第10話 かくれんぼ

「——見つけた」


 少年と少女は走る。

 お互いの体温を拠り所にして、どちらの発した吐息かも分からないほど、混ざり合い乱れた呼吸音と、途切れ途切れの言葉にならない声を聴きながら、感覚の鈍い足を前へと動かす。

 止まったら、もう走り出すことはできないと、何となく理解しているから、今ついている勢いが途切れてしまわないうちに、少しでも距離を稼がなければいけない。

 けれど、少年よりも幼い少女に、彼と同じだけの力はない。先に来た限界が、少女の細い足をもつれさせる。

 勢いのついた少年はすぐには止まれない。繋いでいた手がほどける。

 周囲には光源が一つもない。少しでも離れてしまえば、少年の姿は闇に隠されてしまい、少女には見えなくなってしまう。

 少年は近くにある枝をとっさに摑まえて、自身の勢いを殺す。止まってしまえば自分が走り出すことができないと分かっていても、少女を置き去りにすることなど、少年には到底できない。

 少女は勢いのままに出来た擦り傷の痛みに涙をこぼすが、泣き声を上げるだけの体力もない。ただ、荒い呼吸を繰り返す。

 少女に駆け寄った少年は、彼女の状態を見て、もう走ることはできないと悟る。けれど、少年自身には少女を負ぶって進む余力もない。

 少年は目を凝らして周囲を見渡す。薄暗い中、木の幹や枝の輪郭をとらえ、傍の大きな木の根元に小さな洞を見つけた。駆け寄って手を突っ込み、深さと広さを確認する。

 少女の小柄な体格ならば、中に入って身を隠すことができると判断し、少年は動けない少女の腕を掴み、引きずるようにして何とか洞の中に押し込む。

 引きずられて痛みにうめく少女に、少年は声を振り絞って言い聞かせる。

「……いいか、よく聞け。君はこれ以上走って逃げるのは無理だ。だからここに身を隠すんだ。俺は走って逃げる。もし、君が見つからずに済んだのなら、折を見て逃げるんだ。俺か君か、どちらでもいい。逃げ切れたほうが、だれか助けを呼んでくるんだ。——きっと大丈夫。必ず、俺は君を見つけるし、君は俺を見つけられる」

