第76話 残り物には
——呼吸が止まるほど静かな部屋。生者が居ない、赤色がぶちまけられた部屋の中、赤く染まった床の上に、その箱はあった。
「取り返しがつかない事は分かっています。——けれど、私は真実を……それが叶わないのであれば、納得できる仮説が欲しいのです」
澄み切った空の下、絵に描いたように穏やかな午後の昼下がり、その初老の老人は顔を俯けて、高まる感情を押さえて淡々と訴えた。
広々とした庭は手入れが行き届き、果実の実った木から甘い香りが広がっている。それらと邪魔をし合わない様に、控えめな香りの花が咲き、その代わりと言わんばかりに、鮮やかで瑞々しい花冠を誇らしそうに掲げている。
建てられて数十年は経つであろう二階建ての家屋は、華美な装飾は無いが、一つ一つ部品の材質は上質なものだ。小まめに修繕を繰り返しているおかげで、時を経た独特の風合いが、庭の雰囲気と相まって、絵画の題材として残したいぐらいに美しい。
設置されたウッドデッキの上で、旅人と相棒、そして件の老人が、テーブルを囲んで茶会が開催されていた。
「……私は、家族にも友人にも恵まれ、幸いにも仕事でも成功し、とても幸せな人生を送ってきたと、胸を張って言える。……けれど、ずっと順風満帆だったというわけではない」
先ほどまで幸せそうに家族の事を語っていた老人は、一転して暗い表情をして、苦しそうに目を伏せた。
「……私は、そこそこの地位を持つ家柄に生まれました。けれど、私の上には優秀な兄弟や、叔父叔母、そして家長の父親がいた。私は幼かったため、あまり詳しくは覚えていません。私は母方の祖父母に預けられて、家から遠ざけられていました」
顔を上げた老人は雲一つない澄んだ空を見上げ、遠い日の思い出を振り返ってみたが、浮かぶのはぼんやりとした家族の顔と、数えるほどしか足を踏み入れなかった本家と呼ぶ屋敷の光景。
遠くから子供のはしゃぐ声がする。お互いの名を呼びながら、楽しげに笑う孫達の声に、老人の頬が緩まり、自然と口元に笑みが浮かんだ。
客人と大切な話をするからと伝えると、兄、妹、弟の三人の孫達は素直に頷いて、前庭の方で遊ぶ旨を伝えてきた。客人のためにと老人の妻が茶請けの菓子を作り、息子の嫁がとっておきの茶葉の紅茶を入れてくれた。
今は亡き、育て親である祖父母は、彼を慈しみ育ててくれた。彼も祖父母を敬愛し、彼らにひ孫の顔を見せる事も出来たし、最後を看取る事も出来た。
——けれど、祖父母は彼の両親や兄弟、父方の親戚達の事を詳しくは語ろうとはしなかった。彼自身も、子供ながらに、何となく深入りすべきではないと察していたため、詳しく聞こうとは思わなかった。
しかし、独り立ちをして、家庭を築いていく内に、自身の出生のルーツを知りたいという思いが強くなっていった。
思い切ってそれを妻や子供に相談した所、彼らなりに彼の心情を察していたため、それらを調べる事に賛成して手伝いを申し出てくれた。
今にして思えば子供達も、全く話に上らない、父方の親類達に思う所があったのだろう。
伝手を辿って調べてみると、ひと月も経たないうちに、どうして祖父母たちが父方の話を全くしないのか、理由が明らかとなった。
「——端的に言えば、私を除いた父方の縁者は、——全員、亡くなっていたのです」
老人が旅人達に語った内容は、幾分かの状況証拠による推論も含まれていた。当時の事件が公的文書として残されており、そこに書かれた捜査内容と、まとめられた周囲の証言によるものだ。
——第一発見者は、その家に仕えていた家僕だった。彼らは就業時間通りに屋敷を訪れ、——そして大広間で凄惨な現場と遭遇した。
死因は刃物で切り付けられた事による、出血死と、心臓を突かれた事によるショック死。
大広間の中は、床も壁も一家の血液が飛び散り、犯行に使われたと思われる鋭利な刃物は、全て庭の池の中に沈められていた。
その一家はその周辺の土地一帯を所有し、手広く商売をしており、裕福な家庭だった。祖父母、息子夫妻、叔父夫妻、叔母夫妻、そしてそれぞれの夫妻の子供達。
最初は強盗犯や、商売上でのトラブルによる怨恨など、色々な線を疑われていたが、決定的な証言も証拠も集まらず、時間を経るごとに捜査は縮小されていき、やがて時効を迎えた。
