第75話 橋の下で

 ——彼女と出会ったのは、とある町の、とある橋の上だった。


「——おはよう」

「こんにちは。旅人さん」

 とある町の中央を分断する川の上に掛けられた橋で、旅人はとある少女に話しかけた。


 その町は、かつて川を境にして、二つの集落があった。様々な理由で争い、憎しみ合っていたが、ある出来事を起因として和解にいたり、今は一つの町となっている。

 その融和のシンボルとして掛けられた橋は、長い月日を経てもなお、手入れと修復を受けながら、町のシンボルとして愛されていた。

 曲線を描くアーチ状の橋脚は水に強い石材によって組まれ、強い川の流れを受け流しながらも、決して揺るがないように頑丈に設計されている。石を材質として、本来の色で統一されており、丸みを帯びた欄干のお陰で無骨さはなく、柔らかさと気品が感じられる。

 その全体を見渡せば、絶妙なバランスで成り立ち、素人目にも美しいという、シンプルな感想を抱かせるほどに、その橋は人の目を引き寄せる魅力があった。

 橋より上流は生活と観光のための小型船が行きかい、下流は商業的な大型船が停泊している。


 深い霧の中、橋の欄干には一人の少女が座っている。シンプルなワンピースに、背中に届く長い艶やかな髪は髪先が切りそろえられ、茎の先に小さく白い花が複数咲いたものが髪を飾っている。それが飾り気のない楚々とした少女に、文字通りに花を添えていた。

 旅人が少女に話しかけたのは早朝で、昼間とは打って変わって人気がなく、橋も霧の中に沈んでいる。

「最近の町の様子はどうなのかな?」

「いつもと変わらない。少し建物が老朽化したぐらい。船の数が少し増えたかな?」

 明らかに年上に見える旅人に対し、少女は遠慮する事も無く、川を背にして橋の欄干に腰かけ、投げ出された足を交互に揺らしている。

「ああ、今の町長の方針で、観光に力を入れているらしい。それで外部からの人が増えたからだろう」

「……そう。前の、町長は?」

「引退したようだな。今は家督を子に継がせて隠居に入ったようだな」

「……そう」

 少女の足の揺れが止まり、ため息の様なささやきが零れ落ちた。

「前の町長の任期の際に、この橋の大規模な補修工事が行われたと聞いている。橋の景観を変えずに、ここまで綺麗に仕上げるのは素晴らしい職人の腕だ」

 旅人の世間話を聞きながら、少女は霧の海の中では拝む事の出来ない、空を見上げた。何もない靄の中、ゆっくりと少女の記憶がよみがえってくる。

 思い起こされた記憶を、少女は無性に誰かに語り、聞いて欲しい衝動に駆られてしまう。そんなに強い衝動は久しぶりで、少女は傍に居る旅人に向き直った。


 ——昔、深く濃い朝霧の日に、少女は彼に出会った。

 彼は少女と同じぐらいの年の見た目をしており、朝にはふさわしくない陰鬱な表情を浮かべていた。

 明らかに顔色が悪く、目もうつろで、まるで病人の様に見える少年が、橋の欄干に手をかけて、顔を俯けて橋の下を覗き込んでいた。

 その様子を何となく、少女は良くないなと思い、数メートル先の少年に声をかけた。

「——何をしているの?」

 びくっと肩を震わせた少年は、狼狽しながら辺りをきょろきょろと見まわした。

「……誰か、いるの……?」

 少年は不安そうに周囲を見回しながら、震える声で恐る恐る問いかけてきた。少年は声は聞こえているのに、見えない相手に対して恐怖で怯えている。その反応に少女は首を傾げ、そしてすぐにその理由に気が付いた。

 この時期の中でも、この日の朝は特に霧が濃く、視界はかなり悪い。おそらくは少年の方からは少女の姿が見えていないのだろうと結論付け、少女は欄干から橋の上へと飛び降りながら再び声をかけた。

