第12話。愛と家族

「ここって……」


 雨の中。私は姉に背負われたままだった。しばらく歩いたと思ったけど、姉はアパートのような建物に近づき、扉の一つを開けようとしていた。


 しかし、途中で姉が扉から離れた。すぐに扉は向こう側から開き、中から見覚えのある人物が姿を見せた。


「あらあら、どうしたの?」


 この人だけは、昔と全然変わらない。


 それは。


「お母さん……」


 私と姉の母親だった。


「ママ。お風呂。用意して」


「わかったわ」


 母親が扉から離れると、姉は部屋の中に足を踏み入れた。真っ直ぐ廊下を進んだかと思えば、リビングのような場所に着いた。


 私は適当な椅子に下ろされる。不思議なことに部屋には家具がほとんどない。引越しのすぐあとにしては、まるで生活感がなかった。


「なんで、お母さんのところになんか……」


「パパの家は遠い」


 姉が私を母親のところに連れて来たことが気に入らなかった。普段なら文句のひとつでも言うところだったけど、体濡れたせいで寒くて、そんな気にもなれない。


「アイ。タオル用意するから。待ってて」


 姉が部屋から出て行ったところで、私はスカートのポケットに入れっぱなしのケータイに手を伸ばす。防水なおかげか、ちゃんと画面は映っている。


 鈴佳すずかからの着信。何度かポケットの中で振動していたからそうかと思っていたけど。私は落ち着いて電話に出ることにした。


「アイさん、大丈夫ですか!」


「大丈夫だけど……鈴佳の方は平気?」


「平気ですよ!なんか、警報機の誤作動っぽいですし。火事も起きてないみたいですから」


 どうやら、本当に火事は起きてないみたいだ。


「今、まだカラオケにいるの?」


「いえ。兄が迎えに来たので……あ、もしかしてアイさん、まだ残ってましたか!」


「いや、私も……迎えが来たから」


 私の身に何が起きたのか、鈴佳には話せない。


「ならよかったです。今日は残念でしたけど、また今度カラオケに行きましょう」


「うん。そうだね」


 私の方から通話を終わらせた。今は長話をする気にはなれなかった。鈴佳の声を聞いていると、やっと抑え込んだ感情が再び溢れ出してしまいそうになる。


 指先をゆっくりと動かし、自らの首元に触れさせる。確かめるように指先を首から下に向かわせる。張り付いた服を引き剥がすように、視線を合わせながら服を捲る。


 胸の辺りに残された、ハッキリとしたアザ。軽い内出血を起こしているようだけど、見た目もほど痛むものではなかった。


 本当に痛いのは、もっと胸の奥。刻まれた恐怖を呑み込むには、あまりにも大きく。すぐにでも吐き出したいのに、私は正しい吐き出し方もわからない。


 どうして、私がこんな目に遭わなければならないのだろうか。カラオケになんて行かなければ、こんなことには、ならなかったのだろうか。


 感情が正常に機能するほど、よくないことばかり考えるようになる。


「お姉ちゃん……」


 困った時に姉を呼ぶ自分が、私は大嫌いだった。


 父親でもなく、母親でもなく。


 私が心の弱い部分を曝け出すのは姉だけ。私が依存するほど、きっと姉は私を受け入れてくれる。だから、私は姉を突き放さないといけない。


 目を閉じ、顔に腕を当てて。心を落ち着ける。


 抑え込まないと、弱い自分が溢れ出してしまう。


 私は。


「アイ。何か。言った?」


 リビングに戻ってきた姉に差し出された大きなタオル。それを私は奪い取り顔を覆う。


 私は大丈夫だ。まだ壊れてはいない。


「お姉ちゃん。なんで、お母さんのところに連れて来たの?」


「そのままだと。風邪引く。から」


「私がお母さんのこと嫌いなの、知らないわけじゃないでしょ?」


「アイ……」


 母親は大嫌い。でも、姉のことはもっと嫌いだ。


「アイは。何をそんなに。怒ってるの?」


 姉が顔を近づけ、問いかけてくる。


 無邪気な問いかけに私が本来持っている姉に対する感情を増幅させる。自分でも驚く程に自らの心が抑えられなくなっていた。


 だから。


 私の感情は歯止めを狂わせる。


「全部、お姉ちゃんのせいでしょ!」


 心の底から吐き出された言葉と共に、私は姉の体を突き飛ばした。姉は大きく仰け反り、そのまま後ろに向かって倒れてしまう。


 物とモノがぶつかる鈍い音。姉の頭が棚にぶつかり、そのまま地面に姉の体は転がった。


「お姉ちゃん……?」


 私は椅子から立ち上がって、姉に近づいた。恐る恐る手を伸ばして、姉の体に手を触れさせる。


「お姉ちゃん!」


 どうして、私は姉を突き飛ばしたのだろう。


「ごめん、なさい……」


 姉は私を拒絶なんてしないのに。


