第11話。愛と悪意
今、私は
「やっぱり、親睦を深めると言ったらカラオケですよね!」
カラオケには
念の為に姉には晩御飯がいらないことをメールで伝えておいた。ついでにカラオケにいることを言っておけば、姉に余計な心配させることもない。
「いえーい!盛り上がってるー?」
「あ、この曲入ってるんだ」
なんだかんだ、鈴佳とのカラオケは楽しかった。
一時間くらい鈴佳と交代で歌った頃、ジュースを飲み過ぎたのか。トイレに行きたくなってしまった。
「鈴佳、トイレ行ってくるから」
「はーい」
部屋から出ると真っ直ぐとトイレ向かう。何度も来ているから迷うことはないけど、前に姉を連れて来た時には廊下で姉が迷子になっていた。
あの時はどっちの方が歌が上手いかで勝負してたけど。今になって思えば、くだらない喧嘩だったと思う。
結局、歌は姉の方が上手かった。
「……空いてない?」
トイレに入った時、扉が二つ閉まっていた。いつもなら最低でも片方は空いてるのに、珍しいこともあると思った。
けど、すぐに水の流れる音が聞こえ扉が開いた。
「え……?」
そこには私より大きな人間が立っていた。顔を覆い隠す不気味なマスク。私は困惑と恐怖により、判断を鈍らせてしまう。
それが『男』であることに、気づいたのは。はっきりと意識が定まった時。既に手遅れであることは明白だった。
「……っ!」
何故、男が女子トイレにいるのか。どんな理由があったとしても、今の状況を説明してくれる人間なんていない。
咄嗟に私は外に逃げ出そうとした。けれど、体を動かした瞬間、首に焼けるよう痛みを感じ、トイレの床に倒れ込んだ。
「な、なんへぇ……」
体が動かず。呂律が回らない。
鼓膜に届けられるバチバチとした音が、私に理解を与える。男の手に握られたスタンガンのような物。おそらく、それを私の体に使われた。
僅かな体の痺れ。それだけならまだ動くことは出来たのかもしれない。だけど、スタンガンの痛みを覚えた私の体は。恐怖に呑み込まれ、言う事を聞かなくなっていた。
「……」
腕を掴まれ、私は引きずられるようにトイレの個室に連れ戻されていく。抵抗しようと腕を動かせば、もう一度あの痛みに襲われる。
痛い。怖い。助けを求める為に声を出さそうとすれば大きな手で口を塞がれ、耳元でバチバチと音が鳴り始めた。
「声を出すな」
男の低い声が私に指示を与える。
「……っ」
今の私は、男に従って頷くことしか出来ない。
感情の波に飲み込まれ、溢れ出そうになる涙を必死に堪えながら。この状況を抜け出す方法を考えていた。
扉の鍵は閉められ、男の体が邪魔で自由には動けない。下の隙間を通るには狭すぎる。上を登るには時間が足りない。
他には。他には何か。
何か、何か、何か。
「……っ」
私の制服は強引に脱がされた。シャツを引っ張られ、ボタンは引きちぎられる。あらわになった肌と下着。それらを隠す気力すら私にはなかった。
男のマスクがズラされる。口元だけが見えるようになり、男が笑顔だと気づいた。
息の乱れた男が、私の胸元に顔を近づけ、口を触れさせる。肌に鈍い痛みを感じ、手を動かして抵抗しようとすれば、男はすぐに離れていた。
「……」
ああ、きっと、これまでだ。
私は、この男に穢されてしまう。
カチカチと何かが、外されていく音で。これから私に訪れる未来が、望まれない結果であることは確かだった。
抵抗しても無駄。非力な私が助かる方法なんてない。このまま、すべてが終わるまで目を閉じてしまおう。
そうすれば。
ほら、姉の優しい笑顔が、思い出せるから。
「お姉ちゃん……」
ごめんなさい。
ごめん、なさい。
──い。
「……っ!」
次の瞬間、耳を塞ぎたくなるような警報音が鳴り始めた。同時に人の叫び声が聞こえ、ただならぬ事態が起きたとわかった。
この状況に、私以上に身の危険を感じる人間がいた。マスクの上からでもはっきりとわかる。男が焦っている姿が何よりも印象的だった。
『火事』が起きている状況で冷静でいられるわけがなかった。男は慌てながら扉の鍵を外すと、私の腕を掴んで強引に引っ張り出した。
「くそ!なんなんだよ!」
