないな。例えば、植物には嗅覚に該当するものが存在する。一つの葉が虫に食われれば、全体を守る為に危険信号としてある匂いを発する。他の葉はそれを受信すると、防御手段を講じて身を守ろうとする。その微細な物質を要は植物の感情として知覚しているのかもしれない」

 父のその仮説を実証する術は存在しない。

 今でもボクの感応能力が本物なのか、どういった手段で実行されるのかは分からない。

 それでも、この感応能力は役立つ。

 例えば、防御態勢に入った植物は強烈な嫌悪感のような感情を放つ。反対に、毒のない果実からは淡い友好的な感情を受けることがある。

 だから、ボクは真っ先にその敵対心を感応能力で感じ取った。

 茎に鋭い棘を持つ植物が目の前に群生していた。

 しかも城壁のように広がっている。

 この道はとても通れそうにない。

 諦めて、棘の城壁に沿うように歩く。

 植物の棘には毒を持つものも多い。中には大型の四足動物を死に至らしめるものだって存在する。迂闊に触れるのは危険だった。

 歩きながら、考える。

 辺りは見たこともない植物ばかりだ。

 父が植物学者である都合上、幼い頃から様々な植物と触れ合って育ってきた。

 感応能力も相まってボク自身も植物に強い興味があり、相応の知識は有していると自負している。

 それでも、と周囲を見渡す。

 周りには知っている植物が一つもない。

 知らない遠国に来たみたいだった。

 城壁のように広がる棘を持った植物は隙間なく続き、ボクの行動範囲を狭めている。

 目印の為に葉裏に描いた数字は二〇〇を超えた。正確に五メートルごとに目印を置いてきたならば、一キロメートルは進んだ事になる。

 ボクは一度足を止めると、棘の城壁を見つめた。

 棘の城壁は綺麗に真っ直ぐと続いている。まるで、人工物のようだった。

 ヒガンバナ、という花が頭によぎる。

 墓地によく生えている植物だ。正確には、人によって墓地に植えられた植物。

 毒があるため、土葬していた時代にモグラなどを寄せ付けない為に植えられた過去を持つ。植物は古来から天然の防御壁としても利用されてきた。この真っ直ぐと続く城壁のような植物も、誰かが土地を獣から守るために植えたものかもしれない、と思った。

 この先に、人がいる可能性がある。ならば、どうにかしてこの城壁を越えなければならない。そっと棘の城壁に近づいて手をかざす。

 強い敵対心を持っているのがわかった。しかし毒を持つ植物特有の突き刺さるような熱い感情は感じられない。

 この先に人がいるならば、無理にでも通るべきかもしれない。

「誰かいませんか!」

 城壁の向こうに大声で問いかける。

 静かな森の中で、ボクの声は一際大きく聞こえた。

「道に迷ってしまって。誰かいたら返事してください」

 返事はない。

 そよ風に揺れる木立の音だけが木霊する。

 だめか、と諦めかけた時、不意に目の前の植物が大きく揺れた。

 そして道を作るように植物が大きく左右に分かれる。同時に、それまで感じていた敵対心のような感情が霧散した。

「……通れ、ということ?」

 ボクの独り言に呼応するように、肯定的な感情が目の前の植物から発せられる。

 ありえない、と頭の奥で理性が叫んでいた。

 植物は視覚、触覚、嗅覚に類する能力を保持している。

 しかし、聴覚に類する能力を有するという研究結果は出ていない。少なくとも、科学的に、数量的にそれを示すまともな論文は存在していない。

 しかし、目の前の植物はどうやら人間の声を、音を拾っているらしい。確かに、既知の植物以外であれば、そうした固有能力を獲得するに至ったものが存在しても不思議ではない。しかし、それはボクの持つ常識から大きく外れていた。

 道を開ける植物の間を、ゆっくりと慎重に通る。

 無事に通り抜けると、役目を終えたように城壁は元に位置に戻り、何事もなかったかのように道を塞いだ。

「……ありがとう」

 お礼の言葉を投げかけると、棘の植物がそれに応えるように揺れた気がした。

 植物にお礼を言ったことなど、今まで一度もなかった。

 植物は言葉を解さないし、感謝を欲している訳ではない。

 植物と人間は根本的に違う。

 植物を擬人化するという行為は、人間の傲慢さがもたらすものだ。決して褒められるものではない。ずっと、そう思っていた。

 しかし、目の前の棘の植物は、確かにボクの言葉に応えていた。

 ボクはじっと城壁を見つめた後、そっと周囲の植物の葉をちぎった。

「ごめんね」

 謝りながら葉裏に目印の数字を描いて、閉じた城壁の前に置く。

 今はとりあえず、進まなければならなかった。

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