「ごめんなさい。ごめんなさい」


 姉の体を抱きしめ、私は意味のない言葉を繰り返す。もう、届かないとしても、私には謝ることしか出来なかった。


「冷たい」


「え……?」


 姉の顔を見れば、うっすら目を開けていた。


「アイの体。冷たい」


「お姉ちゃん、大丈夫なの?」


「別に。平気」


 姉が上半身を起こすと、鼻から赤い液体を垂らしていた。


「お姉ちゃん血が……」


「ただの鼻血だから。平気」


 鼻血でも平気じゃないと思うけど。


 手に持っていたタオルを使って、姉の鼻を押さえる。それでも、タオルが真っ赤に染まり、私の手も血濡れてしまう。


 こんな状況で、私の頭は冷静になる。私が選択を間違えれば、姉は傷つく。だから、慎重に選ばなくてはならない。


「お姉ちゃん。私さ、本当はお姉ちゃんがお母さんと出て行った日のこと、あんまり覚えてない」


「うん」


「でも、お姉ちゃんが居なくなって、少し経った時に私は実感したんだと思う。お姉ちゃんとお母さんは私とお父さんを捨てて、いなくなったって」


 姉は目を伏せた。姉なりに過去のことを悪いと思っているのだろうか。


「その時、私はお姉ちゃんとお母さんのことが嫌いになった。だから、本当は二人に会いたくなんてなかった」


「アイ。ごめんね」


「謝る必要なんてない。私の感情をお姉ちゃんに理解してもらうつもりはない。私の心は、私だけのモノ。お姉ちゃんには、私の痛みもわからない」


 私は自分のシャツのボタンを片手で外して、胸元を見せる。


 あの男に付けられて赤くなった痕。それが私は吐き気がするほど気持ち悪くて。いまだに負の感情がおさまらない理由でもあった。


「この苦しみは、お姉ちゃんに渡さない」


「……」


 痕を姉に見せたのは、八つ当たりだったのかもしれない。私が酷い目にあったのは、姉にはなんの関係もないというのに。


「止まった……?」


 そろそろ姉の鼻血も止まった頃だと思い、手を離した。


 次の瞬間、姉の体が大きく動き、私の体を後ろに押し倒した。地面に倒れた私の体に姉がまたがってきた。


「なにするの!」


 両腕を掴まれ身動きが出来なくなる。姉は見た目以上に力強く、本気になられたら非力な私が抵抗するのは難しい。


「うっ……」


 私の体に姉の血が滴り落ちる。だけど、そんなことは些細な問題で。姉の顔が私の胸元に近寄る。


「い、痛いッ!」


 肌が引っ張られる痛み。それはあの男が私にしたことと同じで、さらなる痛みが私の体に与えられていた。


 必死に抜け出そうとしても、姉からは逃げられない。あの時の記憶がよみがえり、私は声にならない悲鳴のようなものを上げてしまった。


 時間にして数秒、いや、もっと長く感じた。


「アイ。ごめん」


 姉の顔が離れる時、私は気力を失っていた。


 それでも、私の体に残された新しい痕を確認した。


 まるで、過去を上書きするように残されたソレは。あの男に付けられた痕よりずっとマシに感じられた。


 そこで私は理解する。姉は私の見たくないものを塗り潰した。行動はめちゃくちゃなのに、姉なりの優しさが伝わって、嫌になってくる。


「はぁ、もうベトベトじゃんか……」


 血やら何やらで私の体は汚れてしまっていた。


「アイ。怒らないの?」


「別に。お姉ちゃんのやることに一々反撃してたらキリがないし」


 私は姉を体に乗せたまま、上半身を起こす。ちょうど座りながら抱き合ってるような体勢になった。


「アイ?」


「んー」


「ううん。なんでもない」


 仲直りなんて都合がいいかもしれない。


 でも、少なくとも姉は私のことを考えてくれたと思いたい。私の苦痛は、姉の行動によって、多少は緩和されたのだから。


「アナタ達、何やってるの……?」


「あ、お母さん……」


 娘が二人血まみれで、抱き合ってたら。母親も状況を理解出来ないはず。ただ、あれだけ騒いでいたのに、一度も顔を出さなかった母親もどうかと思う。


「ママ。アイは。悪くない」


「そう。ならいいわ」


 あっさり信じる母親も凄いけど。


「いや、お姉ちゃんも悪くないから」


「どっちでもいいから。二人ともお風呂入りなさい」


 母親は眠そうにあくびをする。


 おそらく、母親は微塵も気にしてないのだろう。


 私と姉は二人でお風呂場に向かった。


「アイ。どっちから。先に入る?」


「二人で入れば」


「いいの?」


「別にいいよ」


 私達は近づくほど傷つけあってしまう。


 でも、今は不思議と。


 姉のことが許せてしまう気がした。

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