地元の名士の凄惨な事件は瞬く間に広がり、様々な憶測や噂が広まる。あんな良い人達が何故?勿体ない人達を亡くしたと、地元の住民達が口々に嘆きの声を上げる一方で、——最も多く語られた推測が、家督を巡る骨肉の争いの話だった。
それは無いと断言する者達も多く、その根拠となるのが一族の人間性。
その家で家督を巡る争いが起きた事が、今まで一度も無かったそうだ。その屋敷に出入りする家僕や従業員や業者達は、口をそろえてそれは無いと答えた。
家督自体は長子が継ぐと決まっているわけではなく、最も優秀だと判断された子に譲られてきた。当主は代々優秀で、公明正大な人格者ばかりで、家を繫栄させて、商売を広げ、それらの利益を地元へと還元する。それらを最も重視し、目下の者へも丁寧な態度を崩さす、周りに慕われる人格者ばかり。
彼らを知る者は、彼らを聖人君子、同じ人間なのかと囁かれるほどだった。
「——地元住民からの評判も良く、実際に地元への投資や寄付は毎年行われていて、名家という事に胡坐をかく事も無く、仕事上の駆け引きなどを除けば、皆が穏やかな性格だったそうです」
そこまで地元住民に慕われていても、根拠のない噂話は囁かれるのだなと、旅人は人間の業という物に呆れてしまう。
万人に好かれる人間などいない。大多数に好かれたとしても、少数の人間には敬遠される事など珍しい事ではない。
どれだけ立派な人格者でも、それを疎んじたり快く思わないものはどうしてもいる。本当の聖人ほど、反対勢力には嫌われる。
「現場に残されていた物証で主なものは、——箱と一本のナイフだけです。もちろん、それらの物証はとことん調べられましたが、ナイフは何処でも流通している製品で、箱の方は、おそらくはどこかの無名の職人が作った代物だそうです。箱の方は細工が施された一点ものらしいのですが、製作者は見つからないまま。開ける手段も分からず、中身は確認できないまま。……わたしも伝手を伝って調べてみた所、似たような外見の箱は簡単に見つかるのですが……」
今まですらすらと詳細を語っていたというのに、急に歯切れが悪くなった老人に様子に、旅人は首を傾げる。その隣では相棒が話を聞き流しながら、焼き菓子に舌鼓を打っていた。
サクサクふわふわのスコーンを気に入った相棒は、隣で真剣に話を聞く旅人を尻目に、我関さずと追加分を自分のとり皿へと移す。
それをちらりと横目で確認しながら、旅人は手元に置かれていたティーカップの取っ手を掴む。陶磁器のしっとりとした手触りを心地よく感じながら、口元に運ぶ。老人の語りを聞いているうちに少し冷めてしまっていたが、それでも茶葉の柔らかい口当たりと心地よい渋み、そしてさわやかな香りが広がる。
「——で、その箱とナイフは今は何処にあるんだ?」
口を挟む事なく、焼き菓子の方ばかり意識を向けてはいたが、ちゃんと話を聞いていたらしい相棒が質問を投げかけた。
相棒は自分勝手に振舞っても、その飲食する所作は人前という事もあって綺麗なものだ。その辺りはちゃんと線引きしているらしく、最低限のマナーは守っている。
「時効を迎えた時に、唯一の親族という事で私の所へ返還されました」
老人はテーブルの上に置かれた食器を隅へと移動させ、空いた空間に四角い鞄を倒した状態で置く。金属の留め金を外して、ゆっくりと開かれた鞄の中には、変哲のナイフと真っ白な箱、そして紙の資料が紐で固定されて置かれていた。
ナイフが実用性重視の物で無駄な細工が無いのに対して、箱は両手ほどの大きさで、白く滑らかな光沢をしている。先ほど手にしたティーカップの質感に近い。表面には幾何学模様が施されていた。紙の束はおそらくは当時の捜査資料だろう。
箱を捉えた瞬間に、相棒が顔を顰めたのを旅人は見逃さなかった。それだけで、それがただの箱では無いと判断するのには十分だ。
「……触っても大丈夫ですか?」
旅人が箱を見ながら尋ねると、老人は鷹揚に頷くのを確認し、念のために相棒に視線をやり、大丈夫かと目で尋ねてみる。
「……開けなければ問題ない」
その返答で、相棒が箱が何なのか見当がついている事を示している。それを聞いた旅人は箱に手を伸ばすのを止めた。開けてはいけないのに、開け方の分からない箱を弄る気にはならない。
