第5話 夢の色は何?

 ――赤い。最初に彼が思ったことだ。いつだって彼は赤い色の夢を見る。炎と血と……。なんだっただろうか?


 何かの夢を見ていたはずの彼は、それが何だったか思い出せない。

 胸の奥に何かが引っ掛かっている気がしたが、時間が惜しいので思い出すのを早々に諦めて、ベットから降りて身支度を整える。

 外は快晴で、水面のように透き通り、どこまでも沈んでしまいそうな空が広がっている。

 きっと、あてのない散歩は心地良い筈だと思った。


 整備された、どこかで見たことがあるような街並みと、どこかへと伸びる石畳で舗装された道を彼は歩いていた。

 子供が楽しげに走り回り、恋人が手をつないで歩いている。商業に精を出す人々の顔は活気に満ちていて、それを見ているだけで彼は幸せだった。


 —―昔、誰かに言われたことがあった。

 他人の幸せは、お前の幸せを満たすことができないと。幸せには形も色もない。だからこそ、誰かの幸せが、別の誰かの幸せと同じとは限らない。

 水が状況に応じて変化するように、夢が人それぞれ違うように、幸福も人それぞれ違うと。

 けれど彼はその幸福という物で、誰かが満たされているのを見ると嬉しくなった。

 そしてここにはそれで満ちている。

 ……だから、ここではお前も幸福だ。

 不意にそんな考えが脳裏をよぎる。どうしてか、それは彼に言い聞かせるように頭の中に漂い続けている。


「……どうしたんだよ、そんな変な面をして?」


 相棒が不思議そうな顔をして横から、彼の顔を覗き込んでいた。灰色の目を細めて、心配そうにこちらを窺っている。


「……いや。大丈夫だ。ところで君は、暇なのか?こんな時まで私に絡んで」


「なんだよ。こんないい天気に浮かない顔をしているから、話しかけたんだろうが」


 そう言って不満そうにそっぽを向く相棒の横顔は、いつも通りの無駄に綺麗な顔だ。そんな相棒が、見知らぬ女性に話しかけられた。

 それ自体は珍しいことではないのだが、おそらくはその他大勢が認めるであろう、平凡で目立たない容姿の女性が積極的に来るのは大変珍しい。

 意気揚々と相棒と話していたのだが、誘いを断られた瞬間、信じられないという顔をした。女性は自分が振られるはずはないと思っていたらしく、衝撃で固まっている。


「今は連れがいるから」


 そう言って相棒に振られた女性を気の毒に思いながらも、彼らは歩き始めた。


 とある建物から、ものすごい勢いで男性が飛び出してきて、足がもつれて滑り込むように転ぶ。うつ伏せのまま、道にうずくまった。

 心配になった彼は、男性に話しかけようとするが、相棒に止められる。


「やめとけ。賭け事に負けはつきものだ」


 その台詞で彼は、なんでだよと叫ぶ男性が出てきた建物が、いわゆる賭博場であることに気が付いた。中からは別の誰かの歓喜の声が聞こえてくる。

 下手な慰めは傷に塩を塗るだろうと思い、彼は男性をそっとしておくことにした。  


 そのまま歩き続けると教会が見えてきた。

 そこでは結婚式が行われており、幸せそうに笑う新郎新婦がいる。

 青色、白色、黄色、紫色、桃色、灰色。色とりどりの花びらが舞い散る中、彼は足を止めて、他の参列者と同じように祝福を送る。

 見ている側も思わず微笑んでしまうような光景を、恨めしそうに眺めている男性が近くの木の陰にいた。


「彼女に選ばれるのは一人しかしないからな」


 気にはなったが、相棒に促されて彼は話しかけずに歩きだした。

 とても荘厳な作りの学校があり、開かれた門の奥にはたくさんの人がいた。掲示板に張り出された数字を前にして、喜びで叫ぶ者と、悲しみで泣く者がいる。


「まあ、仕方がないな。同じように頑張ったところで、全員が受かるわけじゃないしな」


 そんなことを相棒がぼやくのが聞こえた。正論であり事実ではあったが、彼は人々の嘆きをそう簡単に割り切ることはできない。だが、できることは何もない。


 その傍の校庭で、五人の子供たちがかけっこをしている。

 全員が懸命に走っているのは確かだが、五人中、一人が群を抜いて早く、一人が群を抜いて遅い。