「こっち」

 またビクッと震えながらも、振り返った少年の目には涙が浮かんでいる。

「——ごめんなさい。驚かせるつもりはなかった」

 少女の声に申し訳なさが滲みんでいる事に気が付き、少年は乱暴に袖で涙をぬぐい、自身を鼓舞して声のする方へと足を踏み出す。

 声を頼りに歩いていくと、霧の中に少女の姿を捉える事が出来た。瞬きした瞬間に忽然と現れた少女に、困惑している少年を置き去りにして、少女は彼の瞳に自分が映ったことに嬉しくなってしまう。

「……こんな時間に、女の子が一人で何をしているの……?」

 霧の中にいるせいで、少年の髪や服は水分を吸ってしっとりと濡れている。風邪をひかないだろうかと少女は心配になってしまう。

「君も一人だよ?」

 返答になっていない答えに、少年は戸惑いながらも、助力を求めて他に誰かいないのだろうかと見渡してみたが、霧のせいで周りは白い膜で覆われてしまっており、人の気配はない。

「私は一人。ずっとね」

 誰も居ないと微笑む少女の答えに、少年は驚いて目を見張る。何かしゃべろうとするが、驚いたせいで声が上手く出て来ずに、口だけがパクパクと動いた。

「君は一人で何をしているの?」

 少年の反応の意味が分からずに首を傾げながら、少女は自分にされた問いかけを返した。それで我に返った少年は深呼吸をして、自分の心を落ち着かせる。

「……散歩」

 少年の視線が一瞬あらぬ方向へと向けられたのを、少女は見逃さなかったが、それを指摘することなく「ふーん」と相槌を打つ。

「私はただ、此処で見ているだけ」

「何を?」

「——町の生末を」

 真っ白な霧の中で、少女だけが鮮明に浮かび上がって見える事を、少年は不思議に思い、よく観察してみようと目を瞬かせた。

 次の瞬間には、少女の姿形はどこにも無かった。


 別の日の同じ時刻、少年が橋の欄干から身を乗り出して、霧の向こうにある筈の川を覗き込んでいるのを見つけ、少女は再び声をかけた。

「今日も散歩?」

 ぴくっと僅かに体を震わせた少年は、小さく息を吐いてから顔を上げて少女の方を向いた。

「……そう」

 動揺で瞳を揺らしながらも、小さく頭を縦に振って肯定した少年は、少女の状況に眉を顰めた。

「そんな場所に座ったら危ないよ」

 少女は橋の欄干を掴みながら座り、何もない川の方へと背中を傾ける様にして空を見上げていた。謝ってバランスを崩せば、下へと真っ逆さまだ。

「平気」

 少年の見当違いの気遣いを微笑ましく思いながら、少女は口を元に笑みを浮かべた。返答に納得できない少年は、むっとした顔をして、欄干から手を放して少女の方へと向き直った。

「落ちたら怪我をする」

「水面に打ち付けられて、後は水底へ沈むぐらい」

「……溺れてしまう」

「溺れないよ」

 目の前にあるのに触れる事が出来ない霧の様に、全く手ごたえがない。注意をふわりと受け流してしまう少女の態度に、少年は苛立ちを覚えた。

「他人の心配が出来るなら、大丈夫そう」

 少女の呟きに少年は眉を顰めたが、彼女の言葉に思い当たる節があるのか、気まずそうに視線を彷徨わせた。

「水の中は凄く暗くて、冷たくて、——けど、とても静か」

 少女が足を揺らすたびにワンピースの裾がふわりと揺れて、下の白い肌が覗く。その滑らかでしっとりとした白い肌が扇情的で、思わず視線を向けそうになるのを少年は堪えていた。