老人は目を見張り、困惑して言葉に詰まってしまう。彼からすれば長年の悩みの種が、相棒という存在一つで解決するかもしれないのだから、動揺してしまったも仕方がない。
「……何のための箱だか分かるのか?」
何と言っていいのか分からずに二の足を踏む老人を一瞥してから、旅人が簡潔な質問を相棒へと投げかけた。すると相棒は焦らす事も、揶揄う事も無く答えてくれる。
「……前に、似た物を見た事がある。——分かりやすく言えば、感情を閉じ込める箱、だな」
さらりと得た答えに対して、旅人はさらなる質問を投げる。
「閉じ込める事に何の意味がある?箱に入れる目的は、保存と分別と……後は隔離するため、ぐらいしか思いつかないが……」
旅人はとりあえずは、箱に物をしまう際の意図を思い浮かべて並べていく。
「この箱の場合は、保存と隔離だな」
そう語る相棒は椅子の背もたれに体を預けて、優雅に足を組んで旅人を眺めている。その様子は、まるで安楽椅子探偵にでもなったかのようだ。
……いや、今の状況は、まさにそうなのだが。
もし、相棒が自らの考えを語る気があるのであれば、こういう風に細々と話を切って、こちらの反応を観察するような真似はしない。
相棒が望んでいるのは、自身と同じ答えに行きつく事か——もしくは全く違う回答へと辿り着く事だろう。
——何と優雅で、不謹慎な遊戯だろうか。
「件の一家は、人格者ばかりだと言われていたんだろう?」
その問いかけには老人が肯定を示してくれる。
公明正大で、誰相手でも平等な態度で接して、無駄な争い事は好まず、家督争いが起こった事も無い。
老人も急く気持ちを押さえて、今聞いた言葉をヒントに思考を巡らしている。
「……仮に箱に感情をしまう事が出来ると仮定して、どういった類の感情を其処に入れるかだ。そして、その感情を取り出された側の人間はどうなってしまうか……」
老人は自ら質問せずに、考える事に没頭する。必要な問いかけは旅人が、それに相棒が返答をする。
傍観者としてその会話を聞き、それを元に自ら答えに行きつく事を望んでいた。
他人に誘導された答えだとしても、自分で必死に考えて辿り着いたものであれば、自身を納得させる事が出来る。
長年の謎に、何らかの答えに至れるかもしれない。
「その箱にしまうんだ。その人間からは、それらの感情は一時的に無くなってしまう」
「……家督争いが今まで起きた事がない。それらが起きるのは、優秀かどうかはおいておいて、その家を継いで頂点に君臨したいから。その家の財産が欲しいから。もしくは周りを見返したい、もっと上を目指したいと願ってしまう。——それらが起きらないという事は、つまり、欲望や野心がない」
家督争いが起きる理由を旅人は思いつく限り並べていくが、実際はもっと細かい物が沢山あるのだろう。けれど、家督争いとは無縁の旅人では、思いつくものは限られている。
「お前の所は、女系だからな」
「まあ、姉さんが名実ともに頂点だろうな」
首を捻る旅人の心情を見透かし、相棒が肩を竦める仕草をする。
「……お姉さんがいらっしゃるのですか?」
「はい。父と母と姉と私の四人家族です。姉が、——実家?と言っていいのかどうか分かりませんが、色々と取り仕切っています」
老人は思考を中断し、同じように頭を悩ませている旅人の方を見る。話しかけられた旅人も推理を止めて、躊躇う事無く質問に答えてくれる。その様子だけで、旅人の家が円満で、仲が良いのがすぐに分かる。
「姉は私よりもずっと優秀で、自慢の姉です。……この場では少し、不謹慎な自慢かもしれないですが」
家族を失い、その理由を探し求めた老人を相手に、旅人は何と答えるのが良いのかと逡巡したが、尋ねられたことに正直に答える事にした。
「そんな事はありません。家族の皆が仲が良いのは良い事です」
気分を害した様子もなく、老人は目じりを下げて口元に笑みを湛え、穏やかな表情で旅人を見つめている。
「……若い頃の私であれば、もしかしたら失礼な態度をとってしまったかもしれませんが、この歳になると、そういった事はどうでもよくなってくる。……幼い頃から私を慈しんで育ててくれた祖父母と、共に居てくれる妻や子供たちのお陰でしょうね」
目尻に深く刻まれた皴は、老人が今まで数えきれないほど笑みを浮かべてきた証だ。