「どうしたって、生まれついて優れている奴はいるからな」


 彼の前を歩く相棒がそう言いながら振り返った。



 気が付くと、そこは朝に彼が後にした家だった。

 家の中には暖かな明かりが灯り、夕餉の支度をする音とにおいが伝わってくる。


「どうしたんだよ?早く帰ろうぜ?」


 相棒は玄関先で笑っている。

 いつの間にか日が暮れ、周囲は灰色に染まっていた。相棒と彼の影が建物の陰の闇に向かって伸び、どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。


「……帰る、とは、どこに帰るんだ?」


 その質問に相棒は灰色の目を細めた。


「……昔、君は言っていたな。人を救いたいという私に、『救いたいということは、救われる人間が必要だと』」


 彼は先ほど見てきた人々の光景を思い出す。


「『みんなが全員救われて、幸福になること絶対にない。幸せとは天秤のような物で、誰かが幸せになるということは、誰かが不幸になることだ』と」


 幸せそうに笑う人を見ると、彼の心は満たされる。けれど同時に、誰かが泣いている。


「『誰彼構わず助けていると、そのしわ寄せがお前に来る』」


彼の覚えている記憶の始まりは……。


「これは夢、なんだな。私の矛盾だらけで、不完全な願いの結果の夢」


 名残惜しそうに、けれど諦めた様に自嘲する。目の前にいたはずの相棒はおらず、閉まっていたはずの家の玄関の扉が開いていた。


 ——そこには遠い日に失った、彼の子供としての幸福があった。



 旅人の沈んでいた意識が浮かび上がる。


「おお。やっと、起きたか」


 その声と同時に彼が目を開くと、覗き込んでいる相棒の顔が真紅の目を細めて嬉しそうに笑う。

 彼はそれを見ながら、この色と笑った顔が好きだとぼんやりと思う。


「――ほかの人たちは?」


 一気に浮かび上がってくる大量の情報を思い出しながら、彼は寝ていたベットから起き上がる。長時間同じ体勢で眠っていたせいか、頭が重く、鈍い痛みと、体のあちこちに違和感が残っている。


「お前が起きる少し前に起きた」


 相棒が差し出したコップを受け取り、入った水を一気にあおると、表現しづらい美味さが広がり、乾ききった喉が潤っていく。


 ――事の始まりは、とある町で起きた奇病だった。

 その村の住人の大半が眠ったまま。いくら起こしても目を覚まさない。

 その話を聞いた彼らは、急いでその村を訪れた。正しく言えば、彼が行くことを望み、相棒がそれを了承してくれた。

 病人を見た相棒は、彼にどうしたいのだと尋ねた。


「助けたい」


 全員が幸せな夢を見ているから目を覚まさないのだと、相棒は言った。


「お前が寝て起きれば解決するだろ」


 意味は分からないが、彼はそれに従った。


「全員がいる夢は同じだが、見ている夢は違う。全員を幸福にしようとすると、個人個人を切り離す必要があるからな。……なら、一か所に集めて現実を思い出させればいい」


 結果として、相棒の予想通りになった。旅人の幸せは他者の幸福があってこそ。ならば、家族や友人が目を覚まさないと嘆く彼らを救うためには、彼らを目覚めさせるしかない。


「まあ、都合のいい幸せな夢から、一気に現実に起こされた奴らがどう思うかは知らんがな。……覚めない夢は、現実と変わらないだろう」


 ——誰かの幸福は、誰かの不幸。みんなが幸せになれるのは、それこそ夢の中だけだろう。

 当の昔に分かっていた事実にため息を吐く旅人に、相棒はふと尋ねた。


「お前は人が幸せそうに笑うのが好きだが……。どういう気分だ?人を救って、そいつらをつらい現実を見せるのは。目覚めたとき、どう思ったんだ?」

 彼の心を思うよりも、相棒自身の興味と、面倒ごとにつき合わされたことへの軽い嫌がらせの質問に対して、彼は皮肉めいた微笑みを浮かべる。



「――最高の目覚めだっただろう?」






 


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