「……とっても苦しいけど、だんだん周りが暗くなって、意識が遠のいていく」

 少年の年頃の葛藤など気づきもせずに、少女は顔を彼の方に向けて、首をこてんと傾ける。それが作り物めいていて、少年は恐れを抱いた。

「死ぬのは楽じゃない。痛くも苦しくもない、一瞬で意識が無くなる方法を選んだほうがいい」

 ハッとして少年が少女の表情を窺うと、彼女は泣きだす寸前の様な目をして、穏やかな微笑みを口元に浮かべている。その声は祈る様にも、訴えているようにも思えた。

「……君は、誰?」

 その問いかけに対して、少女は初めて戸惑いを見せて、僅かに顔を俯けて逡巡する。

「……多分、人間——だった」

 自分自身の事を聞かれたというのに、難問だとでも言わんばかりに自信なさそうに答える。それが少年には酷く悲しく思えてしまう。

「——ずっと昔に、この町は、川を境界線として二つに分かれていた。正直、あまり仲は良くなかったし、この橋も無かった。川は恵みと、災害をもたらしていたけど、何とかやってこれていた。けど、ある時大雨が続いたとし、この川は氾濫した。二つの町は未曽有の災害に襲われた」

「……学校で習った事がある。確か、それが切欠で、二つの集落が仲直りをして、協力し合って復興して、町を作ったって」

 この町の学校に通えば、必ず郷土史として教えられる話。

「文章に起こせば短いものだけど、実際はそう簡単じゃなかった。家屋は流され、その日の寝床にも食糧にも困る。怪我人も沢山出て、家族を探す声が絶える事は無かった。食料や生活必需品を巡って争いも起こった。……それでも、何とか、皆が正気に戻って、協力し合う事が出来た」

 それは一つの奇跡のような出来事。

「不幸ではあったけど、運が良かったんだと思う。何とか皆をまとめる能力がある人がいた事と、近隣の町の被害が少なくて支援が受けられた事とか」

 一歩間違っていれば、住民達は争い合い、際限のない憎しみの連鎖へと落ちていったかもしれない。

「そして、二つの集落が合併して町が出来る事になった。その友好の証として橋を架けるという話になったのだけれど、人々は再び災害が起きる事に恐怖を覚えた。同じことが起きて、今度も乗り越えられる保証はない。だから——人々は神様に願った」

 するりと少女の艶やかな髪が、彼女の細い方から滑り落ちる。少女の仕草の一つ一つが、妙に少年の心を引き付ける。

「橋を建てる時に、生贄を沈めて、その上に橋の土台を作った。みんなでね」

 思わず少年は自分の足元に視線をやる。見えるのは橋桁の路面だけ。泣きそうな顔をする素直な少年に、少女は好感を抱いた。

 きっと人を思いやれるような、優しい人間なのだろうと。

「生贄に選ばれた子供は、災害で両親を失った子供の中から一人選ばれた。くじで選んだみたいだから、本当に運が悪かっただけ。——少なくとも、何の力を持たない沢山の子供達を見捨てる事はしなかった。少なくとも、みんな、そこまで狂ってはいなかった」

 仕方がない事なんだと、少女は笑う。それが、少年には腹立たしくて仕方がなかった。

「……そんなの、おかしいよ。折角生き残ったのに、他人の都合で殺されるなんて……」

 子供特有の正義感は、少女から失われて久しいものだ。仕方がないと、少女は早々に諦めてしまった。

「……本人は、恨んでないから。けど、君がそう言ってくれるだけで、思ってくれるだけでも嬉しいと思う」

 何時か失われてしまうかもしれない、真っ直ぐな心。それが生きていく上で、どれほど尊く、足枷になるものか、大人にならないと分からないだろう。

「……少女にとって両親がいる事が当たり前で、居ない世界に未練がなかった。その悲しみを抱えて生きていけるほど、強くなかっただけ」

「……弱くなんかない。大切な人がいないと、ずっと痛くて苦しい」

「そうだね。でも、きっと、立ち向かうより、楽だと思ってしまった」

 徐に少女はふわりと路面の上降り立ち、ゆっくりと少年へと歩み寄ると、すぐ目の前で足を止めた。

「——見て」

 間近に迫った少女に、少年の鼓動が激しくなり、体温が一気に上がってしまう。そんな少年の視線を、少女は川下の方へと誘導する。

 促されて向けた視線の先には、細かい水の粒子の中から、鮮やかな光が浮かび上がるのが見えた。

 朝日の柔らかい光が周囲を照らし、水蒸気のベールに覆われたような幻想的な光景が、そこにはあった。

「私が一番綺麗だと思う景色」

 ふわりと服の裾を揺らし、さらりと髪を流した少女は、確かに少年の目の前にいるのというのに、その気配や体温や息遣いを全く感じない。そして、少女の髪も服も全く濡れていない事に、少年は漸く気が付いた。