そのおかげで、心を荒立てることなく、この遊戯に臨む事が出来る。
「……わたしにも、兄と姉がいた筈なんです。二人とも仕事熱心で、慈善事業にも積極的だったと伝え聞いています」
朧げな思い出の中の家族よりも、はっきりと思い浮かぶ、今現在の家族達。積み重ねてきた年月を振り返れば、そこにあるのは、自分と共に常にあった温かな家庭の光景。
「……わたしは果報者です。こんなにも、家族にも友人にも恵まれた」
いったん逸れた軌道を修正して、再び謎解きへと戻る。
「しかし、欲望が完全にないわけでもないだろう。偶に、七つの大罪とはいわれるが、『傲慢』と『嫉妬』は、有体に言えば、人よりも優れようとする向上心だし。『強欲』も『怠惰』も、もっと良い物が欲しい、今よりも楽がしたいという原動力になる。それらがあったからこそ、人間は文明を発展させる事が出来たんだ」
どれも行き過ぎれば毒にしかならないが、常識の範囲内であれば、新たな発見と技術を発展させるためには必要な物だ。
「だからこそ、彼らは全員が家の維持と、さらなる繁栄という原動力が必要だった」
「……個人的な感情がなくとも、使命を植え付ける事でそれを補っていた?」
家を守り、発展させるには、それ相応の知識と能力が必要になる。そして体の健康と、使えるの働き手の数の多さは、資本として大切だ。
「人間は集団社会だ。孤立すればするほど、無駄な労力が必要になってくる。他人を上手く使うためには、人間関係は大切だろう」
出来る限り周りと軋轢を生まず、潤滑な関係を築くためには、活動の拠点としている地域への富の分配と根回しは重要になってくる。
「そいつらは上手くやっていたと思う。実際に、事件が起きるまで、順風満帆だった」
けれど、それは唐突に、終わりを迎える事になった。
血の惨劇と、その場に残されていたナイフと箱。——重要なのは箱の機能。
「……もし、その箱の中身が開いた場合、どうなるんだ?中身は持ち主の所に戻るのか?」
「まあ、そうなるだろうな。その感情の持ち主が居ない場合はどうなるかまでは、流石に俺には分からない」
使った事がないし、その現場にも居合わせた事がない。何より感情には質量がない。故に目に映る事はない。
「……歴代の当主や、親族達の感情が入れられていたんだろう?もし、その感情が持ち主が居なくなって残っていたら?無差別に、周囲にいる人間に影響を及ぼす可能性はあるのだろうか?」
相棒が「さあ?」首を傾げる仕草をしたので、そこを追求した所で、明確な答えは期待できない。
「まあ、他人の感情を入れられて、どう感じるかは本人次第だろうが。——代替わりの際に、箱の中身を清算していたらいいな」
器用に出し入れができて、細かく行き届いた管理が出来ているのであれば、箱が原因と思われる事件など起きなかった筈だ。
「……その辺りは置いておくとして、本人の感情だけが戻ってくるとしよう。どの段階で感情をしまうのかは分からないが、長い事遠ざけられていた欲望が突然戻ってきたら、それに人間は耐えられるのか?若ければ感情に流されやすいし、老いればその分理性が弱くなる」
神妙な旅人の声を聞きながら、老人は無言のまま、空になったティーカップの底を見つめていた。
——箱が、相棒の言う通りの機能を持っていたと仮定しよう。
彼ら一族は、優秀な人間が代々当主を務めてきた。優秀な人間が一番上の地位に就く事自体は間違いではない。
けれど、人間には感情がある。欲望がある。そして、それを自らコントロールする事は難しい。
権力闘争も、私利私欲や、その時の情勢で行われる。
誰だって楽をしたいし、人より優れていたい。人よりも高い地位について、称賛されたいし、それによる利益を得て、良い暮らしをしたいと思ってしまう。
時には、肉親の情で、自らの子を身分不相応な地位につけたいと、愚行を犯す。
時には自分が叶えられなかった、得られなかった物を、代理として子供に手に入れさせようとする。
時にはそれを得るために、他人を蹴落とす事を良しとさえする。
それが今まで一度も起こらなかったというのは、流石に人間という生き物である以上、素直に納得するのは難しい。
当代が後継を選ぶとしても、私利私欲なく、公明正大に、次期当主を選ぶ事が出来るだろうか?