 少年はそう言いながら、手身近にある落ち葉や枝や土で少女の姿を覆い隠す。

「できるだけ、静かに息をするんだ。……俺は、ずっと君が見つけてくれるのを待っているから」

 少年の柔らかい微笑みが暗闇に覆われた。


どれ時間が経ったのかは少年には分からない。

少女を隠した後、震える足に鞭を打ってあの場所から距離を取った。どこをどう歩いたかはとっくに分からなくなっていた。

 帰り道も分からないから少女の所まで戻ることはできないが、少年はそれでいいと思っていた。もしかしたら、恐怖で思わず少女を呼んでしまうかもしれない。

 できる限りこちらに引き付けるために、自分の通り道がことが分かるように、派手にうっそうと生い茂っていた草をなぎ倒し、四方八方に伸びる木の枝を折りながら進んだ。

 それにどれほどの効果があるのかは分からないが、懸命に頭を振り絞った結果、少年に思いつく手段はそれぐらいしかなかった。


 気づけば見知らぬ山の中にいて、長く伸びた木の枝と葉に覆われて空を見ることもできない。

 風も吹かず、生き物の気配もなく、何も動かない、まるで時が止まったかのような森の中。

 少年はただ一人、薄暗い静寂の中にいた。

 その静寂の時を動かしたのは悲鳴だった。

 途切れ途切れの悲鳴と、草をかき分け、落ち葉を踏み鳴らし、地面を駆ける音。

 少年は久しぶりに聞いた人間の気配を追いかけ、そして少女と出会った。

 少女は少年よりも一回りは小さかった。涙と血と泥で汚れた顔は恐怖で歪んでいる。木の枝や草を引っかけて切ったのか、服はあちこちらが破けて、肌は傷だらけ。

 少女の姿を捉えた瞬間、少年はこの子を助けなければいけないという衝動にかられた。

 暗闇の中でうごめく何かから、戸惑い逃げ回る少女の腕を掴むと、少年はためらうことなく走り出した。


 気づけば少年は向かい眠りの中にいた。

 誰かの声が止まった時を動かし、少年は目を覚まして顔を上げる。

「——私は旅人なのだが、とある人に頼まれて、君を探しに来た。約束を覚えているかい?」

 旅人だというその人は、膝を折り、少年と視線を合わせて微笑んだ。

 少年には何となくだが、彼が嘘を吐くような悪い人ではないと思い、正直に答える。

「……どちらか、逃げられたほうが助けを呼んでくる。あの子はここから逃げられたんだね?」

「……ああ。ただ、しばらくの間、気を失って寝込んでしまったらしい。目を覚まして、すぐに君のことを話したらしいが……。『——迎えに行けなくて、ごめんなさい。遅くなってごめんなさい。助けてくれて、ありがとう』という伝言を預かっている」

 少年は少女が無事に逃げ切れたことに安堵し、約束を忘れることなく、果たしてくれたことに喜びで胸がいっぱいになり、思わず笑み後こぼれてしまう。

「……——彼女は、君を助けるために、何とかこの山に入ろうとしたらしい。けれど、ここは特殊な場所な上、単純に危ないから来ることができず、時間がかかってしまったんだ」

「ううん。いいよ。……だって、あの子が危ない目にあう方が、嫌だから」

「——そうか。じゃあ、ここを出ようか」

 暗闇の中で、膝を抱えて座り込んでいる少年に、旅人は手を差し出した。


「——ありがとうございます。これでようやく約束を果たすことができました」

 女性は自分の言葉を噛みしめるように、深く息を吸い込み吐き出す。旅人と相棒はその様子を静かに見つめていた。

「……ずっと、母も、……何より、祖母にとって心残りだったそうで。もちろん、私にとってもですが」

 女性は旅人から受け取った布の中身を、ゆっくりと丁寧に陶器の入れ物に移していく。

「まあ、あそこは普通の場所じゃないからな。仕方がないと思うが。運良く——、いや、運悪くなのかもしれないが……。とりあえず、行けたとしても、死霊達がいるから、逃げるだけで精一杯だったと思うぜ?」

 相棒が肩をすくめて、助言だか苦言だか分からないことを言う。

 実際、今回彼らが安全かつ迅速に事を行えたのは、相棒のおかげだ。

 旅人独りでは、入ることは方法次第で出来たであろうが、死霊を相手取りながら、対象者を探すのはかなり難しかった。

「——それに、早かろうが遅かろうが、問題なのはあんたらの方だけであって、あっちは関係なかったしな。そもそも、あんたの祖母が会った時には既に死んでいた訳だしな」

「それはそうだが……。もう少し言い方を考えろ」

 平常運転の相棒は、事実を述べただけで何の落ち度もないのだが、流石に故人とその肉親の依頼者を前にして、明け透けのない物言いは思うところがある旅人はため息を吐く。

「——いえ。彼の言う通りだと思います。祖母も彼が生きていないのは分かっていた様ですから。それでも、命の恩人で、……初恋だったのだと思います。その辺りは祖父にも、ちゃんと話していた様です。だからこそ、我が家の墓の隣に彼のための場所を用意したんですから」

 小さな丘の上の周囲には、温かな陽光を遮るものは何もない。日が昇ればすぐに光に包まれて、陽が沈みきるまで光が満ちている。沈んだ後は、暗い空に浮かぶ月が見守り、あるいは満天の星空が包み込んでくれる。

 ——形は違うが、そこは視界の端まで広がる空と、温かな光が満ちている。

 女性は陶器の入れ物をいくつか並ぶ墓標の上に置くと、子供の頭のように優しい手つきで陶器をなでる。

「ちゃんとした埋葬は、ほかの家族が揃ってから行うつもりです」

 旅人達の方を振り返り、ほほ笑む女性に、彼らは在りし日の少女を見た気がした。

「——見つけてくれてありがとうございました」


「——ありがとう」

 急に礼を口にした旅人に、相棒は何に対するものか分からずに訝しそうな顔をする。

「……私が迷った時は、いつも必ず見つけてくれるだろう。何となくだが、今、この瞬間に礼を言いたくなった」

「……ああ、そういうことか。まあ、お前がどこにいても見つけてやるから、安心して迷っていい」

 さすがにそれはどうかと思うと、旅人は苦笑して、彼の知らないどこかへと、ゆったりと空を流れていく雲を眺めている。

「見つけるさ。……お前が俺の前からいなくなっても」

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