「——もし、君が寂しくて、どうしても死にたくなったのであれば、私の所に来て。そうしたら、苦しまずに死なせてあげるから」

 白い霧の中に佇む少女は、何気ない世間話ようにそう言って、溶けるような優しい微笑みを浮かべていた。


「——あの子は、年を取って大人になって、私が見えなくなるまで、霧の濃い日にはここに来ていた。見えなくなっても、週間みたいに来ていてけど」

 朝霧の中で話を聞いていた旅人の髪や服はしっとりと濡れているが、少女の髪はサラリと揺れ、服はふわりと翻る。

「ある時、女の人を連れてきて、此処からの朝日を見ながら、彼女にプロポーズしたの。彼の奥さんになる女の人、とっても綺麗に嬉しそうに笑ってた。声は聞こえていなかったけど、私も『おめでとう』て祝福した」

 少女は嬉しそうに、けれど寂しそうに笑っていた。少女がする一つ一つの仕草は、異様に他者を引き付ける。

 それは高い建物の上から、地面を覗き込んだ時の、遠いようで近い、此処から踏み出したらどうなるんだろうという考えが、一瞬脳裏をよぎる時の感覚に似ている。

「ある時、小さな子供を連れてきたの。五歳くらいの可愛い女の子。ようやく奥さんから子供と早朝の散歩の許可が出たんだって。それで、今日はたまたま娘さんが起きていたから、運動がてら連れてきたって言っていた。娘さんは私があいさつをすると、元気な挨拶を返してくれた」

 旅人は口を挟む事なく、静かに少女の話を聞いている。

「それからは偶に娘さんも一緒に来てくれた。娘さんが私が見えなくなっても、結婚して引っ越す最後の日に挨拶に来てくれた。——初めてのお友達だからって」

 旅人もこの町に来るたびに彼女に挨拶をしているが、それでも顔を合わせた回数は彼らには遠く及ばないだろう。

「あの子が町長になったって報告しに来た時は、子供みたいにはしゃいで嬉しそうだった。——きっといい街にして見せるって、意気込んでいた」

 霧の濃い橋の上には、旅人と少女以外は誰も居ない。静まり返った霧の海に、少女の形のない声が響く。

「橋の補修工事の日に、彼はやって来て、花と祈りを私に捧げてくれたの。——自分がここまでこれたのは、私のお陰だって。彼が自分の力で、進み続けた結果だったのに」

 自然の旅人の視線が、少女の髪を飾る白い花へと向かう。気が付けば、茎の先に着いた小さな花達の花びらは透き通り、まるで硝子細工のように繊細で美しい。

「この前は、五歳になった孫を連れて来てくれたの。可愛い男の子だった。少し昔のあの子に似ていた。仕事を引退して、今はこの町の郷土史をまとめているんだって言っていた。——この町が好きだって言っていた」

 少女は欄干の上に立ち上がり、川の先、薄明が浮かぶ霧の向こうへと振り返る。ワンピースの裾がふわりと翻り、しっとりとした白い肌の足が一瞬覗き、艶やかな絹の様な髪がさらりと揺れる。

「——君は、この町が好きか?」

 晴れ始めた霧の向こうに見える紫色の朝焼けを、目を細めて眺めていた旅人は、確かにそこに存在する少女に尋ねたみた。

 霧の海に浮かぶ少女は、露に濡れたガラスの細工の様な花びらの花束を、大切そうに抱きしめながら、満面の笑みを浮かべて応えた。


「——誰かが覚えていてくれるなら、きっとその事に意味はあったんだろう」


 

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