トイレから廊下に出ると、スプリンクラーが動いているのか水が撒かれていた。その中を男に腕を引っ張られ、無理やり歩かされる。
しかし、直後に予想外の出来事が起きた。
男が体勢を崩して地面に倒れた。私はすぐに男と別の誰かが追突したことに気づいた。火事の混乱が招いた偶然か、それとも奇跡だったのか。
「おい何やってんだ!早く逃げろ!」
そんな言葉を向けながらも、ぶつかった人間は走って行った。火事から逃げてるなら必死になるのは当然で、私は与えられた言葉を別の意味に捉えていた。
今なら、逃げられる。
私は立ち上がり、逃げ出そうとした。だけど、男に脚を掴まれ、転ばされる。水で滑りやすいのか簡単に手が離れたけど、このままでは繰り返しになるだけだ。
「あ……」
いや、もう繰り返す必要なんてない。
廊下の先に立っている人物が私の視界に入った。
私は力いっぱい手を伸ばして、求める。
「お姉ちゃん!助けてッ!」
既に姉は動き出していた。あっという間に廊下を走りきると、私の後ろにいた男に向かって蹴りを入れていた。
私とは比べものにならない運動神経。姉の蹴りを受けた男は地面に塞ぎ込み動けなくなっていた。
「アイ。乗って」
姉は私の体に上着を被せてきた。すぐに姉はしゃがみこみ、私に背中を見せてきた。
「でも、火事が……」
「早くして」
このまま、この男と心中するなんてごめんだ。私は最後の力を振り絞って、姉の背中に飛びついた。
姉は私を背負って、立ち上がった。すぐに姉は駆け出し、出入口とは反対の扉に向かっていた。姉の背中で顔を後ろに向ければ、あの男が立ち上がろうとする姿が見えた。
「お姉ちゃん、そっちは出口じゃない!」
姉が壁にぶつかるようにして止まった。私を背負ったまま扉のドアノブを回すと、扉は呆気なく開いた。
ここは非常階段だろうか。扉を出てすぐに姉は周りにあった棚をひっくり返して、下に続く階段を降り始めていた。
「……」
姉の靴が階段に当たる音が響いている。背中から伝わる姉の体温。少しづつ私は冷静に考えられるようになっていた。
「お姉ちゃん、待って。まだ友達が残ってるの……」
鈴佳を部屋に残してしまった。
「別に。気にしなくていい」
「……っ、何言ってるの!」
私は姉から離れようとした。
「危ないから。暴れないで」
「死んじゃったらどうするの!」
「誰も。死んだりしない」
「え……」
階段を降りて一番下まで着いた。近くの扉から外に出ると、いくつものサイレンが聞こえ、表の方は大騒ぎになっている。
「ねぇ、死なないって、どういうこと?」
「火事。起きてない」
警報が鳴ってスプリンクラーも動いていた。だけど、肝心の火元を見たわけじゃない。煙もなかったのに、あの騒ぎのせいで私は火事だと思い込んでいた。
「お姉ちゃん……何かしたの?」
「うん。ちょっとだけ」
姉は私を背負ったまま、人通りの少ない道を歩き続ける。ここまで来れば、私達を見つけられる人間はいない。
「まさか、私を助けようとして?」
「……遅くなって。ごめんね」
あの時、姉は騒ぎを起こして、男を外に誘い出していた。もし、姉が何も考えずトイレの扉を叩ていたら、逆上した男が私に何をするかわからなかった。
姉は私のことを考えて、最善の選択をした。
だけど、それは姉が罰を受けてしまう選択でもあった。もしも、あの騒ぎの原因を探られたら、私が事実を話したところで姉は大人達に怒られてしまう。
「お姉ちゃんはのバカ……」
「知ってる」
「でも……」
黒い空は誰かの心情を映し出すように雨を降らし始めていた。今なら誰にもバレないだろう。私は姉の体を強く抱きしめる。
「お姉ちゃん……私、怖かった……」
「うん」
「あのまま、体をめちゃくちゃにされて、傷つけられてたら。私はきっと……」
この世界が嫌いになっていた。
「アイ。大丈夫だよ」
「うん……ごめん……」
ただ私は姉の背中で子供のように泣きじゃくることしか出来なかった。どれだけ取り繕っても、弱い自分を完全に消すことなんて出来ない。
弱い自分なんて、大嫌いだった。
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