それが出来るほどの優秀な人間が、必ず一族の中にいるとは限らない。教育だけでそれをなすとしたら、それはもはや洗脳の域だ。
——栄枯盛衰。どれだけ栄えたとしても、いずれ衰退する時が来る。人間は慣れる生き物だ。良くも悪くも。それが当たり前になれば、その価値を、尊さを忘れてしまう。維持する努力を、守る事をしなくなっていく。
それが砂上の楼閣の上にある事を忘れてしまう。
人間は弱く、脆く、愚かな生き物だ。
——ならば、どうするか。
争いの元になるモノを取り除けばいい。
戦争であれば、争う相手を。争うに至った原因を。
人間であれば、争いへと駆り立てる感情を。
人間らしい自分の一族の繁栄を望みながら、人間らしい欲望という感情を封じた。
——相反する、矛盾した在り様は、まさに人間そのものを映している様だと、旅人は思った。
「……感情が豊かだからこそ、多種多様な考えや趣味嗜好が生まれ、気候や土地柄と相まって、様々な文化が生まれた。お家の発展を目指すなら、向上心や発想力は必要な物だと思うのだが……」
「……いえ。あの家は町への還元と共に、研究施設などへの出資も頻繁に繰り返していました。足りない物は外部へと求めたのでしょう。後は、どう上手く人材を集めて使うかだけです。その管理さえしっかりと行き届いてさえいれば、何とでもなる。彼らは油断も慢心もしないでしょうから」
人間の歴史など、闘争と殺戮の繰り返し。それを繰り返したからこそ、技術が発展したともいえる。
「……しかし、結局の所、その箱は何故開いた?」
箱が開かれて、中にあった物が外へと放出された。ならば、それが開いた原因は?
「さあな。さすがにそこまでは分からない。知りたいと思うならば、それこそこの箱の制作者を当たって、箱の細かい説明を受けるしかない」
あくまで今ある情報から成り立つ想像に過ぎないと、相棒は肩を竦めた。
「もしかしたら、感情を入れる容量が限界を迎えたら、勝手に開く仕掛けだったのかもしれない。何かの弾みで開いてしまったのかもしれない。——箱の事を知った第三者が開いたのかもしれない」
——その真実を知っている当事者は、今となっては箱だけ。
「——少なくとも、殺害に使われた凶器を池に沈めた者はいた筈だ」
複数の凶器が池の中から見つかっている事から、そこへ誰かが運んだことは確かだ。
……武器が独りでに動いたり、死者が動いて凶器を捨てなければだが。
「ああ。だからこそ、ナイフが一本だけ、現場に落ちていたんだろう。そいつは最後にそのナイフで自分で始末をつけたんだろう。まあ、素人がナイフ一本で死ぬのはそれなりに大変だとは思うが」
「……感情が戻っていたのであれば、罪の意識に耐えきれなかったか、錯乱して——はないか。捜査をかく乱するために、凶器を隠しているわけだから」
相棒はポットに残っていた紅茶をティーカップに注ぎ、強い渋みを感じながら喉を潤す。
「ナイフが致命傷で死んでいる奴を探せば、あるいは分かるかもな。少なくとも、そいつが一番最後に死んだはずだ。……と、まあ、状況証拠とその箱とナイフ、そして犯人が外部犯ではない、という条件で考えた結果だ。それこそ箱の蓋を開けて確認するまで、中がどうなっているかなんて、誰にも分からない。可能性だけでいえば、幾らでも存在しているんだからな」
そう締めくくられたお茶会での遊びに、老人は深いため息を吐いた。それは重く、体の中に長年溜めこまれていた感情を、ようやく吐き出す事が出来たのだ。
息を吐き出して顔を上げた老人は、訪問時に旅人達を出迎えてくれた時の様に、人好きのする朗らかな笑顔を浮かべている。
「——ありがとうございます。なんだか、長年の胸のつかえがとれたようで、とても清々しい気持ちです」
その言葉通り、老人の瞳にちらついていた憂いは無くなり、幾分か若返ったようにすら見える。
「——確かに、今の話は、あくまで状況を元にした推測でしかありません。けれど、何故か、とてもすとんと腑に落ちたと感じています。貴方方のお陰で、箱の謎が解けたからかもしれない」
事件の真実を確かめるすべはないが、少なくとも箱の謎は解けたのだから、老人には十分な収穫だったのだろう。
