第9話 故郷
ふとした時、旅人は石の上に座る男を見つけた。
周囲には人の気配はない。こんな所で座り込んでいるため、旅人は男が体調不良でも起こしているのではないかと話しかけた。
「もし、そこの人。何処か体調でも悪いのだろうか?簡易の薬なら持ち合わせがあるが」
不審者と間違われないように、旅人は少し離れたところから声をかけた。
男は緩慢な動きで、ひどく疲れた様子で顔をあげる。
「大丈夫だ。道に迷ってしまって、少し休んでいただけだ」
旅人に聞こえるか聞こえないかの声量で答えると、男は弱弱しく笑う。諦める一歩手前、自嘲気味の口元が歪んでいる。
「私もあまりこの辺りの道に詳しいわけではないが、多少は何か手伝えるかもしれない」
旅人は自身がここを離れてしまえば、おそらくは僅かな時間で男は目的を投げ出してしまうと、何となく悟ってしまう。
人のよさそうな旅人に促されて、男は口を開いた。
男はこの辺りの集落の出で、仕事で暫く留守にしていた。
長期の仕事を終え、家路についた。
ようやく家族に会えると、意気揚々と歩いていたのだが、いつまでたっても故郷につかない。
道は間違っていないはずで、目印の集落を厄災から守ってくれる道祖神もあった。だが、どうしても目的地にはつかないのだと。後、どれだけ歩けばいいのだと、嘆くように独り言のように話す男の声は疲労が濃く出ている。
「そういう君はなぜこんな所に?」
一通り自身のことを話したおかげで、焦りが少し収まったらしく、男は久しぶりの話相手の声を求めてくる。
「旅の途中に,たまたま立ち寄っただけです。早めに野営をしようと思って周囲の探索をしていた所です。この辺りには旧道があるんです。今はほとんど使われていませんが」
旅人と話していて気分が良くなったのか、男は上半身を起こして、離れた場所の小鳥のさえずりを聞くかのように旅人の声に耳を傾けている。
「あなたの故郷とは、どんな所なんですか?」
場所を転々とする旅人にとっては馴染みのない場所かもしれないが、彼には故郷というものがどれだけ大切な思い出かということはよく分かる。
「……普通だよ。林業や農業で生計を立てているような、目新しい物もない。けど、すごく暖かい所だよ。ゆっくりと時が流れていくような、色々足りないけど、色々そろっている場所」
男にとっては、故郷とは顔をあげて堂々と向かうべき場所なのだろう。そして、苦労の旅路の終わり。
先ほどとは打って変わって穏やかな表情で語る男を、旅人は物悲しそうに見つめている。
「けど、生活はぎりぎりだった。なんとか生活できていた。……今思うと、ずっと家族と一緒にいるべきだった」
旅人は不意にとある考えが浮かぶ。もしかしたら、そこには後悔も、何もないかもしれない。
彼は冷静に男を見据えて、淡々とした口調で尋ねる。
「――あなたが出稼ぎに出たのはいつ頃ですか?」
「半年ほど前だが」
「先ほど、ぎりぎりだったと言っていましたが、生活できていたのに、どうしてあなたは出稼ぎに出たのですか?家族に楽をさせたかったとか?」
「……それは、病が流行ったからだ。薬を買うにはお金がいる」
男は視線をさまよわせて、記憶を呼び起こしていく。その視線の先がゆっくりと確実に、答えに向けられる。
「――先ほど、旧道が近くを通っているという話をしたと思います。その道が古くなって使われなくなった理由は、周辺の集落が病で廃村になったからだと聞いています」
故郷へと続く道を示す旅人を男は仰いだ。男の目は無機質で、ガラス玉のように透き通り、遠い記憶の赤みを帯びた空を映している。
「――大丈夫ですよ。あなたはちゃんと帰ってきました」
旅人が指さした場所。
男が座り込んで俯いていた、風化によってバランスを崩して倒れた門柱の上。寂れたプレート。
……かつては男と家族の名前が書かれていたはず。
おもむろに立ち上がった男は後ろを振り返る。目を大きく見開いて、ガラス玉に色と光が宿り、思い出の中にしかない文字が写る。
「……ただいま」
つぶやいた声に、誰かの声が答える。
「……おかえりなさい」
——今、黄昏を迎えた廃村に旅人は佇んでいた。
崩れ落ち、植物に喰われて飲み込まれた家々。
かつて、そこには人の営みがあったはずだった。
普通の幸せがそこにはあった。
思い出の住人ではない旅人には、いくら耳を澄ましてみても、彼には何も聞こえない。
「――ここには何もない。救うものは何も」
旅人は、少し離れた所から彼を呼ぶ相棒の声に答えた。
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