「……私を祖父母に預けたのは、母の独断だったらしいです」
遠い顔を思い出しながら、物寂しそうに箱に視線を向ける老人を旅人は静かに眺めていると、徐に老人がぽつりと言葉を漏らした。
「ある日、突然母親が祖父母の所を訪ねて来て、どうかこの子を預かって、育てて欲しいと言ってきたそうです。祖父母達が言うには、母が父に嫁いで暫くしてから再開した際に、別人のような印象を受けたそうです。始終朗らかに微笑んでいておとしやかな淑女だったと」
老人は手伸ばし、そっと箱の表面に触れる。しっとりとした滑らかな感触を感じながら、指先で箱の蓋を撫でた。
「嫁ぐ前は、年の割に落ち着きがなく、ころころと無邪気な笑顔で笑っていたと。違和感は感じていたけれど、嫁いで妻としての自覚をしたのかもしれないと、無理やり納得する事にしたと。——けれど、私を連れてきた母は、間違いなく、自分達が良く知っている娘だったと」
旅人も、そこは疑問に思ってはいた。当時子供だった老人が、何故、祖父母宅に預けられて、事件に巻き込まれずに済んだのか。
「——どうか、この子を人らしく育てて欲しい。自分達の様にはしないで欲しい。……子供みたいに顔をくしゃくしゃにして、そう懇願してきたそうです。わたしを預けた母は、祖父母を抱きしめると、すぐに家を後にしたそうです」
箱の中に詰まっていたかもしれない、家族の感情を少しでも読み取れないかとも思ったが、それが到底叶わない願いであると、老人も分かっていた。それでも、うっすらとしか記憶に残っていない家族に、思いを馳せるぐらいは許されるだろう。
「……これはわたしの下らない、何の根拠もない憶測でしかありませんが、多分、母は私を生んだ事で、母性を感じたのではないでしょうか。おそらくはわたしの兄弟を生んだ時にも感じていた。けれど、時間を経てそれは封じられてしまった。けど、記憶は残るものです。わたしを生んで母性を再び得た母は私の生末を憂い、私を普通の人間として生きさせるために、何らかの方法で、わたしを一時的に、あの家から遠ざけた」
何かの障害がなければ、人間は喜怒哀楽と、欲求を持って生まれてくる。それらを元に人間として生活をして、自らの感情を育てていく。
けれど、母性だけは、最初から持っている物ではない。子供を身ごもっても、産み落としても、それを感じない人間はいる。
子を産まなくても母性を持っている人はいるし、子供を産んで、その腕に抱きしめて、その柔らかな感触と鼓動す温もりを感じて、ようやく母性を宿す事もある。
老人の母親が、彼に対して、何時頃母性を宿したのかは、彼女にしか分からない。
……それでも、確かに、彼は母親に愛されていた。
その後、少しして事件が起きて、結果として、老人は祖父母の下で普通の子供として育つ事が出来た。
もしかしたら、今までも似たような事はあっただろう。けれど、行動に移したのが彼の母親だけだったのかもしれない。
……ともすれば、箱を開けたのは、もしかして——。
「……辛いという感情をどうにかしたいなら、その箱を使えばいい」
旅人の思考を相棒の言葉が遮り、旅人は顔を上げて相棒に視線を向ける。からかうような口調の相棒の台詞に、老人は指の動きを止めて、きょとんとした表情をしている。不謹慎な言葉に旅人は顔を顰めて注意しようとしたが、その前に老人がくすくすと笑い始めた。
「いえいえ。これはわたしには、今の所必要ありません。若い頃ならいざ知らず、この歳になれば甘いも酸いも充分に味わってきています。今更ですよ」
目尻に皴を作り、声をあげて笑う老人につられるように、相棒も小さな笑い声をあげながら、先ほどの冗談への謝罪を述べ、老人もそれを了承した。
取り残された形になってしまった旅人だったが、当の老人が事を荒立てないのであれば、自分が口にする必要はないと、言葉をそのままお茶で流し込んでしまう事にした。
長閑な午後のお八つ時、澄み切った空を飛ぶ鳥の声を聞きながら、色とりどりの花が咲く庭でのお茶会は続く。
「——その箱の中身は、本当に空っぽなのか?」
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